赦す文化と裁く文化・「天皇の起源」61


日本列島の住民の「歴史の無意識」を探ろうとするなら、仏教ではなく、原始神道を問うしかない。
そして、ひとまず神道の日本列島とキリスト教の西洋という分類ができるとすれば、それは、「なりゆき」の文化と「神の秩序」の文化との対比でもあるのだろうか。
では、「神の秩序」の国は犯罪が少ないか?街は清潔か。
秩序が完璧であれば、犯罪は起こらないし、町も清潔だろう。しかしそんな社会は息苦しいばかりで、秩序をつくろうとするのが人間の本性だというわけでもないだろう。
だいいち犯罪は、ひとつの秩序をつくろうとする衝動によって引き起こされる。
「お前は生きていてはいけない」と思う。それは、そういう秩序をイメージしたからだろう。秩序を求めて犯罪が引き起こされる。レイプとは、「俺にセックスをさせないなんて赦さない」と裁いている行為だろう。そのとき犯罪者は、神になっている。
神は、人間を裁く。裁くこと、すなわち赦さないこと、それによって「神の秩序」が成り立っている。
「神の秩序」という観念そのものが犯罪を引き起こしている、という部分がないとはいわせない。「神の秩序」という観念によって犯罪のない社会が実現することは永久にない。彼らは、「神の秩序」で世界や人間を裁くことばかりして、日本列島の住民ほどには「清浄」ということに対する切実な思いを持っていない。だから、犯罪の少ない清潔な街をつくれない。
日本列島の神道は「この世界のすべては赦されている」という世界観の上に成り立っている。まあ、神のいない社会なのだ。そして天皇は、すべてを赦している存在である。
すべてが赦されて「なりゆき」で成り立っている社会の方が犯罪が少なく街が清潔であるのはなぜか。
人間はもともと「なりゆき」で生きている存在であるのではないだろうか。そして放っておいても他愛なくときめき合う存在であり、清浄な世界にあこがれる存在なのではないだろうか。
実際にはいろいろまぎれがあるとしても、日本列島の文化の基底に他愛なくときめき合う文化がはたらいている。「なりゆき」の文化に、「赦さない」というようなコンセプトはない。赦し合い、ときめき合う文化。街が清潔であることも、そういうことの上に成り立っている。
しかし、現代社会において日本列島の伝統を生きることは、けっしてかんたんなことではない。だから、いろいろまぎれは起こる。
それでもまあこの国は、基本的には「この世界のすべては赦されている」という文化だ。



原始神道のお祭り広場(=神社)は、人里の外につくられた。いつの時代も日本列島の住民にとっての人里(社会=俗世間)は、「穢れ」の場所であり「憂き世」である。
西洋の教会や広場は町の中心にある。それは、町を浄化する装置なのだろう。つまり、そこで町の秩序がつくられる。人々は教会で神に懺悔をして正しい人間に生まれ変わる。彼らには日本列島のような清浄か否かという意識はない。正しいか否か、正義=秩序と悪=混沌。悪=混沌は町の外の異民族のもとにある。
教会は、「他界」ではない、町の正義=秩序を担保している場所である。彼らにとっての「他界」は、「いまここ」ではない「天国」にある。
それに対して村はずれにある日本列島の神社は、村の「他界」であると同時に、現世そのものの「いまここ」でもある。人々に村を浄化しようとする意識はない。村は穢れの場所(憂き世)のままで赦されている場所である。清浄な場所は、「他界」として村はずれにある。村が穢れの場所だからこそ、そこが清浄な場所であることができる。異民族という穢れの対象を持たない民族は、みずからの清浄や正当性を自覚する契機がなかった。神社は、村(=人里)ではない「異界=他界」であることが清浄の証だった。
日本列島には正義=秩序か悪=混沌かという対比はなかった。「清浄」と「穢れ」があるだけだった。そして「穢れ」はわが身(わが村)のものであり、「清浄」はわが身(わが村)の外にあった。
正義が自分のもとにあると思えるのなら、どうしても他者を裁いてしまう。異民族との軋轢の歴史を生きてきた大陸の人々は、そのような思考になるほかなかった。彼らはそうやって、自分も他者も裁いている。
しかし日本列島にはそうした軋轢がなかったから、「裁く」という思考の文化は生まれてこなかった。
日本列島では、正義も清浄もわが身にはない。ひたすらわが身の「穢れ」を嘆きながらこの世界のすべてを赦してゆく文化が育っていった。そうやって古代人は、誰もが他愛なく他者にときめいていった。



赦す文化と裁く文化。
西洋人の思考は、神の裁きとともにある。しかし日本列島には裁く神が存在しなかった。
西洋人は、けっきょく自分も他者も裁いてしまう。それが彼らの強さにもなっているのだが、彼らの社会の犯罪の多さにもなっている。人間は、そのように生きるべきか。それが、人間の本性(普遍性)か。
そうとはいえないだろう。少なくとも日本列島の伝統はそのようにはなっていない。例外があったら普遍性とはいえない。
日本列島は、穢れの嘆きを生きる。それが原始神道のひとつのかたちである。
キリスト教の西洋では、穢れは外部にある。彼らは、嘆きを生きることができない。だから、嘆きが犯罪の引き金になり犯罪が多発する。正義が価値の社会で、力ずくでも正義を得ようとする。そうやって階級や差別があからさまになるし、また、そのストレスでドラッグや酒の中毒にもなりやすい。彼らには、正義を生きねばならないことのストレスがある。彼らは、他者も自分自身も裁いて生きている。それは他者からも自分からも裁かれている、ということだ。
西洋に比べて日本列島の犯罪が少ないとしたら、それは嘆きを生きる文化風土だからだろう。穢れがわが身にあれば、他者を裁くことができない。
犯罪もまた、正義の側に立って他者を裁く行為なのだ。たとえばドストエフスキーの「罪と罰」を読めば、それがよくわかる。
まあ、アメリカほど正義が価値の社会もないのに、アメリカほど犯罪が多い国もない。アメリカには、嘆きを生きる文化がない。だから、嘆きに浸されると、すぐにドラッグやアルコールにたよるし、犯罪に走る。つねに他者から裁かれている社会のしんどさは、日本列島の住民にはわからない。
正義を止揚しても、犯罪はなくならない。他者を裁くというその正義が犯罪を引き起こす。



宗教とは基本的に嘆きを取り除く装置であり、宗教的恍惚というような体験がそこからの解放になる。一方神道は、嘆きそれ自体を生きる装置として生まれ育ってきたのであれば、宗教的な恍惚のようなものはない。あくまで「あはれ」という嘆きそれ自体が生きてあることのカタルシスになる。
宗教的恍惚とは、神と一体化して正義=権力を手にしているような高揚感のことだろう。
衆生を救う」といえば聞こえはいいが、それは、そういう神仏と一体化した正義と権力を行使することではないのか。
政治と宗教は、その性格において近親関係にある。人間は、「裁く=支配する」ということを覚えたことによって政治を生み出し、宗教を生み出した。
何度もいうが、それはつまり「霊魂の発見」なのだ。霊魂を発見したから政治や宗教が生まれてきたのか、政治や宗教が生まれてきたから霊魂が発見されたのか。まあ政治支配を覚えたことによって霊魂という概念が発見され、それから宗教が生まれてきたのだろう。
人間が霊魂という概念を持つことも宗教的な観念になることも、人間の本性でもなんでもなく、それは歴史的にとても新しい現象であり、原始人にとっては思いもよらないことだった。
正義と権力で動いているのが人間社会のほんらいのかたちではない。人間は、いつのころからか、そのような存在になってしまったのだ。
異民族との軋轢の中に置かれていれば、どうしても異民族を悪だと裁きみずからの存在の正当性を確認しようとする心の動きになってゆく。大陸では、しだいにそれが人間の本性であるかのような合意がつくられていった。彼らは、人と人の関係においても、国と国の関係においても、みずからの正義を標榜してゆくことが善であり人間の本性だと思っているらしく、それが彼らの高揚感や宗教的恍惚の源泉になっている。そしてその高揚感や恍惚の反作用として、激しい憎悪や恐怖が生まれてくる。どちらにしても、それらは一種のヒステリーだともいえる。
正義=権力を標榜して生きていかないといけないなんて、すごいストレスに違いない。大陸の人々のそうした心の動きは、日本列島の住民にはよくわからない。
高揚感や恍惚が人間の生きた心地なのか。
断っておくが、ここでいう「ときめき」は、そのようなことではない。それは、生きてあることのひんやりとした「嘆き」から汲み上げられる。
まあ日本列島の住民が酒を飲んでどんちゃん騒ぎをするときでも、正義や権力を手にした高揚感や恍惚というより、「何もかもどうでもいい」という解放感に浸っているのだろう。それもまた、ひとつの無常観かもしれない。
大陸の人々は「何もかもどうでもいい」と思ったら奴隷にされるか殺されてしまう環境で歴史を歩んできたわけで、正義や権力を志向する彼らの思考や生きる作法が間違っているとはいえないが、何もわざわざそれが人間性の普遍だといって彼らに追随しなければならないというわけでもないだろう。
日本列島の住民の「ときめき」は、大陸的な高揚感や恍惚のことではない。高揚感や恍惚にいたらない「はにかみ」がともなっている。心の底の「嘆き」が「はにかみ」をもたらしている。
そしてそういう生きてあることの「嘆き」や「はにかみ」は世界中の人々の普遍的な感慨であるはずだが、社会の構造によってそれが現れたり封じ込められたりしている。まあ、社会の制度性から離れたプライベートな空間においては、誰だってそういう心の動きを持っている。
高揚感や宗教的恍惚は、「支配=権力」を覚えた人間社会のひとつの病理だと思う。
そして異民族との軋轢を持たなかった日本列島の歴史に残る原始性は、世界中の現代人が人間性の普遍を問うてゆくための重要な遺産ではないかとも思える。現代のこの国はすでに見る影もなくなってしまっているとしても。



ここでは、人間はいかにあるべきかということを問おうとは思っていない。
そんなことは僕の頭では考えようがないし、考えてもその通りに生きられる意志の力も人格も持ち合わせていない。
ただもう原初以来の人間の自然のかたちを問うているだけである。そしてそのことが日本列島の歴史や天皇性や原始神道の中から見出せるのではないかといま考えている。
「この世界のすべては赦されている」ということ、これは、日本列島の伝統的な風土であると同時に、普遍的な人類の原始性でもある。人間なら誰だって心の底にそういう感慨が潜んでいる。
人類の二本の足で立つ姿勢は赦し合わなければ向き合うことができないし、向き合わなければその姿勢は安定しない。赦し合うということは、二本の足で立って向き合っているかたちの基本なのだ。赦し合わなければそのかたちは成り立たない。
他者を裁くことより、赦すことの方が人間性の基本なのだ。そういう「この世界のすべては赦されている」という原始性の上に立って原始神道が生まれ、天皇が祀り上げられていった。
すべてが赦されているのなら、呪術など生まれてきようがない。
人が病気になって死んでゆくことも日照りの夏が続くこともすべては赦されている……と人々は思った。
一方呪術とは、それを赦さないことだ。古代以前の日本列島では、そんなことは発想しなかった。
いまどきの歴史家は、原始社会はアニミズムで運営されていたと当然のことのように考えている。しかし、人間の原始性について本気で考えるなら、そこからアニミズムが生まれてくることはあり得ないのだ。
森の木に精霊が宿っていると考えることは、とても制度的文明的な観念のはたらきなのである。病気の治癒の祈祷をしたり雨乞いをしたりすることは自然を裁いていることであり、人間は、いつのころからかそれをそのまま受け入れるということをしなくなっていった。呪術は、制度的文明的な観念のはたらきなのだ。現在はそういう観念が地球の隅々まで伝播してしまっていて、その観念によってアフリカやアマゾン奥地の未開の民にもアニミズムが定着している。彼らはべつに、1万年前の人類ではない。
「この世界のすべては赦されている」ということは、森の木を支配している精霊などイメージしないということだ。支配するとは、支配されなければ赦さないということだ。現代人が体を動かすとき、意志の通りに動かなかったら赦さないという心が強くはたらいており、そのためにかえって鈍くさい動きになってしまっている。まあどんな動きであれ、熟練した人は「体が勝手に動いてしまう」というタッチを持っている。それが「すべては赦されている」という態度である。スポーツや器楽演奏など、子供はそういうタッチを持っているから大人よりも上達が早い。原始人だって、おそらくそうやって「この世界のすべては赦されている」という作法で生きていた。
「森の木には森の木を支配する精霊が宿っている」と思うことは、けっして原始的な心の動きではない。まあ、そういうことにすれば、現代人の権力意識が正当化されるのだろう。
アニミズムの原始性を最初に提唱したのは、E・B・タイラーというイギリスの人類学者らしいが、彼はそうやって無意識のうちにキリスト教とみずからの制度的な権力意識を正当化している。



普通に考えて、原始社会がアニミズムで動いていたことなどあり得ない。
原始人は、呪術などには目もくれず「この世界のすべては赦されている」という作法で生きていた。そしてそれは、日本列島の原始神道の作法でもあった。
原始神道において神や霊魂はどのようにイメージされていたかと考えるなんてナンセンスだ。原始神道には神も霊魂もなかった。
「この世界のすべては赦されている」ということは、この世界や身体を支配する神や霊魂をイメージすることとは正反対の思考なのである。
神や霊魂という言葉は、原始神道のかたちに迫るキーワードにはなりえない。それはおそらく、「清浄」という言葉にある。この言葉のイメージこそが、日本列島を犯罪が少なく街が清潔な場所にしている。
そして「清浄」というイメージは、「すべては赦されている」というコンセプトとともにある。
「すべては赦されている」と思うのなら、自分を裁くということはしない。自分が自分のままで生きていれば、人は、人間としての自分の体の無力性や鬱陶しさを強く意識する。そういう思いを持ってしまうのが二本の足で立っている人間の属性であり、それが「穢れ」という意識である。
自分を裁いて自分のあるべきかたちをイメージしてそれに向かって努力すれば、その達成感や高揚感に浸る体験をするだろう。しかし原始人にはそんな高揚感はなかった。自分が自分であることをそのまま受け入れて生きていれば、どうしても人間として生き物として「穢れ」を意識してしまう。その「穢れ」の意識が「清浄」への切実な思いになる。
「穢れと清浄」こそ、原始神道の基本的なコンセプトであり、それは、「この世界のすべては赦されている」という世界観の上に成り立っている。そしてそれはまた、きわめて原始的な世界観であり、原始人はみな、そのような世界観で生きていた。
日本列島の神社は、その発生の段階からすでに「清浄」というコンセプトを持っていた。
神社の森や石は神の依り代だったとか、そんなことを語っても原始神道のほんとうの姿には迫れない。
根源において、人間がどれほど切実に「清浄」ということにあこがれている存在であるかということこそ、原始神道の発生を問うカギなのだ。
何度でもいう。神も霊魂もアニミズムも、どうでもいいのだ。
反論がある人は、どうかいってきていただきたい。
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