集団性としての「連携」と「結束」・神道と天皇(135)

日本人は集団主義か否か、というような議論があるらしいが、そんなことをいってもしょうがない。人は生まれながらにして「集団」とのかかわりに置かれているわけで、それが集団の言語を習得するということだし、エゴイズムやミーイズムが強い自意識過剰の人間ほど集団ににもたれかかり、集団に踊らされて生きている。そして、他者に干渉したがる。彼らは、他者と「結束」したり他者を「支配・説得」したりすることにとても熱心だが、「連携」することにおいては不器用で冷淡でもある。
まあ政治・宗教の文明制度はあらかじめ作られた「秩序」の上に成り立った「結束」の集団性であり、プライベートな人間関係は基本的に「混沌」の中で「連携」してゆく集団性だといえる。後者は、けんかをしたり仲良くしたり、なりゆきしだいでかんたんに別れてしまったり、またなりゆきのままに出会って他愛なくときめき合ったりする集団性である。そしてこれは、神道の伝統である「祭り」も集団性でもある。
集団は、「秩序」がなければ「結束」できない。このようなコンセプトで文明国家が生まれ、宗教が生まれてきた。王のもとの秩序、神のもとの秩序。
それに対して神道の「祭り」の集団性は、あくまで「無主・無縁」の「混沌」から生まれてくる賑わいの上に成り立っている。神道の「かみ」は、「秩序」を志向していない。だからそれは「宗教」とはいえない。「宗教」が滅んだ地平から「神道」が生まれてきた、ともいえる。そういう「世界の終わり」から生まれてきた。
集団性は人によって違うし、伝統という共通項もある。
ナショナリズムは「結束」の集団性だから、日本人の性分に合わない。江戸時代までの日本列島にはナショナリズムはなく、国歌も国旗もなかった。
しかし国家制度をうまく機能させるためにはナショナリズムという「結束」の集団性が必要で、そのために明治維新とともに国家神道が導入されていった。そうしてそれとともに、日本人の自意識も強くなっていった。
人は、自意識を満足させるために「結束」しようとする。自意識を満足させるためには、他者や集団の承認が必要になる。そして集団の自意識もまた、神の承認を求める。だからユダヤ教旧約聖書には、「神がユダヤ人の集団を承認した」というような話がたくさん出てくる。

自意識過剰のエゴイストやナルシストだから集団性がないとはいえない。彼らこそ、もっとも他者や集団の承認を欲しがっている。それによってはじめて「世界は自分を中心に回っている」と思うことができる。そういう集団の「秩序」を欲しがっている。彼らは、予測不能の「混沌」を病的に嫌う。
というわけで、自意識は「結束=秩序」の集団性を志向している。その究極のかたちとして、神のもとの「結束=秩序」がある。
政治も宗教も「結束=秩序」の集団性の上に成り立っている。政教分離などといっても、両者はもともと補完し合うかたちで生まれてきたのであり、国家の起源においては祭主が王を兼ねていた。
アメリカでキリスト教原理主義が主流になっているのは、ナショナリズムという「結束=秩序」の集団性の上に成り立っている国だからだろう。
現在の中近東の国家などほとんどが第二次大戦後のヨーロッパ連合国が勝手に国境を決めたものだが、それでも彼らはその国境線にこだわったナショナリズムを持っている。国境線がなんであれ、国家として「結束」してゆきたいらしい。敬虔な宗教者である彼らはもう、本能的に「結束」したがる。
アメリカ人もイスラム教徒も、どうしてあんなにも「結束」したがるのだろう。そして、どうしてあんなにも「連携」するのが下手なのだろう。「連携」しないで「結束」しつつ、すぐ暴動や戦争を起こしてしまう。

日本列島においては、あの大震災のときの人々は、「暴動」を起こさないで「連携」して助け合っていった。おそらくこれが日本列島数万年の歴史の伝統であるはずだが、しかし明治維新から太平洋戦争の敗戦までの80年間は、暴動も戦争もたえず起きていた。「結束」が第一義の集団性の社会になれば、どうしてもそうなってしまう。その80年において、日本列島数万年の伝統がゆがめられた。
世界の歴史は、あるときから原始社会から文明社会へと方向転換してきた。そんな中で日本列島だけが、原始社会の集団性をそのまま洗練発達させるという実験の場になり、それによって集団性のレベルを部分的には大陸の文明社会よりももっと高度なものにつくり上げてきた。そしてそれは、原始的であると同時に、人類の未来というか理想にもなっている。
もしも人間性の基礎なり本質を「競争する」ことではなく「連携する」ことにあるとするなら、その部分においてはたしかにこの国が先頭ランナーになっている、ともいえる。
なんのかのといっても人類が、「集団の連携を追求する」ということを手放すはずがない。
もちろん今や日本列島も文明制度に覆われてはいるのだが、それでも伝統としてちゃんと残っている部分があり、この国を訪れた外国人が民衆社会におけるそのチームワークのよさに驚いたりする。それは、「自分を消す」という「みそぎ」の作法にほかならない。

意識を自分から引きはがしながら誰もがこの世界の「生贄」となって献身し合う集団性、そうやって神道天皇制を生み出し引き継いできた。他愛なくときめき合いながら献身し合ってゆく文化。すなわち他愛ないときめきがなければ何もはじまらないということ。それが、この国の伝統としての「かわいい」の文化であり、「処女性」の文化にほかならない。
「処女=思春期の少女」はこの世界の「生贄」である……「連携」の集団性を追求してゆけば、とうぜんそういうイメージは湧いてくる。そしてそのイメージは、じつは世界中が共有している。未開社会の処女を生贄にする風習だろうと、先進国の男たちの性的なロリータ趣味だろうと、それはもう同じなのだし、キリスト教のマリアの処女懐胎だってようするにそういうことだ。ただ文明社会では、ロリータを現世に閉じ込めて自我の満足のための個人的で性的な対象にしてゆくところに病理があるわけで、現世ではなく「異次元の世界」に祀り上げてゆくということができないといけない。そこではじめて、人間的な「連携」の集団性が生まれてくる。
マリアの処女懐胎を嘘かほんとかというような議論をしてもしょうがない。神は存在するかしないかとか、そういう現世的な議論をしているところに宗教の病理がある。嘘でもほんとうでもない、人はそういうイメージを持ってしまう、という歴史的普遍的な事実があるだけではないか。
「イメージを持ってしまう」とは、「心が異次元の世界に超出していってしまう」ということ。それができないと人は生きられないのであり、そうやって人の心はときめいている。そしてそういう心映えは原始人や古代人のほうがずっと豊かだった。現代人の心は、文明制度や宗教によって現世に閉じ込められて羽ばたいてゆくことができない。現代社会はイメージ貧困な顔があふれているし、「処女=思春期の少女」だけがいまだに人類の「生贄」としてそうした人類史の真実を守っている。
古代以前の奈良盆地の住民がどれほど切実な思いで「処女=巫女の舞」を祀り上げていったかということは、ひとまず人間性の普遍なのだから今どきの変態男のロリータ趣味とまったく別なものではないとしても、イメージのレベルがはるかに違う。
「イメージが羽ばたく」とは「祀り上げる」ということ、それは、知ることも触ることもできない対象に思いを馳せてゆく、ということだ。その「不可能性」に身を投げ出してゆくこと。
「神聖なもの」とは、冒すべからざる対象のこと。古代以前の人々は、そのようにして「処女=巫女の舞」を祀り上げていった。ロリータ趣味の変態男と一緒にしてもらっては困る。
そこに、日本列島の歴史における天皇の不可侵性がある。
天皇制の起源は、「処女=巫女の舞」にある。