閑話休題 「今ここ」ということ

1・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「まれびと論」は、まだまだ続けるつもりですが、ちょっとひと休みです、
「不在」という言葉が、このところとても気に掛かっています。
「今ここ」には、「過去」も「未来」も存在しない。
そんなこと当たりまえだけど、われわれは、その「今ここ」に過去を引きずってきているし、未来のスケジュールに頭の中を占領されてしまっていることも多い。
現代生活においては、「今ここ」はもう、好き放題に過去と未来に侵食されてぐちゃぐちゃになってしまっている。過去と未来の向こうにしか「今ここ」は見えない。
ほんとに、見えない。
「現在」とは、一瞬一瞬生起しては消えていっている時間。だから、そんな時間は存在しない、ともいえる。それでもつねに「今ここ」でありつづけているのだから、過去や未来の方がむしろ存在しないのでしょう。
「未来」のことはひとまずさておくとして、「過去」が「今ここ」に「不在」であると感じることは、とても不思議な心地です。
「不在」に気づくことが、日本列島の伝統文化です。「もののあはれ」の「あはれ」は、「不在」という意味です。
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昨日まで第一線でバリバリ仕事をしてきた人が、ある日とつぜん窓際のポストに追いやられる。あるいは、リストラされてしまう。
誰だってこんなことは、すぐには承服しがたいことです。
嘘だろう・・・・・・という気分。
でも、本当です。やがてその日がやってきて、失業者の身になるほかない。
そのとき、会社のことをきっぱり忘れられるならいいが、どうして俺が、という気分が、そうかんたんに消えるわけがない。どうして頑張っていた俺がリストラされて、ろくに仕事もできないあいつが残っているんだ。もうちょっと上司にお世辞言っておいた方がよかったかな。あのときゴルフのお供を断ったのがいけなかったのだろうか・・・・・・等々、後悔と反省と無念さが果てしなく続いて、もう「今ここ」が「過去」に埋め尽くされてしまう。
そして、明日からの自分は何の価値もない人間だという思いに浸される。
こういうことがきっかけで鬱病になる人は多いらしい。
それまで彼の「今ここ」は、未来のスケジュールと、たえず過去になってゆく一瞬一瞬を確認することに埋め尽くされていた。もともと「今ここ」が希薄な生き方をしてきたのだから、それも当然です。
しかしすっぱりリストラされるのもショックではあるが、じわじわ窓際に追いやられてゆくことの方がかえって消耗させられる、という話を聞いたことがあります。
まあ、人それぞれの受け止め方の問題なのだろうが、こういうときに「過去」など存在しない、と心底思い切ることができたとしたら、それは、不幸でしょうか、そうでもないのでしょうか。
そのとき彼は、つらいことも忘れられるが、過去の栄光もどうでもいいことになってしまう。
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人生の経験がその人の人格をつくる、とよく言うが、けっこういいかげんな言葉です。
人生の経験など何もしていなくてもすてきな人はすてきだし、経験しているからこそ歪んでしまったりもする。
たいていの人間は、歪んでしまっている。
いい経験だろうと悪い経験だろうと、歪まないで通過するのは、けっこうむずかしいことです。
それはもう生まれついての資質だ、という人もいます。そうかもしれない。しかし、時代や社会のせいもあるし、その人の思想や心がけの問題もある。
人間の顔なんて、年をとると、どんどん醜くなってゆく。
すてきな顔をした大人なんかめったにいない、と若者たちは見ている。
「アンチ・エイジング」で整形したりマッサージしたりして、どれほどの効果があるのでしょう。そりゃあ、大人どうしでは、ほめられたりうらやましがられたりするでしょう。でも、もっと若々しい若者は、そういうことだけで感心したりはしない。
人生の経験も顔のつくりもどうでもいいけど、そのひとの「こころざし」というのは、やっぱり顔に表れる。
2・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ある作家が、こう言っていました。
現実にあわせて可能な計画や望みを立てることばかりしていないで、たとえば「誰も嫌いになるまい」というような不可能な誓いを立てることもしたほうがいい、と。「不可能を目指しつづける人間は、たぶん美しくなる」・・・・・・これは、名言かもしれない。
若者と大人との姿の美しさの差は、たぶんこんなところにもある。
「こころざし」というのは、そういうことだ。
自分が明日生きてあることを一切思わないで「今ここ」だけに生きる、などということを誓っても、現実には無理な話です。仕事も学校もあるし、デートの約束だってしたいし。
ただ、「今ここ」には「未来」も「過去」も存在しないのだ、ということを深く認識することは、可能かもしれない。というか、誰もが何かはずみでそういう認識の真っ只中に立ってしまうことはある。
絶対殺してやる、と包丁を握りしめているとき。包丁を突き刺した瞬間。
セックスの、オルガスムスの瞬間。
遊びが楽しくて、日が暮れても帰りたくないとき。
パチンコの台から離れられなくなっているとき。
夜の公園でキスしていたら、終電車の時間も忘れてしまったとき。
コンサートに着てゆく洋服がなかなか決められないとき。
おもしろい推理小説を読みふけっているとき。
死にたいな、と思った瞬間。
道端の猫を見て、可愛いな、と思った瞬間。
彼女のお尻にほくろを見つけた瞬間。
たぶん、誰もが、そのように過去と未来の時間と訣別した瞬間を体験している。
いやもう、そこにコップがある、と認識することそれじたいが、「未来」からも「過去」からも離れて「今ここ」に立ち尽くしている状態であるといえるのかもしれない。
この世界に反応し認識するということ、それはもう、過去も未来も頭の中から消えていることなのではないだろうか。言い換えれば、過去や未来のことが頭にあれば、われわれは、コップをコップと認識することすらできなくなってしまうのではないだろうか。
過去や未来のことを考えていても、コップを認識するその瞬間だけは、それらのことが頭の中から消えている。
コップをコップであると認識すること、すなわち「今ここ」の世界に反応し認識することは、過去からも未来からも離れて「今ここ」に立ち尽くしている瞬間だといえる。
われわれは、ほんとうは「未来」も「過去」も忘れて「今ここ」を生きているだけではないだろうか。
そういう日常の時間の、ほんのちょっとのあいだに、過去のことを気にしたり、未来に気が急(せ)いたりしているだけではないだろうか。
とはいえ、たとえばわれわれは、コンビニの店員にお金を払うとき、自動販売機を前にしているような気分になってしまってはいないだろうか。そばで見ていると、大人ほどそういう顔つきや態度になっている。それは、「今ここ」に対する反応を喪失している姿ではないだろうか。たぶん、過去や未来のことに頭の中をいっぱいにして、人と向かい合っていることの緊張感やときめきがないのだろうと思えます。
それが、現代社会なのでしょうか。
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過去の「不在」に気づくことは、過去を喪失していることではない。「不在」であると気づいているのだから、ちゃんと過去と向き合っている。
ただ、あのとき彼女に恋をした自分は今の自分ではない、と気づいているだけです。昨日使った切符が、今日も使えるわけではない。リストラされると、そういうことを思い知らされる。昨日やさしかった人が、今日はもう振り向いてもくれない。しかしそんなことは、相手の勝手なのだ。昨日は、今日の中に存在しない。「今ここ」の自分は、「今ここ」の自分でしかない。
いろいろあったけど、とりあえず過去は「今ここ」ではない。そういう「過去の不在」とちゃんと向き合うしかない。
また、過去に起きたいやなことが未来にも起きるのではないかという不安がある。起きるかもしれない。しかしそれは、「今ここ」ではない。未来のことなど、わからない。
過去はもう、わかってしまっていること以上のことをわかることができない。そして未来のことは何もわからない。
われわれはつねに、「わからない」という認識の場に置かれている。そこから逃れることはできない。そういうことを深く認識するなら、「今ここ」の自分が過去の自分とは別の存在であるということにも気づくほかない。
「それはコップである」と認識することは、「自分はコップではない」と認識することでもある。
「今ここ」の自分、という限定された場所がある。われわれは、そこから一歩も外に出ることができない。そこにいて、世界や他者と出会っているだけである。
どこに出向いていってどこにいても、「今ここの自分」の外ではない。
「今ここの自分」、自分はもう、それ以上でも以下でもない。「今ここの自分」の外に自分はいない。
「不在」に気づくこと、それが「今ここの自分」をよりたしかに認識することでもある。「今ここの自分」は、過去の自分でも未来の自分でもない。「自分」は「・・・・・・ではない自分」であって、「・・・・・・である自分」ではない。自分に気づくことは、「自分の不在」に気づくことでもある。
そして「今ここの自分」は一瞬一瞬消えていっているのだから、消えることがよりたしかに生起することでもある。消えなければ、生起することができない。
われわれは、消えつづけている。「不在」でありつづけている。
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人それぞれいろんな思想やこころざしを持って生きているわけだが、誰にでも通じる生きているかたちの根本みたいなものはあるに違いない。
人間なんて、消えつづけている存在なのだ。
次の瞬間、自分は犬になっているかもしれない・・・・・・そんなことはありえない、と決めつけないほうがいい。とにかく「わからない」のだ。
未来も過去も存在しない、と深く認識することはかんたんなことじゃない。
しかしほんとうは、誰もが胸の底のどこかしらでそのように認識しているのではないだろうか。そういう状態で生きているのではないだろうか。
それを打ち消してしまうのが、「観念」というはたらきです。
現代人の観念は、そういう胸の底の認識とはずいぶんかけ離れてしまっている。そして、観念による認識の方がほんとうのことで、ほんとうの自分だと思っている。
なんにもわかっちゃいない、ということに気づいていない。胸の底で「わかっている」ことに気づいていない。
「わからない」という認識に気づくことは、「不在」と出会うということでもある。
「わからない」と「不在」は、同じことです。
古代人は、そういう心の動きの「タッチ」を持っていた。見えないものを「ない」と認識することができた。
しかし現代人は、未来だろうと人の心だろうと地球の裏側だろうと、見えなくても「ある」ように妄想してしまう。それはたぶん、不幸なことだ。コンビニでつり銭をもらうとき、すでに家に帰って見るテレビのことを考えている。レジ係が「ありがとうございます」といってけんめいに心を通わそうとしているのに。「今ここ」には、ほかにどんな世界も存在しないというのに。
「不在」と出会うことのできる「タッチ」というのがある。
われわれは、そういう「タッチ」を喪失している。
だから、死ぬのが怖い。
死という「自分の不在」や「世界の不在」と和解することができない。
「自分の不在」や「世界の不在」を見つめる「タッチ」を持っていないからだ。
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現代人の観念は、つねに社会や時代から強迫されている。「善=悪」「正しいこと=間違っていること」「価値=不価値」等々、そんな物差し(規範)をいつも突きつけられている。
だから、憂鬱になったり錯乱したりしてしまう。
しかし、この世界が生起したばかりの「今ここ」だと感じれば、そんな物差しはいっさい存在しない。なのに、過去から未来に向かって存在しつづけているものであるかのように観念がとらえてしまっているから、強迫されねばならない。
彼が憂鬱なのは、社会や時代から強迫されているからだ。
亭主や女房に逃げられたことや職を失ったことや病気になったことが自分の孤独を増しているのは、それによって社会から置き去りにされていると感じられるからであって、ひとりぼっちだからではない。人は、ひとりぼっちには耐えられるが、社会から置き去りにされることには耐えられない。
それらのどれも、どうということもない問題なのに、まるで人間であることの資格を失っているかのように感じられる。
人間であることに資格もくそもあるものか。人間であることが、人間であることの資格なのだ。
したがって「自分は正しい」と思う根拠も「自分は間違っている」という根拠も存在しない。われわれは、そういう根拠の「不在」を生きることができるか。
社会や時代は、そういう「不在」を生きてはならないと強迫してくる。そんな生き方をしていたら、置いてけぼりにされてしまう。もはや、「不在」を見つめるタッチで生きられるような社会や時代ではない。
それでもたぶん、生きることの困難に陥ったときの「灯り」は、「不在という無明」にあるのだろうと思えます。
3・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
たとえ相手がえらい人でも、僕は、人間はこう生きればいいとか、そういうことを指図されるのがあまり好きではない。
指図してもらいたがっている人もいるのだろうけど。
僕の場合、そういう風にアドバイスしてもらっても、そのとおりにする能力がないのです。
気がついたら、こんなふうに生きてしまっていた・・・・・・そういう人生しか持ち合わせておりません。
人はどう生きればいい、という話にはあまり興味がない。人はどう生きてしまうのだろう、ということが気にかかるだけです。
「いじめ」や「引きこもり」や「自殺」や「鬱病」をなくすにはどうすればいいかということに妙案があるようなことを言う人は多いけど、僕がもしアドバイスを受ける立場であったら、たぶん、何を言われても実行できないような気がする。
もし自分が「引きこもり」であるのなら、なおるときはなおる、なおらなければ一生なおらない、そう覚悟するしかない。
リストラされて、過去のことは忘れて出直しなさい、と言われても、そうすればいいことくらい言われなくてもわかっている、と答えるしかない。
過去を忘れることなんか、僕にとってそうむずかしいことじゃない。その代わり、出直す根性もない。
それはたぶん、未来を怖がって、未来の「不在」を深く了解していないからだ。
であれば、それを了解できるくらい、「今ここ」を生ききるしかない。
「今ここ」を生ききることは、誰でもできると同時に、誰にもできない。
そこがやっかいなところです。
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失恋した人に、失恋を生ききりなさいと言っても、かんたんなことじゃない。
しかしもはや、失恋を生ききるしかない。そうして恋人の「不在」を了解するしかない。
それはたぶん、恋人の「不在」を了解できない自分そのものが「不在」になることであり、そういう自分は過去と未来にいる。「今ここ」の自分は、すでに恋人の「不在」を了解している。そういう「いまここ」の自分が、過去と未来の了解できない自分に侵食されているからつらいのでしょう。
とにかく、「失恋した」と認識している自分がいる。
もはや、認識している「いまここ」の自分を生ききるしかない。「いまここ」に、過去の自分も未来の自分も存在しない。
「いまここ」の自分は、一瞬一瞬生起しては消えていっている。深くそう認識したとき、失恋に気を病む自分も消えてゆく。自分はつねに生まれたばかりの子供のような新しい存在である、と気づくこと。失恋を生ききった人には、きっとそういう瞬間がやってくる。
人生の知恵なんか、必要ない。何も知らない生まれたばかりの子供のような存在になれることこそ人を救うのだ、と思う。
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「今ここ」は、一瞬の点であると同時に、無限に広い宇宙でもある。「この自分」が「今ここ」の存在であるなら、自分が向き合っている世界や他者も「今ここ」に存在している。
「今ここ」をできるだけ小さく認識することも、どこまでも広く認識することもできる。そうやってその場その場の状況で「今ここ」をニュートラルに伸び縮みさせながら、われわれは生きているのだろうか。
「今ここ」に存在するのは「自分」だけではないのだから、「自分」は「今ここ」を認識する手がかりにはなりえない。「今ここ」の時間は瞬間の点であり、空間は宇宙である。だから、「自分」によって認識することはできない。瞬間の点も、宇宙も、「自分」を消すことによってしか認識できない。
「今ここ」を生ききるとは、「自分」を消すことだろうか。
それは、とてもむずかしいことだ。
でも、消そうとしないでも何かに夢中になって、自然に消えてしまっているときはある。
自分が消えているときこそもっとも充実して生きている瞬間である、ということは、誰もが知っている。そのときこそわれわれは、「今ここ」の瞬間と空間に出会っている。
自分が「今ここ」の瞬間や空間に気づくのではない、自分が今ここの瞬間や空間になる。つまり、神になる・・・・・・やっぱりそういう瞬間というのはあるのだろうと思います。
「悟り」なんか、知らない。でも誰だって、何かの弾みで「神」になるのかもしれない。
キリスト教の「神」も、仏教の「仏」も知らない。でもわれわれは、何かの弾みで「人間以外」の存在になるときがある。
人間だけが「人間以外」の存在になれる。猿は猿です。「猿以外」にはなれても、「人間以外」の存在にはなれない。「人間」であることの「嘆き」は、猿にはない。
そして、「人間」であることが誇らしい人も、「人間以外」の存在にはなれない。
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「一期(いちご=人生)は夢ぞ、ただ狂え」・・・・・・「ひろさちや」という人が、そんなふうにひたすらいいかげんに生きればいいだけですよ、というようなことをいっていたが、「どう生きればいい」というようなことは、できれば言われたくないのですよね。
真面目に生きようと、いいかげんに生きようと、その人の勝手です。誰にだって、そういうふうにしか生きられない、というかたちがある。
中世のこの言葉は、そういう気分を表現しているのであって、生き方を説いているわけではないでしょう。そういうふうにしか生きられない気分というか、状況がある。
そういうふうにしか生きられない「嘆き」がある。
そういう「嘆き」のない人間がかっこつけてそんな生き方をしても、薄っぺらでわざとらしいだけです。
「嘆き」があるのなら、どういうかたちにしろ、自分が消えて「人間以外」のところにずれていってしまうだろうし、その瞬間その生は輝いている、ということはいえるのかもしれない。
失恋すれば、今まで感じたこともないほど海の青さが胸にしみて夢心地になるのかもしれない。泣いて泣いて泣ききれば、体が空っぽになってさっぱりするかもしれない。真夜中の町をひたすら歩き回れば、ひとりぼっちの気分の充実を発見するかもしれない。そのときその人の生は、かっこつけて狂ったふりをしているよりも、ずっと輝いている。
狂うなら、ほんとに自分なんかなくなってしまうくらい狂わなければ、カタルシスはやってこない。
鬱陶しい「自分」や「人間」などというものと訣別すること。それが「狂う」ということだろうか。
狂う自分をつくって見せても、それが意図した態度であるかぎり、どんなに狂っているように見えても、けっきょくは「自分」とも「人間」とも決別していない。だから、「狂えばいい」なんて、そんなことは何のアドバイスにもなっていない。そういう瞬間はそういう状況に置かれた人間にしか与えられないのであり、たぶん、どう生きればいいというようなことがいえる人間には無縁の瞬間なのだと思えます。
そんなアドバイスをしているひまがあったら、自分が「意図」の範囲でしか生きられない人間だということを自覚した方がいい。そうすれば、それが「嘆き」になる。
この世に自分ほど無意味な存在もないというのに、誰も自分以外の人生を生きることはできない。われわれ下々(しもじも)のものはそういう思いを携えて生きているというのに、いい気なものだ。