感想・2018年9月1日

<疚しさ>
僕にとって批評とは、この世界に対して「異議申し立て」をすることにある。
この世界の正しいことに対して、「それは違う」といいたくなってしまう。
正しいことが悪を裁くのなら、僕は「この世のすべては許されている」といいたい。
生き延びることが正義であるのなら、「人類滅亡ほどめでたいこともない」といってしまうことは許されない。ほんとはみんなそう思っているじゃないか、といいたいのだけれど、世の中は、それをいってはいけないことになっている。それをいったら社会制度が成り立たなくなる。しかしそれでも人類滅亡を賛美する文化現象はいくらでもあるわけで、たとえば廃墟の美しさに対する感動は人類普遍のものだろう。人の心は「もう死んでもいい」という勢いで華やいでゆくのであり、そうやって東日本大震災のときの人々のときめき合い助け合おうとする心は大いに盛り上がった。
人は、人類滅亡に対する遠い憧れを抱きすくめながら生きている。
人間なんかどうせ死んでゆくしかない存在であるのなら、みんな一緒にワーッと死んでゆくのがいちばんいい。太平洋戦争のときの日本人は、その「一億総玉砕」のスローガンのもとに戦っていた。それをいいとか悪いといってもしょうがない、人の心は、そうやって「世界の終わり=人類滅亡」を抱きすくめてしまうはたらきを持っている。
北米インディアンの村では、村長があるときみんなの前で気が狂ったように自分の全財産を燃やし尽くしときには自分の娘さえも殺してしまうという習俗がある。そうやって誰もが私有財産に執着していがみ合うという停滞をリセットし、みんなの心が華やぎ助け合ってゆくという「共同体の再生」がもたらされるらしい。
われわれは、大震災が起こるたびに、心のどこかしらで生き残ったことのやましさというか置き去りにされたような気分を疼かせている。日本列島の民衆は、大災害との遭遇を繰り返しながら、その「やましさ」を共有しながらときめき合い助け合ってゆく歴史を歩んできた。
ただ生き延びたいだけなら、暴動や略奪に走りたくなったりするが、この国の生き残ることに対するやましさを共有してゆく文化の伝統がそれを押しとどめている。
世界の国々に比べれば日本人の政治意識や宗教意識はとても希薄である。それは、「秩序」というものに対する志向が希薄だということであり、むしろ「混沌」の賑わいこそがこの国の文化の伝統なのだ。現在の東京はまさに「混沌の街」であり、渋谷駅前のスクランブル交差点などはその象徴だろうが、それでも人も車もそれぞれの領分を守ってほとんど事故やいさかいが起きない。それは、誰もが生きてあることの「やましさ」を共有しているからで、べつに規律正しさという「秩序志向」の上に成り立っているのではない。そこには「混沌の賑わい」を生きることのカタルシスがある。
渋谷のスクランブル交差点では、「生きてあることのやましさ」と「人類滅亡に対する遠い憧れ」が共有されている。