日本的なアナロジー思考・「天皇の起源」33


弥生時代奈良盆地は、すでに大きな都市集落になっていたが、支配者の政治が存在する共同体(国家)ではなかった。
共同体(国家)が生まれる以前の人類は、ひたすら「いまここ」をこの生のすべてと思い定め、「いまここ」に体ごと反応して暮らしていた。それが人間の根源というか自然状態の衝動であり、そこから文化活動が生まれ育ってくる。
つまり弥生時代奈良盆地は、未来に向かう「政治」ではなく、「いまここ」の「なりゆき」を受け入れ、それに体ごと反応してゆくという流儀で集団をいとなみ、文化をはぐくんでいた。
おそらく世界中の人類史において「政治」などというものが存在しない都市集落の段階があったわけで、その段階の時代において人類の文化が飛躍的に花開いていった。
集団の衣食住をつかさどることを「政治」というのなら、言葉とか娯楽芸能とか学問芸術とかの「文化」は衣食住のことには直接なんの役にも立たない。政治が存在しない段階の時代だったから、そうした「文化」が花開いていったし、「文化」の上に集団が機能していた。
そして、人間の歴史と猿の歴史との違いは、この「文化の時代」を持っているかいないかにある。
「政治」は、猿だって人間に負けないくらいしっかりやって集団をいとなんでいる。
しかし、「文化」のレベルにおいて、明らからに差異がある。何はともあれ、「言葉」を持っているかいないかの違いがある。
言葉はもともと「コミュニケーション=伝達」などという「政治」の道具として生まれてきたのではない。初期の段階においては、言葉よりも身ぶり手ぶりなどの行為の方がずっと「コミュニケーション=伝達」の道具として役立っていたのだ。
知らない間にさまざまな音声がこぼれ出てしまう猿だった……それだけのことさ。そういう喉の構造をしていたからさまざまな音声を発したのではない。さまざまな音声を発していたからそういう喉の構造になっていっただけのこと。



そのとき言葉という人間的なさまざまな音声を発することは、ただもう「いまここのなりゆきを受け入れ、それに体ごと反応してゆく」というだけのなんの役にも立たない行為だった。そういうさまざまな音声を発してしまうような、生きてあることの「感慨」があっただけだ。
原初の言葉は、人類にとって生きてあることの証であったが、生きるための道具ではなかった。
そのときまだ「政治」などというものを知らなかった人類は、この世界を「憂き世」と思い定めそれを受け入れて暮らしていた。人間は猿と違ってもともとそういう「嘆き」の中で生きてゆこうとする心の動きを持っている存在であり、そこからさまざまな「感慨」が起きてきて、さまざまな「音声」が思わず発せられるようになっていった。
そして、この思わず発してしまったさまざまな音声に、それぞれの感慨が込められていることに人類は気づいていった。
その音声のニュアンスに対する好奇心こそ、その後の人類の娯楽芸能や学問芸術が花開いてゆくことの基礎になった心の動きである。
そんな好奇心など、衣食住にはなんの役にも立たなかったはずである。それでもその好奇心がどんどん膨らんでいった。それは、それほどに「いまここ」に対して豊かに体ごと反応していたからであり、それほどに「憂き世」を生きてあるという思いが切実だったからだ。
人間は、なんの役にも立たないことに夢中になってしまう。そのダイナミズムは、猿の比ではないだろう。そのようにして、「よりよい社会をつくる」という政治など思わないでひたすら「いまここ」の「憂き世」を生きながら「いまここ」に体ごと反応してゆく「文化の時代」を体験してきたわけで、日本列島の文化の特異性はこの時代が大陸よりもずっと長く続いたことにある。



人間と猿(チンパンジー)の遺伝子の内容はほぼ同じだといわれている。そして、人間にはあって猿にはない、というような遺伝子はなく、猿にはあるが人間にはないという遺伝子が4つほど見つかっているのだとか。ただの聞きかじりだから、ほんとうかどうかはわからない。しかし、きっとそんなこともあるのだろうな、とも思える。
つまり、人間の遺伝子の方が完全であるのではなく、猿の方が完全なのだ。人間は、猿から分かたれて人間になってゆく段階で、いくつかの遺伝子を失った。
遺伝子とは生きるための機能として存在するものだとすれば、そのぶん生きにくくなったということであり、すなわち人間とは生きにくさを生きようとする存在であるということだ。
猿としての限度を超えて大きく密集した集団の中に置かれれば、生きにくいに決まっている。その生きにくさを生きるために邪魔な遺伝子がいくつかあったのかもしれない。
人間は、「憂き世」という生きにくさを生きながら、言葉を生みだし「文化の時代」をつくってきた。
現在においても、生きにくさを生きている人間の方が文化的なレベルが高いという傾向はたしかにある。うまく生きてゆこうとする政治ばかりやっていると、その文化的なレベルの停滞が「姿」にあらわれて、魅力的な人間になれない。
「世のため人のため」などといっても、それだってたんなる処世術という「政治」にすぎない。
人を支配している人間はみんな、人のためになっている。そして支配にもぐりこんでぬくぬくしている人間がたくさんいる。
しかしそれでも人間は、誰もがどこかしらで「身体の孤立性」とともに「憂き世」を嘆き、生きにくさを生きている。
人のためだろうと自分のためだろうと、そんなことはどうでもいい。生きにくさを生きることは人間の自然であり、その自然をちゃんと持っているかどうかというセンスが表情やしぐさにあらわれるし、思考力や感性の源泉になっている。



人間的な文化は、生きにくさを生きようとする人間性から生まれてきた。そしてそれはまた、二本の足で立って歩くという人間性でもある。現代人の「歩く」という能力が減退していることは、それだけ人間本来の生きにくさを生きるタッチが減退し、より生きやすいかたちをめざす「政治」で生きようとしていることを意味する。戦後社会は、そういう「政治」的な生き方で経済繁栄を達成してきた。
人間が政治的になってしまったから、うまく歩けなくなってきたのだ。
「歩く」ことこそ日本列島の文化の基礎だというのに。
人間が二本の足で立って歩くことは、「意志=政治」の上に成り立った行為ではない。体の重心を少し前に倒せば自然に足が前に出てゆく歩き方である。そういうなりゆきに身を任せるという生き方のタッチを失って、自分の意志で体を支配しようとばかりするようになったから、うまく歩けなくなった。
いまどきの年寄りは、自分の意志で足を動かそうとばかりして、ますます歩けなくなってしまっている。日本列島には、そういう政治的な生き方の文化の伝統はない。
なにしろ、大陸よりも何千年も遅れて1500年前にやった共同体(国家)を持った民族なのだ。
日本列島で共同体=国家の発生が大幅に遅れたということは、それだけ長く「文化の時代」を歩んできたということである。
日本列島の住民の「憂き世」という感慨はそうかんたんには消えない。
そして近ごろでは、そういう気分で生きようとする若者が増えてきている。彼らの「憂き世」という気分から「かわいい」とか「癒し」というような文化が生まれている。
またそれは、われわれが日本語の民族だということでもある。
やまとことばは、生きやすくなるための「政治」としての「コミュニケーション=伝達」の機能よりも、言葉の普遍的な起源のかたちであるところの、生きにくさを生きる「感慨」の表出の機能の方に重点が置かれている。



人類の言葉は、無意識のうちにさまざまな音声がこぼれ出てしまうという原初の段階から普通に人間的な会話ができるようになるまでは、おそらく100万年か200万年かかっている。
その100〜200万年のあいだに人類の集団は、猿としての限度を超えてどんどんふくらんでいった。
ふくらませたかったのではない。ふくらんでゆけば鬱陶しいに決まっている。それでもその状況を受け入れ生きにくさを生きることによって文化を紡ぎながら、その鬱陶しさに耐えて歴史を歩んできた。
そうやって生きにくさを生きようとする習性があったから、現在のような大集団になるまで膨れ上がってきたのであって、もっと効率的ないい暮らしがしたいという欲望が先に立つ存在であったのなら、余分な個体を排除するという政治を覚えて、ここまで際限なく膨れ上がってくるということはなかった。
そのあいだ人類の食糧生産は、集団の膨張に追いつくのがやっとだった。余剰の食糧を生産するようになったから人口が増えてきたのではない。
人口増加に追いつこうと必死に食糧生産してゆくうちにいったん人口増加の勢いが収まり、そのためにやがて食糧生産が人口の膨張を追い越していった。そうしてその余剰のものを私有する支配者が登場し、共同体(国家)が生まれてきた。それが、メソポタミアの7000年前であり、日本列島の1500年前だった。
メソポタミア地方では氷河期明けの1万年前からすぐに人口爆発がはじまり、それが一段落して共同体(国家)が生まれてきた。
日本列島では2千数百年前の弥生時代になってからやっと人口爆発が起き、それが一段落した古墳時代になって食糧生産が過剰になり、支配者があらわれ共同体(国家)が生まれてきた。したがって、集団が膨張し続けている弥生時代に支配者が登場し共同体(国家)が生まれてくることは原理的にありえない。そのときはまだ、支配者が存在できるような余剰の食糧生産などできていなかった。
日本列島の民衆は、1500年前まで、政治を知らないまま膨張する集団の鬱陶しさに耐えながら原始的な文化活動をそのまま洗練させてきた。
原始社会は、世界中どこでも「憂き世」を受け入れ耐えながら文化活動をはぐくんできた。
人類は、余剰の食糧を生産できるようになったから大きな集団を持つようになったのではなく、大きな集団の中でも生きられる文化活動をはぐくんできたから大きな集団を持つようになったのだ。そして大きな集団を持つようになったから、それに追いつくように食糧生産の能力を高めてきたのだ。
弥生時代奈良盆地はそのころの日本列島でもっとも大きな都市集落ではあったが、まだ余剰の食糧を生産できる段階ではなかった。そうして政治を知らないまま、「憂き世」であることを受け入れながら文化活動を洗練させてきた。
多少の余剰を持ったとしても、それは支配者があらわれ搾取するというかたちで消費されたのではなく、みんなが集まる祭りを催したり、そこでの巫女という舞の集団を育てるとか、そういう文化活動に消費されていた。



弥生人は、みんなで食糧を生産し、みんなで分けていた。狩りと違って、原始的な農業で誰かがひとり占めできるというようなことはない。
私有の田や畑などなかった。
そんな集団で、余剰の食糧を生産できるようになったら、それをどのように使うだろうか。
もともとみんなのものだから、みんなで決めたに違いない。
リーダーに便宜を図ってもらっているのならリーダーに捧げたかもしれないが、リーダーなどなしに、みんなで話し合って作業を進めながらみんなで収穫した食糧なのだ。
では、みんなが等分に蓄えるかといえば、たぶんそんなことはしない。
蓄えたら、働こうという気にならない。なくなって、はじめて働こうという気になる。
人間は生きにくさを生きようとする存在だから、消費してしまおうとする。
そのとき彼らは、集団が膨張するその生きにくさ(=憂き世)を、より効率的に生きようとする政治によってではなく、生きにくさを癒す「祭り」という娯楽芸能を盛り上げながら生きにくさ(=憂き世)とともに生きようとしていった。
彼らの余剰の生産物は、娯楽芸能の文化活動に使われていった。
その生きにくさを政治によって解消していった民族においては、伝統的に娯楽芸能の地位は低い。しかし日本列島においては、政治的にはナイーブだが、伝統的に娯楽芸能の地位は低くない。



そのとき日本列島の住民は、政治的に生きるということを知らなかった。縄文時代の1万年を生きにくさの中で文化を洗練させながら生きてきた人々だった。
縄文土器の多彩な装飾性を見れば、縄文人は文化的ではなかったとはいえない。彼らは、土器には必ず装飾を施した。そして土偶の例でもわかるように「デフォルメする」ということを知っていた。
デフォルメの文化は、現代まで続いている日本列島の伝統である。
デフォルメは、「類推(アナロジー)」の思考でありイマジネーションである。日本列島の住民は、その思考とイマジネーションによって外来文化にすぐ飛びつき自分のものにしてしまう。
漆や稲は、縄文時代の途中に鳥の糞や海流などによって日本列島に運ばれてきて自生しはじめた植物らしい。彼らはそれを、たちまち自分のものにして、漆の精製や稲の栽培を覚えていった。
もしかしたら縄文人は、その当時の世界でもっとも政治的に遅れた民族であると同時に、文化としての「類推(アナロジー)思考」がもっとも発達している民族でもあったのかもしれない。
弥生時代は山で暮らしていた縄文人が平地に下りてきて農業をはじめた時代だったのだが、その集団は縄文時代の延長のメンタリティでいとなまれていたはずである。
われわれはいまだに政治的に生きることの下手な民族であり、であれば弥生人はもっと下手であったに決まっているし、下手なぶん、より文化的だったのだ。
彼らの集団運営は、より効率的に生きるための支配者の政治ではなく、生きにくい生を癒す娯楽芸能の文化の上に成り立っていた。
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