共同体の構造とまれびと信仰

僕は、民俗社会の人びとが美しい心の持ち主だなんて、ひとことも言ってないですよ。
体験的に言えば、そりゃあ、ときにいじましく卑怯でいやらしい人種かもしれない。しかし、だからといって、小松和彦氏の言うような「異人にたいする恐怖心と排除の思想」をその心性の根底に抱えていたとは思わない。そんな心のはたらきが彼らの生きる支えになっていたとはとても思えない。
人間は、「関係」しようとする生き物です。そうした存在が生きてゆくためには、他者の存在を「祝福する」ことや「祝福される」という関係性は、どうしても必要になってくるのであり、それは、民俗社会においても例外ではないでしょう。いやむしろ、貧しくしかも支配者に窮屈な定住を強いられたりと、二重にも三重にもそうした困難を抱えながら生きていたのであれば、誰よりも「祝福する」ことの交換を願っている人たちだったにちがいない。
われわれ現代人だって「生きがい」だのなんだのと甘ったれたことばかりいって生きているのだもの。地を這うような暮らしを強いられた前近代の民俗社会の人々ならなおさらのこと、他者を祝福し他者に祝福されるという体験なしには生きてゆけなかったのではないでしょうか。
「異人にたいする恐怖心と排除の思想」などという心性は、いい暮らしができるようになって生まれてくるものです。そのとき人は、他者との「関係」よりも「いい暮らし」のほうが大切になっている。それが、支配者の意識であり、近代市民意識です。そして、そこから「いじめ」が生まれてくる。他者を「祝福」することより、他者を支配し排除して「いい暮らし」を守ろうとするのが「いじめ」です。
「いい暮らし」とは無縁の弱く貧しい者たちが生きてゆくために何が必要か。彼らには、他者と「祝福する」ことを交換し合う以外に生きることの支えになるものなど何もなかったのだ。
とにかく小松氏のように、「いじめの衝動」を民俗社会の心性に押し付けているかぎり、近代の市民意識と「いじめ」の関係は何ひとつ明らかにならない。それだけは、言える。
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西洋の町は、町の中央に広場があり、そこに旅人の宿屋もあった。
それにたいして日本列島の町や村には、広場などというものはなく、旅人の宿屋もその周縁部にあった。
西洋では、町が、旅人の敵か味方かを判断し、中央に集められた。つまり旅人は、町の監視下に置かれた。そうやって「異人」との交歓がなされ文化がつくられていったのであれば、城塞都市の市民の意識は、つねに町の中心に向かっている。だから、「公共心」も育っていった。
しかし日本列島の旅人は、町(村)の監視から外れた周縁部に宿をとる。城塞という境界を持たない日本列島の共同体は、共同体意識=公共心が中心から外れるにしたがって、だんだん希薄になってゆき、境界はあいまいなかたちで消えてゆく構造になっていた。しかしだからこそ、他の村(共同体)との交流は、西洋の都市よりずっと盛んだった。
日本人に公共心がないということは、意識が共同体の外に向かっている、ということです。共同体の境界があいまいなこの国の民俗社会の心性は、「異人にたいする恐怖心と排除の思想」などというヨーロッパ市民意識団塊世代根性のごときものを根底に抱えていたわけではない。むしろそういう意識の希薄さこそ、日本的な民俗社会の心性にほかならない。
民俗社会の心性は、つねに「外部=異人=他者」に向いていた。公共心の希薄な民俗社会の人々は、共同体の秩序に無関心だった。だからこそ支配に無防備で従順だったのであり、だからこそこの国では「革命」が起きなかった。
明治維新なんて、共同体の中心の支配階級内部で政権が変わっただけのことでしょう。農民をはじめてする「市民」が権力を握ったわけではない。農民は、維新後も、公共心が豊かなヨーロッパ市民のように、権力なんて望まなかった。いじましく「徳政令」が下りるのを願っただけです。まあ革命闘争というのなら、明治維新よりもその後の西郷隆盛率いる西南戦争をはじめとするいくつかの内乱にあるのだろうが、ことごとく維新政府につぶされた。
公共心のない日本列島の民俗社会の人々は、権力を欲しがる人種ではない。権力の支配を嘆きながら、そこからカタルシスを汲み上げてゆくことを生きる流儀としていた。そういういじましい人種なのだ。
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しかし権力を欲しがったヨーロッパ市民意識全共闘運動の団塊世代根性がなんぼのものか、と思う。
意識の発生において、まず他者の存在に気づき、それから自己を発見するということは、J・ラカンをはじめとして心理学でよくいわれているところです。まず、他者が存在する。ところが、権力を欲しがるということは、まず自分があると認識し、そこから他者にはたらきかけてゆこうとする意識です。それは、他者が先験的に存在するという認識を喪失している、ひとつの倒錯的な意識でしょう。先験的に存在する他者が見えていないから、そういう意識が起きてくる。
ヨーロッパの市民や団塊世代こそ、城塞都市をつくったり、同世代の仲間とばかりつるんでいたりして、「異人=他者」との関係を喪失しているのだ。
それにたいして権力の支配を嘆くところから生のいとなみが始まっている民俗社会の人々の意識は、たしかに他者が先験的に存在していることを認識している。
たとえば、西洋の結婚は都市内部の市民どうしでなされていたが、日本列島では、よその村から嫁を迎えるということをずっと盛んにしていた。花嫁御寮は、「旅人=まれびと」になってよその村を訪れる。花嫁になることは、馬に乗ったり、ときに蓑笠をつけたりして、旅人になることだった。すくなくとも「異人にたいする恐怖心と排除の思想」などというものをその心性の根底に持っていたら、そんな習俗が生まれてくるはずはないでしょう。
村八分にされている家の仕事をよその村の者が手伝ってやる、ということも多かった。西洋の城塞都市ではありえないことです。
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日本列島の民俗社会では公共心が薄く、共同体の境界はあいまいだった。それは、意識がつねに「他者=外部」に向かって開かれていた、ということです。
公共心がないことをばかにしちゃあいけない。煙草のポイ捨てをする若者の意識の底には、「まれびと信仰」が息づいている。ポイ捨てはいけないという強迫観念のごとき公共心が、何ほどのものか。
共同体の境界があいまいな日本列島では、旅人=異人のがわでも、町(村)を訪ねてきた、という意識は希薄だった。奈良時代の山の民である「ほかいびと」は、家々を門付けしながら祝い歌を歌って歩いた。彼らは、町(村)ではなく、「家」をたずねてきたのだ。「家」には旅人を歓待する文化があったが、町(村)の中心には、そのための広場も宿屋もなかった。
公共心のない民俗社会の人々に、権力=共同体の支配を嘆く意識はあっても、共同体の秩序をアイデンティティとする意識は希薄だった。彼らのアイデンティティはあくまで「家」にあった。「家」の中央には、家族の意識を収斂させる「広場」として、囲炉裏のある座敷があった。
「町」の文化に対する、「家」の文化。
日本列島では、家が、旅人を受け入れた。家が、ひとつの共同体だった。そして周縁部の家ほど旅人を歓待し、中央の支配層に近づくにつれ、関心が薄くなっていった。つまり、境界があいまいな周縁部には「まれびと」の文化が機能していたが、「異人にたいする恐怖心と排除の思想」を持っていた中央の支配層とは意識の断絶があった。
日本列島の町(村)には、異人(旅人)を監視する機能がなかったし、異人もまた、町(村)の中央に入っていこうとはしなかった。中央には「異人にたいする恐怖心と排除の思想」という見えないバリアーが張られていた。彼らの多くは、町(村)はずれの神社の軒下とか、年に1、2度開かれる「市」のための掘っ立て小屋などを一夜の宿としていた。
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共同体の周縁部、すなわち「民俗社会」の人々は、家のアイデンティティを守って暮らしていた。だから、共同体のアイデンティティにたいする関心(公共心)が育たなかった。そういうアイデンティティは、中央部の支配層が独占していた。
日本人に公共心がないということは、共同体の秩序に関心がないということであり、それにともなって支配者のすることにもあまり気にかけなかった。だから、ときに支配者の横暴を許してしまうのだが、共同体の秩序に関心の強い支配層と無関心な庶民、という断絶が歴史的にいつもあった。
庶民は、自分を共同体の一員だと思っていない。家の一員というか、家と家の関係の一員だと自覚していた。
庶民の関心は、あくまで家と家の関係にあった。家と家を行き交う人々、これもまた「まれびと」の文化だった。それぞれが、「まれびと」として他家からの来訪を受け入れあっていた。そこでは家それじたいのアイデンティティが守られていたから、それぞれの家がたがいに「異人」であったのだ。
このあたりが、かつての民俗社会の意識と現代の市民意識との違いであろうと思えます。家と家の関係が希薄になっている現代の市民は、みずからを共同体の一員と自覚し、タバコのポイ捨てはだめだとか、公共心にやたらうるさい。
しかし、公共心が向上することは、共同体の一員としての「強迫観念」が肥大化することなのだ。
現代の市民は、かつての支配層の者たちと同じ意識で生きている。彼らは、みずからをすでに浄化された存在であると認識しているし、現代社会は、そのように認識するための装置として機能している。したがって、「穢れ」を浄化する装置としての家と家の付き合いや、訪れ祝福する「まれびと=異人」を必要としない。
小松氏のいう「異人に対する恐怖心や排除に思想」とは、現代の市民意識であって、かつての民俗社会を支えていた意識=機能ではない。かつての民俗社会の人々を支えていたのは、あくまで訪れ祝福する神である「まれびと=異人」にたいする信仰であったのだ。
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日本の家の戸口は、腰を屈めないとは入れない高さにつくられていた。そして「ごめんください」と詫びながら入る。障子や襖は、座って開け閉めする。客は、「まれびと」として迎えられるからこそ、みずからも「異人」であるという自覚を持っている。主客は、けっして「仲間」にはならない。たがいに「まれびと=異人」として祝福し合うのだ。
「割り箸」を差し出すという文化も、客人を「異人=まれびと」であると認識するところから生まれてきたのだろうと思えます。お客を、仲間扱いにしたら失礼なのだ。
すなわち、「民俗社会」においては、外部から訪れる旅人ばかりが「まれびと」ではなかった。民俗社会内部の家と家の関係じたいが、「まれびと」にたいする視線の上に成り立っていた。
日本人は、みずからの「世界」を、できるだけ小さく区切ろうとする。だから、共同体の一員であるという自覚(公共心)が育ちにくいのだが、その水源はおそらく、水平線の向こうはわからないと悟った縄文人の心性にある。
「外部」の世界のことは、わからない。だからこそ、まるで水平線や山の端から昇る朝日のようにしてやって来る「まれびと=異人=他者」との出会いにときめくのだ。