現代思想と古代以前の奈良盆地・神道と天皇(133)

奈良盆地最初の「箸墓」という弥生時代晩期の巨大前方後円墳は、「モモソヒメ」という女の皇族のもので、天皇のものではない。これが、何を意味するのか?
そのころもちろん天皇という言葉はなかったが、最初に祀り上げられていた天皇のような存在は女だったということを意味しているのかもしれない。
まあ僕はべつに歴史オタクでもないから何が史実かということを追求したいのではなく、日本列島の文化の伝統の基礎になっている古代人の心映えに推参したいのだ。
そしてこの姫は、みずからの性器を箸で突き刺して自殺した、という伝説になっている。セックスをしてしまった処女は、みずからの性器を破壊することによって処女であることを守って死んでゆく……この姫の夫が三輪山の蛇の化身であったことも、蛇=ペニスを象徴しているのだろう。
日本列島の文化の伝統は、処女の「悲劇性=異次元性」を祀り上げてゆくことの上に成り立っている。
起源としての天皇は「女」でなければつじつまが合わない。
巫女集団のリーダーのことを「きみこ」といった。そして巫女集団が大きくなってゆくと、引退した「きみこ」が統括するようになっていった。引退した「きみこ」だから「おほきみこ=おほきみ」という。それが古代以前の天皇の呼称で、大旦那大奥様の「おほ」、べつに「偉大」だからではない。「無主・無縁」の民衆社会には、「神聖=清浄」という概念はあっても、「偉大」という概念などなかった。
そうして「おほきみ」でも統括しきれなくなってきて、それをサポートする男のマネージメント集団が生まれてきて、それが権力社会になっていった。
舞の名手になるためには、幼いときから英才教育を施した方がよい。そうやって「おほきみ」の娘が「きみこ」を世襲するようになっていった。そうして権力社会では、誰が「おほきみ」の男になるかという争いになっていった。
「モモソヒメ」は、そういう状況から生まれてきた「おほきみ」の娘だったのだろう。

巨大前方後円墳の被葬者は古事記の記述によっているだけで、ほんとうは誰が埋葬されているかなんかわからない。べつに天皇でもない「モモソヒメ」や「イワノヒメ仁徳天皇の皇后)や、実在しない「ヤマトタケル」の墓になっている例もある。
おそらくほとんどがわからないのだろう。わからないから、宮内庁が調査させない。天皇家は副葬品を寄付しただけで、もしかしたら箸墓古墳は、そのころに死んだ民衆社会の処女=巫女が集団のシンボルとして葬られたのかもしれない。その巫女=処女のためにみんなで大きな墓をつくろうと盛り上がっていった、とか。そのころの日本列島には、骨だけになってから埋葬するという「もがり」の習俗があったから、1年後に葬ってもなんの問題もなかった。
巨大前方後円墳は、副葬品が豪華だからといって天皇が被葬者だとはかぎらないし、そのころに天皇がいたかどうかということさえわかっていない。
大化の改新のころには、もう大きな墓をつくってはいけない、という「薄葬令」がわざわざ出されている。支配者が造らせていたのなら、そんな御触れを出す必要なんか何もない。民衆が勝手につくっていただけだから、出さねばならなかった。そのころはもう、干拓のためというより前方後円墳をつくること自体が目的化していて、そんなことをするなら農地を開墾せよ、ということだったのだろう。農地にできるところまで前方後円墳にしてしまっていた、とか。
それほどに奈良盆地の民衆は、前方後円墳に愛着があったし、みんなしてひとつのことで盛り上がるエネルギーに溢れていた。これは、「祭り=遊び」のエネルギーであって、政治経済的なそれではない。そこのところで権力社会とはメンタリティの落差があったから、「薄葬令」が出されてきた。まあ、世界観や生命観そのものが違っていたのだ、仏教と神道くらいに。
古代以前の奈良盆地は、民衆の「無主・無縁」の「祭り」のエネルギーによって都市集落に膨らんでいったのであって、政治経済の目的によってではない。大和朝廷がつくり上げたのではない。大和朝廷が寄生してきただけだ。
箸墓古墳ができてから大化の改新まで約400年、それくらいの時間差があってしかも記録文書も残っていない時代のことなんか、いくらでも捏造できる。
古代以前の奈良盆地の民衆は、政治経済や宗教のこととは次元が違う自分たちだけの世界観や生命観の上に成り立った集団性の文化を持っていた。だから仏教に対抗して神道を生み出したのだし、けっして支配しやすい民衆ではなかったが、集団のエネルギーだけは日本列島で一番充実していた。
「支配=被支配」とか「階級」とか、そうした文明制度(=政治経済)の秩序よりも、原始的な「無主・無縁」で他愛なくときめき合う混沌とした集団性のほうがずっとダイナミックな盛り上がりを生むのだ。そういうことを古代以前の奈良盆地が証明している。彼らは、その干上がった土地の「清浄=神聖=みそぎ」に引き寄せられて集まってきただけであり、その他愛なくときめき合う「祭り」の賑わいによって、日本中のどこよりもダイナミックな集団性を生み出していった。
日本列島の住民は、伝統的に政治支配にすがって歴史を歩んできたのではない。したがって起源としての天皇が「支配者」であったことは論理的にありえない。支配者など存在しない社会で支配の秩序などない混沌のまま集団をいとなんでゆくためのよりどころとして天皇が生まれてきた。

人は「神聖なもの」を祀り上げずにいられない存在であり、そうした人間性の自然の上に天皇が生まれてきた。そのとき「神聖なもの=異次元性」は「きれい=清浄」にあり、人々はそれを「処女=巫女の舞」における「身体の輪郭の鮮やかさ」に見出していった。まあそれを発見する感性は奈良盆地の民衆が日本中でもっとも洗練発達していたのであり、その感性の基礎・根拠として「湿地帯の水が干上がって新しく清浄な土地が浮かび上がってくる」という自然環境があった。
そのとき奈良盆地は、この世のもっとも「清浄な場所=聖地」だった。
巨大前方後円墳の盛り上げられた土の姿もまた「神聖なもの」の象徴であり、その心映えをこめて天皇の墓として捧げられたわけで、小高い丘にすぎない天香久山等の大和三山も同じ心映えで祀り上げられている。そうして奈良盆地を取り囲む山々もまた、そうした「清浄な土地」を包んでいるものとして人々の目に映っていたわけで、神というならそれはまさに「神の姿」であり、そうやってとりわけ優美な姿をした三輪山が最古の神社といわれる大神神社御神体というか祭神になっている。
とにかく日本列島の伝統における「神聖なもの」は「この世界を支配するもの」ではないのであり、「処女の舞」に「神聖なもの」が表現されているという感動は世界中で共有されている。
古代以前の奈良盆地においては、「処女=巫女」は、「神聖なものを表現できる唯一の存在」だった。処女が神聖であるというのではない、その「姿」が神聖なのだ。彼らにとって「処女=巫女」は、奈良盆地という清浄な土地に遍在する「神聖なもの」を祀り上げてゆくためのよりどころだった。
天皇が神聖であるのではない、天皇の「姿」が神聖なのであり、「神聖なもの」を祀り上げてゆく心のよりどころとして天皇が存在している。天皇自身は「神聖なもの」の「入れ物」にすぎない、しかし「神聖なもの」は天皇に宿っている。

古代以前の人々のその気持ちはもう、現代人にはわからないのだろうか。支配者であればえらいとか、そんなものじゃない。えらい支配者などあらわれたことがない歴史を歩んできた人々が、そうかんたんにいきなりあらわれた相手にひれ伏すはずがない。さんざん暴君に悩まされた歴史を歩んできて、はじめてそういう気にもなる。
いや、日本列島には支配者を「神聖な存在」として仰ぐ伝統がない。そういう伝統があれば、もっと政治に関心がある国民になっている。天皇が支配者ではない歴史を歩んできたから、政治に無関心なのだ。日本人は天皇が政治の長だとは思っていない。
「神聖なもの」は「異次元の世界」にある。日本人の心は、すでに「憂き世」の外にある。だから政治に関心がないし、天皇は異次元的な存在だと思っている。
日本人に宗教心はないが、「神聖なもの」を祀り上げる歴史を歩んできた。政治にも宗教にも関心が薄いから、「神聖なもの」の「異次元性」を祀り上げる。
神が存在するということは、神は異次元の世界に棲んでいるのではないことを意味する。「存在する」とはあくまでこの世のことで、政治も宗教も、あくまでこの世のことにすぎない。それを祀り上げることはできない。
神道の「かみ」は、「隠れている=存在しない」ことによって神たりえている。「隠れている=存在しない」ことが「神聖」なのだ。

コンピュータは、どんなことにも「答え」を出してくれる。それは神(ゴッド)の仕事だから西洋人は人工知能を怖れているのかもしれないが、「答えがない」ことの「神聖」を思う日本人は人工知能に対する拒否反応があまりない。西洋人は、人工知能に神の座を奪われてしまうと思っているのだろうか。
この社会から宗教がなくなることはないかもしれないし、現在でもなお宗教は盛んであるが、それでも人工知能が登場してきた現代の思想は、「ポスト宗教」のビジョンを模索し始めている。
で、日本列島の伝統文化は、「宗教以前(の原始性)」であると同時に「ポスト宗教」の世界観や生命観であり、それを世界の人々は「クール」といっている。
人の心の不可解と不思議を思うなら、人工知能がどんなに賢くて完璧でも、そこに「神聖」を見ることはできない。賢くて完璧だから「神聖」であるのではない。「存在する」ことや「わかる」ことよりも、もっと「神聖なもの」がある。
「かみ」が棲んでいる「異次元の世界」は、永遠にわからない。コンピュータでもきっとわからない。人は、コンピュータにはない心の世界を持っている……そこのところを探すのも現代思想に課せられた問題にちがいない。
コンピュータの仕事が答えを出すことにあるとすれば、人の心は「わからない」というそのことを抱きすくめてゆく。おそろしく記憶力や計算力や予測能力に優れた自閉症の人やアスペルガーの人が、普通の人より人間性が豊かだということもないに違いない。
「わからない=存在しない」というその世界に「かみ」が棲んでいる。そういう「異次元の世界」を古代人は、われわれよりももっと深く思考していたらしい。そうやって「清浄=きれい」ということにときめいていた。そこから、天皇制の歴史がはじまっている。かんたんに「支配者としてあらわれた」といってもらっては困る。
「清浄」が基本的なコンセプトである神社は「異次元の世界」もしくはその入り口であり、もともと神道は「ポスト宗教」として生まれてきたのだ。
神道の「かみ」とは何かということを考えるなら、起源としての天皇は「支配者」であってはならない。天皇の起源が、そんな俗っぽいことであるものか。
神社の巫女がだんだん天皇のような存在になってきた……こんなことをいっても世間では認めてくれないだろうし、世界史の常識からも外れてしまっていることはわかっているが、日本列島はそういう変なところなのですよ。世界史の常識が当てはまるような場所なら、天皇も「かわいい」の文化も生まれてきていない。
政治経済や宗教だけの問題で古代以前の歴史を考えるべきではない。人々はつねにいたたまれないこの生からの解放としての「神聖なもの」に憧れてきたのであり、それこそが天皇の起源の中心的な問題であるし、世界の原始時代の歴史の問題でもある。そしてそれこそがじつは、宗教の神(ゴッド)を無限遠点の未来に追いやる「ポスト宗教」の問題でもある。
「ポスト宗教」という「世界の終わり」、そこから生きはじめることに「清浄=みそぎ」があるわけで、そうやって仏教に対する神道が生まれてきた。
ともあれここでは、「神聖なもの」を祀り上げようとする古代人の切実な思いになんとか推参したいと考えている。