弥生時代の舞の様式・「天皇の起源」26


起源としての「天皇=きみ」は、弥生時代奈良盆地の巫女だった。このことは多くの人がいっているし、それはきっとそうなのだ。
僕が気に入らないのは、その巫女が「卑弥呼」のような呪術師で支配者だった、といっている点だ。
卑弥呼なんか、そのころの中国の役人がただの噂をもとにしてでっち上げただけの話かもしれないのである。実在の人物だったという証拠など何もない。
卑弥呼の使いが魏に朝貢していた、というような記述があるそうだが、そんな関係を持っていたのなら、そのときとっくに日本列島に文字が定着していたことだろう。文字を持たなければそんな関係はつくれないし、みずからの王朝という支配組織そのものも成り立たない。
弥生時代奈良盆地に王朝など存在しなかった。大きな集落だったからといって、王朝があったとはかぎらない。もしも彼らが王朝政治をしていたのなら、そのことにどれほど文字が必要で有効かということも知っていたはずだし、中国大陸と関係を持っていたのならそのことを学ばないはずがない。
大和朝廷の起源は、文字と仏教を輸入した6世紀半ばということにしていいのではないだろうか。文字がなければ朝廷の政治なんか成り立たない。
初期の大和朝廷の役人の仕事はほとんど文字を書くことだけだったといってもいいくらいで、文字を上手に書ける役人が出世した。だからみんな必死で文字を書く練習していたらしい。
つまり日本列島の住民は、それほどまでに長く文字を必要としない歴史を歩んできたということである。



人類の文字の歴史が6,7000年だとすれば、日本列島では1500年しかない。
弥生時代にはすでに文字を刻んだ銅鏡なども入ってきていたというのに、それでも文字を持とうとしなかった。
文字を必要とするような社会の構造になっていなかったからだ。それはつまり、人が人を支配するという関係がなかったからであり、支配者(豪族)など存在しなかったからだろう。
彼らは、支配しようとする衝動も、支配されているという意識もなかった。
したがって、呪術などというものもなかった。それは、神に支配されているという意識とか、他者を支配しようとする衝動から生まれてくる。そういう支配関係の意識(欲望)が希薄な社会からは呪術は生まれてこない。
弥生時代奈良盆地の巫女が呪術師であったはずがない。人々はただもう他愛なくときめき合っていたのであり、その関係によって連携結束していった。
だから文字による約束など必要なかった。出会ったその場その場のなりゆきとときめきで連携結束していった。
われわれ現代人だって、プライベートな親しい関係においては、文字による約束など必要ない。
日本列島が文化的に「契約社会」ではないということは、弥生時代奈良盆地の巫女は呪術師ではなかった、ということだ。
大きな都市集落をつくり、それなりに文明も発達した農業社会であったのなら、文字が生まれてくる状況は十分に成熟していたはずである。それでも彼らが文字を持とうとしなかったということは、人類社会に文字が生まれてくる契機はそういう状況にあるのではないということを意味する。
それは、他の地域の異民族との緊張関係が強くなり、みずからの集団を秩序を持った共同体(国家)にしてゆこうとする状況から生まれてくる。
支配者があらわれて集団の秩序が完成し、他の地域と争ったり、そんな状況になることによって文字が生まれてくる。
呪術だって、その状況から生まれてくる。中国で生まれた亀甲(甲骨)文字は占い(呪術)がそのはじまりだといわれている。であれば、弥生人が文字を持とうとしなかったということは、占いや呪術もしていなかったということのひとつの傍証になる。それは文明の成熟度の問題ではない。占い=呪術をしようとするような未来意識や欲望というメンタリティを持っていなかったということだろう。
まあ、「契約」という行為も、ひとつの占いの延長であるのかもしれない。
日本列島の弥生人が文字を持とうとしなかったことは、世界史的に見てかなり異例のことで、じつはとても大きな意味を持っているのではないだろうか。
それはつまり、異民族との緊張関係を持っていなかったということであり、そこには豪族支配の王朝も、呪術も、さらには神という概念もなかったということを意味する。
文字を持たなかった弥生時代奈良盆地の状況を推測するのに、かんたんに大陸の歴史を当てはめるべきではない。
弥生時代奈良盆地に王朝などなかったし、巫女は呪術師ではなかった。ただもう美しく舞い踊って人々の心を癒す存在だったのだ。
そしてその伝統が、いまどきの秋葉原メイド喫茶でよみがえりつつある。



日本列島の呪術は、おそらく飛鳥時代の役の小角(えんのおづの)の修験道からはじまっている。それは、仏教や陰陽道などの大陸文化の影響から生まれてきた。
恐山の「いたこ」だって、神道の巫女の系譜というより、仏教から派生している。
繰り返すが、弥生時代の人々にとって生きることのもっとも大きな問題は「穢れをそそぐ」ことだったのであり、そういう美意識を基礎にして集団がいとなまれていた。
農業の生産力を上げるとか、現代社会のように経済的な目的だけで集団が結束できる時代ではなかった。なにしろ日本列島の住民は歴史的にまだ大きな集団で暮らしたことがなかったのであり、何はさておいてもまず大きな集団の中に身を置くことの「穢れ」に耐えるということができなければならなかった。
そしてその「穢れをそそぐ」ことは「姿」にあらわれる、と人々は思った。
縄文時代は、男と女が一緒に暮らしていなかった。見ず知らずの男女が出会ってそして別れるということを繰り返していた。だから、他者の心模様を推測したり吟味したりするという習慣が育たなかった。これは、その後もずっと続いてゆく日本列島の伝統になっている。
言い換えれば、日本列島の住民は「姿」によって他者の心模様や人格を推測する。
初対面の男女が出会う「なりゆき」の「いまここ」において基準にできるのは「姿」だけである。そして彼らは「姿」に対する美意識を洗練させてきた。これが、日本列島の文化の基礎として現在までずっと引き継がれてきている。
「姿」に対する美意識こそ、弥生時代奈良盆地の人々が集団をいとなんでゆくためのよりどころになっていた。



彼らは、思春期の少女たちの舞に、「穢れ」をそそいでいる「姿」を見い出していった。
なぜ思春期の少女なのか。
この視線は、人類の普遍でもある。
アフリカにも、思春期の少女たちが集まって踊る「バージンズ・ダンス」という習俗がある。
人類は、思春期の処女の「姿」を止揚する。
この問題の奥は深い。セックスをしたことがあるとかないとか、そういう問題ではない。この年代の少女特有のすっきりとした「姿」の美しさがある。彼女らの身体は、この世界から逸脱してしまっている。身体の輪郭がこの世界に溶けてしまっていないというか、世界に対してひりひりとした緊張感を持っているというか、そうやってすっきりしている。その孤立性。
アフリカもまた、弥生時代奈良盆地と同様に大きな集団で暮らす歴史を持っていないから、集団が膨らんでくると、どうしても「穢れ」を意識してしまう。おそらくその意識が、思春期の少女たちが持つ身体の輪郭の美しさ=孤立性に対して敏感にさせている。
まあ、人間の人間集団に対する鬱陶しさは普遍的に世界中が共有している。
思春期の少女たちの舞には、技術以前の「姿」の美しさがある。彼女らの身体の輪郭は、世間の垢に汚れていない。
いまどきの女子高生が冬でも素足のミニスカートで通しているのは、身体の輪郭が外の世界に浸食されていないことを確かめようとしているのだろう。そうやって世界と戦っているともいえる。世界と戦っていることのひりひりとした緊張感で生きている。
それに対して大人の女の身体の輪郭にはそうした緊張感がなくて、世界に溶けてしまっている。もちろん個人差はあるのだが、男も女も大人になると身体の輪郭があいまいになってくる。
姿の美しさは、身体の輪郭の世界に対する緊張感=孤立性にある。思春期の少女は身体の輪郭にそういう美しさを持っているから、たとえ下手くそな踊りでもその「姿」は何となく愛らしい。
まあ彼女らは、踊ることが好きである。
女は、思春期になると、体は丸みを帯びてふくらんでくるし、月経もはじまる。そうやって、いやでも身体の物性を意識させられてもの憂い感情にもなるが、同時にその物性を消去しようとする衝動も起きてきて、それが身体の輪郭の緊張感にもなる。
踊ることは、自然に体が動いて、身体の物性を忘れてしまう作法である。身体がただの「空間の輪郭」になったような心地がする。そういう心地を彼女らほどよろこんでいる人間もいない。だから、踊ることが好きなのだ。
思春期の少女特有の身体の輪郭の緊張感=孤立性というのがある。弥生時代奈良盆地の人々はこの美しさを祀り上げてゆき、舞のエキスパートとしての巫女が生まれてきた。



走ったりとんだりはねたりすることは意図的に身体を操作することによって上達するが、歩くことや踊ることは、体が自然に(勝手に)動いてしまう心地よさにたどりつくことができる。
歩くことや踊ることの醍醐味は、身体の物性を忘れてしまうことにある。身体が自然に動いてしまうとき、人は身体の物性を忘れている。
アフリカのダンスだろうと日本列島の舞だろうと、それぞれの民族性にしたがって自然に身体が動いてしまうかたちとして発展してきた。
原初の踊りはただやみくもに体を動かしてとんだりはねたりすることだったのかといえば、おそらくそうではない。
アフリカのダンスだって、だんだん早くなってきたのだろう。
ただ跳びはねることくらいは猿でもしている。
しかし人類の二本の足で立っている姿勢は、胸・腹・性器等の急所を外にさらしているという、きわめて不安定で危険な姿勢である。
だから人間は、他者と向き合って立ったとき、そうそう自由気ままには動けない。攻撃されたらひとたまりもないという不安だけでなく、相手に対して攻撃する意思がないことも示してやらないといけない。そのようにして人は、他者を祀り上げてゆく。おたがい祀り上げ合っていないと人間社会は成り立たない。
他者と向き合えば、勢いよく動きだすことはできないが、同時に、他者を祀り上げながら自然に体が動き出す契機にもなっている。
ゆっくりと自然に体が動き出す。そのようにして人類の踊りの歴史がはじまった。
最初は、音楽などなかった。それでも体が動き出した。
他者に対するときめきが、その動きを促していた。
そのとき人が何を祀り上げようとしていたかといえば、出会っているという事実を祀り上げていたのだろう。
相手が、美しい人だとかいい人だからということではない。ただもう「出会っている」というそのことにときめき祀り上げている。おそらくこれが、人が人にときめくとか、人と人の関係の原点だ。
人間は、他者の美しさや人格にときめくのではない、「出会っている」というそのことにときめく。



二本の足で立つ姿勢は、他者と向き合うことによって安定する。そのとき他者の身体が心理的な壁になって前に倒れそうになる不安定さを解消してくれている。人類は、他者と向き合う関係をつくることによって二本の足で立つという姿勢を常態化させてきた。
実際に向き合っていなくても、人間は意識の底に向き合う関係を持っている存在なのだ。実際に人と出会ったとき、そういう無意識というか記憶の層が揺さぶられてときめいている。
そのとき心は、もっと寄っていって仲良くしたいような、このままでいて姿勢を安定させていたいような気持で揺れている。それは、もっとも他者に攻撃されやすいもっとも危険な状態であると同時に、もっとも二本の足で立つ姿勢が安定している状態でもある。
じっとしていたいような、していたくないような……そうやって体が揺れて動き出してくる。これが、舞の起源である。
だからそれは、せわしなく跳びはねる動きとしてはじまることはあり得ない。
ゆっくりと体をくねらせるように動きはじめる。
お祭り広場に集まった旅の男たちと集落の女たちの縄文人は、そうやって向き合い、体をくねらせるように踊っていたはずである。そうしてその動きに、手の動きが加わり足の動きが加わってくる。
しかし山の斜面とともに暮らしていた彼らは、激しく動き出すことはついになかった。そこが、サバンナの平原で暮らしていたアフリカ人のダンスとは少し違うところだったのかもしれない。
そしてアフリカ人は、その熱さや肉食獣がたくさんいるサバンナの自然から逸脱しようとする衝動を持っているから、その衝動とともに反自然的なリズムを刻んで動きも次第に躍動的になってゆく。
しかし山ばかりを道を歩いて暮らしていた縄文人は、山の自然に溶けてゆくように体を動かしていた。彼らの生のコンセプトは、あくまで「なりゆき」にまかせることにあった。
それに、山の小集落の中につくられた猫の額のようなスペースであれば、あまり動きまわることなく、ほとんど上半身だけで踊っていたはずである。下半身を安定させておくことが山での行動の作法だった。
縄文時代のこの一万年が、その後の日本列島の舞の歴史の基礎をつくった。
彼らは、ゆっくりと体をくねらせながら、自然に溶けてゆくように舞っていた。



では、弥生時代になって、日本列島の住民の舞はどのように変わっていったのだろう。
広い平地に下りてきて農業を始めたのだから、それなりの変化はあったはずである。
お祭り広場そのものが、動き回ることができる広さになった。足の動きが、舞の新しさを表現していた。
しかしそれでも山に囲まれた場所で山を愛していた人々だったのだから、世界観も身体感覚もそう大きな変化はなかったに違いない。「なりゆき」にまかせる文化は、日本列島の歴史を通じての伝統である。
「歩く」ということを基礎にした身体作法。というか、弥生時代になってこの身体作法の舞が本格化してきたのかもしれない。
そして、歩いて移動すれば、身体の輪郭が美しいか否かがよけいに際立ってくる。
立ったままで踊っていれば、大人の女の身のこなしの色っぽさやあでやかさが際立つ。それは、いわば「肉体」から発する気配である。それに対して歩く姿には、世界に対する「身体の輪郭」の緊張感が如実にあらわれてくる。これは、肉体の色気とは別のものだ。
待合室などでとてもきれいな姿勢で座っていた中高年の婦人が、歩き出したとたんにその美しさが消えてしまうことをよく見かける。
しかしまあ、「姿」そのもの美しさは「肉体」の問題ではないし、いいかえれば、「肉体」の問題ではないから、服を着ていてもその違いはあらわれる。
服を着ていれば、服の輪郭が「身体の輪郭」になっている。
たとえば、髪の毛は身体ではなく身体の触覚のようなものだろう。それと同じようにメガネや衣装を身体の輪郭=触覚として感じることができるかどうか。感じることができるような身体の緊張感=孤立性を持っているかどうか。
そのとき、衣装の輪郭が身体の輪郭になっている。だから、能役者があんなにだぶだぶの衣装を着ても、それでもそれは「身体の輪郭」なのである。そしてその身体は、物性を持った「肉体」ではなく、「空間としての身体」なのだ。
身体の輪郭の美しさは、肉体のセクシュアリティのことではない。
思春期の少女は、無意識のうちにみずからの肉体のセクシュアリティをそぎ落とす身のこなしを持っている。彼女らは、そのようにして思春期という現在を生きている。
世阿弥が「萎れたるこそ花なり」ということだって、つまりは肉体のセクシュアリティをそぎ落としている「姿」のことをいっているのだ。
逆にいえば、大人の女は、無意識のうちに肉体のセクシュアリティを発散してしまう。そうしてその分「身体の輪郭」があいまいになる。
大人とは、「世間」に幽閉された存在である。身体そのものがすでに世間に関心を持ち、世間から見られることを意識している。
しかし思春期の少女たちの身体は世間から孤立し、世間に対する関心もなければ世間から見られていることも意識していない。
だから、女子高生は、堂々と太腿をさらしたミニスカートでいられる。大人の妙な自意識を持ってしまえば、もうその格好はできない。「世間」に幽閉された自意識を。
思春期の少女の「姿」には、無垢な無関心がある。それが「処女性」である。



身体の動きの美しさは、「身体の輪郭」の美しさとしてあらわれる。それは肉体のセクシュアリティをそぎ落としている「姿」であり、だから神社で舞を披露する巫女は処女が選ばれた。
セックスの経験があるかないかなどたいした問題ではない。肉体のセクシュアリティをそぎ落とした「姿」を持っているかいなかなのだ。弥生時代は、そういう「姿」を持っていることの「処女性」が発見された時代だった。
人々が動きまわって踊れる広場を持ったことによって、舞にそういう進化が起き、舞のエキスパートとしての巫女が生まれてきた。
そのお祭り広場で、思春期の少女たちはあまり男と一緒に踊るということをせず、少女どうしで踊りたがる習性があった。彼女らはもっとも踊ることが好きな世代であったし、祭りのときはいつも人目を引く集団になっていった。
弥生時代は、空間を移動する舞が生まれてきた時代である。おそらく少女たちは、この動きにいち早くトライしていった。
男女で向き合って踊っていた大人たちは、肉体のセクシュアリティを表現することにこだわるから、どうしても上半身だけの踊りになりがちだった。
たとえば足の運びそのものにも、少女たちだけの流儀があった。彼女たちはみずからの肉体に対する疎ましさを持っているから、大人のような無防備でむやみな動かし方はしない。彼女らの「形」というものがあった。
人体の「穢れ」は、あくまで主観の問題である。物理的に汚れているとかいないとかという問題ではない。その「穢れ」をそそいでいる美しい「姿」は、もっとも「穢れ」を強く意識しているものたちによって表現されていった。プロフェッショナルが存在しない時代の舞の名手は、おそらくそのように登場してきた。
まあいずれにせよ誰もが大きな集団の中に身を置いて暮らすことの「穢れ」を強く意識していた時代だったから、少女たちのその舞姿の美しさが見い出されていったのだろう。
人間は、「穢れ」を負っている存在だから、他者にときめいてゆく。それは二本の足で立っていることの「穢れ」を自覚したところからはじまっている。ときめき合わなければ、二本の足で立つという姿勢を常態化することはできなかった。
弥生時代は、日本列島の住民がより深く「穢れ」を自覚していった時代だった。そういう状況から奈良盆地で祭りがさかんになり、舞のエキスパートとしての巫女が見い出され、やがてその中から「天皇=きみ」という存在が祀り上げられてゆくことになった。
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