巫女の起源・「天皇の起源」25


天皇は、奈良盆地の祭りから生まれてきた。
まず、美しく舞い踊る思春期の少女たちの集団が見い出されていった。そしてその少女たちを山の中に住まわせ、巫女として純粋培養して育てていった。そこから起源としての天皇が生まれてきた。
古代の巫女は、舞のエキスパートだったのであって、呪術師だったのではない。
弥生時代に呪術などというものはなかった。
しかし世の歴史家はみな、呪術は縄文時代からあったと考えている。
人間は原始的であればあるほど迷信深い……と、誰もが当然のように考えている。
冗談じゃない。
われわれはひとまず人類発生以来の数百万年を原始時代とか先史時代と呼び、共同体(国家)や文字が発生してから現在に至る最後の数千年を現代とか歴史時代と呼んでいる。
では、原始人はみな神という概念を持ち、神に祈る呪術を持っていたのか。嵐がやってくれば、「神のたたりだ」と思っていたのか。
神とか迷信などというものは共同体(国家)の発生以後に生まれてきた意識=観念であって、原始人には無縁のものだった。
人は、現代的であればあるほど迷信深い観念を持ってしまうのだ。
だからいまどきは、生まれ変わりとか天国とかそんな迷信(スピリチュアル)をモチーフにした映画や小説やマンガは花盛りだし、現代的な知性の最先端にいるはずの一流の科学者の中にも神や死後の世界を信じている人間がいくらでもいる。
迷信はきわめて現代的な観念であり、原始的であればあるほどそんな観念とは無縁になってゆく。
迷信という観念のはたらきは、共同体(国家)や文字の発生以後に生まれてきた。そこが、人類が迷信深くなったかならないかのメルクマールである。
そしてこの「共同体(国家)」や「文字」の発生というメルクマールが、大陸では7,8千年前に生まれ、日本列島では1500年前の古墳時代にやっと体験したのである。
おまえらみんな、縄文人はみな「神のたたりだ」という心の動きを持っていたと考えているのか。
ばかばかしい。それは、おまえらの差別意識なのだぞ。
まあ呪術はそのような「神のたたりだ」と思う心の動きを持っている社会から生まれてくるのであり、日本列島の住民がそういう心の動きを持つようになったのは、1500年前の古墳時代以降のことなのだ。



巫女の歴史は、柳田國男折口信夫の両巨頭をはじめとして、多くの民族学者や歴史家によって語られている。
そして、そろいもそろってみな、原初の巫女は神の身代わりとして「呪術」を執り行う存在だった、と合唱してやがる。
そうじゃない。もしも弥生時代奈良盆地に巫女という存在がいたとすれば、呪術を執り行う存在であったはずがないのだ。
弥生時代の祭りのもっとも重要なコンセプトは、みんなで舞い踊って生きてあることの「穢れ」を洗い流すことにあったのであって、呪術を執り行って神に何かをお願いすることにあったのではない。
人間が原始的であるということはそういうイノセントにあるのであって、迷信などというややこしい観念のはたらきを持っていることにあるのではない。
弥生時代は3世紀ころまでの数百年間のことで、日本列島の住民が文字を持ったのは、仏教伝来の6世紀半ば以降のことである。それ以後の文献には、神社の巫女が呪術を執り行ったというような記述はいくらでも出てくる。
しかしそれらは、6世紀以前の巫女が呪術を執り行う存在だったという証拠にはけっしてなりえない。6世紀半ばの仏教伝来や共同体(国家)の成立とともに、巫女が呪術を執り行う存在に変質していっただけである。
そしてそれによって巫女の舞がなくなったかといえば、そんなことはなく、この習俗は現在にいたるまで残っている。
では、呪術から舞が生まれてきたのか。呪術には舞が必要か。世界的に見ても、宗教者が舞の権威になっていることなど、ほとんどない。舞は舞として独立したジャンルである。それは、宗教ではなく、あくまでもたんなる芸能なのだ。
盆踊りは宗教的な契機から生まれてきたと語る歴史家は多い。
人類の歴史は、舞よりも先に宗教があったのか。
そうじゃない。
宗教がない原始時代だって、おそらく踊るということはしていた。
二本の足で立っていることの居心地の悪さは、身体の「物性」を強く意識させられてしまう。その「物性」を忘れる行為として「歩く」ということが洗練発達し、さらには「踊る」ということが生まれてきたのだ。
宗教よりも先に踊るという行為があった。
原初の人類にとって踊ることは、宗教的な行為でもなんでもなく、身体の「物性=穢れ」を洗い流す行為だった。そういう生き物としての居心地の悪さを解消する行為として生まれ育ってきたのであり、宗教よりも踊ることの方がずっと根源的な人間のいとなみなのだ。
したがって、呪術のおまけとして舞が生まれてきたということなどはあり得ない。巫女の仕事においても、舞の方が先にあったと考える方が自然である。
恐山の「いたこ」は、舞の名手か。そうじゃないだろう。呪術に、舞などは必要ない。それでも神社には巫女の舞が伝統として引き継がれている。それが、何を意味するのか。
呪術よりも先に舞があったからだ。そうとしか考えようがないではないか。
古代以前のイノセントな生態に、神という概念も呪術もなかった。弥生時代の祭りは、みんなで歌い踊って生きてあることの「穢れ=身体の物性」を洗い流すことにあった。原始社会の人類にとっては、神にお願いして欲望を成就するよりもそのことの方がはるかに切実なことだった。
弥生時代奈良盆地に、神という概念も神に願いごとをするというような生態もなかった。
だから、その後の万葉人だって「しきしまの大和の国は<言挙げ(ことあげ)>しない」と詠った。
「言挙げ」とは、神に願い事をする、というような意味だ。
神道の神は、基本的に何もしてくれない。人間が一方的に祀り上げているだけである。古代の神社の「祝詞」といっても、一方的に神を祝福している文言ばかりで、基本的には神に願い事をしているのではない。
それでどうして原始神道や巫女が「呪術」とともに生まれてきたといえるのか。
柳田國男折口信夫も世の歴史家も、原始社会のイノセントな心の動きに対する想像力がなさすぎる。



もう、みんなして原初の巫女は呪術師だったと合唱してやがる。
ここでは、そんな愚劣な歴史解釈を踏襲するつもりはない。お前らアホか、といいたいばかりだが、僕がそう叫んでも、世の歴史家のこの合意はこれからもずっと続いてゆくことだろう。そこがなやましいところだ。
ほんとにどうしようもなく陳腐な歴史解釈なのに、疑いようもない前提になってしまっている。
おそらく「歴史学」そのものが変なのだ。原始人は迷信深い人種だったと、誰もが当たり前のように考えてしまっている。
迷信は、現代的な文明とともにつくられてきたものであって、最初からあったものではない。そんなことくらい、ちょっと考えればわかることではないか。
たとえば、弥生時代奈良盆地の人々は、傘や提灯のお化けなど誰もイメージしなかっただろう。そのようなお化けのイメージは、江戸時代になって生まれてきた。
迷信というのは、とてもややこしい観念操作であって、原始的なシンプルでイノセントな心模様から生まれてくるものではない。
キツネが人間に化けるということなど大陸から伝わったイメージであって、日本列島の土着のイメージであったのではない。
縄文人弥生人にとっては、キツネはキツネ以外の何ものでもなかった。
キツネが人間に化けるというイメージを聞いた日本人はそのとき、おもしろいなあ、われわれはそんなこと思いもよらなかった、日本人は遅れているなあ、と思った。
異民族を化け物のようにイメージするのは、人類普遍の伝統である。西洋や中国には、そんな絵がたくさん残っている。地平線の向こうの異民族をそのように想像し、自分たちの集団に紛れ込んできた異民族に対しては、もともとそのような化け物だったのだろう、と想像した。彼らはそのような歴史を持っているから「キツネは人間に化ける」というイメージが生まれてきたのであって、異民族との出会いの歴史を持たなかった古代以前の日本列島の住民には、想像することもできないイメージだった。
縄文人にとって山の向こうの知らない土地の人間=「異民族」はあこがれの対象だったし、出会えば、その相手は同じ顔をして同じ言葉を話す人間だった。そうして知らないよその土地のものや噂話を持ってきてくれた。そういうお気楽な歴史を生きてきた古代人は、そうかんたんには「キツネは人間に化ける」という話をつくることができなかった。
江戸の町民は、支配者に徹底的に管理されていて、自分の町を出入りすることすら自由ではなかった。そういう閉塞感から、傘お化けや提灯お化けのイメージが生まれてきた。
人類の迷信や呪術は、共同体(国家)の発生、すなわち支配者に管理される社会になって生まれ育ってきた。



弥生時代奈良盆地は、はたして支配者に管理されている社会だったのか。たぶん、そうではない。支配者が生まれてくるほどの余剰の生産物にあふれている社会だったのではない。生産力が人口増加に追いつくのがやっとの時代だった。
大和朝廷が搾取できるほどの余剰の生産ができるようになったのは、古墳時代以降のことだ。そして貴族や豪族が土地を私有化していったのは飛鳥時代以降のことで、弥生時代奈良盆地には私有地などというものはなかったのではないだろうか。もしかしたら古墳時代でもまだ、人口増加に生産力が追い付いていなかったかもしれない。人々はけんめいに農地を開墾し続けていたのであり、税として徴収する余裕はなかった。
おそらく古墳時代奈良盆地の住民は大和朝廷に対して、自分たちが養ってやっている、という意識があった。だからその後の大和朝廷は、奈良盆地畿内に対してはあまり重い税は課さない習慣になっていた。
奈良盆地には搾取できるほどの余剰がなかったから、全国制覇していったともいえる。
湿地帯だった弥生時代奈良盆地の耕作地は限られていた。それでも人口は爆発的に増えていった。そういう状況で、民衆から搾取する支配者(豪族)が生まれてくるだろうか。
共同体の管理支配のない時代に神という概念や迷信が生まれてくるはずがない。



縄文・弥生時代には呪術などなかった。そしてそれが、日本列島の文化の基層になっている。その後の神道が呪術として発達してきた痕跡など何もない。歴史家は、途中から呪術ではなくなってきたが最初は呪術だったといいたいのだろうか。
修験道とか、恐山のイタコなどの「口寄せ」の呪術とかは、仏教の影響を受けて生まれ育ってきた習俗であって、げんみつには神道ではない。神道の衣装を借りた仏教なのだ。
神道の本質的な機能は、いつだって「穢れをそそぐ」ことにあったのであって、「呪術」にあったのではない。
原始神道の巫女は、あくまで人々の心を癒す芸能としてみんなの前で舞い踊って見せる存在だったのであって、呪術をしていたのではない。
神道が呪術として生まれてきたのなら、呪術として発達してきたに決まっている。なぜなら古墳時代以降、どんどん呪術が必要な社会になっていったのだから。
それでも神道は、本質的には「穢れをそそぐ」というかたちをとどめ続けてきたのだ。
神道の根源的な作法は「精進潔斎」であって、「呪術」ではない。それは現在でもそうだし、起源だってそうだった。
おそらく歴史的な無意識として、われわれが神社に行って感じるのは「清浄」ということであって、何か願いが叶いそうな予感ではない。観念的には、現代人のスケベ根性で願いをかなえるために神社を利用しているとしても。
原始神道が呪術として生まれてきただなんて、どうしてそんなくだらないことをいうのだろう。
飛鳥時代から平安時代にかけては、もっとも呪術がもてはやされた時代である。
人類社会の呪術はいつの間にかなんとなく生まれてきた……これが、一般的な歴史家の解釈らしい。こんないい加減なことをいっているから、縄文・弥生時代のわけがわからない発掘資料はすべて呪術の道具だろうということになってしまう。
何もかも合目的的な理屈でつじつまを合わせようとしたら、そういうことになってしまうのかもしれない。



呪術は、「この世界は神の意志で動いている」という観念が前提になければ成り立たない。
しかし縄文人弥生人も、「神に願いを立てれば叶う」という意識も、「未来のことは神の意志であらかじめ決定されている」という意識も持っていなかった。それが、この国の「なりゆき」の文化の伝統である。
もしも縄文時代弥生時代に呪術があったのなら、「なりゆき」の文化は生まれてこないし、万葉人も「言挙げしない」などということはいわなかった。おおいに言挙げしたことだろう。
神道の神は、何もしてくれない。そんな文化風土の縄文・弥生時代に呪術など生まれてくるはずがない。
神に何かをしてもらおうという意識なしに呪術が生まれてくるはずがないじゃないか。
後世には巫女のことを「神子(みこ)」と表記したりするようになったのだが、それはもう、共同体の制度性とともに何かをしてくれる神の代理の存在になってきたからだ。
しかしそんな時代とともに変質してしまった巫女の姿を起源のように語られては困る。



縄文人は、平べったい陶器や石に線を刻んで模様を描くことが好きだった。そうやってスタンプなどもつくっていた。それを呪術の道具だといっている縄文学者がいる。
何いってるんだか。
意味もなく線を刻んだらいけないのか。ただきれいな模様をつくりたかっただけかもしれない。火焔土器も呪術的な意味があったとかれらはいうのだが、ただの模様だったかもしれないじゃないじゃないか。縄文人はもう、そういう装飾模様がとても好きだったのであり、それが縄文文化のひとつの特徴だったはずだ。
それは呪術だったのではない。あえていうなら芸術的な衝動であり、ただもうイノセントな「祀り上げる」心の表出だったのだ。
現代の若者がフィギュアの人形を愛玩することだって、本質的にはべつに呪術でもなんでもないだろう。彼らはそうやってフィギュアを祀り上げているだけだ。それとおなじこと。
その「祀り上げる」心こそ縄文文化だったのであって、それは呪術でもなんでもない。彼らは、そうやって模様を描きながら美しいものを「祀り上げる」ことをしていただけだ。
人間が本来的に持っているのは「祀り上げる」心であって、神に何かをお願いしたり未来を予測したりすることではない。そういう観念のはたらきは、共同体(国家)の発生以後に生まれてきたにすぎない。



「祀り上げる」ことと「呪術」とは別のものである。
「祀り上げる」ことは一方的な無償の行為であり、「呪術」は、つねに見返りを求めている。呪術だって、利益を求める一種の経済行為なのだ。そしてこの生やこの世界を支配しようとする政治行為でもある。弥生人は、そういう「俗世間」が嫌で、祭りに熱中し、天皇という存在を生み出していったのだ。
神がこの世界を動かしていると思うのなら、神にお願いしたくもなるだろう。しかし縄文人弥生人は、この生やこの世界の「なりゆき」を受け入れて生きていた。彼らにとってこの生の命題は、願いをかなえることではなく、「なりゆき」を受け入れることにあった。
彼らを生かしていたのは、願いをかなえるという「利益」を得ることではなく、「祀り上げる」心を豊かにはたらかせることにあった。それが、縄文土器の華やかな装飾模様になった。
縄文人がどれほど切実で豊かな「祀り上げる」心を持っていたかということを、世の歴史家は知らなさすぎる。
山に囲まれて孤立し、しかも斜面ばかりで自由に動き回ることもできないその暮らしは、身体の「物性=穢れ」を避けがたく意識させられる。その「穢れ」の意識から「祀り上げる」心が生まれてくる。かれらは、祀り上げていないことには生きられなかった。
そしてそれはすなわち、二本の足で立っているという身体の「穢れ」を抱えた人間の普遍的な心の動きでもある。
世の歴史家は、人間性の普遍というものを勘違いしている。人類の歴史に呪術がなんとなく当たり前にように生まれてくるということがあるはずがない。生まれてくるには、それなりの契機があるのだ。そういう契機を語ることもできないで「なんとなくいつの間にか生まれてくる」だなんて、頭悪すぎるよ、おまえら。
弥生時代は、縄文時代の延長だった。定住することは、避けがたく身体の「穢れ」を意識させられる。
原始社会に呪術などというものはなかった。呪術は、人間の普遍性でもなんでもない。
現在の未開の地の部族にも呪術があるからといっても、彼らだって現在の人類の観念性の洗礼は受けている。それこそ「なんとなくいつの間にか」、現在の世界における共同体(国家)の観念制度が彼らのところまで伝播していっているのであり、そういう意味では彼らだって現代人なのだ。
しかし縄文人弥生人は、まだそうした観念制度の洗礼を受けていない人たちだった。彼らを生かしていたのは「祀り上げる」心だったのであって、「呪術」だったのではない。
「祀り上げる」ことは純粋なときめきであり美意識であり芸術的な衝動でもある。それが人間性の自然である。
「呪術」は、歴史家のいうようにいつの間にか自然に生まれてくる歴史の普遍的な法則であるのではない。
おまえらが勝手に歴史の法則だと決めつけているだけじゃないか。
起源としての巫女は、呪術師でも神と契る存在であったのでもない。柳田國男折口信夫中山太郎の語る巫女の起源なんか、ぜんぜん信用できない。
原始社会は「神」を祀り上げていたのではない。ただもうイノセントに「他者」を祀り上げていたのであり「美」を祀り上げていたのだ。
人間は、「祀り上げる」ということをしないと、この身体の「穢れ」をそそぐことができない。それはもう、直立二足歩行の発生以来ずっと引き継がれてきた生態であり、その生態を洗練させて日本列島の文化の基礎がつくられ、巫女が生まれ天皇が生まれてきた。

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