戦後社会の憂愁・「天皇の起源」34


1950年代の日本の風景は、戦争の傷跡を残してまだ荒涼としていた。
僕が小学校に入学したのは、50年代の中ごろだった。そのころの伊勢の住宅街にはアメリカ軍によるたぶん面白半分らしい散発的な爆撃による焼け跡があちこちに残っていて、僕の家の庭にも焼夷弾の残骸が二つ三つ転がっていた。
僕の家が爆撃に遭ったわけではなく、大人たちがどこかから拾ってきたものだった。何かに使うつもりだったのか、クズ鉄として売って金に換えるつもりだったのか。
子供らで遊んでいるときに原っぱで頭蓋骨を見つけ、焚火をしてそれで湯を沸かしてみたりしたこともあった。
みんな、ろくなものを食っていなかった。そのころの急速な人口膨張に日本列島の食糧生産が追いつかない時代だった。食糧を輸入する金もなかった。
学校給食は、アメリカから支給されたとてもまずい粉ミルクが使われていた。
しかし、不思議に、ひどい時代だったという印象はない。
人々が食うことにあくせくしていなかったからかもしれない。たぶん、多くの人の表情が穏やかだった。今のように大人が子供に当たるとか子供を支配するということは少なかったのだろう。
大人が子供に慕われていたというか、魅力的な大人がいる社会だった。今の社会では大人が子供を支配管理しているが、支配されていなければ子供は大人を慕ってゆく。
まあ大人は子供よりも身体能力があるしたくさんのことを知っているのだから、大人の世界と子供の世界が調和していれば自然に子供は大人を慕ってゆく。
ひとまず「支配」という政治が希薄な社会だった。たぶんそのとき、文化的には、共同体(国家)が成立する前の社会のかたちになっていたのだ、弥生時代奈良盆地のように。
人間社会はというか、人と人の関係には、いつの時代であれ、そうした共同体(国家)が成立する以前の「支配」が機能していない側面を持っている。
共同体(国家)など存在していてもいいのだ。それでも人間は、「支配」が機能していない関係をつくることができる。人類史は、そういう時代を持っているのだ。かんたんに「農業を覚えて人口が増加すればたちまち支配者があらわれ階層が生まれてくる」などといってもらっては困る。
人と人は、「支配」など存在しない文化的な関係をつくることができる。50年代前半は、戦争体験の反省から、一時的にそういう関係の社会が現出した時代だったのかもしれない。
人々は、政治的な支配関係よりも、文化的なときめき合ったり嘆き合ったりする関係を生きていた。戦争の反省として、そういう人と人のイノセントで普遍的な関係に対する心の動きが生まれていた。
政治経済よりも、娯楽芸能の方が大切だった。まあ、政治経済の充実など望むべくもない社会だったし。



そのころの娯楽文化など貧弱なものだったのかもしれないが、人々は食うことよりも娯楽を基礎にした生活をしていた。ラジオで歌謡曲浪花節を聞くだけでも、大きな娯楽になっていた。
知識人であろうとあるまいと、日本列島全体が、戦争の反省として、社会(国家)に対する興味よりも、人間に対する関心で動いている時代だった。
たぶん現在は、戦争のときと同じように「社会(国家)とは何か」というテーマで動いている時代なのだろう。いつの間にかそのようなテーマにシフトして経済繁栄という「政治」に邁進していった。
戦争がなくても、人と人の関係が政治的なってしまっている社会であるのなら同じことだ。人と人の関係も文化も一見華やかだが、その内実は殺伐としている。
たとえば、いまどきはフランス料理やワインなどのうんちくを語る人は多いが、ほんとのうまいアジの干物をつくれる漁師もその味がわかる人も、ほんとに少なくなってしまった。いやもちろん、一部にはそういう文化を取り戻そうとする動きもあるのだが。
時代が政治経済的になると、人間に対する視線の底が浅いものになってしまう。人間を類型の中に閉じ込めてしまえば、支配しやすいし、物も売りやすい。
1950年代の人々は、「憂き世」であることを受け入れ、少なくとも現在よりは人間という概念を深く豊かに思考していた。そういう心の動きを、知識人も庶民も持っていた。
そのころの文学者だって、小林秀雄川端康成埴谷雄高島尾敏雄大岡昇平、阿部公房、野間宏椎名麟三と多士済々だが、彼らには、人間に対する視線の深さという共通の資質を持っていた。
みんなが「憂き世」を生きている時代だった。
現在は、この社会は「憂き世」であってはならない、という前提の意識になってしまっている。そのあげくに大人たちの顔つきや「姿」も平板でぶざまになってしまっている。


人類の文化は「憂き世」において花開く。その意識が、人を文化的にする。
「いい世の中」だと思ったら、頭がぼけてしまうだけだろう。
まあ、この生そのものが憂きものであり、生きれば生きるほど「穢れ」がたまってゆく。
人類の知能(文化)は、「憂き世」の自覚ともに進化発展してきた。それはもう、直立二足歩行の起源から現在の学問芸術まで、ずっとそのような因果関係をはらんできたのだ。
たとえば、日本映画がもっとも華やかだったのは終戦後の貧しかった1950年代だった。
そのころに、小津安二郎黒沢明成瀬巳喜男溝口健二などの世界的に評価される監督を輩出した。そうして高度経済成長からバブル景気にいたる70年代か80年代は映画がどんどん斜陽化してゆき、質そのものも低下していった。
前記の巨匠たちのあとに出てきたのは、いわゆる「ヌーベルバーグ」と呼ばれた監督たちだったが、巨匠たちの映画に比べたら明らかに稚拙だった。彼らが描く若者の怒りやエキセントリックな行動は、何か上滑りして、人間の真実に迫る説得力がなかった。
彼らの思わせぶりな「時代の状況」の描写よりも、小津安二郎の軽妙なコメディの方が、よほど人間の普遍に届いている。
東京物語」のラスト近くで、香川京子原節子がこんなセリフを交わすシーンがあった。
「いやねえ、世の中って」
「そう、いやなことばっかり」
このとき原節子は、かすかに笑っている。そういって二人は「憂き世」を嘆きつつ受け入れている。こういうなにげないシーンの方が、ヌーベルバーグの監督たちの描く風俗的な上滑りした怒りや狂気よりもずっと人間(あるいは日本人)の普遍に迫っている。
50年代はみんな「いやなことばっかり」と思いながら娯楽を大切にして暮らしていたのであり、それが日本列島の伝統的な意識だった。そして、このあとはもうそのような意識が消えてゆくのだろうという小津安二郎の予感=嘆きがあった。「東京物語」はまさにそうした時代の気配を写し取る映画だったのであり、そのとき彼には、人と人がこのような会話をしない世の中ははたしていい世の中かという思いがあったし、どんな世の中になっても人と人はこのような会話をするのだという思いもあった。
50年代の巨匠たちは、ともに「伝統」を意識していた。そしてヌーベルバーグの監督たちはその「伝統」を否定して登場してきた。彼らは、「伝統」を否定することは人間性の普遍を獲得することでありそれが映画をたんなる娯楽から芸術の地位へと引き上げることだと主張した。
しかし皮肉なことに、この国の映画界は、彼らの登場とともに斜陽化していった。テレビの普及だけが原因ではない、日本人がなにはともあれ「いい映画」をつくれなくなっていったのだ。芸術どころか、娯楽ですらなくなっていった。もちろんそれは彼らのせいではなく、日本人全体の美意識が衰弱していった時代だったのだ。



50年代の終わりころからだろうか、右肩上がりの経済成長とともに人々の「憂き世」という意識が希薄になり、文化的に底の浅い時代になっていった。
そのとき日本列島は、「もっとよい社会」とか「もっとよい暮らし」をめざして動きはじめていた。そのような政治経済的な態度が正義であり人間性の普遍だと合意されている社会になっていったのだが、じつは、ただたんに「いまここ」に対する反応が希薄になり、かえって人間性の普遍=自然が見えなくなっていったというだけのことでもあった。
80年代のバブル景気のころはニューアカデミズムのブームになったりして、普通のサラリーマンでもそうした思想哲学の本を読み、いつにも増して人間性の普遍について意識されている時代だった。だがそれは、けっきょく、「外部」とか「周縁」とか「表層」とか「ノマド」とか「リゾーム」とかのスタイリッシュな言葉がバブル景気に浮かれる人々の免罪符になっていただけかもしれない。
まあ、あるべき社会のかたちが問われている時代で、そういう社会を人間がつくることができると幻想されている時代だった。バブル景気に浮かれた人々は、人間が社会や時代をつくっていると思った。誰もがただ時代に踊らされているだけだったのに。
幸せになりたいとかよりよい未来をめざすという政治的な態度は、けっして人間性の普遍=自然ではない。よい社会が人間を救うなどというのは幻想にすぎないし、人間が社会をつくることなどできない。
社会は「憂き世」としてすでに存在する。人間が社会をつくるのではなく、社会が人間をつくる。
あのバブル景気に浮かれていた人々は救われていたのか。人間の普遍=自然に対する視線を喪失して、文化的に底の浅い風俗をつくっていただけではないのか。
知識人であろうと庶民であろうと、金持ちであろうと貧乏人であろうと、人は「憂き世」を生きることによって人間の普遍=自然に対する視線を獲得する。
人間が人間であるとは、どういうことだろう?
人間は、生きていれば避けがたく身体の「孤立性」と「穢れ」を意識してしまう存在である。生きていれば避けがたく淋しさや幻滅が募ってしまう。誰の心の中にもそういう砂漠がある。そういうものを抱えて人は、世間や他者を眺めている。
心の中に砂漠を抱えているから人は「文化」を生みだしたのだろう。バブル景気によって世間の消費活動もニューアカデミズムなどの哲学思想のムーブメントも大いに華やいだが、それでも人々の人間の普遍=自然に対する視線は衰弱してゆき、人間としての「姿」があいまいになっていった。
文化的に貧しければ、この生を味わいつくすことはできない。この生を味わいつくすことは決して幸せなことでもなく、それなりに苦悩や孤独や嘆きなどのネガティブな感慨はついてまわるが、まあ人間なんてそんなものなのだろう。そんなものだから、人間的な文化が洗練してきた。
なんのかのといっても、バブル景気のころより50年代の方が文化的には洗練されて高度だったのだ。
これは僕の個人的な感想だが、この国のヌーベルバーグの監督たちの人間に対する視線は底が浅い。そしてそれは、彼らと同調していったわれわれ団塊世代の限界でもあった。
団塊世代は、日本列島の住民がみずからの伝統とともに人間性の普遍を見失ってゆく時代を生きた世代だった。なんだか知らないが、もっとも他愛なく上滑りした時代に洗脳されていった世代だった。
「文化」とは何だろう。団塊世代はそういう「センス」が貧弱な世代である。
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