憂き世なればこそ・「天皇の起源」32


<承前>
どんな社会であれ、こんなにもたくさんの人間がひしめき合って暮らしていれば鬱陶しいに決まっている。その鬱陶しさから逃れるために、支配者になったりリーダーになったり金持ちになったりしてみんなよりも優位な場に立とうとする。
貧しい庶民だって、家の中では親という支配者でありリーダーだ。
しかし弥生時代奈良盆地には、支配者もリーダーも金持ちも存在しなかった。だから、誰も支配者やリーダーや金持ちになりたいとは思わなかった。そういう存在を知らないのだから、思いようがない。
人類史は、そのようにして支配者もリーダーも金持ちもいない社会でひしめき合いながらその鬱陶しさをやりくりして集団をいとなんでゆく、という段階があった。
人類の集団は、人口が増えて食糧生産が活発になってくればそれにともなってたちまち支配者やリーダーや金持ちがあらわれてくる、というような単純な図式で発展してきたのではない。そんな優位の場に立つ存在などいないまま、みんなでひしめき合い、その鬱陶しさをやりくりし合って暮らしている時代があったのだ。
みんなでその「鬱陶しさ=憂き世」を引き受けていった。引き受けることによって、人間的な文化が生まれ育ってきた。
政治も経済も知らないまま、猿としての限界を超えた大きな集団をいとなんでいる時代があったのだ。人類が言葉を生み、娯楽芸能を生み、学問や芸術を生み出してきたことは、そういう時代があったということを意味する。その段階において、言葉や娯楽芸能や学問芸術の基礎がつくられた。もしもその段階の時代がなかったら、それらは生まれてこなかった。
政治や経済が人間性の基礎だと考えると間違う。人類の歴史は、政治経済の活動に目覚める以前に、それとは無縁の、ひたすら「憂き世」という感慨とともに文化活動をはぐくんでいる時代があった。



ここで仮に、人類の言葉の発生からひとまずの完成までの段階を100万年前から氷河期明けの1万年前くらいまでの時代だとしてみよう。
この時代に、人類の集団はしだいにふくれ上がってゆき、ついには1万人近い都市集落をいとなむようになっていった。そしてこの都市集落はまだ、本格的な政治や経済はなかった。
人類が本格的な政治経済の活動を始めたのは7000年前のメソポタミア文明からであり、日本列島では古墳時代の1500年くらい前からにすぎない。
この本格的な政治経済の活動が生まれるまでのあいだ、人類は、猿としての限界を超えてしだいにふくれ上がってゆく集団の鬱陶しさに耐えてきたのであり、耐えることによって人間的な文化の基礎をつくりだしたのだ。
なぜ言葉や娯楽芸能や学問芸術が生まれてくるかといえば、その鬱陶しさからせかされるからであり、もっと効率的ないい暮らしがしたいという先験的な欲望があるからではない。そんな暮らしがしたいのなら、そのことに直接的な役に立つわけでもない文化活動などする必要はない。
そのとき人類は、もっと効率的ないい暮らしがしたいと欲望したのではなく、その鬱陶しさに耐えようとした。そこから、文化活動が生まれ育ってきた。彼らはもっと効率的ないい暮らしなど知らないのだから、そんなものを欲望するはずがない。
われわれ現代人においても同じである。人間は、根源において「よりよい暮らし」をイメージすることの不可能性を負っている。したことがないのだから、それが「よりよい」かどうかはやってみてからでないとわからない。
だから人間は、「いまここ」をこの生のすべてと思い定めて「いまここ」に体ごと反応してゆこうとする。それが人間の根源というか自然状態の衝動であり、そこから文化活動が生まれ育ってきた。
つまり言葉の起源は、「伝達」という「未来」に対する欲望ではなく、「いまここ」に対する体ごとの反応として起きてきたということだ。
それは、本質的には、他者に向かって「話す」行為であったのではなく、音声を「聞く」行為であった。
その「音声」は思わず発してしまっただけで、伝達しようとする意図どころか、発しようとする意図すらなかった。
ただ、発してしまった後に、何かに気づいた。



人類がなぜ猿と違ってさまざまな音声を発するようになったかといえば、さまざまな感慨を抱く生き物だったからだ。
それは、さまざまな欲望を抱いたのではない。さまざまな音色の音声を発しようとする欲望を抱いたのではない。そんな音声を発したからといって、相手に何が伝わるわけでもない。それは、伝達のための道具だったのではない。
最初は、思わずこぼれてしまう音声だったのだ。そうして、そのようにさまざまな音声がこぼれてしまうようなみずからのさまざまな感慨に気づいていった。気づいてしまうと、さらに自動的に感慨と結び付いて音声がこぼれ出るようになっていった。
言葉の起源は、伝達の道具であったのではなく、あくまで純粋な「感慨の表出」という現象だった。そしてこの機能がどんどん洗練されていった果てに、「伝達の道具」という機能が付け加わってきたのだ。
「あ」とか「やあ」とか「へえ」とか「おお」とか「ふう」とか、それらは伝達のために発せられたのではない。思わず発せられ、発してしまったみずからの感慨に気づいてゆく体験だった。
まず自分で気づいたから、相手が発した同じ音声を自分と同じ感慨からこぼれ出た音声だろうと類推していった。最初はたがいに自己完結した体験だったが、相手の発した音声を類推するようになっていった。これが音声を交換することの基礎的な体験であり、「伝達」しようとする欲望があったのではない。おたがい一方的に発し、おたがい一方的に「類推」してゆく心の動きがあっただけだ。
言葉の交換は、根源において伝達しようとする欲望の上に成り立っているのではなく、思わず音声を発してしまう体験である。そして発せられた音声に反応し類推してゆく。



われわれは基本的にはしゃべりたいことをしゃべっているのであって、伝達しようとする欲望から音声が生まれてくることは原理的にありえない。
伝達しようとして思わず口ごもってしまうことはよくある。
もともと音声=言葉は、「感慨」の表出として口からこぼれ出るものであって、「意味」に対する意識にうながされて発せられるものではない。「意味」は、発せられたあとの「聞く」という体験から生まれてくる。
「意味」として言葉=音声を発することの不可能性というものが根源にある。だからわれわれは、つい口ごもる。
楽しくおしゃべりをするとは、自分のいいたいことをいえる体験であって、いちいち「意味」の伝達を考慮しないといけない会話なんかしんどいばかりだろう。
「意味」の伝達のことなど忘れて語り合えるときがいちばん楽しいのだ。そんなことなど忘れても、おたがいに「聞く=類推する」という心の動きが豊かにはたらいているなら、おしゃべりはどんどんはずんでゆく。
おしゃべりは、「伝達の意志」によってはずむのではない。相手にときめき、相手の言葉に豊かに反応してゆく体験なのだ。
たがいに「伝達の意志」などなかったのに、たがいにその言葉=音声に豊かに反応していった。それが言葉の起源の体験であり、現在においても、自分の発する言葉=音声にも、相手の発する言葉=音声にも豊かに反応しているのが楽しいおしゃべりなのだ。
根源において音声を発することをうながしているのは「感慨」である。「意味」を思い浮かべる観念作用ではない。



つまり言葉の発生のそのとき、人の心にさまざまな感慨が生まれてくるような状況があった。それはおそらく集団が限度を超えて密集している状況だ。
そして人類はその状況を解消しようとしたのではなく、「憂き世」そのものを生きようとし、そこからさまざまな音声を発してしまうような嘆きやときめきが生まれてきた。
人類の知能が発達していったもっとも持大きな要因は、集団が限度を超えて大きく密集していったことの「ストレス」や「ときめき」にある。人と出会えば他愛なくときめいてゆくが、集団が大きく密集してくればストレスになる。それでもときめいているのだから、その「ストレス=憂き世」を受け入れてゆく。
ときめいたり嘆いたり、さまざまに心が揺れ動いて、そういう感慨のニュアンスが豊かになっていった。そのさまざまなニュアンスから言葉=音声が発せられ、そのニュアンスに対する好奇心がふくらんでゆきながら言葉が洗練されていった。そうしてその好奇心とともに、人間的な文化が生まれ育っていった。
人間は、「よりよい社会」を生きようとして言葉をはじめとする人間的な文化を生み出したのではない。密集した集団の「憂き世」の生きにくさを生きることによって、その文化的な思考や感性を発達させてきた。
つまり、「憂き世」の状況を解消しようとするならそこから支配者があらわれ共同体としての秩序ができてゆくが、解消しようとしないで「憂き世」そのものを生きようとしていた段階の時代があったわけで、そこで文化が花開いていった。人間は、生きにくさを生きようとする。



人類の歴史は、大きな集団になればすぐに共同体=国家が生まれてくるというような図式にはなっていない。
この国の弥生時代だって、大きな集団になって農業を始めたのだからすぐに王朝支配が生まれてきたと考えるべきではない。弥生時代はあくまで過渡的な「文化の時代」だったのだ。
弥生時代奈良盆地には、共同体(国家)は存在しなかった。ひとびとは、「憂き世」の生きにくさを生きて祭り=舞の文化を洗練させながら、「天皇=きみ」という舞のカリスマを祀り上げていった。
日本列島の住民は、いまだにこの世界を「憂き世」と思い定めて生きにくさを生きようとする原始的な傾向を濃く残している。そういう支配者のいない段階の歴史を長く歩んだことこそ、日本列島の文化的なアドバンテージになっている。
「憂き世」を生きようとすることこそ人間性の基礎で、人間を文化的な存在にしているのだ。
まあ、直立二足歩行の起源そのものが、そのような「憂き世」の状況から「憂き世」を受け入れるようにして起きてきた。
人間は、たくさんの個体がひしめき合っている集団の状況を受け入れようとする習性を持っている。それは、よりよい暮らしをしようとする衝動ではない、生きにくさを生きようとする衝動なのだ。そしてそういう衝動を持っていたから人間の集団は際限もなく大きく密集したものになってきたのだ。
もしも人類史において、しだいに集団が心地よいものなってきたのなら、それとともにのんびりして心が動かなくなってくるだけだろう。そんな状況から、言葉や人間的な文化が育ってくるはずがない。
集団が「憂き世」であることこそ、人間を人間たらしめている。原初の人類の歴史は、「よりよい社会をつくる」というスローガンで動いてきたのではなく、「憂き世」を生きるというかたちで支配者がいないまま大きな集団をいとなんでいった段階があった。
そして弥生時代奈良盆地天皇は、「憂き世」を生きるための形見として民衆から祀り上げられていった。
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