ことばのはじまり・かなしみとときめきの文化人類学8


言語の起源について考えてみます。これだって、人間的な「心が華やぐ」体験が契機になっているはずです。つまり原始人は、人が発するさまざまな色合いの音声に「きらきら光る」ものを感じた。それが、言語の起源だろうと思えます。
現在の言語論の通例では、「人類の言葉は、<危険認知の警戒音>とか<獲物捕獲の合図音>として生まれてきた」ということになっているらしい。
プロもアマチュアも、だいたいみんなそういっている。
しかし、ほんとうにそうだろうか。
「危険認知の警戒音」なんて、カラスでもやっていることだし、じゃあカラスはやがて人間みたいな言葉を持つようになるのか。
弱い生き物の「危険認知」に対する反応は、基本的に3つのことが考えられます。まず「逃げる」、次に「消える=隠れる」、そしていよいよ最後の手段として「戦う」です。
二本の足で立ち上がることは、とても不安定で、猿のような俊敏性、すなわち「逃げる」能力を失うことです。集団で逃げたら将棋倒しになってしまうのは今でもよくあることです。
そして俊敏性を失った上に、胸・腹・性器等の急所を外にさらす姿勢になったのだから、戦う能力も大きく後退した。
つまり、二本の足で立ち上がることによって、「消える=隠れる」という反応が特化していったということです。「かくれんぼ」は、人間の本能です。共同体の制度から隠れる場所として「家」とか「家族」をつくるのも、その本能でしょう。そして「消える=隠れる」ためには、音声を発することは禁物で、音声を発しないのが「消える=隠れる」という行動の本質です。それはつまり、「世界の終わり」の場に立つということです。自分が「消えている=隠れている」ということは、外の世界は存在しない、という感覚です。世界は存在しないのだから、危険もまたない。そしてそういう前提の「あなたと私だけの世界」という気分で他者と出会えば、心は大いにときめくでしょう。そこから音声=ことばが発せられていった。
次に「獲物獲得の合図音」などといっても、人類が集団で狩をするようになったのは、700万年の歴史の中の数十万年前からのこと、すなわちつい最近のことです。
しかし人類は、二本の足で立ち上がった700万年前からすでに喉(声帯)の構造が変わりはじめていたともいわれています。二本の足で立ち上がったからじゃない。さまざまな音声を発するようになってきたからです。喉の構造が変わったからさまざまな音声を発するようになるのではなく、さまざまな音声を発することによって喉の構造が変わってくる。
二本の足で立ち上がった人類は、なぜほかの動物と違ってさまざまな音声を発するようになったのか。それは、ほかの動物にはない衝動を持ったからでしょう。カラスのような「危険認知の警戒」とか、ライオンやハイエナのような「獲物捕獲の合図」とか、そういう衝動=目的では言葉が生まれてくる契機にはなりえない。



「やあ」とか「よお」とか「おお」とか「へえ」とか「わあ」とか「ねえ」とか「うんうん」とか「あら」とか「まあ」とか「ちぇっ」とか「けっ」とか「くくくく」とか「ささささ」とか、それらはひとまず原始言語だといえるでしょう。そうやって人類は、さまざまな音声を発するようになっていった。
それらは、他者や世界と出会ったことの反応としてこぼれ出てくる音声です。思わずこぼれ出てくる音声です。けっして「危険認知の警戒音」とか「獲物捕獲の合図音」とか、何かの「目的」を持って発しているのではない。
この「思わず発してしまう」ということは、重要です。それほどに人間は世界や他者との出会いに豊かに心が動いてしまう生き物であるということであり、カラスやライオンのような「目的」を持つことよりも、この「思わず」ということのほうが、ずっと人間的で高度な心の動きなのです。
人間が「かくれんぼ」の衝動を本能として持っているということは、「消えている=隠れている」という前提で存在している生き物である、ということです。
すなわち、人間は「世界の終わり」から生きはじめる、ということ、そこからことばが発せられる。
他者と出会ってときめく、そのとき世界はもう他者と自分だけの空間になって、外の世界は消えてしまっている。そうやって心はもう、世界から「「消えている=隠れている」状態になっている。そうして「やあ」とか「おお」という音声が思わずこぼれ出る。
世界から隠れてしまっているのだから、そこではもう「危険認知の警戒音」とか「獲物捕獲の合図音」などを発する契機が存在しないのです。
人間は二本の足で立ち上がったことによって、猿よりももっと弱い猿になり、「消える=隠れる」という衝動を特化させていったことの結果として、「消えている=隠れている」状態、すなわち「世界の終わり」から生きはじめる存在になった。そしてそこから心が華やぎ、思わずさまざまな色合いの音声を発するようになっていった。
原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、猿よりももっと豊かに心が華やいでゆく存在になっていった。猿よりももっと弱い猿にになって世界から「消えている=隠れている」存在になり、他者とともにいる「今ここ」に対する反応がより豊かに華やいでいった。そうやってさまざまな色合いの音声を発する存在になっていった。



人間にとって「消えている=隠れている」こと、すなわち「世界の終わり」はもう、欲望=目的ではなく、存在の前提なのです。
まず「世界の終わり」という前提に立って、そこから生きはじめる。
スポーツには「ルール」という「前提」がある。そういう前提は、よかれ悪しかれ、すべてのことについてまわっている。
死を知ってしまった人類は、「世界の終わり」という前提を持っている。「世界の終わり」という前提を持っているから、死を知ってしまった。
原初の人類が二本の足で立ち上がるということ自体が、すでに「世界の終わり」の場に立つことだった。それは、猿としての生存能力を失うことだった。つまり、そこで猿としての「世界の終わり」の場に立った、ということです。しかし心はそこから華やいでゆき、さまざまな音声を発する猿になっていった。そのことに何の「目的」もなかった。ただ心が華やいで、思わずさまざまな色合いの音声を発してしまっただけです。
どんな「目的」で言葉を発するようになったかだなんて、現代人の物差しで勝手に裁量しているだけです。合目的的な思考というのだろうか、とりあえずそういう自意識を捨て、最初にことば=音声を発した原始人の心模様を直截に問うてゆくということがなぜできないのか。現代人の自意識というのは、まったく困ったものだと思う。
人が人になったということは、猿よりももっと心が華やいでゆく体験をするようになったということであり、それがなければ人は生きられない。そのことが人類の知能や文化の進化発展をもたらしたのです。
最初の音声=ことばに意味なんかなかった。原初の人類は、その意味に気づいたのではない。そのさまざまな色合いの音声がさまざまなニュアンスの心の華やぎをまとっていることに気づいていったのが、ことばのはじまりです。
普通に考えればそうとしか解釈できないことなのに、どうしてこれが常識になっていないのだろう。
「危険認知の警戒音とか獲物捕獲の合図音」というなら、それらはまさしく「音」や「信号」や「身振り手振り」や「表情」などのことばの以外の表現として発達してきたのであり、ことばはあくまで心が華やいでゆく体験の表出として育ってきたのです。
素直に原始人の心模様に推参しようとするのなら、そういうことになる。



「かくれんぼ」は人間の本能であり、人間はすでに世界から隠れて存在している。人間の心はかんたんに、この世に存在しているのは「あなた」と「私」だけだ、という心地になってしまう。そうやってときめきながら人間的な音声=言葉を発していった。
探しものが目の前にあるのにまったく見えなくなっているときがよくある。そのとき心はすでに世界から隠れてしまって、「世界の終わり」の場に立ってしまっている。まあ人間の脳は、それほどにはっきりと「いまここ」に「焦点」を結んで、そのまわりが見えなくなってしまうことがある。
ことばのはじまりは、ことばを発する「目的」の問題ではない。「目的」なんか何もなかった。ただもうさまざまな色合いの音声がこぼれ出てしまう心の華やぎがあっただけです。
発したあとからそれがことばであることに気づいていっただけです。
たぶん人類は、最初の何百万年は、ただもうさまざまな色合いの音声を発し合うちょっと風変わりな猿として歴史を歩んでいただけでしょう。それが「ことば」のレベルになってきたのはそのあとのことです。もしかしたらそれは、ここ数万年か十数万年前からのことかもしれない。それくらい、それを「ことば」として目的化することは長い歴史の時間を必要とすることだったのかもしれない。それまで人類はずっと「危険認知の警戒とか獲物捕獲の合図」などという「意味伝達」の行為は、ことば以外の「音」や「信号」や「表情」や「身振り手振り」でやってきた。
人類が「意味伝達」の方法を豊かに持っているということは、起源としてのことばに意味伝達の機能はなかった、ということを意味するのです。ことばに意味伝達の機能がなかったからこそ、それ以外の方法が発達した。
ことばのはじまりの人類は、ことばに意味をこめていったのではない。ことば=音声から「意味」を教えられていっただけです。ことばのはじまりは、そういう受動的な体験だった。
「危険認知の警戒音」とか「獲物捕獲の合図音」とか、そんな現代人の能動的作為的な欲望を物差しにしてことばのはじまりを語るべきではない。



人の心は「世界の終わり」の場に立って華やいでゆくということ、これがことばの起源の問題なのです。
無意味で他愛ない「おしゃべり」こそ言語の起源=本質であり、「意味伝達」の機能にあるのではない。
おしゃべりの花が咲くところでは、「世界という意味」はすでに終わっているのです。心はそこから華やいでゆく。
その音声=ことばは、楽しげな響きか、悲しげな響きか、困っている響きか、驚いている響きか、怒っている響きか、あきれている響きか、感心している響きか……原始人はそういう心模様のニュアンスを交歓していたのであって、意味を伝達し合っていたのではない。意味の伝達はことば以外のところでやっていた。
「消える=隠れる」ということ。この生態が特化していったことが、猿から分かたれていった契機です。その「世界の終わり」の場のかなしみとときめきからことばが生まれてきた。
そのかなしみとときめきを総称して、やまとことばでは「かなし」といった。
いずれにせよことばのはじまりは、「人間とは何か」ということについてのとても大きな問題であり、そこのところでどうして「意味伝達」などというおかしなことばかり語られているのだろうという不満が大いにあります。
「生き延びる」とか「上手に生きてゆく」とか、そういうことはどうでもいいのです。人類の歴史は、そういうテーマで流れてきたのではない。「ときめく」ということ、すなわち人間にとって「心が華やいでゆく」という体験がどれほど切実かということ、そのことを抜きにしてことばのはじまりなんかないのです。



ことばは「世界の終わり」から生きはじめる道具であり、世界から「消える=隠れる」道具です。つまりことばは、この世界の現実の「日常」とは別の次元の「非日常」の世界で生成している、ということです。
したがって、「危険認知の警戒音」とか「獲物捕獲の合図音」とか、そのような「意味伝達」という日常的経済的な契機で生まれ育ってきたのではない。ことばは、そういうことはどうでもいい場所で生成しているのであり、ただもう心が華やいでゆく体験の表出として生まれ育ってきたのです。
具体的にいえば、どんなことばも、現実的な「意味」の下に「感慨の表出」というニュアンスをメタファーとして持っていて、古いことばであればあるほど、そういうニュアンスを交歓しながら語られていたのです。つまり、ことばの「非日常性」、原初のことばは「感慨の表出」だった。言葉によって、現実=日常を離れて語らうものどうしだけの非日常の世界に入ってゆく。そうやって非日常の世界に「消えてゆく=隠れてゆく」ことが「語らう」という体験です。
ことばは、生きるための道具であるのではない。「世界の終わり」の「非日常」の場に立ち、死と和解してゆく道具として生まれ育ってきた。猿よりも弱い猿としての歴史を歩んできた人類にとっては、死と和解してゆくことこそ生きてあることのもっとも重要な主題であり、根源的にはそこからことばが生まれてきた。
ネアンデルタール人は、洞窟の中で火を囲みながらみんなで語り合っていた。そうやって火に親しみ、他者に親しみ、死と和解していった。死と和解してゆくとは、無意識的には、「安らかな眠りにつく」ということです。彼らは昼間、寒さに対応して体を温めるために意識を興奮させながら活動していたから、その興奮状態のままでは眠りにつけなかった。
その興奮を鎮めるために「語らう」という体験があった。
まあ「語らう」ことは、人類の普遍的な生態です。それによって何を体験するかといえば、心が華やぎながら鎮まってゆくことです。「ああもうこれで死んでもいい」という心地になってゆくことができる。生きてゆくためにことばが必要だったのではない。「死んでゆく=安らかな眠りにつく」体験を共有するための道具としてことばが生まれ育ってきた。
なんのかのといっても、「安らかな眠り」こそ人間のもっとも豊かな快楽であり、ことばは、根源的にはその体験に向けてはたらいている。
ことばの根源的な機能は、心が華やぎ鎮まってゆくことにある。まあ、すくなくとも原始時代においては、「泣いてさっぱりした」とか「しゃべってすっきりした」とか、そういう体験をもたらす道具だったのです。いや、今でも本質的にはそういう道具であるにあるにちがいありません。
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