もう死んでもいい・かなしみとときめきの文化人類学14


人間が焚き火に親密な感慨を抱いたり、きらきら光るものが好きになったりするのは、それによって無意識のところで「もう死んでもいい」という気分になっているからでしょう。
まあ一般的には、世界が輝いて見える体験は生の充実のように解釈されているのだが、それはあくまで近代人の自意識による観念世界に話で、人間の無意識は死に対する親しみとともに華やいでゆくのだろうと思えます。
「もう死んでもいい」という「かなし」の感慨こそ、縄文以来の日本列島の文化の通奏低音であり、心はそこから華やいでゆく。
人間の無意識は死との関係に浸されているから人殺しや戦争が起きるし、自殺することもできる。
また、だからこそ、自分の命なんかそっちのけで他者を生かそうともする。
「かなし」とは、死と和解してゆく心です。けっきょく人の心はそこに向いてゆくようにできている。したがって、生きのびようとすることが本性だとはいえない。
死と和解してゆくことは、生きてある自分を消してゆくことです。自分を忘れて世界や他者に憑依してゆくことが、「ときめく」ということです。
人の心は「もう死んでもいい」という地平に向かってゆく運動だからこそ、人は、我を忘れて何かに夢中になってゆくということを豊かに体験できる存在になってきた。人間は、自分を忘れようとしている。それほどに生きてあることやみずからの身体に対する嘆きを深く抱えてしまっている存在です。
つまり人の心は自分=身体という「日常」を忘れた「非日常」の世界に入っていってしまうということ、そうやって人類の知性や感性が発展進化してきた。
原初の人類が地球の隅々まで拡散していったことも、縄文人が山の中に入っていったことも、「もう死んでもいい」という「非日常」の世界に入ってゆく体験だった。そうやってセックスをやりまくってきたのが原初の人類の歴史だったのであり、その歴史の中から「かなし」の感慨を深くしてきた。



縄文人は「もう死んでもいい」という感慨を深く抱いている人々だった。
そこから、次の弥生時代に移行していった。この連続性について、歴史家はあまり深く考えていない。
戦前は、大陸から人がたくさんやってきてそれが弥生人になっていった、というような安直な解釈ですませていたが、考古学の発掘調査が進むにつれて、いまやもうそんなことはいえなくなってきている。
とくに大和朝廷が生まれてきた奈良盆地などは、出雲や北九州などの日本海側の地域と比べて大陸とはほとんど関係がない内陸部です。そこでもっとも進んだ都市国家が生まれてきたということは、弥生時代古墳時代の文化の発達は縄文時代からの連続性によってもたらされたということを意味する。
大陸の影響によるのではない。まあ鉄器などの輸入があったにせよ、都市国家をつくってゆくということ、すなわち日本的な人と人の関係性の文化は、あくまで縄文時代からの連続性で発達してきたのです。



弥生時代に大陸からやってきた人なんか、ほんの少しです。一割にも満たない、といっている人もいる。大陸の影響で弥生文化が発達したと思いたい人はどうしても渡来人の数を多く見積もろうとするが、じつは、弥生時代にやってきた渡来人はみな、日本人が向こうにいって連れてきただけなのです。
対馬というところは朝鮮半島とは目と鼻の先で、対馬から朝鮮半島の山影が見えます。九州本土からはずっと遠く離れています。なのに、どうしてそこが朝鮮にならなかったのでしょう。対馬の人はみんな九州弁で、朝鮮の言葉などほとんど使われていない。
つまり弥生時代朝鮮半島の人は、対馬にすら来ることができなかったということです。もしもそのとき日本列島本土に縄文人の数を凌駕するほどの渡来人がやってきていたのなら、対馬なんか完全に朝鮮人ばかりになっているはずです。
であればそれは、九州本土から対馬朝鮮半島に行く船はいくらでもあった、ということを意味するはずです。
後世の日本人が対馬にやってきて対馬に住む朝鮮人を全部追い払ったという史実などあありません。侵略者は、ひとまず現地人を支配してゆくわけで、その愉しみがなくてなんで侵略などするものか。
近代におけるヨーロッパからのアメリカ大陸への殖民のようなことは、弥生時代にはなかったのです。あるはずがありません。
弥生時代朝鮮半島の人々は、対馬にすら来ることができなかった。
あのへんは、玄界灘の荒海ですからね。
それでも弥生時代朝鮮半島のものが輸入されていたとしたら、日本人が朝鮮半島まで渡っていっていたのであって、朝鮮半島から人が来て持ち込んだのではない。
そしてそのころに、朝鮮半島の珍しいものと交換できるものが日本列島にあったのかといえば、おそらく何もなかったでしょう。あったのは、人間だけです。おそらく、女を連れて行ったのでしょう。そして向こうの珍しいものや技術者を積んで戻ってきた。
女は、向こうの権力者などに愛人として歓迎されたことでしょう。
九州には「からゆきさん」という外国に連れられてゆく女の呼び名が伝統として残っています。江戸時代だって、九州にやってくるヨーロッパの商人や宣教師は、九州(とくに長崎)の女を買うかだますかして連れて行って中国や東南アジアで売り飛ばすというようなことをよくしていたらしい。



弥生時代には、日本人が朝鮮半島まで出かけていっていただけなのです
それほどに日本文化が後れていたということもあるが、それほどに日本人は進取の気性があったということでもあります。その進取の気性は、もちろん大陸人から教えられたものではなく、縄文人から引き継いだものです。
日本文化や歴史の孤島性というものがあり、だからこそ見知らぬ文化に対する進取の気性も豊かになっていった。玄界灘は荒波です。だから大陸の人は日本列島に向けて舟を漕ぎ出すということをしなかったし、日本人は命と引き換えにでも漕ぎ出していった。
縄文人は、住みにくさも厭わずに山の中に入っていった。そして山の向こうからやってくる見知らぬ旅人に他愛なくときめき歓待していったし、つらい山歩きをものともせずに山の向こうにたずねていった。そのメンタリティで、朝鮮半島まで漕ぎ出して行ったし、一部の女たちは朝鮮半島に売られてゆくことを受け容れていった。
まあ女は、猿の時代からよその集団に入ってゆくことを嫌がらないメンタリティを持っていた。「もう死んでもいい」という気分になって、死と和解してゆくことができる存在だからです。女の中のそういう感慨が、縄文時代の1万年によってすでに熟成されていた。
また、男たちが玄界灘の荒波の中に漕ぎ出してゆくことだって、「もう死んでもいい」という気分にならなければできることではなかったはずです。
とにかく、大陸からの渡来人が弥生時代をリードしていったのではない。縄文時代の延長として胎動していったのです。
そこのところを、歴史家は何も考えていない。



「もう死んでもいい」という感慨こそ人類史の基礎であり、日本列島の文化の伝統の基礎なのです。そこでこそ人の心は華やぎ活性化する。
縄文人は、弥生時代になって山から下りていった。
1万年も続いた歴史を、なぜそこで終わらせたのか。
大陸から人がやってきたからじゃない。
少なくとも、弥生時代のはじめに奈良盆地にやってきた大陸人なんかひとりもいなかった。
そこは、ほとんどが湿地帯だった。そうして水が干上がってゆくにつれて、まわりの山々で暮らしていた人々が下りてきて住み着いていった。で、その暮らしのダイナミズムによって、日本中から人が集まってくるようになってゆき、やがて古墳時代のころには大和朝廷を中心とした都市国家が生まれてきた。
縄文時代の終わりころから、気候が寒冷乾燥化してきていた。そうなると、山には縄文人の主食であった木の実のなる広葉樹が減って針葉樹が増えてきます。そして、そのころになってようやく湿地帯になっていた平地の水が干上がってきた。
弥生時代の大きな集落は、だいたい盆地にありました。それは、山から下りてきた人たちによってつくられていたことを意味します。



縄文社会はもともと東北地方に人がいちばんたくさん住んでいたのだが、後期になると南に移動してゆく動きが生まれてきました。それは、冬が長くなったのと、木の実がなる広葉樹が減って冬を越せるだけの木の実が蓄えられなくなってきたからかもしれない。
まあ、あまり長く閉じ込められていると、人の気持ちも煮詰まってくる。
縄文後期から弥生時代の初期にかけては、奈良盆地のまわりの山々にたくさんの人がやってくるようになった。
そしてなぜそこに住み着いていったかといえば、そこから湿地帯の水を眺めて暮らすことができたから、ということもあるかもしれません。そのきらきら光る水面に心が癒されるものがあった。そういう「かなし」の感慨があったのでしょう。
山で暮らす縄文人はずっと、盆地の水面を眺めながら暮らしてきたはずです。そしてそのきらきら光る水面にあこがれ続けてきた。水が干上がってくれば、そこに立ちたいと思うのはとうぜんです。
しかし、すぐにそこに住み着けるわけではない。いったん干上がっても、雨が降り続いて川が氾濫すれば、たちまち水浸しになってしまう。弥生時代中期までは、そのようにして集落が放棄されることが何度も繰り返されていた。
そこはまあ、定住集落というよりは、人が集まってくるお祭り広場だったはずです。その中心の建物の多くは、高床式になっていた。いつ地面が水浸しになってもかまわないように、ということでしょう。それは、倉庫であったり、お祭りの舞台であったり、人々の集会所であったりした。
その時点では人々はまだまわりの山の中で暮らしていたが、いつもそこに人が集まってきていた。集まってきて、わいわいがやがやするのがみんな好きだった。そこは、そういう気分にさせてくれる場所だった。縄文時代からずっとあこがれ続けてきた場所だったし、たおやかな姿をしたまわりの山なみを眺めていれば、「もうここで死んでもいい」と思えた。
最初はまず、その体験があったはずです。住居はおろか、田んぼや畑をつくることもできない場所だったのです。
人々はまず、お祭り広場をつくった。
後期になって、ようやく田んぼや畑をつくることができる場所が生まれてきて、人が住み着いていったのは、そのあとのことです。


「住(す)む」は、「澄(す)む」でもあります。つまり、水が干上がったあと(=澄む)に住み着いていった。弥生時代は、日本中どこでも、水が干上がったところに住み着いてゆくということをしていたのでしょう。それはつまり、最初にそのきらきら光る水面に魅せられていったという契機があることを意味している。
それまでの日本人は、一面の平原、という場所を知らなかった。そういう場所は、すべて湿地帯だった。
まほろば」とは「見晴るかす場所」というような意味です。「大和は国のまほろば」というとき、こんな場所はほかにはない、という思いが込められているのでしょう。
まほろば」は、べつに「理想郷」とか「実り豊かな土地」というようなことを意味したのではない。人は、そんな生きるための利益に「かなし」の感慨を寄せてゆくのではないし、「かなし」の感慨こそがそこに住み着いてゆくいちばんの契機になっている。
縄文時代前・中期の奈良盆地のまわり山なんか、それほどたくさんの人が住み着いている場所ではなかった。なのに、弥生時代後期の水が干上がってゆく奈良盆地にあれほどたくさんの人々が住み着いていったということは、それだけの人々がすでにまわりの山々で暮らしていたということであり、とすればその人々は故郷を捨ててきた人々だったということになります。
そうして、山の中から見えるきらきらした水の輝きに魅せられて住み着いていった。
そういう喪失感から豊かな「かなし」の感慨が生まれてきたのであり、その感慨を共有しながら大きな都市集落がつくられていった。
弥生時代前中期の奈良盆地なんか、「実り豊かな土地」でもなんでもなかった。それでも、人々の心に「かなし」の感慨を呼び覚まさずにおかない魅力があった。それさえ豊かに体験できるのなら、人はそこに住み着いてゆく。そこにおいて、奈良盆地は、日本中のどこよりも豊かな魅力があった。
誰もがそこにやってきて「もうここで死んでもいい」と思った。原初以来、それこそが、人がそこに住み着くいちばんの理由なのです。
日本人は、縄文時代の1万年によって「もうここで死んでもいい」という感慨を抱きすくめてゆくメンタリティを育ててきた。そのメンタリティによって、弥生時代という新しい時代が胎動していったのであって、べつに渡来人がやってきたからでも、米作りによってでもない。奈良盆地の米作りなんか、弥生時代後期から古墳時代にかけて本格化していったのです。
まあ、「もう死んでもいい」という感慨を抱きすくめながら玄界灘の荒波に漕ぎ出していったのでしょう。


弥生時代後期になると、奈良盆地の土木工事が急速に発展してきます。その土木工事によって田んぼがつくられ巨大古墳がつくられていった。
それは、とにもかくにもそこにたくさんの人が集まってきたからです。べつに権力社会がすでにあってそれが命じていたというわけではない。
日本列島の権力社会は、もともと人を集めて土木工事をするという能力がなかった。道や橋や港やため池をつくるという古代までの土木工事は、すべて民衆自身の自発的な結集でやっていた。
権力による指図でそれができるようになったのは、中世以降のことです。
まあ異民族との軋轢のない島国だったから、たとえば城壁をつくるとか、そういう大掛かりな土木工事を権力が企画し組織してゆく機会がなかった。
弥生時代後期のお祭り広場づくりも田んぼづくりも、古墳時代の古墳づくりも、おそらく朝廷の宮殿作りも、すべて民衆自身が率先して企画し組織してやっていた。
そのころの奈良盆地はもう、日本中から人がやってくる場所になっていた。土木工事だって、ひとつのお祭りみたいなものだったのでしょう。それによって、見知らぬ人どうしが親しくなってゆける。そこはもう、最初から見知らぬ人どうしが集まってきてできた場所だったから、そういう「お祭り」を組織してゆく伝統があった。
見知らぬ人どうしが他愛なくときめきあってゆく場所であることこそ、奈良盆地のダイナミズムだった。
そこはべつに、米作りや鉄器作りの先進地域でもなんでもなかった。それでも、日本でもっともにぎやかな都市集落になっていった。なぜなら、縄文以来の、見知らぬ人どうしが他愛なくときめき合ってゆくという文化においてはもっとも発達していたからです。他愛なくときめき合いながら、「ここでもう死んでもいい」という感慨を共有していった。「まほろば」を「理想郷」というのなら、まあそういうことです。それは、「ここで世界は完結している」という感慨であり、そこでこそ人の心はもっとも華やぐのです。
けっきょく奈良盆地は、日本列島でもっとも豊かに「かなし」の感慨が共有されている場所だった。その土壌からやがて、万葉集古事記が生まれてきた。それは、縄文人がその基礎をつくっておいてくれたおかげだといえても、べつに渡来人のおかげでもなんでもない。
弥生時代の日本人が、たとえ山の中での木の実の採集生活から平地での集団農業の暮らしに移っていったとしても、心模様は縄文時代からの連続性として生成していた。そうした時代の移行そのものにだって、歴史的な必然性はある。
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