舞のカタルシス・「天皇の起源」27


弥生時代奈良盆地に文字がなかったということは、呪術も神という概念もなかったことを意味する。したがってそこでの巫女は呪術師ではなかった。ただもう美しく舞い踊って人々の心を癒す存在だった。
原始神道の神社は、巫女の館だった。人々が捧げものを携えてそこに馳せ参じたのは、豊作祈願や病気治癒のためではなく、ただもう生きてあることの「穢れ」をそそいで心が癒される体験をしたかったからだ。
そのために巫女たちは舞い踊って見せた。
まあいまどきの若者が秋葉原メイド喫茶に通うのと同じようなことだ。
「癒される」ことを願うのは、日本列島の伝統である。弥生時代奈良盆地の人々にとっては、欲望を追求することよりもその体験の方がずっと切実な願いだった。
異民族との緊張関係を持たなかった日本列島の住民は、そのぶんみずからの身体に対する「穢れ」の意識がひとしお切実だった。
「欲望を叶える」ことよりも心が「癒される」ことの方が優先される社会だった。
異民族を知らない彼らは、他者に対する緊張感や競争心が希薄で、ただもう他愛なくときめき合い、連携結束していった。
「穢れ」の意識とは、身体の物性を厭う意識である。弥生時代奈良盆地の人々にとってのその意識は切実だった。そして思春期の少女は普遍的にそれをもっとも切実に抱えている存在であり、その切実さが美しい舞になってあらわれ、人々はその美しさを祀り上げていった。



「原初の踊りや歌は神に捧げるところがはじまっている」……社交ダンスの趣味がある東大出の人のブログで、そんなふうに語っていた。東大を出たインテリでさえ本気でそう思っているくらいだから、きっと世の中のたくさんの人がそのように合意しているのだろう。
またその人は、「原初の踊りはたんなる体を動かすエクササイズだった」ともいっていて、後の時代になって美意識の「表現」になってきたのだとか。
だから巫女の舞だって、とうぜん神に捧げるただのエクササイズだったということになる。
エクササイズ、つまり原初の踊りはただの体操みたいなものだった、といいたいらしい。
これが、一般的平均的な踊りの起源に対する認識だろうか。まあ折口信夫柳田國男だってそういっているのだから、世間ではほとんどみんなそう思っているということかもしれない。
しかし、そうじゃないのだ。
人類の踊りは、体が勝手に動いてしまう出会いのときめきの表現行為として生まれてきたのであって、意識で身体を支配するエクササイズだったのではない。
体が勝手に動いてしまう表現行為であることこそ踊りの起源であると同時に究極でもある。
ダンスは最初からダンスだったのだ。エクササイズだったのではない。
身体が勝手に動いてしまうことは、身体を忘れてしまう体験であり、人はそのようにして身体の穢れが洗い流される体験をする。
原初の人類は、身体が勝手に動いてしまうくらい、そして身体の穢れを感じないではいられないくらいに、現代人よりもずっと率直にこの生やこの世界の現実と向き合っていたのであり、そこから原初の踊りが生まれてきた。それは神がどうのというような問題ではないし、日本列島の住民は弥生時代になってもまだそうした原始性を残していた。
巫女の舞が神に捧げるものになったのは飛鳥時代以降のことだ。そしてそのころから巫女は神と契る存在であるということにもなっていった。
縄文・弥生時代の舞に「神に捧げる」などという目的はなかった。
人類にとって踊ることは最初から表現行為だったのであり、意図的に身体を動かすエクササイズなんて、身体の物性を抱え込んで四苦八苦している現代人が熱中しているだけではないか。
エクササイズとは、身体を物性がそなわった肉体として取り扱い、意図的に動かそうとする行為である。それに対して踊り=舞は、身体を「空間の輪郭」のように感じつつ「なりゆき」のままに身体の方が勝手に動いてゆく身体作法である。
舞が「表現」であるということは、身体が自然に動いてゆく作法であって意図的に動かしているのではない、ということにある。アフリカのダンスなどはまさにそんな感じだし、この国の能の舞だって、ゆっくりと動いているときも自然に体が動いてゆくという作法になっていなければ美しい「姿」にはならない。緩やかな動きだからこそ、意図的に動かそうとする自意識がはたらいていると、体が揺れて「形」が決まらない。
舞が表現であるということは体が自然に動いてしまうということであり、表現しようとする自意識を持っていると表現にならないというパラドックスにおちいる。
原初の舞は、自然に体が動いてしまうというかたちで生まれてきた。神に捧げるという目的どころか、体を動かそうという目的すらなかったのだ。
舞は、その起源からすでに意識によって身体を支配して動かすエクササイズではなかったのであり、昔の方がもっと純粋な体が自然に動いてしまう身体作法だった。



縄文人弥生人の舞が神に捧げるエクササイズだっただなんて、どうしてそんな愚劣で倒錯的なことを考えるのだろう。
まあ、神に捧げるものでないと原始神道の巫女は呪術師だったということが成り立たなくなるから、どうしてもそういうことにしておきたいのだろう。
やまとことばの語源に対する考察もそうだが、世の歴史家の考えることは共同体(国家)の発生の段階までしか射程に入っていない。彼らは、現代的制度的な作為性の範疇でしか起源論を語れない。それは、文献がその段階のものしか残っていないからというだけのことではない、原始人の心模様に推参する想像力が決定的に欠落しているからだ。
舞の起源も巫女の起源もそれ以前の原始的な社会から起きてきたのだから、われわれは共同体も文字も持たない人々の心模様に推参する想像力をはたらかせないといけない。
古代以前の人々は、共同体(国家)の発生以降のその制度性に精神を侵食された人間たちよりもずっと率直にこの生やこの身体やこの世界の現実と向き合っていた。
彼らにとって舞うことは純粋に身体が勝手に自然に動いてしまう作法だったのであり、それ以上でも以下でもなかった。そして、現代だろうと普遍的な舞の美しさはそこにこそあるわけで、彼らはそういう美意識で舞を表現し鑑賞していた。そしてその美意識が彼らを生かし、彼らの集団のいとなみを可能にしていた。
美意識は、人間性の起源であり、究極でもある。



べつに、政治をしないと人間の集団のいとなみは成り立たないというわけではない。
人と人の連携は、身体性の問題だろう。支配者のいる政治などなくても連携できる身体性というのがある。原始社会では、身体が勝手に動いてしまうように連携していた。
それに対して共同体(国家)ができてからは、支配者がいないと連携できないという身体性になっていった。つまり個人においても、意識で身体を支配し動かすエクササイズの傾向が強くなっていった。
前者は「空間としての身体の輪郭」において連携し、後者は「物性を持った肉体」において連携している。また、前者は身体の「孤立性」を確保し合うかたちで連携し、後者は「集団としての身体」を止揚するかたちで集団としてひとつの塊になってゆく。それはたとえば、ひとりひとりが違う動きをするゲリラ作戦の連携と全員が同じ動きをしつつひと塊になって攻撃する掃討作戦との違いのようなものだ。リレーとマスゲームの違い、と言い換えてもよい。
共同体(国家)が存在しなかった古代以前の集団の連携は、たがいに身体の「孤立性」を確保し合う、というかたちで成り立っていた。なぜなら原初の人類はそのようにして二本の足で立ち上がったわけで、それが根源的な人間の連携のかたちである。
密集した集団の中で、誰もが二本の足で立ち上がればひとりひとりの身体の占めるスペースが少なくてすみ、体をぶつけ合わないですむ。原初の人類は、そのようにしてたがいの身体の「孤立性」を確保し合っていった。
弥生時代奈良盆地にはそういう原始性がまだ残っており、その原始性を洗練させるかたちで集団の連携を生み出していった。そしてその身体性こそ、日本列島の舞の作法の基礎になっている。
原初の人類がみんなして二本の足で立ち上がったとき、立ち上がりたかったわけでもそのような目的があったのでもない。ただもう集団の密集が鬱陶しくて、気がついたら誰もが二本の足で立ち上がっていた。つまり、そのようにして、自然に勝手に体が動いてしまっていた。
生きてあることの鬱陶しさ(穢れ)を切実に抱えている人間は、自然に体が動いてしまう作法を豊かに身につけている。それは、身体の物性を忘れてしまう心の動きから生まれてくる。
原初の人類は、身体の物性を忘れ、その姿勢が物体としての身体にとってどれほど大きなリスクを背負うことになるかということなどお構いなしに立ちあがってしまった。人類はその姿勢を常態化することによって、猿よりも弱い猿になってしまった。
身体の物性を忘れることによって、身体は自然に勝手に動く。人類の舞は、この作法として生まれ育ってきた。



原初の舞は、神に捧げるために身体を支配して動かすエクササイズだったのではない。
そのとき弥生時代奈良盆地の人々には、「身体が自然に動く」という「姿」に対する感動があった。「姿」とは、物性を忘れた「空間としての身体」である。身体の「物性=穢れ」を深く意識していた人々は、そのような「姿」に感動せずにいられなかった。
身体をスムーズに動かすセンスも、スムーズな動きの美しさを鑑賞するセンスも、おそらく現代人よりも弥生時代奈良盆地の人々の方がずっと豊かにそなえていたはずである。
であれば、そこでの巫女の舞は、能の舞のような微妙な動きだったのかもしれない。しかも能のような物語が加わっていたのではないし、神に捧げるありがたい舞だったのでもない。それでも人々は退屈することなく、ひたすらその動きの「あや=姿」の美しさというか豊かなニュアンスを、固唾を飲んで見守っていた。
弥生人の身体や舞に対する感受性は、われわれ現代人よりもはるかに豊かでデリケートだったのかもしれない。
そこでの巫女の舞は、「神に捧げる身体のエクササイズ」などという単純なものではなかった。彼女らも、彼女らの中から祀り上げられていった「天皇=きみ」も、呪術などとは無縁の、あくまで穢れをそそごうとする率直な身体意識から生まれてきた。
その率直な身体感覚こそが、弥生時代の舞の様式の問題であり、「天皇=きみ」の起源の問題でもある。



弥生時代奈良盆地の舞の作法がそのまま天皇という存在の性格になっている。
そしてそれは、日本列島の伝統的な美意識のかたちでもある。
それは、神に捧げる舞だったのではない。純粋に美しい舞だった。
その美しさは、身体が「なりゆき」のままに自然に動いてゆくことにあった。
その動きは、「この世界は神の意志によって動いている」という世界観とは対極のそれからもたらされている。
なにものの意志もはたらいていない「なりゆき」の動き。自然の流れ。少女たちがそういうタッチの動きを目指したとすれば、今の日本舞踊のように手の動きでしなをつくるということはあまりしなかったのかもしれない。
あくまで足の運びで身体が移動してゆくことの「あや」を表現するのが彼女らの流儀だったのだろうか。
身体の移動によって、「空間」と調和しながら身体の物性を洗い流してゆく。身体が移動することは、空間と調和し、身体の物性が消えてゆくこと。これは、人間が旅をすることの根源のかたちでもある。
縄文時代の舞は男女が親密になるためのものだったから、そのコンセプトは、肉体のセクシュアリティを表現するものでもあった。
しかし弥生時代の少女たちは、その肉体という物性を洗い流す動きを表現していった。それが「移動する」という動きだった。
「歩く」ことは「移動する」ことだが、彼女らは歩いているように見えないように歩きながら、純粋に「移動する」という動きだけを抽出していった。それが日本的な「擦り足」の作法で、「移動する」という空間性を表現して見せたことが彼女らが生み出した新しさだった。
もともと「擦り足」は山道の歩き方の作法であり、日本列島には縄文以来のそういう伝統があった。この伝統の上に彼女らは、「空間を移動する」ということのカタルシスが体験されるような身体作法=舞を表現していった。
能の舞も、擦り足による空間移動の美しさを表現している。そしてこの身体作法によって、たとえばこの世とあの世を往還するというような物語性になっている。
身体が空間を移動することのカタルシス、これは、世界中の踊りが共有している普遍的な要素であるだろう。それと、肉体のセクシュアリティの表現というもうひとつの要素がある。
しかし弥生時代奈良盆地の少女たちは、「肉体のセクシュアリティ=身体の物性」を徹底的にそぎ落としていった。それが人々に熱く支持されたのは、それほどに身体の「穢れ」が強く意識される時代になっていたからだろう。そしてそれがそのまま日本列島の舞の伝統になっていった。
能の衣装は肉体を否定するようにあんなにも大げさだし、平安時代には十二単衣などという衣装もあった。身体の「物性=穢れ」を消去しようとする意識は、日本列島の文化の基礎になっている。
十二単衣は、女を衣装の中に閉じ込めようとする男権的な発想だったのではなく、身体の「穢れ=物性」を鬱陶しがった女が勝手にどんどん重ね着していったのだろう。
現在の重ね着ルックだって「肉体」から離れようとするコンセプトであり、そのような着方をすればよりヴィヴィッドに衣装の輪郭が身体の輪郭になり、そうやって身体の輪郭を空間の輪郭として表現しようとしている。
日本列島の舞の伝統は、身体の物性を消去し、身体の輪郭を空間の輪郭として表現してゆくことにある。



弥生時代奈良盆地の少女たちの舞には、既成の舞にはない新しさがあったのだ。大人たちの真似をしたのなら、大人たちの方が上手いに決まっている。
空間を移動する姿の美しさ……たとえば向き合った二人がたがいのポジションをチェンジしながら踊るとか、そのような動きがそれまでになかったとしたら、それはとても斬新だったことだろう。
とにかくそのとき以来、少女たちの舞は別格になっていった。そうして巫女という存在が生まれてきた。
そのころの巫女は呪術師だったのではない。呪術なんか、思春期の少女でなければならない必然性はない。いろんな意味で経験を積んだ大人の女の能力の方が上である場合が多い。
また、顔や肉体の美しさであれば、13、4歳の娘よりは18、19の娘の方が勝っている。
思春期の少女(処女)がカリスマになる可能性は、舞うこと以外においてはない。
いまどきの若者だって、巫女は高校生の娘よりも中学生の方が似合う、といっている。その「処女性」は、呪術性でも顔や肉体の美しさのことでもない。その年頃の少女特有の「姿」の美しさというものがある。それは、いまどきの若者だってなんとなくわかる。
原始神道の巫女が呪術師だっただなんて、何を短絡的なことをいっているのだろう。
それは、日本列島の歴史風土としての美意識の問題なのだ。
その祭りの舞において、身体の「穢れ=物性」を洗い流した姿の美しさだけは、誰も少女たちにはかなわなかった。
そしてその美しさは「移動する」という空間性の表現にあり、その空間性が、定住することの「穢れ」に耐えている人々の心を癒した。
弥生時代奈良盆地の巫女は、呪術師だったのではない、舞のエキスパートだった。
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