米作りの歴史・かなしみとときめきの文化人類学15


稲作という集団農業が本格化したことが弥生時代のはじまりではない。
山で暮らしていた人々が平地に下りてきた、ということがはじまりです。
稲作によって人口が増えたのではなく、人口が増えたから稲作が本格化していったのです。
弥生時代初期の奈良盆地ではおそらくほとんど稲作はしていなかったし、平地で暮らすということすら本格的にははじまっていなかった。ほとんどの人は、まだまわりの山の中で暮らしていたのです。それでも平地の湿地帯の中の狭いスペースに人々が集まってくるお祭り広場をつくっていった。
平地(おもに盆地)にお祭り広場をつくっていったのが、弥生時代のはじまりです。
縄文時代以来、もともとお祭りが好きな人たちだったのです。
お祭りとは「もうここで死んでもいい」というカタルシスを体験する場所。だから、「喧嘩まつり」とか、どんどん危険なものになってゆく。
山から下りてきた人々の心は、そうやって華やいでいった。それが、はじまりです。
人の心が華やいでゆくのは、明日も生きてあるという希望を得る体験ではなく、「もう死んでもいい」というカタルシスを汲み上げる体験にある。
人類の歴史には、死に対する無意識が作用している。まわりの山に住む弥生人奈良盆地に下りてきたのも、湿地帯のきらきら光る水面が誘惑したのであり、それは死に誘惑されたということです。べつに農業をしようという目的があったのではない。下りてきてから農業をするような状況になっていっただけです。



弥生時代は、米作りとしてはじまったのではない。人の心が華やいでゆき、人口が増えていったことの結果として米作りが本格化してきた。
米作りはすでに縄文時代からなされていて、それはまあお祭りというか趣味か遊びのようなかたちでなされていただけだったが、弥生時代になってもやっぱりその延長でやっていただけだった。弥生時代はじめの奈良盆地の人々の主食だって、おそらく山の木の実だった。
弥生時代のはじめの奈良盆地は一面の湿地帯で、田んぼや畑をつくるスペースはほとんどなかった。それでも人々はそこに下りていって華やいでいった。そうして湿地の水が干上がってゆくにつれてそこを田んぼや畑にしていったのだが、その田んぼや畑をつくってゆく土木工事自体が、彼らのお祭りだった。
もちろんそのころ人が増え、しかも気候が寒冷乾燥化して山の広葉樹が減り、主食の木の実が不足していたということもあるが、その土木工事によって人々の心が華やぎ見知らぬものどうしが親しくなってゆくという効用があったのでしょう。それこそが奈良盆地で稲作農耕が本格化してゆく契機になった。
食い物に関する人間の本性=自然としては、なきゃないでそれに合わせてやりくりしてゆくという流儀で歴史を歩んできたのです。食い物を確保しようとすることよりも、「もう死んでもいい」というカタルシスに向かって心が華やいでゆく体験とともに人類の歴史が動いてきた。田や畑を作る土木工事にそういう体験がなければ活性化しなかったはずです。
ただ生きのびるために食い物を確保しなけれならないという理由だけなら、抜け駆けして自分だけ確保しようとするものや、なきゃないでいいじゃないかというものが生まれてきてしまう。人間は、そんなことは二の次にしてみんなで華やいでゆこうとするから、ダイナミックな協力関係が生まれてくる。
外国ではよく大災害のあとの地域が無法地帯になってしまうことがあるらしいけど、生きのびるために食い物を確保することが第一に発想されるなら、そういうことになってしまうのがとうぜんです。人間は、食い物の確保のために協力するのではない、協力することのカタルシスを体験できる存在だから、食い物を分け合うことができる。
奈良盆地では、みんなで華やいでゆこうとしたから、田や畑をつくる土木工事が活性化していったのだし、それが原初以来の普遍的な人間の生態だったのです。
まず、みんなで華やいでゆく、という体験があった。



すべての日本人が米を主食にできるようになったのは、つい最近のことです。
江戸時代の農民にとっての米は、お祭りのときの食べ物だった。
多くの日本人は、「米はお祭りの食べ物である」という意識で歴史を歩んできた。
だからこそ、武士の給料が石高で示されたように、米が貨幣の代わりにもなってきた。
弥生時代の人々だって、お祭りの食べ物として米をつくっていただけでしょう。
そして、お祭りとして田や畑をつくる土木工事をしていった。
日本人は、田んぼをつくるのが好きです。山の斜面にみごとな「棚田」の風景をつくってしまったりする。田んぼをつくることも米をつくることも、お祭りだからでしょう。食い物を確保するという目的なら、米作りはあまり効率的ではない。
人間は、生きのびるためのいとなみよりも、心が華やぐお祭りを優先してしまう。
心が華やぐとは、自分も生きてあることも忘れてしまうということ。古代以前の日本人にとって米なんか、生きるためのものでもなんでもなかった。生きることなんか忘れてしまうくらい心が華やいでゆく体験をしながら暮らしていた。
日本人は、縄文時代来、ずっと「もう死んでもいい」という気分に浸りながら歴史を歩んできた。そこから、「あはれ」や「はかなし」や「わび・さび」といった美意識が生まれ育ってきた。そこにこそ、心が華やいでゆく契機があるのです。



弥生時代のはじまりは、新しいお祭りのかたちが生まれてきたことにある。
まあ、山を下りてゆくということが、ひとつのお祭りだった。
なぜ奈良盆地でそうしたお祭りが活性化し、日本中からたくさんの人が集まってくるようになったかといえば、初期のそこが住居集落ではなく、純粋なお祭り広場の性格が濃い場所だったからでしょう。
だから、よそ者がやってきやすい雰囲気があった。とりあえずそのお祭り広場の隅か外れに掘っ立て小屋をつくって逗留することができた。ともあれそこでは、誰もが見ず知らずのものどうしだった。
そして日本中から人が集まってくれば、いろんな珍しい情報や産物も集まってきて、さらに祭りがにぎわってゆく。
たとえば九州からやってきた人がその掘っ立て小屋で珍しい土器をつくっていれば人がのぞきに来るし、九州のいろんな話を聞くことにもなる。そんな体験ができたのも、そこが住居集落=村ではなかったからでしょう。
そこは、誰のものでもない土地だった。そういう「市(いち)」のにぎわいとして弥生時代がはじまった。
人と人が他愛なくときめき合ってゆく場所として、そこがやがて大きな都市集落になっていったのです。
奈良盆地の最初は、生きのびようとする目的も誰かの政治的な支配もないまま、ただもうみんなで心が華やいでゆく場所だったわけで、そういう混沌とともに大きな都市集落になっていった。



混沌の中でこそ、人の心は華やいでゆく。
弥生時代は生きのびるための方法論を追求していった時代ではないし、共同体(国家)という秩序が生まれてきた時代であったのでもない。
ひとまず縄文時代が終わったことの混沌を生きた時代だった。その混沌とともに、奈良盆地では大きな都市集落が生まれてきた。
国家が生まれ権力が生まれてくるのは、古墳時代に入ってからでしょう。奈良盆地の水があらかた干上がって、余剰の生産物(米)を蓄えることができるようになってからのことでしょう。それによって王権や軍隊を形成してゆくことができた。
しかし、万葉集にも「豊葦原の瑞穂の国」などという言葉があるくらいだから、そのころにもまだ葦原の湿原はたくさん残っていたのでしょう。
ともあれここでは、大和朝廷という国家が生まれてくるいきさつについて考えるのはやめておきます。
問題は、人の心は「もう死んでもいい」というところに向かって動いてゆくということです。そういう心の動きとともに「市(いち)」という場の賑わいが活発になっていったのが弥生時代です。
「市」の賑わいとともに弥生時代がはじまったといってもよい。
奈良盆地には日本中からたくさんの人が集まってきて、人口が爆発していった。奈良盆地というか畿内弥生時代にもっとも大きな人口爆発が起きた地域であるということは、考古学の証拠として定説になっています。
ただ出産の増加だけのことなら、ほかの地域とそれほど大きな変わりはないはずです。奈良盆地は、それに加えてどんどん人が入り込んでいた。もともと湿地帯で、ほかの地域以上に人口の少ない場所だったともいえるわけで。



弥生時代後期最大の考古学遺跡である纏向遺跡三輪山のふもとにあって、そこは邪馬台国だったなどともいわれていますが、どうやら当時の奈良盆地でもっとも本格的な「市」という祭りの場であったらしい。
そこは、今でも海石榴市(つばいち)という地名が残っていて、とにかく、どこからともなくたくさんの人が集まってくる場所だったわけです。
そこが、奈良盆地の中心ではなく南東の山のふもとの平地だということも気になります。
そのころになってもまだ山で暮らしている人がたくさんいて、みんな山伝いの道を歩いてここにやってきたのでしょう。
おそらく奈良盆地の平地にはまだ、人が自由に往来できる道は整備されていなかった。船の交通のほうが主だったのでしょう。纏向遺跡には、船着場も用意されていたらしい。
しかし、誰もが船を持っているわけではない。西のほうの葛城・生駒山の人たちもきっと、山伝いにまわってきていたのでしょう。
というわけで、山のふもとのほうが、市の賑わいになりやすかった。そしてそこは、川の扇状地だったから、いったん川が氾濫したら水浸しになる可能性があった。そのせいか、住居集落の跡はまだ発見されていません。なかったのかもしれない。
中心には、高床式の神殿のような建物が並んでいたらしいが。おそらく、祭りの舞台や人々の集会所や倉庫や工房になっていたのでしょう。
しかし、そのような地理的環境だったのなら、弥生時代奈良盆地に余剰の米を生産するだけの能力はなかったはずです。したがってそこに王朝などという搾取の権力が存在していたことは考えられない。
みんなその日暮しでわいわいがやがややっていただけでしょう。それでも祭りの賑わいが生まれる場所としての壮観にはなっていて、みんなで協力して土木建築の工事をしていたのでしょう。
歴史家は、どうしてそこを王朝跡というのだろう。王朝というのは、そんなにも胸躍るロマンなのですかね。
おそらく、そんなえげつない権力など、まだ発生していなかったのです。
もしそこが王朝なら、その周囲にそれを守って民衆の集落がずらっと並んでいたはずです。
そこは、誰の土地でもなかった。どこからともなくたくさんの人が集まってくる「無主・無縁」の「市」だった。



「無主・無縁」、すなわち見ず知らずの人どうしが他愛なくときめき合ってゆくメンタリティと場を持っていたことこそ、弥生時代奈良盆地人口爆発が起きた第一の契機だったのではないでしょうか。
権力による秩序がすでに出来上がってしまっていたら、そこまで野放図に人口が増えてゆくことはないし、そうかんたんによそ者がやってこられる場所ではなかったはずです。
奈良盆地の民衆が語り合っていた話を編纂してつくられたという古事記という物語は、日本中を舞台にしています。そんな話は、奈良盆地からしか生まれなかった。そういう話をつくることができるくらい、日本中から人が集まってきているところだった。古事記と同じような性格の物語である地方の風土記は、すべて地方が舞台になっているだけです。
見ず知らずの人どうしが他愛なくときめき合ってゆくメンタリティは、縄文以来の伝統であり、異民族との軋轢を体験してこなかった伝統でもあります。
つまり、そうかんたんに「王朝」などというものが生まれてこないのがこの国の風土だったのです。



その纏向遺跡には、「箸墓」という、奈良盆地最初の巨大前方後円墳があります。
それが卑弥呼の墓だったのだといっている歴史家もいるのだけれど、卑弥呼なんか魏志倭人伝に書かれてあるだけで実在したかどうかなんてあやしいものであり、日本人がそれらしい伝説を語り伝えてきたという痕跡もまったくない。
その箸墓の被葬者として語り伝えてこられたのはモモソヒメという天皇家の姫君で、三輪山の神と結婚したが去られてしまい箸を性器に突き刺して自殺した、という話です。
まあ、架空のつくり話ですよね。
そして、架空の人物なのでしょう。
日本人はこういうありえない話をつくって信じてゆくのが好きなのだけれど、この墓の被葬者なんか誰でもよかった、ということを意味します。もしかしたらこの墓は、纏向遺跡が水浸しにならないための水よせ場としてつくられたのかもしれない。そしてモニュメントとして飾り立てるために、そういう架空の人物の墓だということにしていった。
また箸墓からはたくさんの吉備の土器が出土していて、箸墓は吉備の人がつくったなどともいわれているのだが、それは違う。その土器は、吉備から運んできたのではなく、吉備の人が奈良盆地やってきて焼き、それがその当時の人気になっていたのかもしれない。しかし箸墓そのものは、べつに吉備の人がつくったものではない。前方後円墳は、あくまで奈良盆地から生まれてきたものです。
巨大前方後円墳は、最初は天皇の墓でもなんでもなかった。民衆自身でつくった、たんなる干拓のための土木工事の結果だった。たぶんモモソヒメの伝説は民衆が大いに気に入っていて、もはや天皇家が変更することもできなかった。
こんなありえない話を本気で信じて語り伝えてゆくのも、「かなし」の感慨です。その「ありえない」ということに、すでに喪失感が含まれています。その喪失感を抱きすくめながら信じてゆくのが「かなし」の感慨です。
その喪失感を抱きすくめながら、心が華やいでゆく。
古事記だって、荒唐無稽のありえない神を信じてゆくことのカタルシスとして紡ぎ出されていった。
日本列島の村の寄り合いなんか、話はもつれにもつれて、最後は「庄屋さん、あんたが決めてください、どんな結論であってもわれわれは従います」というところに落ち着いてゆく。これもまた、自分の意見を喪失することによってかえって気持ちが昂揚してゆく、という日本的な生態なのでしょう。
あの、負けるとわかっている太平洋戦争に突入していったときの会議にしても、おそらく、誰もが自分の意見を押し殺して場の空気(なりゆき)にしたがっていったのでしょう。もう、すでに日本中がそういう空気になってしまっていた。
心は、現実のこの世界からはぐれていってしまう。その喪失感を抱きすくめながら華やいでゆく。そうやって奈良盆地の人々は、モモソヒメの伝説を語り継いできた。
だいたい、あの前方後円墳の建造という干拓事業を墓作りだということにして合意していったこと自体が、喪失感を抱きすくめながら華やいでゆく作法だったのかもしれない。
彼らは、山の中の現実の生活世界からはぐれて、奈良盆地の非日常のお祭り世界に入っていった。弥生人はもう、そんなことばかりやっていた。そしてそれが、縄文以来の伝統でもあった。
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