感想・2018年9月2日

<不健康という自然>
医者の仕事は、生きられない人を生きさせてやることにある。
それは「生きられない」ということを肯定するいとなみであり、人は「生きられなさを生きる」存在だ。
「いやいや、生きられない人は死んでゆくのが当然でしょう」というのが今どきの新自由主義とか功利主義で、だから誰もが「健康志向」になっている。しかし、それでも人は生きられないものをけんめいに生きさせようとするし、人が死ねば思い切り嘆きかなしむ。生きられない人は死ぬのが当然なら、嘆きかなしむ必要なんかないではないか。
そんなに健康が大事で生きられることが正当であるのなら、水の中では生きられない存在である人間が海水浴になんか行くな、という話である。プールにも行くべきではない。それは、「健康志向」や「生命賛歌」を否定することだ。そのとき、「健康」や「生命」を否定しつつ「健康」や「生命」を志向し讃美している。
人の心や命のはたらきは、「生きられない」という場に立ってもっとも活性化する。
人類の文化は、「生きられなさを生きる」ものたちにリードされながら進化発展してきた。
野球の選手は、死にそうになるまで練習しながら、そこでより高度な技術を体得してゆくし、一般人がしないような怪我や故障と背中合わせで生きている。
演奏しているピアニストの意識は、音楽に集中して、指に動けと命令することなど忘れている。それはつまり「生きられない」状態だといえるわけで、指を動かせなくなって、それでも指は勝手に動いている。そうやってピアニストは「生きられなさ」を生きている。
指がうまく動かないから、指に動けと命令しなければならない。それは自分の意志で指を動かしているのだから「生きられる」状態だが、それこそが心や命のはたらきが停滞している状態でもある。
人は、「生きられる」能力や場所を確保しつつ、命や心のはたらきを停滞させてゆく。
女にもてない独身の男のペニスが勢いよく勃起し、色っぽくて美人の妻のいるエリートサラリーマンがなぜインポテンツになってしまうのか。ペニスの勃起は、「生きられる」能力や場所を確保していることによって起きるのではない。むしろ、「生きられる」能力や場所に執着しながら衰えてゆく。
新自由主義者功利主義者から順番にインポテンツになってゆく。
生きることは、不健康なことだ。不健康なことこそ、心や命のはたらきを活性化させる。
生きられなさを生きることの尊厳というものがある。人は、死のそばに立って生きようとするし、すべての生きものの生はそのようにして成り立っているわけで、だから地球上の自然は「生物多様性」という状態になっている。
健康なんてとても不自然なことだし、そうやって頭のはたらきも体の動きも鈍くさくなってゆく。
不健康であることこそ自然なことだ。その「生きられなさを生きる」ことを守るために、医者という仕事が成り立っている。