纏向遺跡の夜・「天皇の起源」68


弥生時代奈良盆地において、「祭り」はとても大切なものだった。その大きな都市集落は、支配者の政治によってではなく、祭りにおける人と人の出会いのときめきの上にいとなまれていた。
人と人が他愛なくときめき合い豊かに語り合う場があれば、原始的な社会の集団運営は「なりゆき」でなんとかなってゆく。
また、支配者の統治よりも民衆どうしの「なりゆき」の連携結束のほうがずっとダイナミックである場合も多い。まあ、人類史の初期の集団運営は、世界中どこでもその作法でなされていたのだ。
弥生時代奈良盆地の人々は、住宅地でも農耕地でも王朝でもない祭りや交易だけの広場を持っていた。それが、纏向遺跡である。
もしもそこが王朝なら、それを取り囲むように住宅が並んでいたはずである。そうして、容易に外部のものが侵入できないようにする。しかしそこは逆に、誰もが自由に集まってくることができる広場だった。そして、ひとまず交易の場でもあったから、工房などの建物はたくさん並んでいたらしい。
昼間は交易で、祭りは夜からはじまった。品物の良し悪しは明るいところでないとよくわからないが、姿の美しさは薄明の中でこそより鮮やかに浮かび上がる。
月明かりがあれば、そう困ることはない。というか、月明かりのほうがときめき合う心が豊かに生まれたのだろう。そこでは、肉体が隠れて「姿」が浮かび上がる。
あちこちに松明は灯されたとしても、現在のような照明設備があろうはずもない。
そのような薄明の中では、あまり激しい動きをして踊ってもよくわからない。
人々は、夜の闇と溶け合っている姿の美しさというかなまめかしさのようなものを感じていたのかもしれない。
きっと能舞のようなゆったりとした踊りだったのだろう。ゆったりとしているほうが、より鮮やかに姿の美しさが浮かび上がる。
俗世間の「けがれ」をそそいでいる「姿」、すなわち身体の物性をそぎ落とした純粋な「姿」そのものが薄明の闇の中に浮かび上がる。
とうぜんそこでは男女が向き合って踊っていた。しかし昼間の明るさの中なら着物の下の肉体を想像することもできるが、夜の薄明の中ではもう、誰もが他者の「姿」だけを見ていた。
そこは、身体の物性をそぎ落として「みそぎ」を果たす場だった。
彼らの踊りは、肉体の躍動を表現するものではなく、薄明の中を移動する姿の「あや=ニュアンス」が表現されていた。
「ニュアンス」とは「ニュー+センス」という構造の言葉だろうか。この場合の「ニュー」は「新しい」というより「現れる」という感じなのだろう。「あや」と「ニュア」は、音声的に似ている。
「あや」とは「おぼろに浮かび上がるもの」という意味。「あ」は「あ、と気づく」の「あ」、すなわち「現れるもの」。「や」は「ヤッホー」「やあ」の「や」、すなわち「遠いあこがれ」。
「おぼろに浮かび上がるもの」、すなわち「なんとなく感じてしまうニュアンス」、それを「あや」という。
その祭りの場の踊りは、そういうおぼろに浮かび上がる身体の動きの「あや」が表現されていた。
踊りには仮面がつきものだが、踊りの本質においては顔や肉体の「物性」は隠されている。
それは、人間性の基礎としての二本の足で立って歩くということが身体の物性を忘れてゆくことの上に成り立っている行為であり、踊りはそのかたちを洗練発展させて生まれてきたものだからだろう。日本列島の舞は、ことにそういう原始性を残している。
原初の踊りは、世界中どこでも、軽く体をくねらせたり揺らしたりしながら緩やかに移動してゆくというかたちだったのだろう。
「移動する」ということに踊りの本質がある。「移動する」ことによって、身体の物性が消えてゆく。手を動かしたり体をくねらせたりすることも、そうやって「空間」に溶けてゆこうとしているのだ。
弥生時代奈良盆地の祭りは、身体の物性(=穢れ)が「夜の闇=空間」に溶けてゆくイベントだった。



纏向遺跡は、川に囲まれた小高い扇状地にあり、広場にはいくつかの水路があった。
まわりのほとんどが湿地帯であったのなら、人々は舟に乗って集まってきたのかもしれない。
そこは、3世紀前半に忽然とあらわれた集落(住居ではない建物の跡はいろいろある)である、といわれたりしている。
それまではただの湿地帯の原野だったのだろう。その上に川が運んできた土が堆積して台地になった。およそ3平方キロくらいの楕円形の場所である・
その台地を、人々はそこを住居地にも農耕地にもせず、祭りや交易の広場にしていった。それほどにそういう場が必要とされていたのであり、そのときすでに奈良盆地がひとまとまりの都市集落であった可能性が濃い。
小さなお祭り広場はいくらでもあったろうが、奈良盆地全体から人が集まってこられる祭りや交易の場が必要になってきていたのだろう。
弥生時代奈良盆地は、祭りのダイナミズムを基礎にして発展していった。それは、民衆自身の連携結束によって生まれてきた都市集落だったのであって、支配者の統治によってつくられたのではない。
広場の中心には、舞の舞台と集会所があった。集会所は、奈良盆地の人口増加にともなって何度も建て替えあるいは建て増しされた。
その集会所は、べつに森の神や精霊を拝して何かの呪術を行う場所だったのではない。ただもう、みんなが集まって語り合う場所だった。
古代人は「大和の国はことだまの咲きはふ国」といった。「ことだま」とは、「言葉の霊魂」というような意味ではない。「たま」は「ありがたくめでたいかたち」のこと、すなわち「ことだまの咲きはふ」とは、「感動的な言葉が豊かに交錯する」ということであり、「おしゃべりの花が咲く」ということだ。
中世や江戸時代の村の「寄り合い」にしろ、みんなが集まって酒を酌み交わし、くだらないというかとりとめもないおしゃべりの花を咲かせてゆくのが日本列島の集団運営の伝統なのだ。
弥生時代奈良盆地の人々には何はともあれそういう「寄り合い」の場が必要だったのであって、神や霊魂を拝んで呪術を行う場が必要だったのではない。そうでなければ「ことだまの咲きはふ」とはいわない。
彼らの世界観においては、清浄な場所は森のそばの祭りの場にしかなかった。人里は「けがれ」の場だった。そういう人たちが、人里のいたるところに霊魂が飛び交っているなどと思うはずがないし、そんなところなど気味悪くて暮らせないではないか。
古代以前の人々には、神や霊魂をありがたがって拝むというような習俗はなかった。
仏教伝来以後に霊魂という概念を知った日本列島においては、霊魂は、気味悪いお化けや幽霊のイメージと結びついて定着していった。古代において霊魂がそんな素晴らしいものであったのなら、中世や江戸時代にも素晴らしい霊魂の話で溢れていたことだろう。
もともと霊魂という概念を知らなかった日本列島の住民は、なんとなく「気味悪い」というかたちでしかイメージできなかった。
しかし現代人は霊魂が大いに好きらしく、だから、「ことだまとは言葉の霊魂である」というような愚劣な解釈をして平然としている。
霊魂なんか関係ない。弥生時代奈良盆地の人々はもっとおおらかに語り合っていた。彼らにとって言葉は、神と交信するためでも人を呪うためのものでもなかった。おおらかに豊かにときめき合うための道具だった。
彼らが死んだら何もない「黄泉の国」に行くと思っていたということは、死後の世界と交信するイメージすらなかったということだ。
中世において仏教的な死後の世界のイメージが定着したといっても、たとえば能の物語など、この世に恨みを残して死んでいった人の話ばかりで、あの世は素晴らしいところだというような話はほとんどない。恨みを残して死んでゆくのは不幸なことだ、というばかりで、さっぱりと死んでゆければそれでいい(¬=成仏する)といっているだけだ。そうやって死んでゆければもう、そのあとのことはどうでもいい、といっているのだ。それは、死後の世界を語っているようでいて、じつは語っていない。この世に恨みや無念の思いを残して死んでゆくのはつらいことだ、といっているだけである。
平安時代には「浄土信仰」というのが大いに流行ったのだが、中世はそれに変わって、この世に恨みを残して死んでいったものの霊を慰める「御霊信仰」が起きてきた。それはつまり、さっぱりと死んでゆければそれでいい、という信仰であり、そういう古代以前の「黄泉の国」の世界観に回帰しようとするムーブメントだった。



原始神道の「黄泉の国」という世界観に「霊魂」という概念はそぐわない。
弥生時代奈良盆地の人々は、神や霊魂という概念を知らなかった。
彼らは、霊魂など宿っていないからっぽのさっぱりとした身体を生きようとしていた。そのための作法として、「清浄な森」のそばでの祭りを催していた。「清浄」はそこにしかなかった。人里は「けがれ」の場だった。
言い換えれば、その祭りの場は、からっぽのさっぱりとした身体になれる場であった。そこでの舞は、そういう「みそぎ」のかたちが表現されていた。
「舞(ま)う」の「ま」は「まったり」の「ま」、穏やかに和んでいる状態を表す。安定した空間(すきま)があるときに、まったりと和んでいる。「待(ま)つ」とは、相手とのあいだの「すきま=空間」に対する親密な感慨を表す言葉である。親密さがなければ待たない。
日本列島の住民は、「空間」に対する親密な感慨を無意識として持っている。それは、身体がからっぽの「空間の輪郭」になっている状態を「みそぎ」とする文化を持っているからだが、その感慨は同時に二本の足で立っている人間の普遍的な無意識でもある。
「舞う」とは、空間と溶け合っている身体作法のこと。
おそらく弥生時代奈良盆地の祭りにおける舞は、身体が夜の闇という「空間」と溶け合ってゆく作法だった。
それは、作為がない、ということ、すなわち「霊魂」を持たない身体にならないと美しい舞姿にはならない。
体を動かそうという作為があったら、「空間」と溶け合うことはできない。
世界中の踊りの基礎は、自然に体が動いてしまう作法にある。
踊りの起源においては、知らない間に体が動いて踊っていたのであって、踊ろうとして踊ったのではない。この「いつの間にか体が動いてしまっている」ことのカタルシスとともに人類の踊りが発達してきた。
そしてその体の動かし方は、世界中のそれぞれの風土によって多少の違いを持って発達してきたのだとしても、基本的にそれは「自然に体が動いてしまう」作法なのだ。「自然に体が動いてしまう」ことによってはじめてカタルシスが体験される。
まあアフリカの赤道直下ではあのようにせわしなく体が動いてしまうのが自然だったのだろうが、アジア的な環境では、ほとんどの地域で、空間と溶け合ってゆくようなゆったりとした動きが原初的なかたちになっている。



では、弥生時代奈良盆地の人々が見い出していった美しい舞姿とはどのようなものであったか。
日本列島の舞の特徴は、「肉体」の表現が希薄なことにある。この国においては、身体の物性をそぎ落としてゆくことが舞の作法である。
日本列島の住民は、海に閉じ込められた環境で歴史を歩んできた。そして縄文人の多くは、その上、山に閉じ込められて暮らしていた。そういう環境で暮らしていれば、どうしてもみずからの身体の「けがれ」を意識してしまう。
日本列島の住民ほど「けがれ」の自覚が深い民族もない。われわれは、異民族との軋轢を体験しなかった代わりに、そういう深く「けがれ」を自覚してしまうという与件を負って歴史を歩んできた。
またそれは、二本の足で立っている人間の本性でもある。原初の人類は、二本の足で立ち上がって猿よりも弱い猿になり、ライバルとの緊張関係を生きることができなくなった。そのためにライバルから遠く離れた孤立した環境に身をひそめるという習性になっていった。そこは安全な場所だったが、そのぶん二本の足で立っていることの「けがれ」をより深く自覚してしまうほかない場所でもあった。そして、「けがれ」の自覚を抱えている存在だったからこそ、その居心地の悪さから逃れるようにして「自然に体が動いてしまう」という身体作法が生まれ、その体験にカタルシスを覚えるようになっていった。
つまり、縄文・弥生時代の日本列島は、偶然にも、幸か不幸か原初の人類の歴史をそのまま踏襲するような環境だった、ということだ。
二本の足で立っている人間は、避けがたく身体の「けがれ」を自覚してしまう。その穢れををそそぐ作法として「歩く」ということが洗練し、やがて「踊る=舞う」という行為が生まれてきた。
おそらく、そういう原始性の上に弥生時代奈良盆地の舞が成り立っていた。
それは、「霊魂=作為性」を持たない「からっぽの身体=空間の輪郭」になってゆく作法だった。
縄文・弥生時代の日本列島の住民は、世界中のどこよりも「けがれ」の自覚が深い民族だった。そういう伝統的な風土があるから、日本列島の舞は「肉体の表現」という要素が希薄になっている。



日本列島の祭りが伝統的に夜になってからはじまるのは、身体の物性をそぎ落とすという「みそぎ」が基本的なコンセプトになっているからだ。
身体の物性は、その薄明の中に隠れている。
そしてそこでの舞は「作為」をそぎ落とした身体作法だったのだから、必ずしも熟練していればいいというものでもなかった。
あくまで自然な、身体が勝手に動いてしまうような気配を持っている舞の作法。もちろん熟練していることもみごとではあるのだが、それを超える「自然」に対する視線が古代以前の人々にはあったのではないだろうか。
まあ、男の踊りは、おおむね作為的である。女のほうが、上手かろうと下手だろうと自然な気配を持っている。男の下手な踊りはぶきっちょでみっともないだけだが、若い娘がはにかみながら下手に踊っている姿は、それなりに愛らしい気配がある。
この差は、いったいなんなのだろうか。その動きによけいな「作為」がまとわりついていないからだろう。女は身体能力がないから、そのぶん身体の動きの作為性も希薄で、男よりは自然な気配をそなえている。
少なくとも弥生時代奈良盆地においては、男よりは女の舞のほうが格上だったのだろう。
おそらく、舞の名人は、女だった。
身体能力で巧妙な動きをするのが舞の名人だったのではない。その美しさは、作為性のない「自然」な気配にあった。
では、子供は自然な動きをするか。大人よりは自然だろう。しかし、身体の物性に対する鬱陶しさも希薄だから、非力ながらも身体を支配しようともする。
人間の身体の動きの自然な気配は、身体の物性の鬱陶しさに気づいている物憂い心の上にあらわれる。その動きを持っているのは、大人でも子供でもない。大人は、鬱陶しさに慣れてしまっているから、その感覚を知ってはいても、じつはそれほど鬱陶しがっていない。なれているし、居直ってもいる。



まあ、男よりも女のほうが身体の鬱陶しさ=穢れをよく知っている。非力だし、毎月のさわりを繰り返して生きてきている。
そしてその鬱陶しさをいちばん深く感じているのは、初潮前後の娘かもしれない。今まで体験したこともない月経を体験することだけでなく、体つきも変わってけだるくなってくる。このころになって走るなどの身体能力が急速に減退する娘も多い。
そういうもの憂い「けがれ」の心地に浸されたところから、それを忘れてゆく身体作法が生まれてくる。
この年頃の娘たちは、世界中どこでも踊ることが好きだ。現在の娘たちはストリートに集まって踊っているし、弥生時代奈良盆地の娘たちも、祭りになれば積極的に踊りの輪に入っていったことだろう。踊ることには、物憂い「けがれ」の心地から解放されるカタルシスがある。自然に体が動いてしまう身体作法は、彼女らがいちばんよく知っている。身体の「みそぎ」に対する思いがいちばん切実な年頃なのだ。彼女らの踊りは、自然に作為性をそぎ落とす身体作法になってゆく。
身体を動かさないと物憂い思いが募るし、作為的に動かすのはなお鬱陶しい。そのはざまに彼女らの身体作法があった。
つまり、身体を「からっぽの空間の輪郭」してゆくタッチは、踊りの身体能力でも熟練度の問題でもなかった。初潮前後の娘たちは、存在そのものにおいてすでに「みそぎ」の身体作法を身に着けていた。
世界中の民族舞踊で「処女の踊り」が特別視される傾向を持っている。この場合の「処女」は、セックスをしたかどうかを問うているのではない。その年ごろ独特の身体作法があるのだ。
そしてこの年頃の少女たちは、同年代の少年にはあまり興味がないし、少年たちも踊ることは恥ずかしがってやりたがらない。大人たちは男女が向き合って踊っていても、彼女らは彼女らだけの一団で踊ることが多かったはずである。
そしてその一団の踊りは、大人たちの踊りの輪にはない独特の鮮やかさがあることにまわりのものたちが気づいていった。
それは、「みそぎ」の気配の鮮やかさだった。
巫女(みこ)の誕生である。
原始神道の巫女は、踊りの集団として生まれてきた。
人々は舞台をつくり、そこで彼女らを踊らせた。それによって祭りはいっそう盛り上がった。
まあ、お手本があったほうが踊りやすいし、踊りによって「みそぎ」が果たされるという信憑も深くなる。そうしてみんなの踊りに共通の気配が生まれ、レベルも底上げされる。
人々は、巫女たちを踊りに専念させた。彼女らだって、家のことや畑仕事を手伝っているよりはずっと楽しかったにちがいない。
やがて彼女らは、人里を離れて森の中で暮らすようになっていった。そうして、俗世間の「けがれ」とは無縁の清らかな存在になっていった。
原始神道の巫女は、神とコンタクトをとるための呪術力を高めるために森の中に入っていったのではない。
「巫女は神と契る存在だった」などというのは、仏教伝来以後につくられた習俗だろう。
弥生時代には、そんな神など存在しなかった。
人々はただもう「けがれ」をそそぐということを切実なテーマとして生きていただけであり、清浄な森へのあこがれを共有していただけだ。



それは、夜の薄明の中ら生まれてきた「姿」の文化だった。
「踊る」ことの起源は、そのようなかたちで肉体を支配操作することを覚えていったのではない。身体の物性をそぎ落として身体をからっぽの「空間の輪郭」にしてゆくカタルシスとともに生まれてきた行為である。
それは、肉体賛歌ではなく、「けがれ」をそそぐための「姿」の文化だった。
「姿」には、心や肉体を支配する「霊魂」は宿っていない。ほんとうに「からっぽ」なのだ。霊魂が存在するかどうかということなどどうでもいい。ひとまず彼らは「霊魂」というものを発想しなかった。人間にはそういう心の位相がそなわっているのであり、それによって身体が動くということが起きている。
身体を動かすのが踊りの文化であるのなら、まあその起源においては、霊魂など発想しなかったということだ。
からっぽの「非存在」の「身体の輪郭」、これは、人間の普遍的な身体感覚である。こんなこといっても受け入れたくない人も多かろうが、これは生き物としての細胞のはたらきと通底していることだと僕は思っている。
細胞のはたらきそのものが、そのような感覚をもたらすような仕組みになっているのだ。
原初の細胞は、水の中に「輪郭」を描くように発生した。その中は「からっぽ」だった。まあ、からっぽであってからっぽではないともいえるが、何かの小さな物質がそのまま大きくなったのではない。「輪郭」が原初の生命だったのだ。
われわれは、この地球上で、「輪郭」として生命の歩みをはじめた。
何はともあれ、身体の物性なんか鬱陶しいだけじゃないか。そんなものを後生大事に生きてあることのよりどころだと思うのも人の心なら、そんなものをさっぱり忘れているときにこそ生きた心地を覚えるのも人の心である。
人間は、そういう「非存在の身体の輪郭」のイメージを持っている。たぶん、生き物の生はそのような仕組みになっている。そうしてそのとき人は「霊魂」などというものを発想しない。
心も肉体も霊魂も宿っていないからっぽの身体の輪郭。まあ、心も肉体も宿っていないのなら、霊魂も存在しようがないだろう。そういうからっぽの身体で、人間は「踊る」ということを覚えていったのだ。
思春期の少女の身のこなしには、からっぽの身体になってゆく特別の鮮やかな気配がある。
それは、身体の物性の疎ましさを誰よりも切実に感じている存在だからであり、そういう年頃なのだ。少年だってそういう気配を持っているが、この世界の中に孤立して存在している少女の身体の物憂くはにかみがちな動きには、さらに特別な気配がある。そしてこの特別な気配は、世界中の民族が感じている。だから、世界中に「処女の踊り」がある。人類の「みそぎ」はこの身体に宿っている。
弥生時代奈良盆地では、この踊りが祭りの中心になってゆき、やがてこの踊りのカリスマが「きみ=天皇」として祀り上げられていった。
「きみ」の語源は、「完全な姿」あるいは「美しい姿」というニュアンスだったのであって、「支配者」とか「高貴な人」という意味だったのではない。そのころ「高貴な人」などいなかったが、それでも、祀り上げずにいられない対象はあった。それほどに誰もが生きてあることの「けがれ」を自覚している世の中だったから。
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