市(いち)と祭り・「天皇の起源」24


世の歴史家が天皇の起源を語るとき、どうして政治的な存在である支配者=王として登場してきたと当たり前のように決めつけるのだろうか。
世界中どこでも人間の歴史とはそういうものだと安直に考えてしまっているからだろう。
しかし、海に囲まれた日本列島の歴史がそのまま大陸の歴史に当てはまるとはかぎらない。大陸と同じなら、日本列島だって大陸と同じように早くから戦争をはじめて、2千年前に大和朝廷が生まれるよりずっと前に共同体(国家)が生まれていたはずである。
大陸ではすでに国家どうしの抗争をはじめていたその数千年間を、日本列島ではそんな血なまぐさいこととは無縁の歴史を歩んでいた。このことを、彼らはなぜ考えようとしないのだろう。
もちろん縄文時代の遺跡からは戦争の武器など何も発見されていないし、2千数百年前の弥生時代になったらいきなり戦国の乱世になったというような証拠もない。
魏志倭人伝にもしかしたらただのでっち上げかもしれないそうした記述があるから、歴史家はもう、何も疑うことなくそうっだと決めつけている。
大陸だって、千年2千年かけてそういう共同体(国家)どうしが抗争する社会になっていったのだ。
とにかく、国家といえるレベルの共同体が群立しないことには内乱など起こらない。だから歴史家は、弥生時代にはすでにそういう状況になっていたという。
中国の記録文書に、古墳時代初めの200年間の日本列島についての記述はない。そのころほんとうに国どうしの関係を持っていたら、そんな空白はあり得ない。そのときの政権が、みずからの政権の正当性を装飾するために、勝手に日本列島が属国であるかのようなことを書いただけだろう。
世の歴史家はこういう。弥生時代後期の奈良盆地にはいくつかの共同体が割拠していて内乱状態にあり、天皇率いる軍隊が連戦連勝してその内乱を平定した、と。しかしそんな考古学的証拠などない。古事記日本書紀にもそんなことがもっともらしく書いてあるとしても、それだって後世の人々による、ただのおもしろおかしいつくり話にすぎない。



現在発掘が進んでいる奈良盆地纏向遺跡は、王朝跡だといわれている。しかしそのころの日本列島の住民がそんなにも戦争をしたがる民族であったのなら、そこには強固な城砦が存在するはずだが、そんなものはなかったし、その500年後の本格的な王朝である平城京にだってなかった。
弥生時代奈良盆地に城砦をつくるという発想がなかったということは、そのころはほとんど戦争などしていなかったということである。
彼らが戦争ばかりしていたという考古学的証拠はない。
弥生時代奈良盆地、というか畿内から東の地方は、大陸の影響を早くから受けていた九州・中国地方に比べて軍隊を組織する制度が遅れていた。つまり、戦争がなかった縄文時代の習俗を残しながら新しいムーブメントとしての平地の農業に熱中していた。
平地での農業、とくにコメづくりは、田んぼづくりや水路の敷設にはじまってたくさんの人間が連携してゆかないと成り立たない。よその地域と戦争などしている暇はない。
それに、もともと縄文時代の日本列島は畿内から東の地方の方が人口が多く、しかも弥生時代になってどこよりも人がたくさん集まってきていた奈良盆地は、すぐに大規模な都市集落になっていった。
したがってそのとき彼らにとってのいちばんの問題は、どうすればその大集団をうまく運営してゆけるかという、あくまで集団内の人と人の関係にあった。
それはまあ人類史上初めての体験であり、とくに日本列島は縄文時代の1万年をずっと小集団で暮らしてきたから、それなりの困難やストレスはあったはずである。
彼らは、その困難やストレスを「穢れ」と自覚しながら、穢れをそそぐ行事としての祭りの習俗をさかんにしていった。そうしてそこから舞の文化が発達し、やがてみんなして天皇を祀り上げてゆくという集団の連携のかたちが生まれてきた。
弥生時代奈良盆地天皇が生まれてきたということは、そこには豪族の支配も内乱もなかったということを意味する。
彼らは、よその地域との戦争どころではなかった。ひたすら集団の連携のかたちを模索していった。そのころの奈良盆地はほとんどの土地が湿地帯だったために、農業といってもまず湿地帯を干拓するということからはじまったわけで、ほかの地域以上に面倒でしかも集団の緊密な連携が必要だった。
その干拓事業は、奈良盆地の人々が総出でなされていた。それはもう弥生時代の最初からそうだったわけで、そういう連携で巨大前方後円墳がつぎつぎに造られていったのだ。地域どうしのライバル意識で張り合っていてできることではなかったし、支配者が動員できる人足の数などたかが知れている。民衆が率先して連携してゆくことによってはじめて可能だったのだ。
日本列島には、支配者が民衆を奴隷のようにこき使うという伝統はなかった。だから平城京の大仏造営のときの人集めは大いに難渋したし、あの豊臣秀吉大阪城を造営するときだって、莫大な資金を必要としたのだ。
弥生時代奈良盆地に内乱などなかったし、豪族もいなかった。そんな「政治」などやっていて奈良盆地の農業は成り立たなかった。そこは、たえずまわりから人が集まってくる土地柄だったから制度的な規範で秩序をつくる余裕はなく、「なりゆき」でやってゆくしかなかった。
その「なりゆき」のダイナミズムが奈良盆地をどこよりも大きな都市集落にしていった。
そこでのの連携は、支配者の命令によってではなく、祭りのダイナミズムから生まれてきていた。
古代人は、祭りが好きだった。祭りによって社会的な関係を築いてゆく伝統があった。
だから、政治のことを「まつりごと」というようになっていった。原初の「政治=集団の運営」は「まつる」ことにあった。このことの意味をわれわれもっと本気で考える必要がある。



縄文人のほとんどは山で暮らしていたのだが、それは、山道を旅する男たちと山の中で小集落をいとなむ女たちとの出会いの「祭り」を基礎にした社会だった。
祭りをしなければその出会いは親密な関係に発展してゆかないし、出会いのときめきがあれば自然に祭りが生まれてくる。
また、旅立つ男たちとの別れのかなしみを癒すためにも祭りが催されたにちがいない。
縄文社会は、けっして停滞した社会ではなかった。出会いのときめきと別れのかなしみが豊かに交錯する社会だった。まあそれが直立二足歩行以来の人類の伝統だったわけで、そういう人間の自然として、そういう社会の構造になっていったのだ。
そしてその祭りの中心になるイベントは、「踊り」にあった。
そのとき、男女が向き合って踊ることによって親密な関係が生まれ、新しいひとつの集団になっていった。
この「祭りによって新しい集団になる」ということが大事で、この生態こそ人類の普遍的な生態であり、この生態によって地球の隅々まで拡散していったのだ。
そして、氷河期明け以来の日本列島の住民はこのようなことを1万年も繰り返してきたのだから、弥生時代に大きな集団を形成するようになっても、その作法が継承されていったはずである。その「新しい集団になる」という「祭り」こそが、人類の普遍的な生態だったのだから。
というか、継承しなければうまく大集団をいとなむことができなかったし、継承できていた奈良盆地がいち早く大きな都市集落へと成長していった。
祭りによって集団をいとなむこと。そして、祭りによって新しい集団になるということ。
祭りは、既成の集団の連携を確認するためということ以上に、集団を新しく再構成するという機能を持っている。そこで新しい集団が生まれるのだ。
弥生時代は、人口が爆発的に増えていった時代だった。したがって、既成の集団を維持するというより、つねに集団を新しく再構成してゆく必要があったし、そういう機能を持った集団が大きくなってゆくことができた。
弥生時代奈良盆地はつねに人が集まってきて祭りが催されていたのであり、纏向遺跡はそういう場所だったのだろう。「市(いち)」の発生である。その地の海石榴市(つばいち)という地名は、日本最古の市(いち)があったところだといわれている。
やまとことばの「つば」とは、まあ「ひとが集まってくる」というような意味である。「唾(つば)」だって、口の中に湧いてくるものだ。そのようにしてそこに人が集まってきていた。
そうして、まずみんなして踊った。踊らないと人と人の親密な関係は生まれてこないし、踊ることは出会いのときめきの表現だった。
そしてこれはもう、日本列島の住民が縄文時代からずっとやってきたことだった。



そこに新しい集団が生まれる……これが「祭り」の社会的な機能である。
そして祭りのもっとも大切なイベントは、踊ることにあった。
神に祈るとか、そういうことではない。弥生時代の日本列島にはまだ神という概念などなかったし、彼らが祭りを催す理由は、神に豊作を祈るとか、そういうことではなく、他者との出会いのときめきを表出することであり、膨張し続ける集団の中に置かれたみずからの身体の「穢れ」をそそぐことにあった。
祭りの根源的な機能はそういうカタルシスを体験することにあったわけで、集団の結束はその結果として生まれてくることであって、目的ではなかった。
それは「新しい集団が生まれる」ことだったのだから、既成の集団の結束を再結成するということは「目的」になりようがなかった。
日本列島の祭りは、いつの時代においても旅人が紛れ込んでくることによって活性化していた。旅の僧や旅芸人や旅の乞食などが中心になって盛り上がってゆく。いまでも、流れ者のテキ屋の夜店は、祭りの大切な賑わいになっている。
人口爆発を起こした弥生時代は、そのようにして集団がどんどん新しく生成してゆく時代だった。そういうムーブメントを持つことができる集団がより大きな都市集落になってゆくことができたのであり、それが奈良盆地だった。
彼らは、その膨らみ続ける集団の中に身を置くことの「穢れ」を自覚し嘆きつつ、祭りによってその「穢れ」をそそいでいった。



人口爆発が起きた弥生時代において、もっとも大きな問題は、膨らみ続ける集団の中に身を置くことの「穢れ」をそそぐことにあった。それは、日本列島の歴史において避けて通ることのできない通過儀礼だった。
もしも弥生時代原始神道なるものがあったとしたら、そのコンセプトは「穢れをそそぐ」ことにあった。
神道」というから「神」を祀ることとしてはじまったように思われているが、弥生時代に神という概念などなかった。
神という概念は、仏教伝来とともにもたらされた。
日本列島においては、いつの時代も「穢れをそそぐ」ことこそもっとも大きな問題であり、それこそが神道の根源的なコンセプトなのだ。
日本列島の住民にとって神とはどのような存在かということなど、たいした問題ではない。われわれは神を知らない民族なのだ。
神を知らないから、「やおよろずの神」ということになった。日本列島は、もともと多神教でもなんでもない。
神道にとってもっとも純粋な宗教的行為は、神を祀ることではなく、「穢れをそそぐ」ことにある。
弥生時代奈良盆地は、もっともダイナミックに集団が膨らんでゆく地域だった。それはつまり、もっとも切実に「穢れをそそぐ」という問題を抱えている地域だったということを意味する。
そういう状況から「市(いち)」が生まれ「祭り」が生まれ、天皇が祀り上げられていった。
彼らに、王朝という政治組織をつくる発想はなかった。そんなことより、祭りの場としての「市(いち)」をつくることの方がずっと大切だった。それが、纏向遺跡である。
纏向遺跡に住居跡はない。これが、何を意味するか。多くの歴史家は、それは三輪王朝だとか最初の大和王朝だとかいっているが、今後の発掘で王宮を取り囲むような大規模集落があらわれてくることなどおそらくないだろう。



弥生時代奈良盆地の都市集落は、無数の小集落どうしのネットワークとして成り立っていた。そこには、一か所に千人も二千人も集まるような大規模集落はなかった。
そのころの奈良盆地はほとんどが湿地帯で、人々は小高い浮島のような狭い台地に、それぞれ小集落をつくって暮らしていた。そしてそれらの小集落は完結できない小さな集団だから、それぞれまわりの集落と連携していた。そのような動きが発展して、みんなが一か所に集まって祭りをするようになっていった。
彼らの集団運営を成り立たせていたのは、王宮ではなく、「市(いち)」というお祭り広場だった。
彼らには、その大きな集団に対する愛着はなかった。その集団に属しているという意識もなかった。普段は小集落どうしのネットワークで暮らし、お祭り広場に集まったときだけ集団になった。つまり、そこに支配者などいなかった、ということだ。
そこには大きな集落などなかったからひとつの集落が抜きん出てリーダーシップをとることはなかったし、無数の小集落がそれぞれ連携していたから、いくつかのグループに分かれて争うということもなかった。
三輪王朝とか葛城王朝とか、弥生時代にそんな区分はなかった。
天皇は、最初から奈良盆地のすべての人々から祀り上げられて生まれてきた。なぜなら天皇は、奈良盆地の住民ではなかったからだ。天皇は、どの里にも住んでいなかった。人里離れた山の中の巫女集団として暮らしていたのだ。
それぞれの地域の豪族が相争っていて天皇はその豪族のひとりだったとか、歴史家のいうようなそんな状況ではなかった。



天皇奈良盆地の民衆を支配しにやってきた政治的な存在だったのではなく、奈良盆地の民衆自身が「穢れをそそぐ」ことの形見として祀り上げていった存在である。彼らは「穢れをそそぐ」ということをしなければ生きられなかった。
弥生時代の集団は、支配者の政治によってではなく、民衆自身の身体性とともに動いていた。そういう政治が生まれてくる前の過渡期というものを、歴史家はどうして考えないのだろう。
弥生時代は、爆発的に人口が増えていった時代である。おまけに奈良盆地はまわりから人がどんどんやってくる場所だからなおさらその推移がダイナミックだった。そこは最初、ほとんどが湿地帯だったからもっとも人口密度の低い場所だったのだが、最終的にはもっとも人口密度の高い場所になっていた。
人口が増えるにしたがって、食糧の生産力も上がっていった。しかし最初は、人口増加に追いつくのがやっとだったのだろう。そんな状況で、余剰に私有する支配者が生まれてくるはずがない。
後期になって、やっと余剰を生産できるようになっていった。しかしまだ。支配者があらわれて搾取できるほどではなかった。
貧乏人だって、食い物を切りつめても娯楽にカネを使おうとする。そのとき奈良盆地の人々が余剰のものを何に使ったかといえば、娯楽である。彼らはその「くに」という単位の大きな集団を自分たちのアイデンティティにするつもりはなかったし「くに」の秩序も求めなかった。「くに」の秩序を必要とするような地域間の緊張関係もなかった。そのような状況からは、秩序をつかさどる支配者は生まれてこない。



人間は、食い物だけで生きてゆける存在ではない。どんなかたちであれ、娯楽の楽しみがなければ生きられない。
彼らは、余剰の生産物を娯楽に使った。そのとき、「くに」の秩序を守るための王朝よりも先に、祭りという娯楽のための「市(いち)」が生まれた。これが、弥生時代の後期の状況である。
「くに」のことは、秩序よりも「なりゆき」でよかった。「くに」を意識しないわけではなかったが、それは鬱陶しさ(=穢れ)として意識されていた。
どう考えても弥生時代奈良盆地は、支配者が生まれてくるような状況ではなかった。
支配者は、秩序を約束する存在として生まれてくる。しかし奈良盆地の人々は、「くに」の秩序など求めていなかった。
魏志倭人伝のいうようないくつかの地域の豪族どうしが対立して内乱が起こっていたのなら、人が集まる「市(いち)」など生まれてこない。そのころの人々は戒厳令下のように戦々恐々として暮らしていたのか。
そのころすでに戦争や侵略が日常茶飯事になっていた中国大陸の役人が勝手にそのようなことを書いただけなのだ。
弥生時代奈良盆地の人々はすべての地域を自由にダイナミックに行き来していたから「市(いち)」が生まれてきたのだ。
自分たちの地域集団(¬=くに)を守ろうと相争っていたのではない。
弥生時代奈良盆地に豪族などいなかった。
縄文・弥生時代は、基本的には人々が他愛なくときめき合っている時代だったのであり、そのとき奈良盆地は、支配者の政治によってではなく、人々の他愛なくときめき合ってゆくダイナミズムで動いている社会だった。
日本列島は、大陸に比べると、とくに政治や支配者が生まれにくい風土だった。だから国家の成立が大幅に遅れたわけで、それは、大きな集団を厭い、その「穢れ」を意識する身体性の濃いメンタリティを持っていたからだ。
それでも集団は、避けがたく膨らんでいった。そこで人々は、支配者を求めたのではなく、「穢れをそそぐ」という問題がより切実になっていった。そういう状況から祭りの場である「市(いち)」が生まれ、そこでの舞い踊る習俗から起源としての天皇という存在を見い出していった。
起源としての天皇は、民衆自身が、支配者としてではなく、舞のエキスパートとして祀り上げていった対象だった。
弥生時代奈良盆地の社会は、政治で動いていたのではなく、「娯楽」によって動いていたのだ。
人間は、娯楽という楽しみがないと生きられない。古代人は、政治や経済よりも娯楽の方がもっと大事だった。
娯楽というか、美意識の上に成り立った社会だった。
根源的には、人間を生かしているのはじつはそのような意識であって、政治や経済の意識ではない。現代人が政治や経済の意識で生きているからといって、古代人もそうだったとはかぎらない。
美意識を本質から外れたものとして決めつけるべきではない。美意識とはつまり、生き物としての身体意識のことだ。
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