穢れと聖性・かなしみとときめきの文化人類学9


人類が本格的に家を建てるようになってきたのは、氷河期明け以降のことです。
それは、外部を排除して私有財産を確保してゆくための行為だったのでしょうか。
たぶんそうじゃない。
ひとまずそれまでは、森の中とか洞窟で暮らしていた。
家を持ったことの結果として私有財産の意識が芽生えてきたということはあるのかもしれないが、そこにいたるまでには、さらに数千年の歴史があった。基本的には、共同体(国家)の発生とともに生まれてきた意識です。
まあ、それまでの人類は、財産というような余剰の生産物を持っていなかった。余剰の食糧を備蓄したり、金銀宝石を価値とする観念が肥大化してきたりする下地があって私有財産が生まれてきたのでしょう。
氷河期が明けて気候が温暖化し、人間的な文明も発達して、何かと生きることが困難なことでもなくなってきた。生きてあることに対する嘆きが薄らいできて、もっと生きようとか幸せになろうというような自意識=欲望が肥大化してきた。
いずれにせよ、はじめて小屋を建てたときは、まだ人間の自然としてのこの世界から「隠れよう」とする意識があっただけでしょう。そのとき家の中は、この世界の日常とは別の「非日常」の空間だった。それは、世俗的な「財産」などというものではなかった。
人間は、どうしても「隠れよう=消えよう」とする衝動を持っている。だから、家の中が世俗的な「財産」になってしまうことをむしろ嫌った。
弥生時代でも、米などの食料は、集落で共有する倉庫の建物に備蓄していたし、鍋釜から子供まで、さかんに家々を行き来していた。弥生人にとっては、自分の家の子供もよその家の子供もあまり区別がなかった。それは、世界中どこでも共通している原始性です。ただ、2000年前の弥生時代になってもまだそんな原始性を残していたのは、極東の島国である日本列島の特異なところでもあったのかもしれません。
大陸ではすでに5〜6千年前から共同体(国家)がいとなまれていた。
日本列島では、弥生時代になってもまだ、「私有財産」の意識がなかった。



「かくれんぼ」は人間の本能です。原初の人類の歴史は、「消える=隠れる」という生態とともに流れてきた。
人類は、私有財産(=内部の秩序)として家を建てていったのではない。そして外部の秩序(=共同体)が現われてからも、基本的にはそこから隠れて消える場所として家が機能してきた。
人間は「今ここ」の世界を細分化し「今ここ」に消えてゆこうとする。そういう消えてゆくための「非日常」の世界として家を建てた。
家は「非日常」の世界なのです。「日常」ではない。だから、この社会の秩序としてのお金や法とは無縁の関係でいとなまれている。親子や夫婦のあいだでお金の貸し借りなどないし、法律通りに動いている世界でもない。
家は、社会の秩序に対する「非存在・非日常」の空間です。
人類が最初に家という小屋を建てたのは、まあ身体を覆う衣装を着るようなことだったのかもしれない。衣装の下で身体は隠れて消えていて、衣装が身体の代わりをしている。衣装は、生身の身体を消す装置です。
人間にとって身体は、確保するべき「私有財産」ではなく、消してしまいたい対象です。身体を消してしまうことが生きるいとなみになっている。息をすれば、息苦しい身体は消えている。飯を食えば、空腹に耐えられない身体は消えている。体を動かすことは、体のことを忘れてゆく行為です。そうやって人は歩いているし、ピアニストは指のことなど忘れて超絶技巧を披露している。
つまり、意識の中から身体が消えることは、身体の外の世界や他者に意識が向いている、ということです。それが、人間の基本的な生きるいとなみでしょう。
そうやって身体を消そうとするような衝動で原初の家が建てられていった。
たぶん、1万年くらい前の氷河期明けの最初に家が建てられていってから、人類最初の共同体(国家)がメソポタミアに現れるまでに5千年以上経っています。そこではじめて家が「私有財産」という「秩序」にもなったのだが、基本的には家はただの衣装みたいなもので、中味はあくまでからっぽの「非存在」の空間として機能している。
人間は、できるだけ小さな世界に閉じこもって消えてゆこうとする衝動を持っている。そうやって家を建てていったのではないでしょうか。



民俗学ではよく、村の秩序に対する外部の混沌、という図式で語られるのですが、日本列島の村は、伝統的に私有財産の制度があいまいな、どちらかというと混沌とした世界なのです。
江戸時代以前の田んぼはもちろん農民の私有財産ではなく、国から借り受けているものだったのでしょう。しかもそれは、個人が借り受けているのではなく、村が借り受けているものだった。農民が所有していたのは、耕作権だけだった。
日本列島の村は、伝統的に私有財産の意識が希薄な空間だった。
日本列島の農民は、歴史的に、私有財産を管理し運営するということをしてこなかった。だから戦後、土地成金になって精紳が壊れてしまう人も少なくなかった。
日本列島の村は、私有財産の制度が行き渡った秩序を持った世界ではなかった。人と人の関係もわりと混沌としていて、それぞれが勝手なことをし合ったり、うるさく干渉し合ったり、また自由で豊かな助け合いもあった。そしてそういう混沌の中で、穢れがたまってくる場所でもあった。
だから、村のはずれに鎮守の森を持つ必要があった。そこは、村での暮らしのけがれを洗い流す場所だった。
民俗学ではとうぜん、鎮守の森の祭りは村人いう定住民が旅の僧や旅芸人や旅の乞食などの「異人」と出会う場所だった、といわれているのだが、村人だって鎮守の森という村はずれにやってくれば旅の「異人」なのです。みんなが「無主・無縁」の「異人」になってにぎわってゆくのが「祭り」であり、誰もがけがれを負った存在として、自分を忘れ消えてゆこうとしていた。
日本列島においては、共同体の制度という「秩序」はつねに「外部」にあり、村は、そうした制度的な「秩序」に対するひとつの異空間であり、「私有財産」が存在しない原始的な混沌=空虚の場所だった。
生きてあることのいたたまれなさを抱えた人間は、かくれんぼをして消えてゆこうとしている存在です。
村人は、村の秩序をつくろうとしてきたのではない、権力が押し付けてくる秩序に対して、けんめいに原始的な混沌=空虚を守ろうとしてきたのです。
たとえば村の寄り合いなどは、何が正しいかと議論するのではなく、事態の「なりゆき」を語り合いそれにしたがおうとしていっただけでしょう。その「なりゆきという混沌」にしたがってゆくことこそが村の運営の流儀だった。
まあ、日本列島全体が伝統的にそんないいかげんな会議ばかりしてきた。おそらく、そうやって太平洋戦争に突入していったのでしょう。
とにかく、日本列島の村は、「秩序」の空間として歴史を歩んできたのではない。
現在の若者の「かわいい」の文化にせよ、この国では、原始的な混沌=空虚が守り育てられてきた。
人間は、生きのびるための「秩序」の中に身を置くよりも、原始的な「涙のゆらめき=かなしの感慨」とともに消えてゆくことにカタルシスを覚える。



人々が荒野の中に家を建てて村をつくり、そのまわりの土地を耕作していった。これがたぶん、文明の歴史のはじまりだったのでしょう。
最初はもちろん氷河期の延長として森の木の実を採集したり草食獣の狩をしたりしていたのだろうが、やがて荒野に自生する麦や米などを栽培してそれを主食にすることをおぼえていった。
人類最初の都市集落跡は、トルコ西部のチャタルヒュユクというところで見つかっています。それは9千年前のもので、8千人が大きなひとつの集合住宅で暮らしていました。すべての家がくっついていて、出入り口は屋根についていたのだとか。人口が増えるにしたがってどんどん新しい家をくっつけていったのですね。
これは、家を個人の独立した私有財産にしようとする発想ではありません。家は、集落全体の所有だった。集落として世界から隠れようとしていた。都市集落といっても、ひとつの大きな「村」だったともいえます。彼らには「私有財産」という意識はなかった。
その集落に秩序などなく、混沌とした集合だった。まあ江戸時代の長屋みたいなもので、豊かに助け合って暮らしていた。
人間は、「今ここ」で世界を完結し消えてゆこうとする。そうやってくっつき合っていたのでしょう。そこでの個人は、集落の混沌の中に消えていた。
「混沌」でないと消えてゆくことはできない。混沌というゆらめき、ゆらめきながら消えてゆく。人間の消えようとする衝動が、きらきら光るものを好きになっていったのかもしれません。
人類の原始段階における個人は、消えてゆく存在だった。自分を消して他者にときめき、他者を生かそうとしていった。他者にときめいていないと自分は消えない。人間は、集合の中に身を置いていないと消えてゆくことができない。つまりその都市集落は、個人として消えてゆこうとする衝動の集合だった。
人類の歴史は、共同体(国家)をつくり私有財産が生まれてくる前の段階として、「村」という原始的な混沌の時代があった。
そして日本列島は、どんなに大きな集団の共同体(国家)になってもいまだに「村」という段階を引きずっているのであり、そうした原始的な混沌を洗練させてきたのが日本列島の文化の伝統です。
隠れて消えるということは、「世界の終わり」の場に立つということです。人は、そこから生きはじめる。隠れて消えることのカタルシスを体験するために、世界=集団がつくられている。隠れて消えようとするからこそ、世界=集団が生まれてしまう。集団から隠れて消えていったものたちが集まって、集団をつくってしまう。それが祭りであり、村という集団の基本的なかたちです。「村」は「国(くに)」という共同体から隠れる場であり、村から隠れるようにして「家」が成り立っている。人間は、集団から隠れるために集団をつくってしまう。



古事記という物語には、とんちんかんなというかありえないようなコンセプトの神がたくさん登場してきます。本居宣長は、古代人はそれらの神々を本気でまるごと信じていた、といっています。同時代の上田秋成などは「そんなバカなことがあるものか」と反論していたけど、おそらく本居宣長のいうことのほうが正しい。
混沌を生きようというか混沌の中で消えてゆこうとするのが日本文化の伝統です。その混沌をそのまま信じてゆく醍醐味(カタルシス)がある。
日本人は、まったく異質な外来文化でも平気で受け入れてゆくところがあります。自分を消してその混沌をそのまま受け入れてゆくことの醍醐味がある。
古代人だって、秩序としての整合性を持った神のほうが信じられるのなら、そういう神を造形します。しかし彼らは、そのような混沌の方がもっと深く信じることができたというか、自分を消してそういう信じ方をしてゆく観念の傾向があった。
6世紀半ばに大陸から仏教が伝来したとき、ひとまずそれをまるごと受け入れていった。
それは、それまでの日本人の意識とはまったく異質な世界観であり生命観であったはずです。
それでも、ひとまずまるごと受け入れた。
ローマ帝国キリスト教を国教にするまでに300年以上かかっているが、日本列島ではたちまち国教になっていった。それまで国教というものがなかったからでしょう。後世には、そのとき神道との軋轢があったとかといわれているけどあんなものは大嘘で、神道はただのお祭りの行事にすぎなかった。
しかし、それまで宗教というものを知らなかった人々がそれを信じてゆくということを昨日の今日ではじめたのだから、それはそれでひとつの放れわざだったのでしょう。
それは、世界の「混沌」を生きていた人々が世界の「秩序」を生きるようになっていった、ということです。死んだら何もない黄泉の国に行くと思っていた人々が、死んだら極楽浄土に行くという世界観・生命観を与えられていった。
まあそんなことを無邪気にはじめてしまったものの、無意識のところでの戸惑いは少なからずあったはずです。その戸惑いが、ただの祭りの行事だった神道を「黄泉の国」の世界観・生命観を持った宗教のようなかたちにしていった。
神道は、土着の宗教ではなかった。仏教伝来以後に宗教のかたちになっていったにすぎない。平安時代に生まれてきた神道の「本地垂迹説」は、まあ「神道の神は仏教の仏よりも下の位にある」というようなことをいっているのだが、それはもう、神道は仏教伝来以後に宗教になった、といっているのと同じのはずです。
日本人は、どうしても原始的な「混沌」の世界観・生命観を手放せなかった。だから、やむなく神道を宗教のかたちにしていった。
世界の「秩序」を信じるよりも、世界の「混沌」を信じながら消えてゆくことの醍醐味(カタルシス)を手放せなかった。
日本人は、今でもそうやって異質な外来文化を他愛なく受け入れてゆくということをしている。



仏教だろうと神や霊魂だろうと、日本人にとってそれを信じててゆくことは混沌に身をまかせて消えてゆくという体験です。
日本人はそうやって、「秩序」を信じることが「混沌」に身をまかせることでもある、というややこしさの歴史を生きてきた。
秩序なんかありえないものだからこそ、それを信じてゆくことが混沌に身をまかせることになる。
まあ、それほどに日本人の混沌に身をまかせて消えてゆこうとする衝動の根は深い、ともいえる。何しろそれは、人類の普遍的な原始性なのです。
弥生時代のはじめの奈良盆地は、ほとんどが湿地帯でした。その湿地帯のところどころの浮島になったような場所にごく少数の人が住み着いていただけで、ほとんどの人はまわりの山の中で暮らしていました。
で、年月とともに少しずつ水が干上がってゆき、やがて山で暮らしていた人々もそこに下りていって暮らすようになっていった。
何しろ奈良盆地は、たおやかな姿をした山なみに囲まれた絶好の景観を持った場所で、誰もがそこに立つことにあこがれていた。つまり「ここで世界は完結している」という感慨を抱かせてくれる場所だったということであり、「もうここで死んでもいい」と思わせてくれる場所だったということです。まわりの山なみを眺めていると、そうやって身体が消えてゆくカタルシスが体験された。
湿地帯だから、人が住める場所ではない。それでも人々はその地に立つことにあこがれた。
最初に干上がっていったのは、川の土砂が堆積していった扇状地であったはずです。
ではその場所に先を争って住み着いていったかというと、そうではなかった。そういう場所は、いったん川が氾濫したらたちまち水浸しになってしまう。
だからまずそこを、人々が集まってくるお祭り広場にしていった。それが「市(いち)」のはじまりです。いつ水浸しになるかわからないのだからそういうかたちでしか使えなかったし、その「もうここで死んでもいい」というお祭りこそが、人々のもっとも望むものだった。
日々の暮らしなんか、山の斜面でもよかった。何しろなだらかな斜面の山ばかりだから、住める場所はいくらでもあった。
さらに水が引いてくると、次に耕作地ができていった。多くの人が住み着いていったのは、そのあとのことです。



人間の「かなし」の感慨は、何はさておいてもまず「お祭り広場」をつくってゆく。
人類拡散に際して最初に集団の外に新しい集団が生まれていったのも、そこは、どこからともなく人が集まってくるいわば「お祭り広場」だったのです。
人類共通の「市=バザール」の起源は「お祭り広場」にあった。交易の場としてはじまったのではない。
交易は、生きるための生活情報を交換することだが、「お祭り広場」は、「もう死んでもいい」と生きてあることを忘れてゆく場です。そのカタルシスこそ、人類の原始性であると同時に究極の願いでもある。そのようにして金銀宝石が価値になってきた。
人間には、生きるための生活情報よりももっと大切なものがある。それがたぶん人と人の関係であり、他者と「かなし」の感慨を共有してゆくことであり、その体験の形見として「涙のゆらめき」が見出され、金銀宝石が価値になってきた。
「市(いち)」の「ち」は、「血」の「ち」、ほとばしり出るもの。「ちぇっ!」というとき、不快な気分がほとばしり出ている。「い」は「いのいちばん」の「い」で、この場合は「ち」を強調している。
「市(いち)」とというやまとことばの語源は、どこからともなくたくさんの人が集まってくる(=ほとばしり出てくる)というニュアンスだったはずです。
そしてそこにはもう、民俗学者のいう「定住民と異人」などという図式はなかった。誰もが「異人」だった。
弥生時代奈良盆地で最初に生まれた「お祭り広場=市」は、誰もがまわりの山からやってきた「異人」だったのです。



「定住民にとっての異人は聖なる存在であると同時に穢れた存在である」というのが民俗学者の常套句なのだが、それはちょっと違う。人間は誰もが「異人」としてみずから穢れを負った存在であり、他者の涙の光に聖なるものを見出してゆく存在なのです。「穢れ」は、自分の中にある。
人間はみずからの「穢れ」を意識せずにいられない存在であり、そこから民俗学の歴史がはじまる。古代人はみな、みずからの「穢れ」を意識している「異人」だった。たとえ現代人だろうと、誰の中にも集団からはぐれてしまう心は息づいているのです。原初の人類はその心を携えて地球の隅々まで拡散していった。
人間は、みずからの「穢れ」を意識しつつ、いつのまにか心が集団からはぐれてしまう存在です。だからこそ何をさておいてもまず「お祭り広場=市」をつくっていったのであり、だからこそ「かなし」の感慨とともに他者の涙のゆらめきに魅入られていったのです。
平安時代の宮廷の女たちは「穢れがたまってきたからちょっとお寺に籠(こも)ってくる」ということをよくしていて、そのような女の出家癖という習俗は、近世まで続いていました。
日本人にとっての「穢れ」の意識はもともとそういうものだったのであり、他者を穢れた存在として排除してゆくという視線は、近世以降のものにすぎない。
奈良時代なんか、ライ病患者が家の当主になっていたという例もあるくらいです。他人を穢れた存在として差別する視線なんかなかった。
そして乞食を「聖なる存在」と見て施しをしていたとするなら、それは、深い嘆きと豊かな「かなし」の感慨を持っている存在として見ていたということであって、民俗学者のいう「聖性と穢れ」などという概念はたんなる近代意識に過ぎないのですよ。
日本人はもともと神とか仏などというものは知らない民族だったのであり、「聖性」というイメージもまた、日本列島の土着の感性にはないものだった。
日本人はもともと旅の坊主だからとか乞食だからということで「聖」とか「穢れ」というレッテルを貼って見てゆくような習慣はなく、もっと直接的に他者の「心映え」を察知してゆくことができる感性を持っていたのです。
日本列島は異民族との軋轢がなかったからこそ、見知らぬものどうしが出会うという「祭り」の習俗は、縄文時代以来、世界中のどこよりも豊かに育ててきた。
原始人の世界にだって、「異民族」などという概念はなかった。見知らぬものどうしがときめき合いながら地球の隅々まで拡散していった。
まあ、異民族との軋轢から、「神=聖」「異民族=穢れ」という図式が生まれてきたのでしょうね。したがってそういう視線は、日本列島の古代や中世においては希薄だったはずです。
まあ、村にやってきた異人は、村人から「見られる」存在であると同時に、「見せびらそうとする」ことを捨てている存在でもある。そうやって旅に疲れたみすぼらしい格好をしている。「聖性」も「穢れ」もない、「空虚」な存在なのです。村人だって「くに=共同体」に対してそうした「空虚」な存在になっていた。古代および古代以前は、誰もがそうした作法で生きていた。それが、「かくれんぼ」をする存在である人間の本能です。
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