民俗社会の心模様・かなしみとときめきの文化人類学10


「聖性」なんて、なんだかオカルトっぽくて好きな言葉じゃないけど、民俗学でよく耳にするから、素通りするわけにもゆかない。
心が洗われるような気分にさせてくれる対象、ということなら、なんとなくわからなくもない。それは、「神」などいう概念を取り去っても成り立つ。
他者の「かなし」の感慨からこぼれでてくるキラキラ光る涙の粒は、普遍的にそういう対象であるはずです。
原始人も「神=聖性」というイメージのアニミズムを持っていたという前提で語られるから、ちょっと待ってくれ、といいたくなってしまう。
原始人は、神とか霊魂などというものは知らなかったはずです。
そして日本列島の住民は、いまだにそれらがどんなものかよくわかっていない。何しろ仏教伝来の1500年前まではアニミズムと無縁の歴史を歩んできたし、その歴史意識をいまだに引きずっていて、宗教なんてただの衣装みたいなものだと思ったりしている。
まあ「聖性」という言葉は、「神」という前提の上に成り立ったことばなのでしょうね。
日本列島の古代以前の人々にそんなイメージはなかった。そしてそれ以後の民俗学の歴史だって、そのイメージの上につくられてきたのではない。
日本列島の歴史に流れているのは「穢れ」と「みそぎ」の意識であり、それは、アニミズムとはなんの関係もないイメージであり、たんなる自分が「今ここ」に生きてあることに対する身体感覚の問題です。



古代に編纂された日本各地の風土記は、「神」とか「鬼」とかが登場してきて、ひとまず民俗学者のいう「聖性と俗性」とか「聖性と穢れ」とかのテーマをモチーフにしたオカルト的な語り口になっていることも多いが、それは当時の日本人の意識をあらわしているというよりあくまでつくり話であり、つくり話は人々の実感から離れた話になる場合が多い。そのほうがおもしろいからです。
その代表格である古事記がそのような構成になっているとしても、べつに当時の人々がそんなにも迷信深かったということを証明しているわけではなく、おもしろがってそんな話をつくったというだけでしょう。
「異人殺し」の伝承説話も同じです。ある長者の家のご先祖は旅のの坊主を殺して金を奪い、それを元手にして現在の財産を築いた……というような話は、ありえないことだからおもしろいのであり、それをじっさいにあったかのように信じてゆくのも民俗社会の心です。もしもどこの家でも先祖の誰か一人くらいは異人殺しをしているとしたら、そんな話はぜったいにつくりません。農民の歴史には、そうやって闇に葬られた事実がたくさんあるし、語り伝えられているのは嘘だからです。
なのに、そうした説話をもとにして、心の底に異人殺しの衝動を持っているのが民俗社会なのだ、と得意げに解説している民俗学者がいるのだから笑ってしまいます。
そうして「農民という定住民にとって旅の異人は聖性と穢れの両義性を負った対象である」とかなんとか、そんなことがもう民俗学の世界の合意事項になってしまっている。
日本人のもともとの「穢れ」の意識は、みずからの身体存在や土に向けるものであって、他者に向けるものではなかった。江戸時代以降に差別のための言葉として使われるようになってきたとしても、その原則は誰の心の中にもあったはずです。
そして日本人は、「聖性」などというものを意識できるほどの神に対する実感は薄い民族なのです。
旅の坊主や乞食だって、人間です。民俗社会は彼らを人間としてどう見ていたかという問題がある。嫌な坊主もいれば、好感の持てる坊主もいたことでしょう。「聖性」も「穢れ」もくそもない。
まあ、異人殺しの話があるということは、おおむね異人に対する好感を抱いて歓待していたということを意味します。だからこそそれは「ありえない話」として興味しんしんにもなってゆく。
橋を作るときに人柱を埋めたというような話とか、そうした生贄の伝説が民俗学で取り上げられたりするが、もしほんとうにそんなことをやっていたのなら、農民は絶対に語りません。闇から闇に葬ります。
その話を農民が信じているかどうかといえば、きっと信じているでしょう。それが、橋に対するありがたさや安全に対する信頼になる。しかし、それが事実かどうかということとはまた別の話です。
日本人は、嘘を語って、嘘を信じてゆくのが好きな民族です。それもまた、「非日常」の世界に入ってゆく心模様です。



旅の坊主や乞食が「聖性と穢れを負った存在である」と規定しているのは、共同体(国家)の側の論理です。
しかし農民の社会は、そういう世界に対する異空間なのです。
農民には農民の心模様があり、「かなし」の感慨がある。
農民だって、昔は共同体の繁栄秩序から疎外からされた存在だったのです。そういう意味で旅の坊主や乞食に対するいささかの同胞意識はあったはずです。農民だって、異人です。彼らが権力の圧制に耐えることができたのは、村の運営や人と人の関係に、権力社会の秩序とは別の原始的な混沌を持っていたからです。そうやって「かなし」の感慨を共有してゆく空間をつくっていた。
「なんで百姓なんぞに生まれてきたのだろう」という嘆きは、誰の中にもあったでしょう。その運命を受け入れ、その嘆きからカタルシスを汲み上げてゆくにはもう、原初の混沌を生きるしかなかった。百姓として制度の犬になってしまえば、辛くなるばかりでしょう。それよりは現実の外の非日常の世界にもぐりこんでゆきたい。嘘の伝承説話を語ったり信じていったりすることも、彼らの非日常的な愉しみのひとつです。
この世の中で生きてあることなんかつらいことばかりで、非日常の世界に入り込んでゆく愉しみがなければ生きていられない。
そういう嘆きから解放されて心が華やいでゆくことを「かなし」という。
「かなし」は、非日常的な感慨です。そうやって人の心は癒される。そうやって人は人にときめいてゆく。
日本列島の農民が歴史的に旅の坊主や乞食にどんな心模様を抱いてきたかという問題は、「聖性と穢れ」がどうとかというようなことでは語れない。
それは、「かなし」の感慨の問題として問い直されてもいいのではないか。
日本人の民俗的歴史的な心模様(無意識)は、アニミズムの問題では語れない。日本列島の民俗の歴史は、アニミズムの歴史ではない。アニミズムは、民衆の心の「身体=正味」ではなく「衣装=たてまえ」であったにすぎない。



まあ、旅の坊主や乞食や旅芸人を迎える農民の心には、人と人の関係としてのときめきがあったわけですよ。みんなが、その訪れを心待ちにしていた。それは、彼らの生きてあることのかなしみから生まれてくる心模様だった。
彼らは、旅の坊主や乞食や旅芸人の持つ「非日常性」にひかれていった。それらの存在の社会的なスタンスがなんであれ、旅そのものの非日常性に対するあこがれがあった。
人間なんて、「ひとり」という場に立てば、誰だって社会からはぐれてしまった存在です。社会から疎外された存在であることなんか人間であることの前提であり、したがってそれが、人間を識別したり評価したりすることの基準になることは論理的にありえないのです。まあありえなくても現代人はそのような目で人を見ようとしているのかもしれないが、それはあくまで制度的な観念性の問題であって、人々の歴史の無意識がそのようにはたらいてきたとはいえない。
べつにここで農民賛歌を語りたいわけではないが、農民の心こそが日本列島の住民全体の心の基層になっているのだろうとは考えています。
生きてあることのかなしみが、日本文化の基層になっている。そりゃあもう、その感慨は農民がいちばん深く抱いていたことでしょう。そうしてそこから心が華やいでゆく体験がなければ、誰も生きられるものではない。彼らは旅の坊主や旅芸人に対して「聖性と穢れ」などというややこしい物差しで見ていたのではない。ただもう無邪気にときめき歓待してゆく心模様が、何はさておいてもあったのです。昔であればあるほど。
日本人の無意識の底には、神とか霊魂などという概念はないのです。ひとまずそんなたてまえを権力者や宗教者から押し付けられてきたとしても。



農民が本格的に部落民などに対して差別感情を抱くようになってきたのは、明治以降に土地の所有者として登録されていったからでしょう。それによって、共同体の秩序のがわの存在になっていった。
私有財産」の問題ですね。
それまでの農村は、基本的に「私有財産」の存在しない原始的な混沌の世界だった。だから、旅の坊主や乞食や旅芸人に同胞意識を抱き歓待してゆくことができた。
江戸時代以前の農村は、心的には、共同体の秩序に組み込まれた空間ではなかったのです。そしてその「非日常性」こそが日本文化の基層になってきた。
私有財産が存在しない世界に対するあこがれは、ジョン・レノンだって歌っているくらいで、世界中の人々の心の底に息づいているのでしょう。
日本列島の農民は、とにもかくにもそういう私有財産が存在しない原始的な混沌を江戸時代まで守り育ててきたのです。そこに民俗社会のいやらしさとかなれなれしさとかいじましさと暑苦しさとかいろいろあるとしても、それ自体、私有財産の存在しない原始的な混沌を守り育ててきたことの証しなのです。
彼らの社会での人間関係のなれなれしさは、私有財産という意識が薄い歴史を歩んできたことの結果でしょう。そして、私有財産の意識が薄いのだから、村にやってくる旅の坊主や乞食に対して「私有財産を侵犯されている」という意識にもならなかったはずです。
もう、他愛なくときめいていった。すくなくとも中世以前には、そういう関係の歴史があったのです。「聖性と穢れ」などという物差しで詮索・吟味する以前の問題として、そういう他愛ない心の動きがあったのです。
「聖性と穢れ」なんて、近代社会の制度的な物差しに過ぎない。そんな概念では、古代や中世の民俗社会の心模様には推参できない。



古事記においては、ありえないようなコンセプトの神々を造形しながら、みんなしてその神々を「きっとそうだ」と信じていった。そのころ語り合われていた各地の風土記も、ひとまず同じ心の模様の上に成り立っているはずです。
古代には、そういうありえない嘘を本気で信じてゆく「非日常性」を日本中が共有していた。それが古事記風土記に表現されている古代人の心模様であって、「聖性と穢れ」などという共同体の制度性から下ろしてくる観念図式で旅の異人を詮索吟味していたのではない。
そのありえない観念図式を当てはめながらありえない物語をつくりあげ、それを素直に信じてゆくことによって「非日常」の世界に入っていった。
たとえば、乞食の格好に身をやつした神が村にやってきて、冷たく追い払ったものはあとで祟りを受けて零落し、親切にもてなしてあげた人間には幸せがもたらされた、というような話が風土記にはよくあります。そして民俗学者はこれを、古代人の異人に対する意識の「聖性と穢れ」という両義性を表している、と解説してくれるわけですが、それは彼らの本音=生活感情でもなんでもなく、共同体の制度性から降りてくるそうした観念図式を使ってそういう物語をつくり上げたというだけのことです。そしてその「ありえない」物語を信じてゆくことによって、心は「非日常」の世界に入っていった。
非日常の世界のきらきらした輝き。
古代の村には、旅の異人を「聖性と穢れ」という観念図式で見るような本音=生活感情はなかった。
「ことだまの咲きはふ国」といったように、古代の村人はもっと他愛なくときめきあっていたのです。そうしてこの「ありえない物語を無邪気に信じてゆく」という「非日常性」の心模様こそが、外来文化を何でもかんでも受け入れてゆくという日本人の進取の気性の基礎になってきたのです。
と同時に「あそこの家は異人殺しの家だ」と半分本気で噂し合うような習俗にもなってきた。それは、村には異人殺しの風土があるということではなく、ありえない話を本気で信じてゆく「非日常性」の風土があるということを意味するのです。
彼らは、そういう「かなし」の感慨とその契機となる生きてあることにたいする嘆きを共有していた。
ありえない嘘を本気で信じてゆくのも「かなし」の感慨なのです。
村とはそういう他愛なさが生成している空間であり、その他愛なさのためにかんたんに商人にだまされ土地を取り上げられてしまうという歴史は現在でも続いていることです。
まあ、日本人全体が、外国人に比べてそういう他愛なさを持ってしまっているわけじゃないですか。そしてそれ自体は、いいとも悪いともいえない。もっとしたたかになれといっても、それによって失うものもある。何はともあれそれは、人類の普遍的な原始性なのです。
人の心は、きらきらした輝きとともに華やいでゆく。華やいでゆく心が、きらきら輝いている。神も霊魂も知らないそういう他愛なさが日本人の心の底に横たわっている。
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