はぐれてしまう・かなしみとときめきの文化人類学11


集団の外の空間で見知らぬ人と出会うということは「非日常」の体験であり、村のはずれの鎮守の森の祭りはそういう体験の場であったはずです。
これは、原初の人類が地球の隅々まで拡散してゆく契機となった体験でもある。
心が「非日常」に世界に入ってゆくことが、人間性の基礎です。
「生活者の思想」などといって「日常」に耽溺してゆくことは、もともと不自然なことなのです。庶民派ぶったインテリがそういうことをいっても、庶民のほんとうの心はそんなところにはない。
心はしらずしらず「非日常」の世界に入ってしまい、気がついたら集団からはぐれてしまっている。いまどきは人を現実=日常に引き止めておくいろんな装置が社会にはたらいていて、そうかんたんには心が日常から離れないのだろうが、それでも若者や子供にはいつのまにか「非日常」の世界に入ってしまっている心の動きがどうしてもある。それが彼らと大人との垣根になり、彼らを生きにくくもさせている。
大人は、日常の世界にとどまって他者を分析吟味する。それに対して若者や子供は、「非日常」の世界に入り込んで他愛なくときめいてしまう。彼らにとって人との出会いは、ひとつのお祭りです。
まあ、男のペニスが勃起することだって、非日常のお祭りです。非日常の世界に入ってゆくタッチを失った大人は、だんだん勃起不全になってゆく。女と抱き合い、女の体ばかり感じて自分の体のことは忘れてしまう。これが非日常のお祭りであり、若者は女の体(裸)を見ただけで自分を忘れ、非日常の世界に入ってゆくことができる。
学問や芸術だって、基本的には非日常のお祭りです。
現代社会の大人たちは、非日常の気分で人にときめいてゆくタッチを失いかけている。



人類拡散が起こったことには、さまざまな偶然が作用しているのかもしれない。
ともあれ人類は、二本の足で立ち上がったことによって、集団からはぐれてしまう生態が生まれてきてしまった。それが、そもそものはじまりでしょう。
二本の足で立つことは他者の身体とのあいだに「空間=すきま」をつくってゆく姿勢だったわけで、その延長で集団とのあいだにも「空間=すきま」をつくってしまう行動が生まれてきた。そうやってはぐれていった。
必ず集団で行動しているのならそんなことも起きないが、類人猿の場合は、それぞれが勝手な行動をしている時間も多い。
チンパンジーでも、テリトリー内を一頭だけでうろうろしていたりする。みんながそうやっていれば、ところどころでほかの個体と出会っていっときの関係を持ち、仲間であることを確認してゆく。
しかしたぶん、原初の人類の場合は、しばしばテリトリーの外へはぐれていった。で、そこがほかの猿のテリトリーなら攻撃されてしまう。だから人類は、ほかの猿とテリトリーを接することを避けてそのあいだに緩衝地帯としての「空間=すきま」をつくろうとしていった。そうやってたがいのテリトリーを大きく離す習性を持ちながら、その勢いでどんどん拡散していったのでしょう。それはたぶん、拡散してゆくほかない習性だった。
とくに若者の個体は、集団からはぐれてしまいがちだった。以前にも書いたが、若者は、男も女も、大人のセックスの関係から疎外された存在だった。
大人は大人同士でセックスをしたがったし、若者自身も大人の異性に対してはあまり性的な衝動を抱かなかった。
現在でも、思春期の若者の男女は、大人をセックスの対象とは見ないのが一般的です。
いつの時代も、若者の心は、大人の世界からはぐれてしまう。
まあ、大人になることは体が衰えてゆくことであり死に近づくことなのだから、そういうことに対するおそれや拒否反応もあるのでしょうか。
とにかくそうやって、集団のテリトリーの外まではぐれていってしまう個体をたくさん生み出してしまうのが人類の生態だった。
しかしそれによって、たとえば美味しい木の実がなるとか水飲み場などの新しい場所を発見したりする。そうしてそこにたくさんのはぐれたものたちが集まってきて、ときめき合う関係が起きる。



はぐれてしまった……という喪失感から豊かなときめきが生まれてくる。
チンパンジーははぐれてしまわないし、追い出されてもやがて戻ってくる。
人間は、はぐれてしまったことを自覚する。テリトリーの外に出てしまった、という喪失感がある。追い出されたのなら戻ろうとするし、心はテリトリーに向いている。
しかし人間は、知らない間にテリトリーの外に出ている。チンパンジーはけっしてこんなことはしない。まあ人間は、テリトリーの外に出ようとする無意識の衝動を持っているのでしょう。
そうして、はぐれてしまっていることを受け入れる。二本の足で立ち上がることは、他者の身体とのあいだに「空間=すきま」をつくることです。だから、そうやって集団とのあいだに「空間=すきま」ができていることを拒否しない。むしろそれを当然のことのように受け入れる心がはたらく。無意識のうちに集団の外に出ようとしていたのだから、とうぜん受け入れる心にもなってゆくでしょう。
とはいえ「はぐれてしまった」という喪失感は避けられない。べつに、何かを目指してでてきたわけではない。ただもう、気がついたら出てきてしまっていた。その途方に暮れた心のままで、美味しい木の実のなる木を見つけたり、同じように途方に暮れてしまっている他者と出会ったら、ときめかずにいられないはずです。
いくら猿のような原初の人類どうしだって、その途方に暮れている気配とか疲れ果てている気配というのは、なんとなくわかるのでしょう。で、たがいに「かなし」の感慨とともにときめき合ってゆく。
そのとき人類は、はぐれてしまって途方に暮れている状態を自覚し受け入れていった。なぜ自覚し受け入れてゆくことができたかといえば、二本の足で立っている猿だったからです。はぐれてしまっているというその「空間=すきま」を自覚しつくろうとする猿だったからです。
チンパンジーには自覚できない。彼らは、たがいのテリトリーのあいだに「空間=すきま」をつくろうとするような意識も生態も持っていない。
原初の人類は、はぐれてしまったことを自覚し、それを受け入れてゆく猿だった。そしてそれによって、猿よりももっとときめき合う存在になっていった。
そのとき、人間的な「ときめき合う」という関係が起きたのです。これが、人類拡散の最初の一歩だった。



人間は、喪失感を足場にして世界や他者にときめいてゆく。日本列島の古代人はそれを「かなし」といった。
二本の足で立ち上がることの喪失感から人類の歴史がはじまった。
人間は、喪失感を自覚し抱きしめてしまう。
心は、いつのまにか集団からはぐれてしまう。そうなるともう、世界や他者に他愛なくときめいてしまう。おそらくその心模様が、人間を一年中発情している猿にしていったのです。
人間は、猿よりももっと他愛ない存在です。
他愛なくときめき、他愛なく勃起してしまう。
そして、他愛なく涙を流す。
人間は、心の底に喪失感を抱えて存在している。だから。他愛なくなってしまう。この心模様がなければ、人類拡散は実現しなかった。
そこではぐれたものどうしが出会って他愛なくときめき合い、他愛なく勃起したのでしょう。そして女も、やらせてあげようという気になっていった。
そこは、集団という日常から離れた「非日常」の世界だった。ここが世界のすべてだ、と思った。そして、もとの集団に帰ろうとする気持ちが消えていた。
その出会いが新しい集団になっていったということは、そこでセックスの関係が生まれたということがもっとも大きな契機になっているのでしょう。
生きのびるための食料を確保するためでもなんでもなかった。人類拡散が、どんどんより住みにくい地に向かっていったということは、生きのびるとか食料を確保するというような目的がまったくなかった、ということを意味します。
そこでときめき合いセックスの関係が生まれたということが、彼らをそこに住み着かせたのでしょう。生きのびるための食料のことは、そのあとの問題です。
彼らはべつに、ユートピアを目指して集団を出てきたのではない。気がついたら集団からはぐれてしまっていただけです。そしてそれでも戻ろうという気をなくしてしまったところに人間性があり、ときめきを体験したから戻る気をなくしたのではなく、戻る気をなくして途方に暮れていたからときめいていったのです。つまりそのとき、喪失感を抱きすくめてしまっていた。
ユートピアを目指すという「希望」が人類拡散に導いたのではない。それは、「喪失感を抱きすくめる」ということによって起きていった。



人間は、喪失感を抱えた存在だからときめき合う。いいかえれば、喪失感の希薄な人は心が病んでいる、ということでしょう。
生まれ出てきた赤ん坊は、喪失感でおぎゃあと泣く。その喪失感を抱きすくめていかないと生きられない。胎内に戻りたくても、もう戻れないのです。
別れは悲しいものだが、それを抱きすくめていかないことには心が病んでしまう。
まあ、離婚とか親しい人の死とか大切なものを失くすとか、いろいろ別れがあるのが人生でしょう。そういう体験に耐性があるかないか。ある人とない人がいる。
ほんらい誰の中にもあるはずの「集団からはぐれてしまっている」という感慨を抱きすくめることができる人とできない人がいる。
現代人はどうしても時代に踊らされたり、親や教師の管理の中に閉じ込められたりしながら育ってゆく。そうしてしだいに「別れ」に対する耐性を失ってゆく。「別れ」に対する耐性が希薄だということは、それだけときめく心も希薄だということであり、それは必ずしも「愛情が豊か」ということを意味しない。
途方に暮れてしまって鬱になる、という現代病がある。しかし、途方に暮れているから人にときめいてゆくのです。なぜ「途方に暮れる」という状態を生きることができなくなってしまうのか。現代人は、人にちやほやされているのがみずからの生の基本のかたちになってしまっているからでしょうか。
ちやほやされることに成功する人もいれば、失敗する人もいる。
人にときめかないのに、人からときめかれていたい。いい女になって男からときめかれていたい……現代社会では多くの女がそういう病気にかかっている。男をたらしこむ手段をせっせと追求しているだけで、男にときめいてなんかいない。
喪失感という世界や他者にときめいてゆく根拠を封じ込め、意識はつねに自分に向かってしまっている。そういう自己意識が人間の本性だと思っている世の中なのでしょうか。
人間なんか、自分を忘れて他愛なくときめいてゆく生き物なのに。



人間は、喪失感を根拠にして他愛なくときめき合ってゆく存在だったから、地球の隅々まで拡散していった。そういう人と人の関係こそが人類の歴史をつくってきたのであって、生きるために食料を確保してゆくという問題など二の次だったのです。
何かを欲望したり計画したりしたのではない。ただもうはぐれてしまい途方に暮れてしまったところから、人間的な豊かな人と人の関係が起きてきたのです。人間は、そういう喪失感を抱きすくめてしまう存在です。
未来に対する希望があったのではない。ただもう「今ここ」で豊かにときめき合う関係があった。人間は、それがないと生きられない。それさえあればどんな住みにくい土地でも生きられる。そうやってネアンデルタール人という原始人は、生きられるはずのない氷河期の極北の地に住み着いていったのです。
どうすれば生きやすい環境が得られるか、というのが現代人の生きるテーマなのでしょう。
しかし人が生きてあれば、生きにくい事態の中に置かれてしまうこともある。生きにくい事態を生きる、というテーマを突きつけられる。生きやすい環境でしか生きられないのなら、もうその事態を生きることはできない。
しかし地球の隅々まで拡散していった人類は、誰もがみな、生きにくい事態を生きていたのであり、生きにくい事態を生きるのが人間なのです。そこにこそ、人間性がある。そこでこそ人間的で豊かな知性や感性が花開く。
他愛なくときめき合っていられるのなら、生きやすかろうと生きにくかろうとどうでもよかったのです。そんなことは二の次の問題だった。
何はともあれ人間は、はぐれて途方に暮れるというところから人間の歴史をはじめた。はぐれて途方に暮れているのが人間なのです。そこに立って生きるのが人間の流儀です。そこに立っているから、心はいきいきとはたらく。そこに立って他愛なく人にときめいてゆくというタッチで人間の歴史が生成してきた。
自分を忘れてしまう、というタッチ。
しかし現代人は、自分をどうこうしようという発想で生きようとしている。
私有財産の問題でしょうかね。
「自分という私有財産」に執着している。人の心がそういう方向に動いてしまう社会の構造がある。
それでもわれわれが人間であるかぎり、喪失感を抱きすくめてしまう心の動きはどこかにはたらいている。何もかも失ってしまったところからというか、はぐれて途方に暮れたところから心は世界や他者に向かっていきいきとはたらきはじめる。人間は、そういう体験をしてしまう生き物なのです。それはつまり「自分」すらも喪失するということです。
ところが一部の現代人は、そこで「自分という私有財産」になお執着してゆき、精紳の崩壊を招いたりしている。引きこもりとか鬱になるといっても、しっかり「自分という私有財産」に執着して、ちっともはぐれて途方に暮れてなんかいない。
私有財産」という制度がしっかりと根付いている社会だから、人の心もそのように動いてしまうのでしょうね。



自分に対する執着の強い人ほど催眠術にかかりやすい。時代に踊らされやすい。
多くの精神病理が自分に対する執着からきているから、催眠術が治療手段のひとつにもなっているのでしょうね。
はぐれて途方に暮れている人は、催眠術の対象になりにくい。
つまり、原始人は迷信深かったというのは嘘であり、アニミズムなどというものはなかった。迷信とか宗教というようなものは、文明社会になって私有財産の制度が確立されていったところから生まれてきたのです。
原始社会はアニミズムで動いていたのではなく、他愛なくときめき合う人と人の関係の上に成り立っていただけです。
そのとき、誰もがはぐれて途方に暮れている存在だった。
アニミズムという呪術も生きのびるためのものだから、はぐれて途方に暮れている存在である原始人が発想することは論理的にありえないのです。
原始人は生きてあること(=自分)を忘れてしまうような体験をすでにしてしまっているのだから、そこから生きのびようとしてゆくことなんかありえない。生き延びようとするなら、わざわざより住みにくい土地に移住してゆくということはしない。
人間は、すでに自分を忘れて他愛なく他者にときめいてしまっている存在です。
「かなし」という言葉には、そういう他愛なさのニュアンスも含まれている。
他愛ない人は、催眠術にかかりにくい。心は、しらずしらず「非日常」の世界に向かってはぐれていってしまう。それこそがじつは催眠術にかかりにくい心なのです。
原始的な他愛なさは、誰の中にも息づいている。なぜならそれが、人間であることの根拠なのだから。
「ときめく」とは、「非日常」の世界に入ってゆく体験です。「自分という日常」に執着することじゃない。
とにかく人間が一年中発情している猿になった契機は、「他愛なくときめく」という体験にあった。それほどに人間は、喪失感を深いところに抱えている存在だった。
今どきの大人たちは、喪失感も他愛なくときめくということも喪失している。
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