連携の文化・神道と天皇(134)

日本人が「神聖なもの」をどのようにイメージしてきたかということ、その「異次元性」に対する想いはけっして宗教の問題ではなく、人間性の普遍としての実存感覚の問題なのだ。
R・ドーキンスはこの社会で共有されている「心」のことを「ミーム」と呼んだが、つまり「心」はこの社会で生成しているものであって「自分」などというものはない、ということだ。彼はそれを「自己複製」のはたらきといったが、そうではない。この社会で共有されていることの「結果」として「自己複製」のはたらきのようになっているだけのこと。「自分の心」などというものはない。
「自己複製」という生物学の用語が間違っているとはいわないが、文科系としてはあまり愉快な言葉の響きではない。親が子を産むことは「自己複製」か?そうではない、それは「自己複製に失敗する」現象だ。心身ともに親と同じ子供が生まれることなどありえない。そうやって生物は進化してきた。
遺伝子のおおもとのかたちは数十億年前の地球上の生物発生のときからまったく同じだといっても、そのときのままの生物界の状態でいられなくて今やこんなにも無数の生物が存在するようになっているのは、「自己複製の失敗」を無数に繰り返してきた結果ではないのか。おおもとの遺伝子に余分なかたちがまとわりついて複雑な遺伝子構造になってゆくことは、「自己複製の失敗」だろう。
体の中の細胞は「自己複製」し続けるといっても、体はどんどん変化してゆくのであり、成長し老いて死んでゆくことは、「自己複製に失敗し続ける」ことだ。
誰だって純粋無垢な幼な子のままでいることはできない。そういう「自己複製の失敗」を胸に刻んで人は生きてゆくのだし、それがすべての生きものの生きるいとなみになっている。鳥の卵が雛になって成長してゆくことが「自己複製」してゆくことか?そんなことあるものか。卵が卵のままであるのなら、親鳥だって温める気がしないだろう。
「進化」とは「自己複製の失敗」なのだ。「自己複製の成果」ではない。言葉の表現の問題にすぎないといっても、そのことにこだわる視点の思考だって必要だろう。「自己複製」という言葉を錦の御旗のように使われると、なんだかいやあな気持ちになる。
おおもとの遺伝子は、そのままのかたちで「自己複製」してゆくことができなくて、よけいなかたちがどんどんまとわりついてきて複雑な遺伝子構造になってゆく。そしてそれはおおもとの遺伝子の「意志=はたらき」ではなく、環境世界の作用によってなされてゆく。「進化」は環境世界からの作用によって起きるのであって、遺伝子自身の「意志=はたらき」によってではない。
遺伝子自身は、つねに「自己複製」に失敗し続ける。
そして「自己複製の失敗」を抱きすくめてゆくのが生きものの生きるいとなみであり、そうやって「進化」してゆく。遺伝子といえども環境世界に「反応」するはたらきであって、べつに「自己複製」しようとする「意志=はたらき」を持っているのではない。遺伝子だって、自己複製できないことを抱きすくめている。それはまあ「死の衝動」であり、「死」という「異次元の世界」の「神聖なもの」を祀り上げてゆくはたらきなのだ。
生きもののの命のはたらきは、「神聖なもの」を祀り上げてゆくことにある。それが「自己複製の失敗を抱きすくめてゆく」ということだ。
「自己複製の失敗」は「自然の摂理」であり、「自然」という現象は「宇宙の法則」として成り立っており、人の心はその「宇宙」を青い空の向こうの「異次元の世界」として思い描いているし、その「異次元の世界」を「今ここ」のきらきら輝く「光り」にも見ている。
人の心の「異次元の世界=神聖なもの」に対する遠い憧れは、「自己複製の失敗」を抱きすくめてゆく「喪失感」から生まれてくる。
一瞬前の自分は今の自分と同じではない……そういう「自己複製の失敗」の「喪失感」は誰の中にもあるわけで、そこから「神聖なもの」に対する遠い憧れが生まれてくる。一瞬前の自分は、いったいどこに消えていったのか?……人の心には、そういう「消失点=カタストロフィ」に対する意識がつねにはたらいている。その向こうに「異次元の世界」があり、「神聖なもの」が棲んでいる。「存在しない」というそのことが「神聖なもの」であり、それは、宗教心ではない、生きものとしての実存感覚の問題だ。

人の心の「進取の気性」だって、「自己複製の失敗」を抱きすくめてゆくところから起きている。それは「神聖なもの」に対する遠い憧れでもあるのだ。その「嘆き=かなしみ」こそが日本人の「進取の気性」の源泉であり、古代以前の奈良盆地の民衆の「祭り」の賑わいのダイナミズムの源泉でもあり、さらにはそれが「あはれ・はかなし」や「わび・さび」の美意識の伝統にもなっている。
人類の知能の進化は、「進取の気性」から生まれてきた。そのイノベーションを生む「ひらめき」は、頭の中にインプットされてあるものから浮かび上がってくるのではない。環境世界に漂っているいわゆる「ミーム」という「情報」をキャッチすることにある。それは、人の心の「異次元の世界=神聖なものに対する遠い憧れ」から生まれてくる。それが、「進化」をもたらしたのだし、だから人と人は豊かにときめき合うのだし、そのダイナミズムから人類最初の都市集落が生まれてきた。
古代以前の奈良盆地は、支配者の統治によって大きな都市集落になっていったのではなく、「無主・無縁」の混沌とした「祭り」の賑わいから生まれてきた。
支配者の統治は、大きな都市集落に「秩序」をもたらすことに有効に機能するとしても、それゆえにこそ大きな都市集落が生まれてゆくダイナミックなエネルギーはもたらさない。
中国やインドにバカでかい都市が生まれたのも、「混沌」の文化の土地柄だからだろう。またアメリカのニューヨークは人種のるつぼで混沌としているから大きな都市になっているが、政治秩序の中心であるワシントンはそこまで大きくはならない。
単純にいって、「新しもの好き」の土地柄でなければ大きな都市にはなってゆかない。支配制度が強く機能すれば、社会秩序は固定化されてゆくが、その「好奇心」は抑圧・制限されるほかない。
支配者がやってきて大きな都市をつくったということはありえない。支配者は、大きな都市が生まれたあとから登場してくる。
民衆自身による「無主・無縁」の「混沌」の集団性のダイナミズムから古代以前の奈良盆地に大きな都市集落が生まれてきた。そしてそれは「暴動」を起こす集団性ではない。「暴動」は「結束」しているが、「連携」しているわけではない。そのとき誰もが他者のことなど忘れて自意識の発動にのめり込んでいる。「結束」という前提を持っているから、他者のことなど思う必要がない。それに対して「祭り」における「無主・無縁」の「混沌」の集団性においては、誰もが自分を忘れて他者とともにいることのときめきを共有しながら盛り上がっている。人と人は、そうやって「連携」してゆく。
諏訪の「御柱祭」をはじめとして、みんなで大きな神輿を担ぐことにしろ、日本列島の「祭り」は「連携」のダイナミズムの上に成り立っている。
暴動の後には、物理的にも精神的にもその成果としての「自意識の満足」がやってくるが、「祭り」の後はもう、「誰もいない」というさびしさが残るだけだし、だからこそその「喪失感」を抱きすくめながらふだんの暮らしにときめき合う関係を取り戻すことができる。「喪失感」を抱きすくめて「祭り」をはじめ、その終わりにはいっそう深く「喪失感」を抱きすくめてゆく。生きることは「喪失感」を抱きすくめてゆくことだし、そこからこそもっとも豊かなときめき合う集団性のダイナミズムが生まれる。
単純に「自己複製」が生物の進化をもたらしたといってもらっては困る。

ひとまず大げさにいってみるなら、日本人は「自分などというものはない」ということを最初に発見した人類だ、ということになる。大震災のときは、そうやって誰もが自分を捨てて粛々と助け合った。そういう日本的なチームワークは、じつは人類普遍の原始性=人間性でもある。そういう関係性=集団性は人類普遍の無意識として世界中の誰の心の中にもインプットされてあるのだが、文明社会の制度性がそれを封じ込めている。
原始性は、究極の未来像でもある。ポスト文明社会は、プレ文明社会でもある。なぜなら人間が人間でなくなることはないのだから。
「自我=自意識=主体性」の確立、という近代合理主義のコンセプトを覆す思考が、現在の世界で次々に提出されてきている。
「自分」などというものはない。言い換えれば「自分=心」とは、「自分=脳」の外にあるこの社会の歴史であり、この地球の歴史であり、この宇宙の歴史である、ということ。
「自分」が消えてゆくことによって、この社会この地球この宇宙があらわれる、すなわち「自分=この生」とはこの社会でありこの地球でありこの宇宙である……「世界のはじめに神々が次々にあらわれて消えていった」という古事記の冒頭の記述はそういうことをあらわしているわけで、日本列島の古代および古代以前の人々は無意識のところですでにそういうことに気づいていた。
「宇宙の生成」ということは、どのようなかたちであれ誰もが思うわけで、それは「この生とは何か」という問いでもある。この生は死ねばやがて宇宙の生成に吸収されてゆくというか、この生は宇宙の生成でしかないというか……そういう感慨は、じつは人類普遍のもので、心=意識」のはたらきが脳の外で生成しているかぎり、どうしてもそういう感慨は起きてくる。
人は、この社会で生成している「言葉」を自分のものにしてゆく。
赤ん坊が言葉を覚えるのは、自分の脳の外のこの社会で生成している言葉に「憑依」してゆくことであり、それは知能が高いかどうかという問題ではなく、この世界の輝きにときめいてゆく心の問題なのだ。だから、自閉症的な傾向というか自意識の強い幼児は言葉を覚えるのが遅い。
言葉は、「自分」が覚えるのではない、「自分」を捨てて自分の外の言葉に「憑依」してゆくことによって身に付いてゆく。
「自分などない」のが「心=意識」のはたらきの基礎であり究極のかたちなのだ。そのことを日本人は「隠れる」とか「消えてゆく」というイメージで考え、文化の伝統を育ててきた。日本的な「無」の思想。
神道における「神は隠れている」とは、「自分などない」ということ。神でさえ「自分がない」のなら、人間ならなおさらだろう。また「自分がない」ことの尊厳というものがある。それを日本人は「無私の精神」と呼んできた。
われわれの「心=意識」は、「脳=自分」から離れて「世界」に憑依して生成している。そういうかたちでしか「心=意識」のはたらきは活性化しない。

「天の配剤」とか「天命を知る」とかという。このときの「天」とは「神聖なもの」であって「神=ゴッド」のことではない。
人の心は「神聖なもの」によってつくられているのであって、「自分」がつくったのではない。
「天=神聖なもの」とはこの世界の「なりゆき」のようなことだが、その「なりゆき」は「神=ゴッド」が支配しているのではない。何ものにも支配されていないことを「なりゆき」という。支配する「存在」などない。「存在」などないことの「非存在」を「天=神聖なもの」という。
人の心は「非存在」を思う。「非存在」の「天=神聖なもの」に身をまかせるときに心は活性化し、「存在」としての「神=ゴッド」を思いながら停滞してゆく。たとえば、探究心というのは「わからないもの」に向かってはたらくのであって、「わかっているもの」など今さらわかろうともしないだろう。そのようなこと。
「自分」なんか忘れて何かに熱中してゆくときに、心のはたらきはもっとも活性化している。それに対して「自分」と「神=ゴッド」の関係の「秩序」に身を置きながら心が停滞してゆく。
「混沌」こそ「神聖」であり、「秩序」は俗っぽい。
「現象」は、永遠に「非存在」なのだ。「心」という「現象=非存在」、「非存在」の対象を支配することなんかできない。「心」が「存在=物質」である証拠があったら見せてもらいたいものだ。
われわれは、「心」という「なりゆき=現象」を「自分」で支配できるだろうか。「できる」という人は幸せだろうが、できないで途方に暮れているものだっているわけで、それは不自然なことだろうか。自分で自分の心を支配するなんてずいぶん窮屈なことだろうし、自分を忘れて世界の輝きに他愛なくときめいているときこそ心は解放されて自由であるのだろう。
「神聖なもの」とは「世界の輝き」のこと。「世界」は存在するが、「世界の輝き」という「現象」は「非存在」であり、それは、自分を忘れて他愛なくときめく心によって見いだされる。
だから神道においては、「かみ」は森羅万象に「隠れている」という。隠れて存在しているのではない、「非存在」であることを「隠れている」という。「隠れる」とは、消えてなくなること。「神聖なもの」とは出現し消えてゆくものであって、「存在」しているのではない。万物・森羅万象の生々流転のことを「天=神聖なもの」というのだし、日本列島の昔の人々はそれを「あはれ」とか「はかなし」といった。

もちろん人は「自分」という意識を持ってしまう存在であるが、意識を「自分」から引きはがすことによって意識のはたらきが活性化するのであり、それができないと意識のはたらきが停滞して生きていられなくなる。鬱病の人はそういう状態になっているはずなのに、世間ではどうして「自我の確立」とか「自分を大切に」などというのだろう。現在、そういう人間観が反省されつつある。というか、覆されつつある。
たとえば、テレビのコマーシャルソングが思わず何度でも口からこぼれ出てきてしまうことは一種の「ミーム」という「自己複製」だともいえるのだろうが、しかしこれは「私の心」といえるだろうか。それは、環境によってつくられた心の動きにすぎない。
言葉は社会に漂っているもので、そういう「情報」を収拾しながら人は言葉を覚えている。
言葉は脳にためこんで記憶されてあるのではない。そのつど思い出すのだ。つまり、そのつど「情報収集」するのであり、脳は「情報収集」する装置にすぎないのであって、「自分」を持っているわけではない。われわれは「自分」を「情報」として収集しているだけのこと。だから他人の自分に対する評価が気になるし、他人が喜んでいるのを前にして喜んだり、もらい泣きしたりする。赤ん坊の集団なんか、ひとりが泣けば、やがて集団全体で泣きだす。オオカミの群れだって同じだ。
「私のかなしみ」といっても、かなしみを「情報」として収集しているだけのこと。自分だけでかなしむことなんかできない。「情報」としてのかなしみを自分のかなしみにしているだけのこと。まあだから「人のことを思いやる」ということも起きてくるわけだが、人類が連携プレーをしたがるのは、そういう脳のはたらきの自然による。
「自我=自分」といっても、それ自体が社会に漂っている「情報」にすぎないのであり、社会に踊らされている人間ほど自我が強い。競争原理・闘争原理こそ人間性の基礎だ合意されている社会に洗脳されて自我が強くなってゆくだけのこと。
なんのかのといっても、みんな、こうしか生きられない、という生き方をしているだけのこと。
「自分」なんか、社会から与えられた「情報」にすぎない。

原始人と現代人と、どちらが厚さや寒さや痛みに強かったかといえば、もちろん原始人だろう。彼らのほうが自意識は薄かったし、自意識を引きはがすことをさせる社会の構造があった。暑さ寒さや痛みや空腹などに耐えるために、自意識を引きはがして「自分=身体」を忘れることをしないと生きられない環境だった。
「自分=身体」を忘れるためには、意識を世界に憑依させること、すなわち世界の輝きにときめいていなければならない。そうやって人は、意識を「自分=身体」から引きはがすことのカタルシスを体験する。
まあ日本列島は、「自我の確立」とか「自分を大切にする」とか「主体性」とかではなく、「意識を自分から引きはがす」原始的な文化をそのまま洗練発達させて歴史を歩んできた。そのようにして、たとえば大震災のときにもパニックを起こさず粛々と助け合う日本的な連携というか集団性が成り立っている。
日本列島の文化の伝統は、「自分などというものはない」というコンセプトの上に成り立っている。そしてそれは、現在の世界の最先端の思想のひとつでもある。人類は、人工知能を開発することによって、ようやくそのことに気づきつつある。
心などというものは、社会から受け取る「情報」にすぎない。それは、最近の脳科学においてもいわれているし、哲学ではその前からすでに「意識は身体=脳の外部で生成している」とか「自分の感情は他者の感情に憑依して起こる」といわれてきた。
正確には「自分はない」というよりも、「自分を消す」というべきかもしれない。そのカタルシスを「みそぎ」という。そうやって意識は、「自分=この身体=この生=この世界」の外の「異次元の世界」に超出してゆく。
人は「発見する」生きものである。そのとき心=意識は「異次元の世界」に超出してゆく。、つまりこの意識のはたらきにおいては「他者は存在する」のではなく「他者を発見する」のだ、ということで、そうやって驚きときめきながら献身し合ってゆくところに日本的な「連携」の集団性があり、それは人類普遍の原始性でもある。
人類は今、何かを発見しなければと焦っている。それが「パラダイムシフト」と叫ばれているゆえんだろうし、それができなければ科学の未来も民主主義の未来もない。
人間性の自然は競争原理・闘争原理にある」という共通認識のもとで自我の拡大を目指して発達してきた文明社会が今、自我を持て余しはじめている。