日本人の集団性・神道と天皇(69)

この文明社会から宗教がなくなることはないだろうし、宗教を特権化したがる観念的風潮は今なお安泰だ。
宗教なんか人間性の自然でも本質でもないのに、それでもわれわれ文明人は、多かれ少なかれ宗教的であるほかない生を余儀なくされている。
宗教の歴史なんか人類700万年の歴史のたった1万年以内のことにすぎない。1パーセントにも満たない。四捨五入して大雑把にいえば0・1パーセントでしかない。
ましてや日本列島においては仏教伝来の1500年前からのことだし、しかもそれすら原始的非宗教的な意識と共存させながら歴史を歩んできたにすぎない。
もしも現在の日本列島が世界の歴史の最先端の位置に立っているとすれば、それは政治経済においても学問芸術の文化においても、原始的非宗教的な意識傾向を今なお色濃く残していることにある。
まあ政治経済とは一種の「呪術」であり、原始時代よりも現代のほうがずっと呪術的な社会になっているのではないだろうか。
古代における起源としての呪術は、共同体や個人が生き延びるための技術(方法論)として見いだされていった。したがって共同体最初の王は、呪術師でもあった。
だから魏志倭人伝ではそのころの日本列島には卑弥呼という呪術師が邪馬台国の女王として君臨していたという記述になっているのだろうが、これは大いに疑ってみる必要がある。そのころの日本列島に呪術の伝統があったら、その後に仏教という呪術が輸入されるはずがない。
そのとき仏教と神道が呪術的効力を競い合った、などという文書が後世に書かれたが、呪術の効力は人々がそれをどれだけ信じ込むかということの上に成り立っているのであって、じっさいの科学的な効力などあるはずがない。そのとき呪術など存在しなかったから、仏教の呪術が信じられていったのだ。
だいたい、疫病が蔓延しているさなかに、競争している余裕などないだろう。どちらもけんめいに加持祈祷をしたに決まっている。
呪術など存在しなかったから、ああ呪術でおさまったのか、と納得していったのだ。まあ、大和朝廷が形成されつつある奈良盆地の社会が、そういう「都市伝説」を信じてしまうような構造になってきていたのだろう。
とにかく、宗教など存在しなかったから、宗教が輸入されたのだ。そのとき大和朝廷の権力者たちは、支配秩序を確立してゆくためには宗教が必要なことを本能的に気づいていた。
仏教文化は、3世紀以降の古墳時代からすでに入ってきていた。それは、古墳の埴輪とか棺の納め方の変化などに散見される。しかし呪術=宗教としては取り入れなかった。社会の構造が、まだまだ呪術=宗教に目覚めるほどには成熟していなかった。

大陸との往来がさかんになってきた古墳時代になぜ仏像を輸入しなかったのか。青銅器などは弥生時代から入ってきていたのに、新しもの好きの日本列島の住民が仏像には目もくれなかった。それは、宗教には興味がなかったし、よくわからなかったからだろう。宗教を信じるというメンタリティそのものがなかった。そのメンタリティの萌芽は、大和朝廷による共同体の制度が定着してくるまで待たねばならなかった。
また、このことは、大和朝廷が大陸と交流をはじめたのは仏教伝来のころになってからだということを意味する。それまでは、民衆が行き来していただけだろう。
大和朝廷だって、いきなり奈良盆地に出現したのではなく、だんだん政治組織になっていったのだろう。
おそらく最初は、祭りの運営を仕切る組織だった。だから政治のことを「まつりごと」といった。
したがって、弥生後期の卑弥呼の時代に、政治などなかった。
仏教は、べつに征服者からむりやり押し付けられたわけではない。征服者など存在しない。ときの権力者が進んで輸入していっただけであり、そしてもともと呪術を持っていない民衆は、上から下りてくるそれを他愛なく受け入れていった。
南アジアのポリネシアメラネシア諸島には「いつか白人の救世主がやってくる」という信仰があるらしいが、近代のヨーロッパ白人の到来までそこが宗教の空白地域だったからそのように洗脳されてしまったのだ。
まあここで「縄文・弥生時代に宗教などなかった」ということがいいたければ、行き当たりばったりではなくちゃんと系統立てて書き進めていかなければならないのかもしれないが、とにかく卑弥呼が存在したという証拠も呪術者だったという証拠もないのであり、いえることはただ、「大陸における文明社会の初期段階は何処でも呪術師が君臨していた」ということだけだろう。魏志倭人伝の作者は、その常識にしたがってそういう話をでっち上げた。
しかしその常識は、四方を海に囲まれた島国である日本列島には当てはまらなかった。
卑弥呼が呪術師だったといっている時点で、僕は魏志倭人伝を信用していない。
そのころの日本列島に、呪術師なんか存在するはずがないし、政治も存在しなかったし、弥生時代奈良盆地に戦争があった考古学の証拠もない。だから、大和朝廷ができてきても、城砦は造らなかった。

日本列島の政治や宗教の歴史に、大陸の常識は当てはまらない。
卑弥呼は呪術師ではなかったし、弟が政治を管轄していたということもない。
文明社会の制度性、すなわち政治が生まれてくるためには、余剰の食料が生産され、それを権力組織が搾取するというシステムになってこなければならない。
だが、奈良盆地のコメの生産量が突出してきたのは、古墳時代も終わりころになってからのことだ。
もともと人類は、余分な食糧は生産しないという流儀で歴史を歩んできた。
稲作は縄文時代からなされていたが、祝祭のときの食べ物としてつくっていただけで、主食ではなかった。シカやイノシシの狩りだって、脂が乗って美味しく食べられる秋以外にはしなかった。
余剰生産のない社会から政治や階層が生まれてくるはずがない。
余剰の食料は、祭壇に捧げられて、みんなで食べてしまった。つまり、蕩尽するために余剰の食料を生産するのであって、生き延びるためではない。人類の歴史は共同体の制度が生まれてくる前に世界中どこでもそういう段階があったわけで、現代においても、生き延びることよりも「今ここ」の快楽に身をまかせてしまいたいという衝動は誰の中にも疼いている。

われわれは共同体の制度に洗脳されて生き延びるための計画を立てているだけだし、時代はけっきょく、「明日のことなんかどうでもいい」というところに流れてゆく。だから、どんな流行もかならず終わりが来る。「時代の終わり」というカタストロフィ、その「消えてゆく」カタルシスを日本列島では「みそぎ」という。
縄文土偶はわざわざ壊してばらまいて埋めていたりした。それは、彼らが「カタストロフィ」ということを知っていたことを意味する。日本列島の歴史はそこからはじまって、中世の能の物語にしても、多くは最後に怨霊が消えてゆくというかたちで終わっている。怨霊が鮮やかに「出現」して跡形もなく「消えてゆく」、その落差のカタルシスこそ「無常」という伝統の精神風土だった。
人は根源・自然において、「生き延びよう」とするのではない、「生ききろうとする」のだ。「今ここ」のこの瞬間を生ききって消えてゆくことのカタルシスがある。つまり古代以前の祭りの文化は、それが生きることであり死んでゆくことでもある、という思考の上に成り立っていた。それは、宗教ではなかった。
弥生時代奈良盆地の人口が都市的な膨張を見せていたとしても、大和朝廷が集団の秩序のための制度を整備してゆく段階ではなく、なりゆきまかせの混沌とした賑わいとともに集団が成り立っていた。
縄文時代奈良盆地はほとんどが湿地帯であったために、集落はほんの少ししかなかった。
弥生時代になって気候が寒冷乾燥化してくるにつれてしだいに湿地が干上がってゆき、ようやく人口が増えていった。そうして余剰の食糧生産が可能になり、都市国家としての階級や制度が出来上がっていったのは、古墳時代も終わりころになってからのことのはずだ。
古墳の造営とととも干拓が進み、稲作が発展拡大していったのだ。そして同時にそのころにはもう、原始的無宗教的な文化=精神風土が成熟の段階を迎えていた。何しろ縄文時代以来1万年以上の歴史があったのだから。
巨大古墳の造営だって、一般的には権力者が民衆を使役して造らせたかのようにいわれているが、じつは最近では、干拓のための土木工事として民衆が勝手につくり、勝手に天皇の墓として捧げていただけだという説の方が有力になってきている。だから、天皇の墓のことを「陵(みささぎ)」という。民衆はもう、それを「祭りの賑わい」としてみんなでワイワイガヤガヤしながら造っていったのだ。
三内丸山遺跡といい、原始的な祭りの賑わいのかたちで高度な連携プレーをしてゆくところに、日本列島の集団行動の伝統がある。道路や橋や港やため池などの土木工事は、奈良時代になってもまだ民衆自身でなされており、大和朝廷は何もしていなかった。大仏造営だって最初は民衆の協力が思うにまかせず、なかなか工事がはかどらなかったために、そのころ民衆の土木工事のリーダーをしていた在野の行基という僧侶を最高の地位として迎えることによってようやく完成したらしい。

日本人の集団行動の生態を、かんたんに「規律正しさ」という言葉で片付けてしまうことはできない。
人が規律で集団行動ができるのは150人くらいが限界だといわれている。それがチンパンジーの群れの上限であるし、軍隊の一個小隊の規模でもある。
人がそれ以上の大きな集団になることができるのは、混沌とした「祭りの賑わい」で集まってゆくことができるからであり、そうやってスタジアムに10万人がひしめき合って集まることもできる。そしてそれ以上の国家という集団だって、共同体の制度としての規律(法)だけでなく、部分部分に「祭りの賑わい」が挿入されているからだ。
つまり、どんなに強固な「規律」をつくっても集団の規模が150人を超えれば「混沌・混乱」が生まれてしまうに決まっているのであり、それを収拾するためのひとりひとりの「連携」が必要になってくる。
イワシの大群に「規律」などないだろう。それでもあのようにみごとな集団行動ができるのは、それぞれの個体が他の個体との間隔を保って泳ぐという「連携」を心得ているからであり、そのくっつきも離れもしない間隔を保つことが、力学的にもっとも疲れなくてもっとも速く泳げることだからだ。
自然は、まことにもってうまくできている。そして人は、自然から学ぶことができる。自分を捨てて学んでゆくことができる「ときめき」を持っている。自分が消えてゆくこと、そうやってイワシは泳いでいるのであり、そうやって人もまた自分が消えてゆく「ときめき=カタルシス」とともに「連携」してゆく。
人類の集団行動の本質は、「規律=秩序」にあるのではない。たがいに連携しながら「混沌」を収拾してゆくことができることにある。
「規律=秩序」が強くはたらいた集団は停滞し衰弱してゆく。そうやって四大文明発祥の地はやがて停滞・衰弱していったのであり、その停滞・衰弱を克服しつつ「規律=秩序」をより強化しようとして、他の集団との戦争をはじめる。「規律=秩序」で集団を維持しようとすれば、どうしても戦争が必要になる。
人類の集団行動の本質は、「規律」によって秩序をつくってゆくことにあるのではなく、「連携」によって「混沌」を収拾してゆくことにある。それが、人類の集団行動の基礎であり究極のかたちでもある。
日本列島の歴史は、混沌とした「祭りの賑わい」で集団行動をする連携プレーの文化を発達させてきた。そうやって古代以前は民衆自身で土木工事をしてきたのだし、ただみんなで同じことをするのではなく、さらに高度な集団行動としての、混沌を収拾してゆく連携プレーの文化を持っている。
日本人の集団行動は、けっして「規律正しい」のではない。混沌を収拾してゆく「連携」を持っていることにある。
まあ、世界史において文明制度がいち早く生まれてきたイスラムユダヤ社会は、宗教による強い「規律」によって集団の秩序をつくっている。
しかし、その発生が数千年遅れた日本列島の集団性においては、基本的にそんな「規律=秩序」などない。男と女、親と子のあいだに、彼らほどの強い「規律=秩序」を持っていない。それでも、彼らとはまた違う、ときめき合って連携してゆく関係性の文化は持っている。それは、きわめて原始的であると同時に、人類究極の関係性でもある。
日本列島の古代以前の人々は、「規律」ではなく「連携」によって土木工事をしていたのであり、それもまたひとつの「祭りの賑わい」だった。
古代以前の日本列島の集団性を担保していたのは、「宗教」による「規律・規範」ではなく、ときめき合い連携してゆく「祭りの賑わい」だった。まあ、そういう原始的な集団性を残していることが、現在の世界における日本列島の限界であり可能性でもある。