民俗学の視点で・神道と天皇(68)

オカルトなんかろくでもないといっても、それにのめり込んでいる人たちはそれが楽しくてしょうがないのだろうし、のめり込んだもの勝ちだということもある。
どうせ一回きりの人生だ。のめり込んで生きるに越したことはない、ともいえる。べつにそれならそれで結構なのだが、それが人間性の自然であり真実だ、といわれると、ちょっと待ってくれよ、といいたくなる。
この生やこの世界はかくあるべきだとえらそぶって吹聴しても、他人は勝手にやってくれと思っているだけだったりする。それだって、ひとつのオカルトかもしれない。
禅は悟りのための修行だといっても、悟りが一種の神秘体験であるかのように思っている禅坊主もいる。
世の中には、神秘体験を特権化したがる人間が少なからずいる。
神秘体験というかオカルト体験というか、宗教をそういう次元で語りたがるものほど、あんがい薄っぺらなヒューマニストで、薄っぺらな人間理解であったり、けっこう抜け目のない世俗主義者であったりすることも多い。
麻原彰晃中沢新一も神秘体験のオカルトが大好きで、それが宗教の本質であるかのようにいっていた。そしてこういう趣味のものたちほどどうしようもない俗物だったりするのは、いったいなんなのだろう。「ときめき」というものがないのだろうな。彼らはけっこう冷ややかに損得ずくの計算をして生きている。
20年くらい前、中沢新一梅原猛吉本隆明の鼎談による『日本人は思想したか』という本があった。今は文庫として出されているらしい。
中沢は、その10年前のニューアカブームのころは柄谷行人浅田彰などと一緒になって「吉本はもうボケ老人だ」などとさんざん批判をしていたのに、いつの間にかちゃっかりすり寄って、この二人の御大の後継者のポジションを得ようと企んでいたのだろうか。
でもまあ、そんな中沢の計算も、そのころに自分が撒いた種であるオウム賛歌の言説で、すっかり味噌をつけてしまった。潔く自己批判して総括してみせればそれなりの誠意も感じられようが、口をつぐんで逃げまくっているだけだった。あんな態度を見せられたら誰だってがっかりするし、人々のその記憶はそうかんたんには消えない。
それはともかくとして、上記のその鼎談では、三人とも「縄文時代は<情念のアニミズム>が豊かに花開いていた」というような解釈でうなずき合っていた。だからまあオウム賛歌になってしまうわけで、吉本だって同じようなことをいっていた。
もちろん僕は、がっかりした。三人ともアホだなあ、と思った。
ただ観念的にあれこれのものごとをいじくりまわしているだけのこの三人に「情念」とか「情感」というようなものを語られたくない。
彼らのいう「情念のアニミズム」は、たとえば「アイヌのクマ祭りは、自然の恵みに対する感謝や自然との共生の心の上に成り立っている」というような論調へと展開していった。いかにも薄っぺらで底の浅い宗教観・人間観で、これくらいのことは今どき中学生でもいえるだろうし、インテリぶってどんなにカッコつけた言葉を振り回しても、考えていることの正味は無知な善男善女のレベル以上でも以下でもない。
アイヌのクマ祭りは、女子供がクマに食われたりする歴史も背負っているわけで、そのくるおしさやなやましさには、「感謝」とか「共生」などという安直な言葉では片づけられないものがあるに違いない。彼らは、自然に感謝したり自然と共生したりしていたのではない。自然と命のやりとりをしながら歴史を歩んできたのであり、「いつ死んでもかまわない」というせっぱつまった覚悟なしに生きられるはずもなかった。
原始人が北海道の原生林の中で生きることが、そんなきれいごとだけですむはずがないではないか。
世の中は、オカルト好きの人間のほうがずっと現実的で打算的だったりする。
オカルトとは「あっちの世界」を「こっちの世界」すなわち「自分の中」に引き寄せることで、じつは自分を捨てて「あっちの世界」に行ってしまうのではない。彼らはけっして「自分大事」の気持ちを手放さない。
オカルトの神秘体験には、われわれにはうかがい知れない自己充足があるらしい。

「内観」などという。自分の内側の世界で光などを見たり感じたり、また自分の外から自分を見たりすること。彼らのいう瞑想修業は、徹底的に「自分」に耽溺してゆくことなのだ。それが宇宙を体感することだといっても、じっさいの宇宙がそうなっているわけではなく、自分が勝手にそう感じているだけのこと。自分では「混沌」に身をまかせているといっても、自分という秩序の中の混沌にすぎない。
瞑想とか観想ということをしたがるのは、しょせんは自分という秩序(=自己充足)に執着し、自分の中で世界=宇宙を完結してしまおうとする「秩序志向」なのだ。世界が光で満たされれば、そりゃあ満足だろう。それが死後の世界だ、てか?
歓喜」というようなことをいいたいのだろうか。しかし、「混沌に身をまかせる」とは「途方に暮れる」ことであり、その「くるおしさやなやましさ」を生きることだ。死後の世界を見てわかったつもりになってしまったらおしまいなのだ。それでも人は永遠にそんな世界はわからないのであり、そのことに関しては、何も見ないこと、何も思わないこと、その透明なかなしみを生きることにこそ「混沌」の世界がある。
寂滅……人が人であるかぎり、誰の中にもそういう世界がある。人間性の自然に遡行するということは、修行して光を見るとか、そういう作為的な問題ではない。

人が人であるとはどういうことかという問題は、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」が教えてくれる。人間性の自然は、「生きられない」というそのことにある。
オウム事件のころまでは、時代風潮として、そういうオカルトの神秘体験に引き寄せられる傾向がかなりあった。「歓喜」を欲しがる自意識過剰の時代だった。しかしそれもだんだん沈静化してきて、おそらく現在はそれほどでもない。バブル時代の自己陶酔よりも、自分を忘れた他愛ないときめきや感動の体験が求められている。サブカルチャーの役目が少し変わってきた、ということだろうか。
「あっちの世界」を自分の中に引き寄せるのではない。自分のいない世界に連れてゆかれる心地のカタルシスというのがある。
人は「無私」の状態に対する憧れがあるし、すぐ自分を忘れて何かに夢中になってしまう存在でもある。
意識は、「身体=脳=自分」の外で生成している。つまり、自分から離れてゆくのが意識のはたらきの普遍的な運動性であり、そうやってときめくとか感動するという心の動きが起きている。
日本列島の文化の伝統としての「みそぎ」とは、意識が「自分=この生」に貼りついて停滞している状態の「けがれ」をそぎ落としてゆくことにある。それは、意識のはたらきの根源に遡行しようとする文化生態にほかならない。

神秘体験だろうとなんだろうと、宗教は意識が自分に貼りついている状態の上に成り立っている。幽体離脱などいう自分の外から自分を見ている心的現象だって、そのようなかたちでなお「自分」に憑依してしまっている状態でしかない。
高熱を発するとか、ようするに死にそうになると、意識と身体を切り離して恐怖や身体の苦痛から逃れようとする。もともと意識は身体=脳の外で生成しているのだから、そういう現象はたやすく起きる。乳幼児期にそうした「恐怖」もしくは「身体的苦痛」を繰り返し体験した人はそういう現象を起こしやすいし、ドラッグや宗教の修行で意図的に起こすこともできる。まあドラッグは過大な「恐怖」を培養するし、断食等の宗教の修業は「恐怖」と「身体的苦痛」の両面から自分を追い込んでゆくことができる。座禅などの瞑想だって、自分の体も心もむりやり動かない状態に封じ込めてしまうことなのだから、とうぜん生きものとしての無意識的根源的な「恐怖」や「身体的苦痛」の渦中に投げ込まれている。そういうことが、立派なことなのかねえ。救済なのかねえ。立派だとか救済だとか自由だとかと思う、その通俗的で制度的な幻想が、この世の宗教を特権化してしまっている。それは、「神秘」を自分の中で体験している「自己撞着」にすぎないのであって、解き放たれているのでもなんでもない。
自意識の問題はやっかいだ。たとえば無邪気に日本に憧れている外国人と、日本がいちばんだと思っている日本人とどちらが自己撞着から解き放たれているかといえば、とうぜん前者だということになる。しかし彼らがなぜ日本に憧れるのかといえば、宗教という自己撞着(=自我)の制度に浸された環境風土の中に置かれた彼らにとって、日本がそこから解き放たれた文化の伝統を持っているように見えるからだ。彼らの憧れは、この国の宗教意識(=自我)の薄い風土にあり、そこからこの国ならではの治安の良さも、わび・さびの文化の伝統も、「かわいい」の文化も生まれてきている。
今どきは右翼も左翼もなんだか自意識過剰で、そこに「近代」の病があるのだろう。
日本は素晴らしい国だ、という宗教を持っていないなのが、この国の伝統風土なのだ。

救済は、「自分が解き放たれる」ことではない、「自分から解き放たれる」すなわち「意識が自分に貼りついている状態から解き放たれる」ことにある。たとえそれが永遠に不可能であるとしても、人はそのことに対する「遠い憧れ」をけっして手放さない。なぜなら、じっさいに意識のはたらきは「自分=脳=身体」の外で生成しているわけで、それが、われわれの避けることができないこの生の与件だからだ。
この生のいとなみは、意識が自分に貼りついていることの「けがれ」と、そこから解き放たれる「みそぎ」の状態との絶えざる往還(バイブレーション)として生成している。
むずかしいことじゃない。「かわいい」とときめくことができればいいだけのことさ。そういう「他愛なさ」にこそ救済がある、と原始人は無意識のうちに気づいていたし、それはまた人類永遠の憧れでもある。
つまり、時代はつねに「他愛なさ」に回帰する、ということ。そしてこの世の魅力的な人であるという評価は、いつの時代も「他愛なさ」に回帰できる能力を持っている人に向けられている、ということだ。
まあ、数学や哲学だって、つまるところは、「もっともシンプルな位相」すなわち「他愛なさ」を問うてゆく学問にほかならない。
この世に必要なのは実学としての法学や工学だけであって、直接的にはなんの役にも立たない基礎学としての哲学や純粋な数学なんかいらない、というわけにもいかないだろうし、僕は、折口信夫梅原猛吉本隆明内田樹中沢新一の言説に哲学があるとはぜんぜん思わない。
まあ世の中には、哲学のことをなんにもわかっていないくせに哲学のうんちくをあれこれ語りたがるインテリがたくさんいて、いやになってしまう。
哲学のことをいちばんよくわかっているのは、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」なのだ。
哲学は、生きるためにはどうすればいいかということを教えてくれる学問ではなく、「死んでもかまわない」というところを問うているのであり、そこにこそ原始人の思考があり、人類普遍の問いがある。そこにこそこの生のはたらきの原理があり、そこでこそこの生は活性化する。
原始人は呪術(アニミズム)で生きていたなどと安直に決めつけてもらっては困るし、われわれが宗教をありがたがらねばならないいわれもない。
梅原猛は日本人の宗教観の伝統がどうとかというような安直な屁理屈をさかんに吹聴しているが、確かな宗教観など持っていないのが日本列島の伝統なのだ。
まあ古代や縄文・弥生時代を「宗教観の伝統」という問題設定で考えればかんたんだが、ひとまず「宗教などなかった」という前提に立たなければ神道天皇の本質=伝統に推参することはできないだろうと思える。
縄文・弥生の無文字時代のことに確かな証拠は誰も提出することはできないが、ここではあえて確信犯的に「宗教などなかった」と言い切ることにしている。
異論反論を待っています。