どんなふうに生きてゆけばいいかわからない・神道と天皇(30)

縄文人は、みずからの心や身体の「けがれ」と向き合いながら生きていた。
つねにそこに立ち返るということ、そうやって1万年の歴史を歩んできた。
伊勢神宮が20年に1度の式年遷宮を繰り返すのも、そのつど「けがれ」を自覚し「みそぎ」を果たしてゆこうとしているのだろう。「けがれ」と「みそぎ」とみそぎを反復しながら生きてゆくということ、それが日本列島伝統の精神風土になっており、その作法はもう、すでに縄文時代からはじまっている。
伊勢神宮の本殿の建築様式は、弥生時代の高床式倉庫そのまままのかたちが踏襲されている。いやそれはもう縄文時代からはじまっていたという説もあり、三内丸山遺跡にはそんなものも復元して建てられている。しかもそれは、縄文中期のものなのだ。
縄文時代から弥生時代への推移は、一般的に考えられているほどはっきりした境界はない。
ともあれ日本列島の住民が本格的に平地に定住して農業をいとなむようになってきたのは弥生時代からであり、それとともに高床式倉庫を建てることがさかんになってきた。そのころは、いったん川が氾濫すれば、たちまち一面が水浸しになった。だから、弥生時代の初期は、住居はまわりの山間地に建て、農地やお祭り広場としてそこが使われていた。まあ農地だって水浸しになってしまえば元も子もないわけで、そこはまず「祭りの広場」として使われるようになっていった。
奈良盆地はもともと湖ともいえるような一面の湿地帯だったわけで、そこが干上がってゆく過程とともに水田耕作がさかんになっていった。
「祭りの広場」にはたくさんの人が集まってくる。その結果としてその周辺のあちこちに集落が生まれて人口がふくらんできて、そのあとにようやく農業がはじまる。
もしかしたら高床式という建築様式は、食糧倉庫としてではなく、祭りの舞台とか集会所として生まれてきたのかもしれない。
山間地で暮らしていた縄文人は、基本的に食料はそれぞれの家が地下に埋めて貯蔵していたし、農業が本格化していなかったから集団で貯蔵するという習慣もなかった。
三内丸山遺跡の場合は、冬場は雪に閉じ込められるから、そのときにみんなが集まる場所として高床式の建物が建てられたのかもしれない。
そこが「倉庫」だったという確証はない。
纏向遺跡には大きな高床式の建物があったらしく、そこが権力者の宮殿だったといわれたりしているが、そのころに権力者がいたかどうかはわからないし、そのころの集落のほとんどは山の中やすそ野にあった。
纏向遺跡では、まだ集落跡は見つかっていない。集落のないところに宮殿を建ててもしょうがないだろう。
おそらくそこは「祭りの広場」だったのであり、そのための大きな建物だったに違いない。
高床式倉庫といわれる建物は、食糧倉庫として生まれてきたのではなく、じつは最初から「祭り」のための建物だったのかもしれない。日本人は、その建物の姿に「祝祭性」を見る歴史の無意識を持っている。だから、伊勢神宮の本殿として定着していったのかもしれない。

では、縄文時代の祭りとはどのようなものだったのだろうか。
もちろん、男と女が集まって歌い踊るためのものだったに決まっている。
「盆踊り」は、踊るというそのことが目的になっているのであって、一般的にいわれるような「共同体の結束のため」などという政治的宗教的な目的があるのではない。そこには近郷近在から人が集まってきているのであって、村の住民だけでなされているのではない。
縄文集落の広場で歌い踊る祭りだって、男たちは集落の「よそ者」であり、その相手との親交を深めるためのものだったはずだ。
基本的に祭りは、仲間内だけでやってもいまいち盛り上がらない。そういう予定調和のイベントではない。
それは、男と女の親密な関係が生まれてくる気配を醸し出す、ということがコンセプトだった。弥生時代においても古代・中世においても、「祭りの広場」での盆踊りのようなイベントは、いつだってそういうコンセプトでなされていた。そこは、「共同体の結束の場」ではなく、「男と女の出会いの場」だった。
縄文時代は男と女が別々に暮らしていたから、そのコンセプトに対する意識がいっそう濃密だった。
「集団の結束」なんかどうでもいいのだ。祭りは、その本質においては、宗教のためにあるのでも政治のためにあるのでもない。
神社の祭りのほとんどはひとまず神主のお祓いからはじまるのだが、途中から参加者だけの流れで動いてゆき、神主は何もしない。
神社はもともと宗教の場でも政治の場でもなく、どこからともなく人が集まってきて浮かれ騒ぐ純粋な「祭り」の場だった。

人類はなぜ歌や踊りを覚えたのか。
生きにくさを生きて、心や体の「けがれ」を自覚する存在だったからだ。
自分が生きてあることに対して何かいたたまれないような気持ちが湧いてきて、思わず声を張り上げたくなり、体を動かしたくなっていったからだ。もともとそういう衝動を持った存在だったから、うれしいにつけかなしいにつけ、そのときその心の振幅や起伏が声や体の動きとしてあらわれ出るようになっていったからだ。
猿だって生きるいとなみにおいてよろこんだり怒ったり憎んだりするだろうが、人間のように自分が生きてあることに対して嘆いたりいたたまれなくなったりすることはほとんどないにちがいない。歌や踊りの声や体の動きは、そうした人間存在の根源の受苦的なありようから生まれてくる。そうやって心や命のはたらきが華やいでゆく。
であれば、縄文人の暮らしには、歌や踊りが生まれてくる切実な契機が生成していた。そうして、他愛なく豊かに華やぎときめいていったに違いない。
声に出して歌うことや体を動かして踊ることは、この生の「けがれ」をそそぐ「みそぎ」の体験なのだ。
縄文人の歌や踊りが宗教的なものだったとは思わない。
万葉集を読めば、上代の民衆の祭りの第一のコンセプトが「男女の出会い」にあったことがよくわかる。人々はそこで、宗教的な歌など何ひとつ詠んでいない。男と女の歌ばかり。沖縄の「おもろ」という古い民衆の祭り歌が意外に宗教的なのとはずいぶん雰囲気が違う。
日本列島の「祭り」は、男女の出会いの賑わいとして生まれ育ってきた。おそらく、縄文時代からそうだったのだ。縄文時代に「豊作祈願」も「悪霊退散」の願いもなかった。山の中の孤立した小集落で暮らしていて、いちいち悪霊や物の怪など意識などしていたら生きていられるはずがないではないか。そしてそんなところで暮らしていて、いったい何を誰を呪うというのか。
おそらく、仏教伝来のときまで、日本列島の住民が宗教として祭りを執り行ったことなど一度もないのだ。
縄文時代の祭りは、男と女の出会いと別れの文化として機能していた。その「出会い」の祭りが豊かなときめきとともにひとつのカタルシス(=みそぎ)として体験されていたということは、そこで「もう死んでもいい」という心地になったということであり、すなわちそこですでに「別れ」を受け入れる心が用意されていたことを意味する。彼らには、セックスをしたから夫婦にならねばならないという意識はなかった。山の中の小集落で一生そんな暮らしを続ければ、男も女も心が自家中毒を起こしてしまう。「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」があってこその人生だ……それが山の中で暮らす民の生きる作法だった。そういう暮らしを成り立たせるためには、「出会い」においても「別れ」に際しても、「祭り=みそぎ」としてそのつど点を打って区切りをつけてゆく必要があった。彼らは、生きてある「今ここ」にそのつどけりをつけてゆくことで精いっぱいだった。その「もう死んでもいい」というカタルシスを、ひとつの「みそぎ」として体験していた。
縄文時代が1万年続いたといっても、そうやって人の心も人と人の関係も、たえず移ろい変わっていたのだ。
伊勢神宮の正殿のつくりが2千年前と同じだといっても、たえず一新され、生まれ変わり続けているように。

日本列島の住民ほどかんたんに外来文化に飛びついてゆく軽佻浮薄な民族もいないのかもしれないが、同時に、ものの考え方や感じ方において縄文時代以来少しも変わっていない、という部分もある。
まあ、現代のこの国においても「神」という言葉はひとまず定着しているが、神の「実体」についてはいまだによくわかっていない。なぜならこの国の神は、「実体」ではなく「はたらき=姿」だからだ。それはもう、神道の起源以来、ずっとそうなのだ。
縄文人の男と女は、一緒に暮らすことの「充実=実体」ではなく、「出会いと別れ」の「ときめきやかなしみ」という「はたらき」を生きた。踊ることに「集団の結束」という「実体」ではなく、身体の「けがれ」をそそぐ「みそぎ」の「はたらき」を求めた。だから、大きな集団を持つ社会にはならなかった。山の中の小集団で暮らしていたということは、「実体」に対する志向性が薄かったということだ。集団で暮らすことの「けがれ」の意識がいつもあって、大きな集団をつくることができなかった。
「憂き世」の意識は、縄文時代以来の伝統なのだ。「憂き世」だからよい世の中にしなければならないとは思わない、「憂き世」と思い定めて生きてゆく。そこから「みそぎ」というこの生のカタルシスを汲み上げてゆく。その流儀が今や西洋の近代合理主義に染められて変わりつつあるのかもしれないが、変わってしまったわけではないし、きっと変わってしまうことはないに違いない。なぜならそれは、人類史700万年の普遍的な人間性の基礎でもあるのだ。

人類の歴史はずいぶん進化発展したが、人間性そのものは、ほとんど変わっていない。なんのかのといっても、いまだに小説や映画などの「生きられなさを生きる」話に誰もが感動しているわけで、これからもきっとそうに違いない。
たとえ予定調和の安定した社会や人生を目指すとしても、そこにこの生のカタルシスとしての感動やときめきがあるのではない。
まあ、人の世はいろいろとややこしい。常識とか正義を振り回されても、鬱陶しいばかりだったりする。安定した社会は、ひとつの「けがれ」でもある。安定してしまったら、もう動かない。動かなければ「けがれ」がたまってゆく。
安定を目指して動くのではない。動くほかないように何かにせかされるからだ。
「動く」とはどういうことかという問題もある。
時代が変わるということは、さしあたって問題ではない。心が動く、ということ。人の心がときめきながら動いてゆく社会とは、どんな社会だろう。
現在は、人と人が他愛なく豊かにときめき合う社会になりえているだろうか。
この生の充実安定に執着していたら、「この生=自分」の外の「他者」に対するときめきなんか湧いてこない。この社会の充実安定を目指していたら、この社会の外の「別世界」に遊ぶというカタルシスは体験できない。世界の不思議に対する感動は、この世界の「日常」のことを忘れてしまったところで体験されている。古代以前の人々にとっての神社は、そういう感動に身を浸す体験がもたらされる「別世界」の空間だったのであり、そこから「祭りの賑わい」が生まれてくる。
歌ったり踊ったりすることは、この生の「けがれ」をそそいで、この生の外に超出してゆく体験であって、この生の充実を体験することではない。それは、体が消えてゆく心地、すなわち体がからっぽの空間になったような心地としてもたらされるのであって、体の力が抜けていない踊りや歌なんか美しくもなんともない。
思春期の少女の身のこなしは、ときには物憂く、ときにはこの世のものとは思えぬほど愛らしく美しかったりする。それは、彼女らが、もっともみずからの体の「けがれ」を意識している存在だからだろう。
彼女らはもう、「けがれの自覚」からは逃れられない。なんだかもう、いたたまれなくて、この先どうやって生きてゆけばいいかよくわからない……それは、女が大人になってゆくときの避けがたい通過儀礼かもしれないが、そんな時代を彼女らは、さまざまなかたちで「けがれ」と「みそぎ」を繰り返しながら生きている。もう、生きてある「今ここ」にけりをつけるので精いっぱいだ。たとえば女子高生が思い切り短いスカートを穿いて冬でも生足でいたりするのは、ひとつの「みそぎ」であるのかもしれない。彼女らの中にも、縄文人の遺伝子が残っている。
まったく日本人は、そうかんたんには変わらない。