しょうがない・「天皇の起源」49


弥生時代奈良盆地では、みんなして天皇という祀り上げる対象を共有してゆくことによって、集団が安定し、活性化していた。
しかしそれは、誰もが自分たちの集団を肯定し止揚していたというのではない。集団賛歌として天皇が生まれてきたのではない。
集団を「憂き世」と自覚し、この生を「穢れ」と自覚してゆくのが日本列島の伝統なのだ。
日本列島ではそれまでの縄文時代1万年の歴史を、ほとんどが人口百人以下の小集落ばかりという社会で生きてきた。それが弥生時代奈良盆地では、やがて一万人を超える都市集落に膨らんでいった。なぜ膨らんでゆくことができたかといえば、彼らは、海に囲まれた島国で異民族との軋轢を体験することなく、他愛なく人にときめいてゆくメンタリティで歴史を歩んできた人々だったからだ。
弥生時代に、集団どうしの軋轢はほとんどなかった。人と人が他愛なくときめき合い、集団が無防備に無際限に膨らんでゆく時代だった。そしてそれは人類史の普遍であり、世界中どこでもそういう時代を体験している。なんのかのといっても人類は、そういう時代の体験を歴史の無意識として基礎に持っているから、現在のような国家という巨大集団をいとなむことが可能になっているのだし、何万人も人が集まった娯楽のイベントを当たり前のように催すことができているのだ。
しかし、初期の集団膨張の時代に、混乱や鬱陶しいと思う感慨が起きてこないはずがない。大陸では集団膨張が長い時間をかけてじわじわ進んでいったが、日本列島では、1万年のあいだ小集落ばかりの社会だった縄文時代の後にいきなり起きてきた。それが弥生時代奈良盆地であり、それでも人々はひたすら他愛なくときめき合いながら集団はさらに膨張していった。
彼らは、その膨張する集団に対する「憂き世」という思いを共有しながら、集団を運営していた。まあ「憂き世」という思いは日本列島の住民のトラウマのようなものであり、彼らは、そんな集団の中で暮らすわが身の「穢れ」に対する思いを共有していた。
つまり、みんなして同じ美意識が共有されていた。人間集団は、基本的にはそのようにして成り立っている。



美意識とは、美しくないものを厭う意識である。神のないこの国ではとくにそうだが、美しさの基準などというものはない。それは、美しくないものを厭う心がたどりついた「ときめき」という体験である。
古代人が他愛なくときめき合っていたといっても、それほどに彼らは「美しくないもの=穢れ」を厭う気持ちを共有していたということであって、それがなければ「ときめき=美意識」なんか育たない。
氷河期明けの日本列島は、大陸から切り離されて海の中に閉じ込められ、さらには平原が湿地帯化して、人々は山の中に追いやられていった。そして平原の大型草食獣もどんどん絶滅していった。人々の暮らしはもう、それまでの平原で大型草食獣の狩りして暮らすというかたちでは成り立たなくなった。
人々の暮らしは一変した。平原では自由に動き回ることができるが、山の中ではそれがままならない。食べるものも変えないといけない。いろんな意味で人々は、生きにくさを生きることを余儀なくされていった。
海に閉じ込められて異民族との軋轢からは解放されていたが、みずからの生そのものに対する嘆きはより深くなった。
日本列島の歴史は、生きてあることの「穢れ」の自覚とともにはじまっている。
そして「穢れ」を自覚すれば生きていられないかといえば、だからこそより深くときめくようになってゆく。「穢れ」の自覚が生きることをうながし、美意識が育ってくる。
人間は、死にたいと思いながら生きている存在なのだ。
まあ、そのようにして日本列島の歴史がはじまった。
単純に「生き延びる」などという生命賛歌をすれば現代社会の問題がすべて解決するというわけではない。この世の中は、それだけですむような美意識の欠落した人間ばかりではない。日本列島の伝統的な美意識は、それだけではすまないようなかたちになっている。
日本列島の住民は、死にたいと思いながら生きるような美意識を持ってしまっている。そういう思いを持っている人ほど美意識が発達している。それはもう、どうしてもそうなのだ。「生き延びる」などという生命賛歌を当然のうように振りかざすことができるのは、それだけ美意識が貧弱だからだ。そういう人間が自分の正当性や優位性を主張しても、あたりまえに見て人間としてちっとも魅力的じゃないという現実は、どうしてもあるのだ。



戦時中の権力者は、民衆の命をボロ雑巾のように使い捨てた。権力者なんか世界中そんなものだろうが、この国ではとくにそんな傾向が顕著で、そうやって勝てるはずのない戦争を遂行していった。
それは彼らが天皇に寄生していて、天皇という存在の属性である「この世のすべてのものを赦す」という態度を免罪符にしていたからだ。
そして日本列島の民衆は、歴史の無意識として「生き延びる」という生命賛歌をしない無常感を抱えているから、権力者のそんな態度を拒むことができなかった。
だから生命賛歌をすれば問題が解決するかといえば、われわれはもともとそいうことをする伝統を持っていないし、生命賛歌をするのが人間の本性だというわけではない。
人間なんか、死にたいと思いながら生きている存在なのだ。死にたいという思いを持っていない鈍感な人間が魅力的なはずがないし、死にたいという嘆きが人間を生かしているという人間存在の逆説的な側面がある。
戦後社会は、生命賛歌ばかりしてきたからこそ、自殺者がどんどん増えてゆくなどの社会病理が深刻化してしまったのだろう。
生きてあることが素晴らしいことであらねばならないのなら、素晴らしいと思えないものはもう、死んでゆくしかないし、人間は普遍的に心の奥に死にたいという願いを抱えている存在だから、追い詰められたらほんとに死んでしまう。
あなたたちの生命賛歌が、彼らを追い詰めているのだ。
生命賛歌など、人間の尊厳に対する冒涜なのだ。
人間は、根源において死にたいという願いを抱えている存在なのだ。それはもう、どうしようもなくそうなのだ。そしてその願いこそが人間を生かしているというパラドックスがある。
いまさら日本列島の住民が生命賛歌しようとしても無理があるし、それは人間の本性にかなっていることでもない。
歴史はもう引き返せない。われわれは、天皇が生まれる以前からずっと生命賛歌をしない歴史を歩んできた。たぶんわれわれは生命賛歌で生きられるような民族ではないし、もともと人間そのものがそのような存在ではないのだ。



この国は、世界で唯一原爆を落とされた国で、さらにその上あのようなひどい原発事故を起こしてしまえばもう、世界のどこよりも原発反対の運動が盛り上がってもいいはずなのに、それでも盛り上がらなかった。
核の怖さを知らないわけではない。それでもこの国の住民を生命賛歌の論理で説得することはできなかった。
戦後の生命賛歌の論理は、すでに賞味期限が切れている。これがバブルのころなら、もっと盛り上がっていたかもしれない。「生きる」という既得権益を侵害されたくないと、人々は半狂乱になって反対したかもしれない。
まあ貧乏人は生きてあることが既得権益だなどとは思っていないし、だから貧しい地域は危険を承知で原発招致を受け入れてゆく。
誰も、安全だと思って原発のそばで暮らしているのではない。しょうがない、と思っているだけなのだ。その「しょうがない」と思う気持ちを、生命賛歌の論理で無知だとか愚かだと決めつけるわけにはいかない。しかし原発反対運動は、いわなくてもそういっているようなニュアンスを帯びていた。
生きてあることはしょせん「穢れ」であり、この社会は「憂き世」である……日本列島の住民はそこから生きはじめるのだ。
その「しょうがない」と思う気持ちは、日本列島の伝統の美意識である。それによって権力者の天皇に寄生した態度を赦してきたとしても、それはまあそうなのだ。
右翼は、天皇に寄生しながらみずからの存在を肯定してゆく。そして左翼の市民主義もまた、天皇を否定しつつ、みずからの存在の正当性を主張している。
しかし日本列島の伝統においては、みずからの生を「穢れ」と否定しつつ世界にときめいてゆく。それが、物言わぬ民衆の「しょうがない」という態度だ。左翼市民主義の原発反対運動は民衆のその態度を掬い上げることができなかった。
彼らは欲に目がくらんで原発を招致したのだろうか?彼らがそれによってどの程度の恩恵に浴したのかは知らないが、それが大きなリスクを負うことくらいは彼らだって知っていた。怖くないはずがない。それでもあれやこれやの理由で招致するしかなかった。彼らのその「しょうがない」という「世界を赦してゆく」感慨は、正義ぶって声高に原発反対を叫んだ左翼市民主義の連中にはわかるまい。



そして近ごろかまびすしい右翼もまた、民衆の心から遊離して、日本列島の伝統の無常感が何も身についていない。それは、天皇を否定していることと同義なのだ。彼らは、天皇を否定して天皇に寄生してゆく。
右翼であれ左翼であれ、「穢れ」の自覚を忘れてみずからの正当性を主張する。それはひとつの権力志向であり、権力を志向することは、天皇を否定していることと同義なのだ。右翼の天皇崇拝だって、天皇を否定している。天皇を否定しているから、馴れ馴れしく天皇に寄生できるのだ。彼らはどうしてあんなにも天皇に対して馴れ馴れしいのだろう。天皇を神だと思うなんて、天皇に対して馴れ馴れしいのだ。
天皇だって、神だと思われるなんて鬱陶しいに決まっている。しかし鬱陶しくてもそれを赦すのが天皇である。そして天皇が赦していることに付け込んで、彼らは天皇を神だと思ってゆく。
この国では、天皇にもっとも近づいたものが権力を手にする。もっとも天皇に近づくとは、もっとも深く天皇を神だと思うことだ。天皇を神だと思うことは、自分が天皇に赦されている存在だと思うことだ。天皇に赦されている存在になることは、権力を手にすることだ。
しかしわれわれ民衆は、自分が天皇に赦された存在だとは思っていない。わが身の「穢れ」を思いつつ自分が世界を赦してゆくための形見として天皇を祀り上げているだけである。天皇のように世界を赦してゆこうとする民衆のこの「しょうがない」という態度は、右翼の天皇崇拝とは違う。
右翼も左翼も「世界を赦してゆく」ということを知らないし、それこそがまさに天皇を否定している態度なのだ。
彼らはなぜ天皇のように「世界を赦す」ということができないのか。上は政治家や知識人から新大久保あたりで暴れたりしている「ネット右翼」といわれる若者たちまで、天皇に寄生して天皇を食い物にしているだけではないのか。彼らは「天皇の子」を自認しているが、そろいもそろって天皇とは似ても似つかない存在になってしまっている。
右翼の天皇崇拝だって、天皇を否定しているのだ。そのあたりの歴史的ないきさつは考えてみるに値する。
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