祝福し赦している存在・「天皇の起源」35


ほとんどの歴史家は、縄文時代からすでに呪術があったようなことをいっている。まあそれは彼らにとっての疑うべくもない常識で、社会全体でそのように合意されている感がある。
僕が「そんなことあるものか」といっても、立ちはだかる壁は厚い。だから僕の反論も、勢いくだくだしくなる。悔しいが、「そういう解釈もありだな」というレベルまで書ききれていない無力感の方が先に立つ。
ともあれ、この壁を崩さないことには前に進めない。
原始神道の巫女は呪術師ではなかった……天皇の起源を問うには、ここのところが重要なのだ。
縄文時代にも弥生時代にも呪術などなかったのだ。神という概念も霊魂という概念もなかったのだ。日本列島の伝統文化は、そのように解釈しないとつじつまが合わない。
たとえば、日本列島の農村には、こんな習俗が今でも残っている。
村の約束の禁猟期間に誰かが内緒で山に入り、ウサギを二匹(羽)仕留めてきた。まあ狭い社会だから、そんなことをすればすぐに村中に知れ渡ってしまう。
しかし不思議なことに、誰も犯人を糾弾しない。
じつは誰もがしていることだからだ。そしてこう思う。「俺は一匹しか捕まえなかった。だからあいつには一匹貸しができた。今度俺が一匹捕まえてきてもあいつには文句をいわせない」と。
みんなで許し合い、けん制し合ってる。なかなかやっかいな人間関係なのだ。
ともあれ、日本人には公共心がないということは、こういうところにもあらわれている。そういうことをしても、内心では誰もが許されるつもりでいる。
この国では、戦争責任から企業のスキャンダルまで、誰も責任を取ろうとしない。誰もが心の底で「許される」と思っている。
これは、天皇制の問題だろうか。天皇は、国民を祝福し赦している存在である。日本列島住民が無意識のうちに「許されている」と思ってしまうのは、どこかしらで天皇のそのような「姿」に寄生し甘えているからだろうか。
まあそうかもしれない。しかしそれは、天皇が生まれる前からの日本列島の住民のメンタリティだった。そういうメンタリティが天皇を生みだしたのであって、天皇がそういうメンタリティをつくっているのではない。
狭苦しい日本列島では、他者を祝福し赦してゆかないことには集団も社会も成り立たなかった。歴史のはじめから、そういう地理的条件を抱えていたのだ。そういう風土から天皇が生まれてきたのであって、天皇がそういう風土をつくっているのではない。



縄文時代の集落は、二、三の例外はあるにせよ、ほとんどが数十人程度の小集落だった。
縄文人は、大きな集落をつくりたがらない習性があった。それは、山間地の狭いスペースにひしめき合って暮らすというかたちで歴史を歩み始めたからだろう。しかもそこでは山が壁のように立ちはだかっていて、閉塞感がさらに増す場所だった。
まあ、海に囲まれた日本列島そのものが、異民族も異世界も知らない閉じ込められた場所だった。
氷河期明けの縄文時代の平地はほとんどが湿地帯になってしまい、多くの人が山間地に追いやられていった。そして山間地の狭いスペースでひしめき合って暮らせば、どうしようもなく閉塞感が募った。
縄文人は、大きくて密集した集落をつくることを嫌がった。集落が大きくなってくると、鬱陶しさが先に立った。
縄文時代の歴史は、集団の鬱陶しさをどのように和らげ解消してゆくかというテーマではじまった。
だから数十人ていどの小集落ばかりになっていったのだが、そんな小集落の暮らしがそこだけで完結できるはずがない。物質的なことだけではなく、そんなところでひしめき合っているばかりでは、人と人がときめき合う関係が生まれてこない。
だから、いつの間にか、女子供は集落に住み着き、男たちは旅をして集落を訪ね歩くというかたちの社会になっていった。
小集落で暮らしながら、しかも大集団の中にいるような多くの人との出会いというかたちの社会。それは、男にとっても女にとってもそういうかたちの関係が体験されている社会だった。
そういうかたちであるなら、たとえ家が五軒の小集落でもひとまず社会の動きに参加することができるという、まあ絶妙のシステムだった。



日本列島住民は、その歴史のはじめから集団の鬱陶しさを体験していた。したがってその集団運営のテーマは、何はさておいても、ひしめきあってたがいに監視し合っているような鬱陶しさを解消することにあった。
であればその鬱陶しさは、誰もが「祝福し合い許し合っている」というかたちでしか解消するすべはなかった。
縄文時代は、そのようにしてはじまったのだ。
現在の天皇が「祝福し赦している」姿として存在していることだってそういう伝統の上に成り立っているし、それが、日本列島の伝統的な集団運営の作法なのだ。
海に囲まれた日本列島の狭い山の中でひしめき合っている集団の鬱陶しさ、そこから日本列島の集団のかたちがつくられていった。
天皇が日本列島の伝統をつくっているのではない、日本列島の伝統が天皇の姿をつくっているのだ。
最初の天皇は、住民に祀り上げられながら住民の中から生まれてきたのであって、あるとき支配者として住民の前にあらわれてきたのではない。



西洋人には、「神に監視されている」という意識がある。だから、神に懺悔をして赦しを乞う。神はこの世界をつくった存在であり、神は人間を罰する。
だから、ウサギを密猟する人間なんか赦さないし、神に監視されていると思えばそんなこともできない。これが、西洋人の公共心である。そうしてもし密猟すれば、村のみんなが神に代わって糾弾する。
しかし日本列島では、密猟しても赦されると思うし、村のものも、それをちゃんと監視しながらそれでも赦している。
まあ「見られている」という意識は、日本列島の方が強い。そういう地理的条件の歴史だったのだもの。
西洋社会は、「神に見られている」というかたちで集団の「結束=公共性」を構築していった。
しかし日本列島は、誰もが最初から「すでに見られている」存在であり、その鬱陶しさを解消しないことには集団が成り立たなかった。だから縄文時代は、いつまでたっても大きな集団になっていかなかった。そして大きな集団はなかったが、すでに「社会性」は模索されていた。たとえば、土器の様式とか土偶をつくるとかのさまざまな習俗がたちまち列島中に広がっていった。そういう社会性はどんどん発達洗練していったから、大きな集団で連携しながら農業をいとなむという弥生時代にスムーズに移行してゆくことができたのだ。
日本列島の伝統的な集団のコンセプトが「赦す」ということにあるのだとすれば、その集団から「神」という概念が生まれてくることは原理的にあり得ない。
日本列島の住民は、「神に見られている」という意識は持っていない。「赦されている」と思っているし、誰も神に代わって罰しようとはしない。神なんか知らない。日本列島では、そういう関係にならなければ集団を運営してゆくことができなかった。そしてこんなかたちでは「社会性」は育っても、共同体(国家)が生まれてくるはずもなく、1500年前に大陸を真似てようやくつくったにすぎない。



日本列島の住民は、「人間を支配し罰している神」に代わって「すべてを赦している存在である天皇」を祀り上げた。天皇が祀り上げられたということは、そのとき神は存在しなかった、ということだ。
そして、神が存在しなかったのだから、とうぜん呪術も存在しなかった。
神は、人間を罰していると同時に生かしてもいる。日本列島には、そういう観念が存在していなかった。
「すでに見られてしまっている」という鬱陶しさが募る日本列島の集団においては、「赦されている」という意識を持たないと運営が成り立たなかった。
天皇は人間を赦していると同時に、人間を生かすということもしない。
日本列島の天皇は、西洋の神とはまったく性格の違う存在なのだ。
大和朝廷の成立以後に天皇が神になってしまったのは、歴史のミステイクだった。そのとき日本列島の住民は神のなんたるかということを知らないまま、まったく性格が違うはずなのに不用意に「天皇=神」ということにしてしまった。
言い換えれば、大陸文化の伝来以後にようやくイメージされていった日本列島の神は、人間を生かすことも人間を罰するということもしない。
それはつまり、日本列島は「呪術」が簡単生まれてくるような風土ではなかったということなのだ。
縄文人弥生人が呪術ばかりやっていたようにいうのは、お願いだからやめていただきたい。そんなことをいっていたら、いつまでたっても天皇の起源に迫れない。
呪術も神という概念もなかったから、その代わりの集団運営の形見として「天皇=きみ」を祀り上げていったのだ。
天皇は祝福し赦している存在である。それは、神として発生したのでも呪術師として発生したのでもないことを意味している。したがって、もちろん多くの左翼知識人がいうような「差別」の元凶になっている存在でもない。むしろ差別とは対極の「祝福し赦している」存在なのだ。
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