「みそぎ」の作法・「天皇の起源」66


歴史の連続性、ということは誰もが考える。だから一部の歴史家は、縄文時代にも呪術があっただのすでに階級があっただのといったり、そのくせ「弥生時代は渡来人の影響で突然スイッチが切り替わった」だのといったりもする。
弥生時代にやってきた渡来人などほんの少しだし、彼らが文化や社会形態を変える勢力になっていったということなど考えられない。そんな勢力になったら、縄文以来の「やまとことば」も滅ぼされている。
だいいち、弥生時代の最初にやってきた渡来人は「ゼロ」なのである。それでどうしてスイッチが切り替わるというのか。
縄文時代は純粋に日本列島的な「森の文化」で、弥生時代は大陸の影響が加わった「ハイブリッドの文化」である、などという歴史家は多い。しかしそれはちょっと違う。
弥生時代だって、縄文時代をそのまま延長した精神文化だったのだ。
生産様式は森の採集生活から平地の農耕生活へと移っていったが、それだってべつに渡来人から教えてもらったものではなく、米づくりにしても縄文中期からすでになされていたし、人々の世界観や生命観は縄文時代からほとんど変わっていない。
日本列島の美意識や言葉の基礎は縄文時代にすでにつくられており、弥生時代はそれをさらに洗練させていっただけである。
縄文時代弥生時代の連続性をもっと考えてみるべきである。
弥生時代だって、「森の文化」だったのだ。森での採集生活をやめても、人々はなおも森に対する親密な感慨を共有しながら祭りを催し、集団をいとなんでいた。
そのような暮らしから、起源としての天皇が生まれてきた。
奈良盆地は、たおやかな姿をした山なみに囲まれ、清浄な気配を持った森があちこちにあった。そういう森を背にして人々が集まってくる祭りの場や交易の市(いち)が生まれ、それがやがて大きな都市集落に発展してゆくダイナミズムになっていた。縄文時代の延長の精神生活だったからこそ発展していったのだ。



弥生時代の日本列島は、奈良盆地がもっとも大きな都市集落になっていた。そういうことが纏向遺跡の発掘によって明らかになりつつある。
まあ今までは、九州王朝だの出雲王朝だの吉備王朝だのといって奈良盆地は後進地だったようにいわれたりもしていたのだが、それはもう成り立たない。
だいたい、弥生時代に「王朝」などというものがあったどうかということが疑わしい。
そのころの日本列島の住民は、まだ支配と被支配という関係を知らなかったのではないだろうか。なにしろ、そのような関係がない縄文時代を1万年も続けてきた直後の時代だったのだ。
支配者の権力によって民衆が連携結束してゆくというかたちは異民族の侵略の不安に絶えずさらされている状況から生まれてくるのであって、べつに人間集団は自然にそうなってゆくという法則があるわけではない。
弥生時代とは、そのような関係を知らない人々がどのようにして集団のダイナミズムを生み出していったのかという時代だったのだ。
多少は大陸との関係もあったかもしれない九州や出雲や吉備よりも、地理的に見てほとんどなかったはずの奈良盆地でもっともダイナミックな人口爆発が起きたのだった。
弥生時代奈良盆地には、ほとんど支配と被支配の関係はなかったはずである。そのころ三輪王朝とか葛城王朝とかがあったという説もあるのだが、まあ、支配と被支配の関係が好きな歴史家の勝手な妄想に違いない。
おそらく弥生時代奈良盆地に支配者などいなかった。ただもう、縄文時代の延長発展として、民衆自身のダイナミックな連携結束が生まれてくる状況があっただけであり、そこから起源としての天皇が祀り上げられていった。
もしもそのとき、すでに支配と被支配の関係があったのなら、天皇のような世界史的に見ても特異なカリスマは生まれてこない。
天皇が生まれてきたということは、支配者など存在しなかったということであり、そのとき民衆は、自分たちの連携結束の形見として、勝手に天皇を祀り上げていっただけである。「清浄な森」を祀り上げるように。



政治的な状況から起源としての天皇が生まれてきたのではない。
縄文以来の民衆の美意識によって天皇が祀り上げられていったのだ。
それは、政治でも宗教でもなかった。天皇の起源は、美意識の問題である。
弥生時代奈良盆地の人々が縄文時代の延長として「清浄な森」を祀り上げていった美意識は、穢れの自覚という身体意識でもあった。
人間にとっての身体意識の基礎は、二本の足で立っていることにある。それは、とても不安定で大きな負荷のかかるしんどい姿勢である。
人間は、みずからの身体の物性に対する疎ましさを無意識のうちに自覚して存在している。だから、身体の「物性=穢れ」を消そうとする衝動を根源において抱えている。
人間は、物性が消えた「からっぽの身体」で生きようとする。からっぽのまっさらな身体であろうとする。
そして人間が二本の足で立って歩くことは、身体の物性が消えてからっぽの身体になってゆく心地をもたらす。
日本列島の古代以前の人々はおそらくこの感覚を基礎にして「まっさらの清浄な森」を祀り上げていったわけで、奈良盆地はことにそういう原始性が豊かに残っている土地柄だった。
日本列島においては、支配と被支配の関係を確立した地域から先に発展していったのではない。民衆自身の連携結束が盛り上がってゆく地域から先に発展していった。それが奈良盆地だったわけで、なんとか王朝だのとくだらない妄想を語っている歴史家はみな、そういうことが何もわかっていない。
弥生時代奈良盆地では、人が集まってくる祭りの場の出会いのときめきを基礎にして、民衆自身のそのつどの「なりゆき」まかせの語らいによって集団がふくらんでゆき、集団が運営されていたのだ。
弥生時代は、支配制度や呪術が確立された停滞した時代だったのではない。
日本列島は、「なりゆき」の文化である。日本列島にそういう文化風土があるということは、支配制度や呪術によって計画的につくられてきた民族集団ではないということを意味する。
弥生時代奈良盆地は、「なりゆき」まかせで大きな都市集落になってゆき、さらには古墳時代になって「なりゆき」のうちに大和朝廷が生まれてきただけのこと。
そして天皇もまた、そうした原始的なおおらかでダイナミックな「なりゆき」の集団運営から生まれてきたのだ。そういう少々いいかげんな集団運営が成り立つような人と人の出会いのときめきが豊かに交錯する社会だった。
原始神道も起源としての天皇も、そういういわば原始的な、支配制度も呪術もない「なりゆき」まかせの社会から生まれてきたのだ。



べつに愛国心とやらでいうのではないのだが、日本列島には、原始的な人間性をそのまま洗練発展させてゆくことができた世界でも稀有な文化風土がある。
いまどきの歴史家は、「原始神道アニミズムだった」とか「大和朝廷は地方の豪族たちの連立政権だった」とか、どうしてそんなくだらないことばかりいっているのだろう。
弥生時代の日本列島は、もっとも原始的縄文的な地域である奈良盆地がもっとも発展していた。もちろん大きな都市集落になってゆくことができる地理的条件があっての上のことだが、それでも奈良盆地は平地といってもほとんどが湿地帯で、けっして生産性が高い地域ではなかった。しかし、原始的縄文的な人と人の出会いのときめきや清浄な森に対する親密な感慨は、どこよりも豊かに交錯している地域だった。つまり、そういう条件さえあれば政治や経済のことは「なりゆき」でなんとでもなった、ということだ。
何はともあれ人と人の出会いのときめきが豊かに起きている社会でなければ、大きな都市集落にはなってゆきようがないだろう。支配制度や呪術でそんなムーブメントが起こせるわけではない。
住民の出入りがめまぐるしければ、支配制度なんか定着しようがないではないか。しかもそのころの奈良盆地は、出てゆくものより入ってくるものの方が圧倒的に多かった。彼らは、そんな状況を、そのつどそのつどの「なりゆき」まかせでやりくりしていた。それほどに民衆どうしの祭りや語らいが豊かに起きている地域だった。
弥生時代奈良盆地は、最初から大きな都市集落だったのではない。どこよりもダイナミックに人口爆発が起きた地域だったというだけのこと。出雲や吉備や九州よりもずっと生産性は低かったのに、それでもずっとダイナミックな人口爆発が起きたのだ。
まあ、東京やニューヨークやパリが伝統的に第一次産業の生産性が高かったわけでもないだろう。生産性が豊かだということと、大きな集落になってゆく契機が豊かにそなわっているということと同じではない。
奈良盆地は、大きな都市集落になってから湿地帯の干拓などが進んで豊かな生産性を獲得していった。それまでは「清浄な森」のそばでの祭りや交易を基礎とした人と人の出会いのときめきが豊かに起きていただけであり、それが契機となって大きな都市集落になっていったのだ。
支配制度は集団が大きくなったことの結果として生まれてくるのであって、それが原因で大きくなるのではない。
人と人の出会いのときめきが豊かに起きている場所でなければ大きな集団は生まれてこない。弥生時代奈良盆地では、そういうこと起きる契機てして「穢れの自覚」という身体感覚が共有され、そこから「清浄な森」や「天皇」が祀り上げられていった。



まず、「穢れの自覚」という人間の本性としての「身体感覚」が共有されていった。このことによって弥生時代奈良盆地は大きな都市集落へと膨らんでいったのだ。
それはべつに、政治や経済の問題でも宗教の問題でもなかったし、さらには大陸文化の影響で人々の意識が変化していったのでもなかった。そういう類型的な歴史観弥生時代を語ってもナンセンスなのだ。
何はさておいても、どのようにして人と人がときめき合っていったのかということが問われなければならない。
弥生時代初期の奈良盆地はほとんどが湿地帯で、基礎となる大きな集団があったのではない。その人たちがそのまま産めよ増やせよでさらに大きな集団になっていったのではない。まわりの山々で小さな集落をつくりながら暮らしていた人々が山から下りて平地に集まってきたのだ。
そうして最終的には、列島中から人が集まってくる場所になっていった。その「結果」として湿地帯の干拓が進み、生産性が上がってゆき、やがては古墳時代になって大和朝廷が生まれてきた。
まず、山で暮らしていた仲間どうしが、山すそや湿地帯の浮島のようになった狭い台地に小集落をつくって住み着いていった。そうしてそのような小集落どうしは、山の中と違って比較的往来がかんたんだから、たがいに交流するようになってゆく。
見ず知らずの他人どうしでも警戒しないで他愛なくときめき合ってゆくのは、縄文以来の伝統である。海に囲まれた島国で異民族との軋轢がなかった日本列島では、そういうメンタリティが豊かに残されていた。
で、やがて、小集落のものどうしが一か所に集まって祭りや交易をするようになってゆく。
どこに集まるかは、誰もが縄文以来の伝統として共有している「清浄な森」がある場所だ。
そのようなことを繰り返しながら、奈良盆地全体がひとつの都市集落になっていった。
けっきょく、見ず知らずのものどうしが他愛なくときめきあってゆくメンタリティを持っていたからであり、そのメンタリティが集まる機能として、「清浄な森」のそばの祭りや交易の場があった。



ともあれ彼らが「清浄な森」へのあこがれを共有してゆくことができたのは、誰の中にも縄文以来の伝統としての「穢れの自覚」という身体感覚があったからだ。
縄文以来の伝統を豊かに持っていたから奈良盆地は大きな都市集落へと発展していったのだ。
弥生時代になって縄文人が山から下りてきた。出雲にしても吉備にしても、まず盆地で大きな集落になっていった。海沿いに発展していったのではない。渡来人の影響で発展していったのなら海沿いの地域が先でなければつじつまが合わない。
弥生時代は、渡来人がリードして大きな集落をつくっていったのではない。それまで湿地帯だった盆地の平原が気候の寒冷乾燥化によって干上がってゆき、縄文人が山から下りてきて大きな集落をつくっていったのだ。
なぜ山から下りてきたかといえば、彼らは1万年も続いた山の暮らしに倦んでいたのだろう。しかし平原はほとんどが湿地帯だったから下りるに下りられなかった。弥生時代初期の奈良盆地がほとんど湿地帯だったということは、干上がるのを待ちかねたように下りてきたということを意味する。また、そのころ気候の寒冷化によって木の実がなる樹木が減っていったということもある。だから、盆地で暮らしながら食糧は山に木の実を取りにゆくということはできなかった。もう、平地で農業をするしかなかった。農業を知らないわけではなかった。そんなことは、縄文時代からずっと遊びでやっていた。しかし、山の中の暮らしでは農業を本格的にできる場所などなかったし、まあ木の実がたくさんとれる時代ならそれで間に合わせた方が楽だし効率的だった。
それでも彼らが縄文時代からすでに遊びで農業をしていたということは、そのときすでに山の暮らしに倦んでいたということでもある。
まあ、1万年も続けば山の中の土地も穢れがたまってくるし、彼らはすでに平地で暮らすことができる技術もメンタリティも持っていた。そして1万年のあいだ大きな集団を持ったことがなかったといっても、他愛なく人にときめいてゆくメンタリティはたっぷり持っていたのであり、それがあれば「なりゆき」でなんとかなる。
共同体の制度の意識などなくても人間は大きな集団をいとなむことができる。現在だって、スタジアムに10万人が集まる「なりゆき」の集団をつくっているではないか。そこは、制度によってではなく、人と人が他愛なくときめきあってゆくことの上に成り立っている。
人間の「ときめく」という心の動きは、二本の足で立っていることの「穢れの自覚」から生まれてくる。「ときめく」とき、穢れがそそがれて身体がまっさらになったような心地がする。そういう身体感覚である。



身体の物性が消えて、身体がからっぽの「空間の輪郭」になったような心地。これが「みそぎ」の身体感覚であり、弥生時代奈良盆地の人々は、祭りの場の「清浄な森」の前に立ったときにそういう心地に浸されていった。
「みそぎ」という言葉は、何も神道の神事の用語として生まれてきたのではない。古代以前の人々の身体感覚から生まれてきた言葉だった。
「みそぎ」をそのまま解釈すれば「身を削(そ)ぐ」ということになる。すなわち身体の物性が消えてゆく心地のこと。
「そ」は、「すきま」とか「からっぽ」というようなこと。「空(そら)」は、どこまでもからっぽの空間だからだ。「楚々(そそ)としている」とは、存在感が薄いこと。「添(そ)う」とは、くっつかないで「すきま」をつくって並んでいること。「染(そ)まる」とは、もとの色が消えてしまうこと。
古代人は、身体の物性が消えてゆく心地のことを「みそぎ」といった。彼らにとって「清浄な森」は、そういう心地に浸される場所だった。
二本の足で立っていることの「穢れ」を負っている人間にとってそこから歩いてゆくことはひとつの「みそぎ」の行為であり、この原初的な身体感覚が彼らの美意識の基礎になっていた。
祭りとは「みそぎ」である。俗世間を生きるこの身体の「けがれ」をそそぐ行為だ。縄文以来、これが日本列島の住民の生きる作法の基礎になっていた。
縄文時代の祭りは、旅をする男たちの小集団が女子供だけの小集落を訪ねていったときに生まれていた。男女が向かい合って酒を酌み交わし、歌い踊った。
山の中の小集落であれば、そうそう大々的に近在の集落から人が集まってくるというようなことは起きない。山をひとつふたつ越えてゆくということは、女子供にとっては決してかんたんなことではなかったはずだ。
男たちは山の中の小集落の暮らしに倦んで旅に出、女たちは、訪ねてくる旅人を歓迎した。それが縄文時代のはじまりで、誰もが山の中の小集落の暮らしに倦んでいたし、だからこそその「けがれ」に対する「みそぎ」として「出会いのときめき」を豊かに体験していった。
「けがれ」をそそぐこと、すなわち「みそぎ=祭り」は、縄文時代のもっとも大切な生のいとなみだったといってもよい。
そして弥生時代奈良盆地でも、その延長で「清浄な森」での祭りをより洗練発展させていった。
そこは、人人の出会いのときめきが豊かに起きる場所だった。神に何かをお願いするとか、そんなことは彼らの頭になかった。彼らの願いは、ただもう、この生の「みそぎ」を果たすことにあった。



縄文・弥生時代は、そういう「身体感覚」で動いていた。
であれば、彼らの祭りのもっとも大切な行事は、「踊る」ということにあったはずである。
縄文以来の伝統の作法としては、男女が向き合って踊るというかたちがメインだった。それは、セックスのパートナーを決めるという手続きでもあった。
古代の「歌垣」は、男女が向き合って並び、男が女に歌を差し出すという、まあ「合コン」のような習俗だった。
では、その歌は、相手の女の美しさをほめたたえ自分のときめきを熱く表現するものだったのかといえば、そうでもなかった。彼らは、そのときのまわりの景色に対する感慨を表現していった。つまり、その場に立って「みそぎ」が果たされているわが身の状態を示すことが大事だった。そしてそれこそが「出会いのときめき」の表現でもあった。その出会いによってわが身の「みそぎ」が果たされているということを表現できなければ、女の心を動かすことはできなかった。
男が俗世間の「けがれ」を引きずっているのであれば、女の心は動かないし、セックスをする甲斐がないと思う。
男はわが身の「みそぎ」を表現して見せないといけない。それが、出会いのときめきを深く感じていることの証だった。そして「あなたと出会って身も心もさっぱりしています」ということは、それほどにまわりの景色に身も心も洗われている、ということでもあった。
まあ、あまり直接的な愛の表現をしないのが日本列島の伝統だ。それはもう、縄文時代からはじまっていたのだろう。それは、「けがれ」を深く自覚しているからであり、その「みそぎ」こそが男女の出会いのもっとも大切な作法であると同時にもっとも大切な生きることの作法だったからだ。
であればその踊りの作法もまた、それほどあからさまに跳びはねたりはしなかったはずである。能舞や日本舞踊など、そういう踊り方の伝統は、この島国には残っていない。
踊ることも「みそぎ」の作法だったはずだ。
彼らにとっては「歩く」という行為が基礎的な「みそぎ」の作法だったのであれば、このかたちを洗練させて舞の作法が生まれてきたにちがいない。
弥生時代奈良盆地の舞の作法は「みそぎ」の表現にあった。まず、このことを確認しておきたい。おそらくこれが、奈良盆地天皇が生まれてきたことの契機になっている。
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