森の文化・「天皇の起源」63


縄文人にとって森は親密な対象だった。
しかしここでいいたいのは、森を有効活用していたとか、そういうことではなく、森に対する純粋なあこがれがあったということだ。
男たちは、森を歩きまわって旅をしていた。
彼らにとって森は「清浄」な場所だった。親密さは、むしろそのことにあった。
木の実や野草やキノコを採集するまわりの森はひとまず生活の延長の場所だったが、その向こうにある森にあこがれた。
男たちは、どんどん森に分け入っていった。それは当然、ふだんの生活から離れてゆくことだった。離れることのよろこびがあり、それが森に対する親密さにもなった。それはもう、森の恵みを感謝するとか、そういうことではない。人の暮らしの痕跡がない森の、その「清浄」な気配にときめきながら旅をしていた。
彼らはそれほどに山の暮らしの停滞感や閉塞感に倦んでいた。森の恵みに感謝するほど快適な暮らしをしていたわけではない。
彼らの森に対する親密さは、経済の問題ではない。彼らの世界観や生命観の問題なのだ。
山の斜面や台地にそれほど大きな集落はつくれるはずがない。少人数で狭いところに寄り集まって暮らしていれば、人と人の関係も煮詰まってくる。それは「穢れ」だった。
集落の暮らしは、物理的にも精神的にも、避けがたく「穢れ」が付きまとっていた。
だから男たちは旅をし、あちこちの女子供だけの集落を訪ね歩くようになっていった。
彼らにとって森は「みそぎ」の場所だった。そうして新しい心になって、女の集落を訪ねてゆく。そうやって出会いと別れを繰り返しながら暮らしていた。また、その出会いと別れが、新しい心を生むひとつの「みそぎ」でもあった。
彼らにとっての森は、ただ「森の恵みに感謝する」とか、そんな経済的な対象だけではなかった。
森は、「みそぎ」の場所だった。
彼らは、人間の作為の痕跡のない森の清浄な気配にあこがれ、どんどん新しい森に分け入っていった。
縄文人は、旅をする人々だった。
日本列島の道は、山道として発達してきた。古代人だって、山道を旅していた。森の清浄な気配に惹かれて道がつくられていったのだ。おそらくそこから、神社と森がセットになっていることの伝統がつくられてきたのだろう。
森で木の実を採集していたからとか狩りをしていたとか、そういう問題ではないのだ。
日本列島の住民の森に対する親密な感情は、そこが「清浄」な場所だということにある。



縄文人がなぜ「清浄」ということに惹かれたかといえば、それだけこの生の「穢れ」の鬱陶しさを深く自覚している人々だったからだろう。そこからしか「清浄」に対する切実なあこがれは生まれてこないし、その思いは日本列島の全歴史に流れている。
縄文人の多くは、山間地の森の中に小さな集落をいとなんでいた。
そうして弥生時代になって平地に下りきて農業をいとなみ、大きな集団をいとなむようになった。
縄文時代のはじまりが平原の狩猟生活から山の中の森の採集生活への変化であったように、弥生時代のはじまりもそれなりに大きな変化であったにちがいない。
その変化にもっともスムーズに順応していったのが奈良盆地で、やがてもっとも発達した都市集落になり、大和朝廷が生まれてきた。
縄文時代から弥生時代の変化を、一般的には大陸からの渡来人がリードしていったことだと理解されているのだが、それなら、列島中央奥地の奈良盆地がもっとも発達していった理由の説明はつかない。
一部の歴史家は、九州・中国地方の豪族の連立政権が後進地の奈良盆地大和朝廷をつくったといっているのだが、奈良盆地大和朝廷が生まれる前から列島でいちばん発達した都市集落だったのである。それが弥生後期の纏向遺跡であり、奈良盆地大和朝廷によって大きな都市集落になっていったのではなく、大きな都市集落だったから大和朝廷が生まれてきたのだ。
まあ彼らの歴史観では、大陸文化の影響が希薄な奈良盆地が勝手に大きな都市集落になってゆくことはあり得ないのだろう。
九州や中国地方の日本海沿岸と違って弥生時代奈良盆地は、ほとんど渡来人がやってこなかったはずである。全体的にも、渡来人の数はごく少数だった。
それでもそこがもっともたくさん人がやってきてもっとも発達したのは、もっともスムーズに縄文時代から移行してゆくことができる土地柄があったからだろう。
そこでは、縄文時代の延長で暮らしてゆくことができた。
もちろんそれは、経済生活ではない。弥生時代奈良盆地がもっとも経済的に豊かな地域だったとは考えられない。最初はほとんどが湿地帯で、たとえば吉備地方のような実り豊かな土地柄だったのではない。
それでも縄文時代の延長の気分で暮らしてゆくことができる条件はどこよりも恵まれていた。つまり、世界観や美意識や人と人の関係の作法が縄文時代そのままのかたちで残されていた。
弥生時代の鉄器の生産は出雲や吉備地方がもっとも進んでいたというが、その鉄器を使って土木工事をしたり木造建築をつくったりすることは奈良盆地がもっとも発達していた。それだけ人と人の連携がダイナミックだったし、森との関係が深い「木の文化」を持っていた。
白鳳・飛鳥時代の寺院建築のラッシュになったころ、奈良盆地の大工たちは、切り出した材木が5百年千年たてばどうなってゆくかというデータをすでに持っていたといわれている。
人間の歴史は、必ずしも経済問題だけで動いてきたのではない。



まずそこは、たおやかな姿をした山なみに囲まれているという景観があったから、親密になれる森とのかかわりが残されていた。清浄な森という「他界」があったということ、もしかしたらこれがもっとも重要なことだったのかもしれない。
食糧生産の方法が変わったことは、たいした問題ではない。人間はなんでも食えるし、日本列島の住民はとくにそういう傾向がある。
いちばん大きな問題は、1万年のあいだ小さな集団で暮らしてきた人々がどのように大きな集団になじんでいったかということにあるのだろう。
もしも小さな縄文集落が快適なものであったのなら、決して大きな集団をつくろうとしないし、すでに大きな集団の中で暮らすメンタリティを喪失している。
しかし彼らは、集団の「穢れ」を自覚しながら暮らしてきた人々だった。つまり集団の鬱陶しさと和解して暮らしてきた。だから、大きな集団の鬱陶しさにも耐えることができた。
集団は鬱陶しいものだと思い定め、その物憂い生活感情から「清浄」なものと出会うカタルシスを汲み上げてゆくことが彼らの生の流儀だった。それが彼らの「祭り」であり、奈良盆地ではそういう「穢れ」と「清浄」の往還がそのまま引き継がれていった。
集団の疎ましさが大きくなれば祭りもよりダイナミックに盛り上がるし、奈良盆地にはそういう祭りが生まれてくる環境があった。
彼らの祭りには、「清浄な森」が必要だった。
縄文人は「清浄な森」に囲まれた集落で男女の出会いの祭りを繰り返していたわけで、弥生時代奈良盆地の人々もまた、森を背にしてお祭り広場をつくっていった。
祭りとは、本質的には集団の結束を固める儀式であるのではない。あちこちから人が集まってきて、集団の「結束=停滞」をいったん壊してしまう行事なのだ。そうやって、さらに大きな集団の連携・結束が生まれてくる。
弥生時代奈良盆地では、祭りを繰り返しながら集団がふくらんでいった。
縄文人の場合、女だけの集落に男たちがやってきてひとまわり大きな集団になり、そこで祭りがはじまった。
そういう人が集まってくるダイナミズムが奈良盆地にはあった。奈良盆地はまあ日本列島のへそのような場所だったから、まわりの地域の山を下りてきた人々がたえずそこに流入してきていた。
そして、人々は湿地帯の中の浮島のような場所に身を寄せ合うように小さな集落をつくって暮らしていたわけで、その停滞した人間関係の鬱陶しさから逃れて外部の人と出会いたいという思いがいつもあった。そうやって、あちこちの小集落からお祭り広場に集まってきた。
つまりそこでは、ふだんは小集落の「穢れ=鬱陶しさ」に身を浸しながらときどきそこから逸脱して外部との出会いのときめきを体験してゆく、という縄文時代の暮らしのパターンがそのまま引き継がれていた。
まあ弥生時代奈良盆地はさまざまな意味で縄文時代の延長だったのであり、縄文人が縄文的な心性をそのまま発展させて日本列島でいちばん大きな都市集落をつくっていったのだ。
奈良盆地では、縄文社会の「清浄な森」へのあこがれがそのまま引き継がれていた。
弥生時代後期の纏向遺跡は、三輪山の森を背にした「お祭り広場=市(いち)」だった。
そのころの奈良盆地はほとんどが湿地帯で住宅地や耕作地の確保は決してかんたんではなかったはずだが、それでも彼らにはそうした「お祭り広場=市(いち)」はさらに必要だった。
奈良盆地は、お祭り広場を確保しながら大きな都市集落へと発展していった。
お祭り広場、すなわち神社。そこは、人里の暮らしの「穢れ」をそそぐ「清浄な森」のある場所だった。
現在の東京にも、皇居や神宮外苑の森がある。まあ纏向遺跡も、現在の神宮外苑のような性格の場所だったのかもしれない。そこには大きな建物や工房の跡はあっても住居の跡はないらしい。
日本列島はもう、縄文時代から穢れの「アンニュイ=物憂い」を生きる文化というかライフスタイルで、そこから「清浄な森」にあこがれる美意識が引き継がれてきた。それは、けっして宗教的な理由ではない。



もちろん原始神道に教義を書いた文書など残っていない。それはべつに宗教と呼べるようなものでもなかったし、そのころの人々の世界観や生命観を原始神道というだけのことだろう。
まず、お祭り広場の背後の森は神の棲む森でも神がやってくる森でもなかった、ということ。彼らにアニミズムの信仰も神という概念もなかった。
しかしこういってしまうと、既成の神道論のすべてと対立しないといけない。彼らは、原始神道の神や霊魂のイメージがどのようなものであったのかという解釈で競い合っているが、僕としては、そのようなイメージそのものがなかった、といいたい。
神や霊魂のイメージは、5、6千年前のエジプトやメソポタミアにはじまり、世界中に広まっていった。だから日本列島もその歴史を歩んできたとか、そういうイメージを持ってしまうのが人間の本性である、という前提で考えられているのだが、それはきわめて疑わしい。
人間の空間感覚や身体感覚の根源は神や霊魂のイメージにそぐわないということを、このブログでは前回に幽体離脱のことに絡めて考えてみた。
神や霊魂のイメージを持つことは、人間の本性でもなんでもない。それは、共同体の制度とともに生まれてきたにすぎない。現代人はもう、そういうイメージを持つのが当然のような人間観になってしまっているが、それをそのまま人類の全歴史に当てはめることはできないし、日本列島がそのような世界観や生命観の洗礼を受けたのは、仏教伝来のときだったはずである。
原始神道の「清浄」の美意識は、神や霊魂のイメージにそぐわない。
そのイメージは、この世界や生命は何ものかの「作為」によって成り立っている、という信憑から生まれてきた。そういう作為性を止揚する観念が共同体の制度とともに生まれてきた。
この世界は神がつくったものか?
この生命は霊魂が支配しているのか?
人間の集団が支配と被支配の関係でいとなまれるようになって、支配する存在としての神や霊魂が発想されてきた。まあ、そういう作為性が文明を発達させてきたという側面もある。だから現代人はもう、神や霊魂をイメージするのが人間の本性だとどうしても思いこんでしまうし、その存在をリアルに感じたりする。
つらいことがあれば、自分で自分を支配してそのつらさから逃れようとする。その、自分を支配しようとする衝動が神や霊魂のイメージを生む。さらには、現在は、人と人が支配し合っている社会だ。どうしても、神や霊魂のイメージを持ってしまう。
べつに感じたからといってそれが存在することの証明にはならないのだが、感じてしまった人はもうそれを打ち消すことはできない。その前提から思考を出発するしかない。
僕がそんなものは人間の本性でもなんでもなんでもない、といっても、おそらく彼らを説得するすべはない。彼らを不愉快にさせることはあっても。
なんといっても彼らはもう、その前提でしか考えられないし、生きられないのだから。
しかしやっぱり、神や霊魂が存在すると確信することは、観念の暴走による誤認情報なのだ。



海に囲まれた日本列島の住民は、神や霊魂をイメージする観念の洗礼を受けなかった。地続きであれば、必ず伝播してゆく。アフリカやアマゾン奥地の未開の民のところにだって伝播していってしまう。
しかし海に囲まれた日本列島には伝播してこなかったし、伝播してきたときは、すでに独自の世界観と生命観や民衆レベルの集団のシステムが完成されていた。だから、仏教が国家の宗教になっても神道は滅びなかった。
仏教と神道が両立してきたということは、似ていたからではなく、まったく異質だったということだ。
もともと神道は、民衆のたんなる祭りの習俗だった。仏教が伝来してから、神とか霊魂という概念を取り入れながら宗教のようなかたちになってゆき、そこではじめて「神社」が生まれた。
古来からの土着ものなのに、どうして「神社」という漢語を使うのか。それは、仏教伝来のあとの間に合わせの呼び方で、そのとき初めて宗教施設としての神社が生まれたのだから、それはもう神社と呼んでゆくしかなかった。
それ以前はおそらくただ「社(やしろ)」といっていたのだろう。そこでわざわざ神という文字をつけてそのまま漢語で呼ぶようになっていったということは、もともと日本列島に神という概念などなかったことを意味する。
「や」は、「ヤッホー」の「や」、「遠い」とか「はるかなあこがれ」を表す。
「し」は、「しーん」の「し」、「静寂」「孤独」「清浄」の語義。
「ろ」は、「炉」の「ろ」、「囲む」こと、すなわち「決められた場所」のこと。
「やしろ」とは、「はるかなあこがれの静寂で清浄な場所」。
つまりそこは、最初から「清浄」というコンセプトを持った場所だったのであり、そういう清浄な場所で祭りを催すことのカタルシスがあった。
縄文人だって、あこがれの対象となっている清浄な気配の森のことを「やしろ」といっていたのかもしれない。
清浄で静寂な場所でなければ、「やしろ」とはいわない。
そんな森に囲まれたお祭りの場所のことを「やしろ」といった。
神が棲むとか神がやってくる場所という意味でそういったのではない。あくまで俗世間の穢れとは無縁の清浄で静寂な場所だったからだ。
「社(しゃ)」という漢語は「決められた場所」というような意味。だから「やしろ」にその文字を当てたのだが、われわれは「……神社」という呼び方をしても「……やしろ」という呼び方はしない。「神社」そのものが、仏教伝来以後に新しくつくられた宗教施設だからだろう。そこではじめて「社(やしろ)」が「神」を祀る場所になったのだ。
それ以前の「やしろ」は宗教施設でもなんでもなかったし、日本列島に神という概念もなかったから、それはもう「神社」という漢語で呼ぶしかなかったのだろう。
そして「社」と書いて「もり」と読む習慣が残っているには、そこがほんとうの森だったからだろう。
原始神道においては「清浄な森」が祀り上げる対象だった。そこに神が棲んでいたからではない。「清浄」であることそれ自体を祀り上げていたのだ。人々はそういう美意識を共有しながら祭りを催し、より大きな集団の連携結束になっていった。これが、弥生時代奈良盆地のダイナミズムだった。
寺院は、建物によって寺院になっている。
しかし原始神道の「社(やしろ)」は、森によって「社(やしろ)」たりえていたのであり、そこにどんな建物が建っているかということは問題ではなかった。
そこでの建物はみんなが語り合う集会所とか舞の舞台とか、そのようなものだったのであって、べつに神を拝む場所でもなんでもなかった。彼らは、神なんか知らなかった。
神を拝む場所としての本殿や拝殿は、仏教伝来以後に、お寺の本堂(金堂)に対応してつくられてきたにすぎない。
「殿=との」とは、高貴な人が住む建物のこと。もともとは奥まった場所にある建物のことをいった。お祭り広場の奥の森を背にしたところに建っていたから「との」といった。そしてどうしても「殿(でん)」というふうに漢字読みにしないとしっくりこなかったのは、お寺の本堂に対応した建物だったからだろう。
初期の集会所や舞の舞台は「との」といっていたから、「堂(どう)」とはいわず「殿(でん)」というしかなかったのだろう。
原始神道に本殿も拝殿もなかった。あったら、やまとことばの名称が残っている。
神道」や「神社」という言葉自体が、仏教伝来のあとから生まれてきた言葉なのだ。
神道の神社は後世になって仏教の寺院から学びながらつくられていったのであり、もとはといえば、清浄な森に囲まれたお祭り広場としての「社(やしろ)」があっただけだ。



弥生時代奈良盆地が日本列島でいちばん大きな都市集落になっていったダイナミズムは、大陸文化を吸収していったのではなく、縄文文化をそのまま洗練発展させていったことにある。
なぜならそれが、そのときの日本列島の住民にとってのもっとも性に合った精神生活だったからだ。なにしろ縄文時代は1万年続いたわけで、そういう精神性はそうかんたんには変えられない。森の中の採集生活から平地の農耕生活へと変わってもその世界観や生命観はそのまま縄文時代を引き継いでいたし、引き継ぐことができる環境だったことが奈良盆地のダイナミズムだった。
そしてそれはもう、現在まで続く日本列島の歴史を通じての世界観や生命観や美意識の基礎になっている。
わが身の「穢れ」に対する物憂い嘆きと「清浄」なものへのときめき、これが日本列島の文化の基礎であり、弥生時代奈良盆地もまた、この二つを往還する心模様を共有しながら大きな都市集落へと発展していった。
祭りのダイナミズムは、既成の集団の結束を確認することにあるのではない。集団を超えて人が集まってくることにある。そうやって既成の集団の「穢れ」をそそぐ行事なのだ。
人と人の出会いのときめきが祭りを盛り上げる。そういうことが起こるダイナミズムが奈良盆地にはあった。
いまどきの歴史解釈では、魏志倭人伝の影響で、弥生時代は内乱ばかり起きていてたとえば環濠集落は敵の侵略を防ぐためだった、などといわれたりしている。
しかしそんな状況なら、とっくに西洋のような城塞都市の文化になっているし、これほど他愛なく外来文化を受け入れる国民性などつくられていない。このような国民性がつくられたということは、他愛なくときめき合う祭りの文化を育ててきたということを意味する。
環濠集落は、おそらくたんなる溜池のようなものであり、それは、弥生時代奈良盆地では集落の共同作業で農耕生活をしていたということは意味しても、外敵の侵略が絶えなかったことの証拠ではない。
彼らは、縄文時代の延長で、小集落で一か所に寄り集まって暮らすという習性があった。それは連携しやすいコンパクトな集団であると同時に、鬱陶しさの募る関係でもあった。その「ストレス=穢れ」からの解放として祭りが挿入されていた。
外敵の侵略に対する不安などなかったが、人が狭いところに寄り集まっていることの物憂い思いを知っている人たちだった。そういう「穢れ」の自覚が、「清浄な森」へのあこがれを切実にし、出会いのときめきを生む祭りのダイナミズムになっていった。
縄文人奈良盆地の人々の「清浄な森」へのあこがれは、生きてあることに対する物憂い思いの上に成り立っていた。
弥生時代の人々は、外敵の侵略に対する不安や恐怖にさらされて生きていたのではない。魏志倭人伝によるそのころの日本列島が内乱ばかりしていたという記述など、大嘘なのだ。むしろそんな不安や恐怖とは無縁の物憂い思いこそ彼らの生活感情だったのであり、それはもう縄文以来現在まで続く日本列島の伝統である。
日本列島には、「アンニュイ=物憂い」を生きる文化がある。そこから「もののあはれ」の美意識が生まれてきた。
つまり「平和」を生きる文化とは、「平和」の尊さを止揚することではなく、生きてあることや社会(俗世間)の「穢れ」を自覚してゆくことにある。人と人がときめき合うことは、そこから生まれてくる。そういう「アンニュイ=物憂い」の思いが日本列島の文化の通奏低音になっている。
問題はいろいろある。
いいとか悪いということはひとまず保留して、西洋が「神」に対する畏敬の念を基礎にして人と人が向き合っている社会であるのだとすれば、日本列島は、「清浄な森」への遠いあこがれを基礎にして人と人が他愛なくときめき合う社会をつくってきた。少なくとも縄文・弥生時代はそういう社会だった。
原始神道を語るのに、森には神が宿っている、などということをいっちゃいけない。かつて、神を知らない人々の原始的で純粋で切実な「清浄な森」に対する思いがあった。そこから原始神道が生まれ、天皇が祀り上げられてきたのだ。
宗教がいいか悪いかということなど知らないが、神に対する敬虔な思いばかりがえらいのでもあるまい。僕は、神を知らない原始的な心性の他愛ないときめきの方を問いたいと思っている。
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