感想・2018年9月6日

吉本隆明共同幻想論』>
1970年代まで僕は吉本隆明に夢中だった。
違和感を覚えはじめたのは、80年代になってからだった。
そのころから吉本は、『マスイメージ論』等、さかんにサブカルチャーについて語るようになってきた。で、周囲の若手評論家たちからは「吉本は耄碌した」などと批判され、ビートたけしからも「年寄りの冷や水で何もわかっていない」などと揶揄されたりしていたのだが、僕はそうは思わなかった。
吉本のジャーナリスティックな視線は、当時の浅田彰中沢新一らの若手よりもずっと確かで鮮やかだと思えた。とくに、「ファッション論」でコム・デ・ギャルソンというブランドの高度な芸術性や批評性を論じたのは、まさしく吉本ならでは説得力があったし、たしかに時代をリードする考察になっていた。
僕が違和感を覚えたのはそういうことではなく、そこで衣装の起源と本質について語られている部分の、その「原理論」に対してだった。
「ファッション論」が初めて発表されたのは「海燕」という文芸雑誌だったのだが、彼はそこで「衣装は防傷防寒の道具として生まれ、やがて身体を飾る機能を持つようになっていった」というようなことを語っていた。
で、僕は、それは違うのではないかと思った。
たとえば、アフリカの原住民のペニスケースやボディペインティングなどは、すべてたんなる「飾り」であり、防傷等の道具的機能など持っていない。その機能はむしろ、現代の衣装において追求されている。だんだん裸足で歩くことができなくなってきて、靴や草履が生まれてきた。
もともと人類は二本の足で立っていることの「居心地の悪さ」を抱えており、時代とともにそれが極まり、衣装で身体を飾り身体をなだめるようになっていった。
吉本が語っていることは、順序が逆なのだ。「ファンション論」のほとんどの部分はそうした「原理論」が書かれており、それに対する反論なら今すぐ100枚のレポートとして提出するくらいの用意はあるが、ここではひとまずやめておく。
ただそこで僕は、この人はそもそも当人が自負している「原理論」そのものがすべてにおいて粗雑なのではないだろうか、という疑問を持った。どこかで仕入れてきた既成の理論をただ口当たりよくいいまわしているだけで、特別な思想家でも批評家でもなく、たんなる有能なジャーナリストあるいは扇動家にすぎない、と思った。
そしてそう思ってしまえば、あれほど熱中して読んだ『共同幻想論』も、あらためて読み返すと、ひどく色あせてしまっていた。
たとえばその中の「禁制論」では、山には異人や妖怪変化がいるという『遠野物語』の話をもとにして、山に入ったら恐ろしいことが起きるから山に入ってはいけないという「禁制」すなわち「恐怖の共同性」を語っているというのだが、これも「原理論」そのものが粗雑だ。つまり、「村の伝承説話は村の秩序を守るための教訓として語り継がれてきた」というありきたりの民俗学の説をそのまま踏襲しているだけで、何も考えていない。
日本列島の伝統において、山は「禁制」の場所であったのか。
そんなことはない。
縄文人の多くは山で暮らしていたし、山道こそ、日本列島の道の起源だ。海沿いの東海道よりも、山道の中仙道のほうがはるかに歴史は古い。海沿いの道は、広い川に大きな橋を架けなければならないから、縄文時代にも古代にもなかった。伊勢物語在原業平は船で東下りをしたし、古事記ヤマトタケルの東国遠征だって、船で行くか山道を行くかのどちらかだった。
日本人は、山に分け入ってゆく旅の歴史を歩んできた。したがって、もともと山は「禁制」の場所ではなかった。べつに被差別民の話を持ち出さなくても、山の中の集落は、縄文時代からいくらでもあったし、里の民が山に入って狩りをしたり柴刈り(薪拾い)をしたりすることもずっと続けてきた。子供たちだって、美味しい木の実がたくさんある山に入ることは大好きだ。
共同幻想論』では山の中での入眠幻覚の体験のことが語られているのだが、そういう山の中の非現実的な気配こそが、人の心を誘ってやまないのだ。
異人や妖怪変化と出会うという入眠幻覚は、そういう体験をおもしろおかしく語るものがたくさんいたということで、誰もが日常的に山に入っていたということなのだから、何が「禁制」かという話である。
村の伝承説話には、教訓的な意味などない他愛ない話やとんちんかんな話や、村の秩序を破ることをおもしろがる話だって少なくない。まあ「理屈と膏薬はなんにでもくっつく」のたとえ通り、こじつけようと思えばいくらでも可能だが、民衆はほんとうに「教訓」として語り伝えをしていたのかという疑問はどうしても残る。
基本的に民衆の語り伝えに善も悪もないのであり、ただ面白ければいいのだ。面白いからそれは何度でも語られ語り継がれながら後世まで残ってきた。まあ村の秩序などというものは時代によってどんどん変わってゆくのだから、そのための話なら残ってゆくはずがない。
村人にとってお上に支配されたこの社会は「憂き世」であり、語り伝えは、そこからの解放の娯楽としての役割も果たしてきた。
眠れない夜に囲炉裏を囲んで話を聞く。生きてあるのはしんどいことであり、村の秩序などを称揚して何を積極的に生きる必要があろうか、このしんどさのせめてもの慰めこそもっとも大切なものだ……という思いがこの国の民俗社会の伝統になっている。
あくまで現世的な「共同体の秩序」を守る目的で伝承説話が語り伝えられてきたのではない。
まあ「死との親密な交わり」、その「非日常性」こそが民族社会の伝承説話の本質であり、おもしろさなのだ。人の心はそこから華やいでゆく。そういう体験の場として語り伝えが機能してきたわけで、そのほとんどが神話的な荒唐無稽な話である。
何が教訓なものか。人が魔物に食われてしまうとか魔物を退治するとか、それらは、教訓ではなく、そういうかたちで心が異次元の世界に超出してゆくところの、死および死者に対して親密になってゆく話なのだ。
民俗社会の語り伝えの根源的な主題は、生きてあることのしんどさを忘れて「もう死んでもいい」という感慨を共有してゆくことにあり、そうやって心は華やぎ安らいでゆく。
失踪したある家の嫁がじつは山の異人にさらわれていたのがわかった……という話は、嫁に逃げられたその家の恥を取り繕うと同時に、人々がたえず山に入っていたことの証明であり、誰もが山での体験談を語りたがり、誰もが山という「異界」に興味津々だったことを意味している。
「異界」というパワースポット、死はその向こうにある。
ともあれ吉本の「禁制論」は、「原理論」においてまったくステレオタイプで粗雑な話にすぎない。
もうひとつ、「対幻想論」という章での「家族はエロスの場である」という考察は『共同幻想論』のもっとも大きな売りになっているわけだが、この「家族礼賛」の論考はそもそも60年代のテレビのホームドラマ全盛の時期に書かれたものであり、時代を読むジャーナリスト吉本の面目躍如といった感がある。
しかしその「家族」は、吉本がいうようにその後の高度経済成長による社会的なモラルの崩壊に対する防波堤になりえたかといえば、そうはならなかった。むしろ家族のほうが先に崩壊していった。
今や「少子化」を含めて夫婦のセックスレスと人妻の不倫は大きな社会問題になっている。家族が「エロスの場」でなかったことが証明されているのだ。
吉本からすれば、ほんらい「エロスの場」であるはずの家族がそうでなくなってしまっていることに問題があるのだといいたいのだろうが、そうではない、「エロスの場である」というその考察そのものが「原理論」として間違っているのだ。
たとえ夫婦であっても、たがいにひとりの男と女に立ち返ってセックスしているのであって、夫婦とか家族という絆から性衝動が生まれてくることはありえない。現在の夫たちは、家族や夫婦という絆に安住しながら性衝動のポテンシャルを失っていっている。妻をひとりの女として見る視線を失っていっている。「俺が稼いで養ってやっているのだからそれでいいだろう」という男は多いし、「家族のために」と必死で頑張りながら妻や子からひとりの男として見られなくなっている夫や父親もたくさんいる。
夫とのセックスを拒否しながら不倫に走っている人妻も少なくない。
「夫(妻)がだんだん空気のような存在になってゆく」という声はよく聞かれる。もともと家族とはそういう空間であり、仲の良い夫婦でもほとんどセックスをしていなかったりする。子供たちだって、思春期になって家族の外に出て、はじめて恋をする。
「家族はエロスの場である」だなんて、ただの幻想だ。
吉本夫婦は、最後まで頻繁にセックスしていただろうか。そんなはずがない。家族という絆に安住している男から順番に性衝動のポテンシャルを失ってゆく。
生きものの進化の歴史は、最初から雌雄の関係として設定されていたのではない。雌雄に分かたれてしまったことの、その心もとなさ、その欠落感や喪失感からエロスの気配が立ちのぼってくる。
たしかに家族という空間には親密な関係が生成しているが、ときめき合っているかどうかということはまた別の問題なのだ。
基本的にエロスとは「出会いのときめきであり、家族に安住しながらエロスが立ち上ってくることなどありえない。エロスの場は家族の外にある。家族は安住の場であらねばならないと同時に、安住の場であってはならない。そういうゆるやかであいまいな関係の場として、日本列島の伝統の大家族制度が機能してきた。
吉本は、戦後の核家族がもてはやされていった時代の潮流に対してはひといちばい敏感だったが、そのあとにやってくる核家族の崩壊を見通すことはできなかった。それは、家族という集団に対する「原理論」の考察が根底的に粗雑だったからだ。