まれびと論・34 穢れの発生

畏怖することは大切です。それは、ひとつの「浄化作用=カタルシス」です。
日本列島の古代人は、神を、海の向こうを、畏怖していた。畏怖することが穢れを祓うことであり、彼らの信仰のかたちだった。
ところが、「異人論」の小松和彦氏も「異人論序説」の赤坂憲雄氏も、そして折口信夫氏も、畏怖することが「忌み=穢れ」だという。
たぶん、そんな単純な問題じゃない。
遊園地のジェットコースターに乗って怖い思いをするのは、ひとつの浄化作用になる。
お化けを見て怖がることは、べつに「忌み=穢れ」ではない。そのあと憂鬱になったり、精神に病を負ってしまうことを「忌み=穢れ」という。
「穢れ」とは、強迫観念のこと。「関係」に閉じ込められること。気になってしかたなくなること。
そのもっとも代表的な対象が、死体です。動かないから、ほおっておいたらいつまでもそこに存在しつづける。おまけに悪臭を放って腐乱してくるから、ますますその存在にとらわれてしまう。
では、「穢れた存在」とは、それが気になって仕方がない自分なのか、それとも死体そのものなのか。たぶん、両方でしょう。そういう関係が発生することを「忌み=穢れ」という。
古事記によると、黄泉の国の入り口でたくさんの死体と遭遇したイザナギは、ようやく逃げ帰ってきて、自分が穢れてしまったことを自覚し、何度も水を浴び、それでも足りずに裸のまま出雲から九州あたりまで禊(みそ)ぎの旅を続けます。
死体は、それじたいが穢れた存在であるというだけでなく、見た者も穢れてしまうものらしい。
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「け」と発声するとき、息と声が口からすっぽりと抜け出ていく感じがする。「け」とは、「排除」すること。「蹴る」「消す」の「け」。「気(け)」とは、なくしてしまいたいいやな気分のこと。「もののけ」の「け」は、語源的には「怪(け)」ではなく「気(け)」であろうと思えます。心が抜け出て、呆けてしまったり元気がなくなったりすることを、「け」という。そして、そうさせられる対象のことも「け」という。
おそらく古代以前は、「穢れ」のことを、ただ「け」といっていただけだろうと思います。
また、一般的な語源論では「気枯(けが)れ」という字が当てられているようだが、もともとは「けがらふ」とか「けがらひ」といっていたらしい。
「けがれ」ではなかったのだ。「いやな気分が枯れてしまう」のなら、「穢れ」よりもむしろ「浄化」になってしまう。
「からふ」が古代においても「かつぐ」という意味だったとすれば、「けがらふ」とは、いやな気分やものを背負ってしまうこと、つまり「穢れ」を背負ってしまうこと、という意味になる。
「穢れ」とは、鬱陶しい気分にさせられること。新鮮味が失せて、心がときめかなってくること。そして、そういう気分にさせられる対象のさま。
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縄文の女たちは、集落ごと引っ越すということをよくしていたらしく、そのとき、集落の土が穢れてきた、と感じたのだろうか。
縄文中期の三内丸山遺跡では、たくさんの住居跡が発見されている。しかしそれは、直ちに大集落があったとはいえない。土が穢れてきたといってはよく家を移動して建て替えていた、というだけかもしれない。何しろ、1500年のあいだのことです。そのあいだに彼らは、いったい何度家を移動させただろうか。
そして、そんなに大きな集落が、なぜ中期になってから忽然と姿を消したのか。それほど大きな集落でもなかったからでしょう。あるいは、大きくなりすぎて人間関係がよどんでしまったからかもしれない。それもまた、土が穢れることの自覚につながる。たぶん、そのとき集団ごと移動したのではなく、離散してしまったのでしょう。縄文人は、大きな集団になることが苦手な人たちだった。
彼らは、同じ場所に家を建て替えるということをしたがらなかったらしい。そしてこれ以後、土の「穢れ」にこだわるのが、日本列島の伝統になっていった。
子供が病気になったり、家族の気持がよどんできたりするのは、土の精霊のせいだ、と彼らは思った。疫病が集落中に蔓延することもあったでしょう。土は「死」と同じくらい気になる対象だった。
土は、恵みの場であると同時に、災厄の場でもあった。彼らは、土とともに生きていた。
まず身体の「穢れ」が意識され、そうして土との関わりが意識されていった。
山野をさすらいながら狩をしていた縄文時代の男たちに対して、集落に定住していた女たちは、土と深く関わって暮らしていた。「穢れ」の意識は、定住することから生まれてくる。身体は、土の「穢れ」を負っている。そして土は、身体(死体)を埋めることによって穢れる。この循環構造。死体だから穢れているのではない、生きている身体そのものが、すでに穢れているのだ。
それに対して漂泊する者たちは、「穢れ」を免れている者たちです。彼らは、土と身体の循環構造から解放されている。「禊(みそ)ぎの旅に出る」とは、土との固着した関係を断ち、その循環構造から解放されることにある。
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死体に対する忌みの根源は、「土」が穢れることにある。そういうことを考えると、養老孟先生のいう「共同体」の問題だけではすまなくなってくる。
また赤坂氏は、「異人論序説」の中で、村人が先祖代々大切に耕してきた土地は清浄で、村の外は穢れた場所である、としながら、共同体の「内」と「外」というパラダイムを展開しています。
しかし、そんな単純なものじゃないでしょう。
村の土地は、耕しているからこそ「穢れ」が生まれてくるのだ。畑の土も、家の下の土も、つねに「穢れ」を祓いながら村の暮らしがいとなまれているのです。
そして村の外は、何もないのだから、穢れてなどいないのです。
日本列島の住民にとってのもっとも清浄な土地は、誰も足を踏み入れたことのない「深山幽谷」です。水墨画も、ひまな爺さんの盆栽も、その憧れを表現している。
村の土地が「清浄」だなんて、考えることがセンチで短絡的すぎます。
「土の穢れ」の歴史は、まず自分が立っている足もと、あるいは日々の暮らしの家の床において気づいたところから始まっているのだ。
「穢れ」は、村の土地や村人の体において発生する。だから彼らは、ことあるごとにお祓いをして生きてゆかねばならなかったのだ。
日本列島の住民は、「公共心」がないのです。まず家の内と外があり、「郷」とか「庄」という集落ごとの結束があり、それから村という単位が意識されていた。その空間が広がれば広がるほど、結束の意識が薄くなってゆく。すくなくとも古代においては、村の輪郭はそうやってグラデーションになって消えていっていただけだった。古代の村人には、村の内と外という意識はあまりなかった。
村意識なんて,江戸時代以降のものです。それよりも日本列島の共同体の輪郭はグラデーションになって消えていっている、ということこそ問題にされるべきだろうと思えます。
日本列島においては、「外部」は「穢れている」のではなく、「ない」のです。「不在」なのだ。したがってそこは、「穢れていない」のです。
山は聖域だったし、山人を穢れた存在だと思っていたのでもない。山に入っていって山人と出会ったときに、初めて「穢れ」が発生する。
土地は、暮らしとの関係で穢れてゆくのであって、村人は、よその土地のわからなさを畏れることはあっても、穢れているとは思っていなかった。
それじたいで穢れているものなど何もない。自分の心や体の穢れを強く意識させられる対象が「穢れているもの」です。「穢れ」は、そういう「関係」の上に成り立っている。
だいたい、日本列島の民俗社会を語るのに、どの時代も何もかも村の内と外の問題にしてしまうなんてナンセンスだし、村の外部の異人は、「穢れ」を負っていない清い存在だったのだ。
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ネアンデルタールの群れが身体障害者を養っていたように、日本列島でも奈良時代までは、身体障害者だろうとハンセン病患者だろうと、穢れた存在だとは見られていなかった。彼らはちゃんと家や村の一員として公私共に認知されていた。
村人にとって、土をいじらない非生産者は、ある意味で清らかな存在であったわけで、そういう者たちを養っていることが、自分たちの穢れの免罪符にもなっていた。村人にとって彼らは、「まれびと」だった。彼らを養うことは、「まれびと」をもてなすことだった。
そしてそれはたぶん、ネアンデルタールいらい習俗化されてきた人類の無意識だったのだろうと思えます。
直立二足歩行は、他者と並んで立っていないと成り立たない姿勢です。それは、おたがいが立ち上がってたがいのあいだの空間を確保するための姿勢であるのだから、ひとりで立っていても何の意味もないのです。身体障害者を養うことは、他者とのあいだの空間を工夫して確保してゆくという、人間としての根源的なよろこびが伴っている。身体障害者を養うことは、人間の本能なのです。身体障害者は、そういうよろこびをもたらしてくれる「まれびと」なのです。
折口氏も赤坂氏も小松氏も、古代から身体障害者が「穢れ」を負った存在と見られていたようなことをいっている。そうではない。すくなくとも古代から中世において、そのような倒錯的な視線を持っていたのは、支配者たちだけだったのです。それが、時代とともに民衆のレベルまで下りていった。
古代から中世の民衆は、まだ共同体の論理では暮らしていなかった。彼らの信仰も「穢れ」の意識も、共同体以前の「命のいとなみ」のレベルでなされていたのだ。
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「穢れているもの」とは、「気になって仕方ないもの」。気になって仕方がないのは、足もとの土でしょう。村はずれの土地じゃない。
死体は、自分でどこかに行ってくれないから、そういう意味で気になって仕方のない目障りなものです。
もののあはれを知る」とは、他者の「不在性」を思うこと。たとえば、明日にはもう会えないかもしれない相手だと思うこと、それが、日本列島における他者との付き合い方の流儀(伝統)です。
動かない死体は、そういう「不在性」を喪失した存在です。
「穢れ」とは、関係概念です。
日本列島では、「関係」は「穢れ」です。
「親しき中にも礼儀あり」とは、つねに関係を解体して「出会い」の場に立ちつづけようとする身振りです。
日本列島の住民は、他者に対しても土に対しても、「不在性」を見ようとする。つまり、つねに新しく出会った対象である、と見ようとしている。そしてこれが、「まれびとの文化」です。そうやって人と人は、過去の自分を消した新しい存在として出会おうとしていたし、他者はそういう存在であると見ようとしていた。
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新しい土は、まだ「関係」が発生していない「不在」の対象です。そのように新しいものとの「出会い」の場に立つことのときめきが止揚されるとき、すでに存在している「関係」が「穢れ」として否定される。「穢れ」の意識は、そういうときめきと背中合わせにある。
この国では、ことに「穢れ」が意識される。
それは、出会いのときめきを喪失し、関係が固着したところから生まれてくる。
非人や乞食は、村の中心から「関係」が消えたところまで離れて暮らしている。そうして「不在」の聖なる存在として村人と出会いつづける。
かつて天皇は、天照大神とともに家の中に祀られていた。家の中まで入って来ても、なお「不在」の対象だったからだ。
その家の嫁も、「不在性」が求められた。だから、亭主や姑から三歩下がって歩く。
民俗社会における村人と「異人」との関係は、関係を消して出会いの場に立ちつづけようとする態度によって維持されてきた。
たとえ非人や乞食でも、その「不在性」において聖なる存在です。聖なる存在であることを余儀なくされている、というべきかも知れない。
「外部」に立てば、聖なる存在です。「外部」が穢れているのではない。村の「外部」は、「不在」であるがゆえに清浄な土地なのです。
「穢れ」は「内部=自分」において発生する。
縄文時代や古代における、おとづれ人である「ツマドイ」をする男は、女の家の戸の外に立っている。たがいに、相手の姿は見えない。その「不在」の場に立って、想いを伝える。
日本列島の「他者=神」は、「不在」において顕現する。
「穢れを祓う」とは、自分を消して「不在」になることです。
折口氏も小松氏も赤坂氏も、前近代の来訪神や旅人の蓑笠姿は「穢れ=忌み」を負った存在であることを象徴している、といっている。そうじゃない。それは、自分を消して「不在」になる身振りなのだ。そういう身振りを示すことが旅人における伝統としてのたしなみであったし、村人もまた、そこに穢れを祓った清さを見ていたのだ。
村人こそ穢れを負った身であり、でなければ、旅する異人を歓待する理由なんか何もないではないか。定住民は、土との関係に疲れ、穢れを負ってしまっている。「まれびと」の文化は、そういう「嘆き」の上に成り立っている。