姿と禊の文化・「天皇の起源」71


日本列島の「姿」の文化は、縄文以来の「みそぎ」を願うメンタリティから生まれてきた。
「みそぎ」とは、身体をからっぽのまっさらなかたちに戻すこと。生き物の生のいとなみは、身体を「非存在」の「空間の輪郭」として扱ってゆくことにある。そのようにして生き物の身体は動いている。
「みそぎ」とは、生き物としての根源に立ち返ろうとする作法である。日本的といっても、人間の普遍的な衝動だともいえる。そういう人間の原始性をそのまま洗練させてきたところに海に囲まれた日本列島の文化の特殊性と普遍性がある。
特殊といっても、原始時代は世界中のみんながやっていたことをそのまま引き継いできただけなのだ。
原始人とパンドラの箱を開けてしまった文明人との意識の位相の違いは決して小さくはない。文明人の物差しで原始時代を推量することはできないし、日本列島の伝統文化にはその原始性が残されている。



たとえば、縄文時代火焔土器は、縄文時代だけの特殊な文化か。
「火焔」といってもべつに炎を意図してつくったのではなく、そのように見える曲線的な模様で飾り付けていっただけである。江戸時代の娘のごてごてした髪飾りや友禅染などの着物の柄の過剰な装飾性だって、火焔土器の伝統だともいえる。
その火焔飾りを何か呪術性のようにいう歴史家も多いが、ようするに飾りだったのだ。無用の装飾である。無用だからこそ、際限なく飾り付けてゆくことができる。
もしかしたら火焔土器は、宴のときの酒を入れる壺だったのだろうか。なんだか酩酊感を誘う妖しい模様である。
歴史家は、どうして「その模様には呪術的な意味があった」などというのか。ただの道具というだけでは飽き足らずに、おもしろがってどんどん模様を付け加えていっただけかもしれない。しかし、その「おもしろがる」というメンタリティにこそ、深い意味が隠されている。
それは、彼らの呪術だったのではなく、娯楽芸術だった。
「器(うつわ)」という。
「うつわ」の「うつ」は、「うつろ」「空蝉(うつせみ)」の「うつ」、「からっぽ」ということ、すなわち「空間」。「わ」は「輪」、「周縁」の語義。
「うつわ」とは、「空間の輪郭」。彼らは、土器の「物性」よりも「中身がからっぽ=空間」ということを強く意識していた。つまり彼らは、その土器を、「物体」としてではなくただの「空間の輪郭」=「画像」として見ていたのだ。
外を飾り立てることによって中身のからっぽがいっそう際立つ。それは、彼らの身体感覚だった。日本列島の住民は、そのときからすでに身体がからっぽの「空間の輪郭」になってゆくカタルシスを「みそぎ」とする文化を持っていた。
身体の中をからっぽだと思い定めて表面を飾り立ててゆく「姿」の文化は、すでに縄文時代からはじまっていた。それが、着物の柄模様だって、身体の空間性を際立たせるための装飾だろう。
日本列島の着物は、全体が模様で覆われている。その代わり、かたちは基本的にみな同じである。これは、着物の物性に対する意識を忘れてたんなる「画像」として見てゆくコンセプトである。そして、着物の中身は空っぽですよ、ということ。
それに対して西洋の服は、模様で覆うということはしないが、襞をつけたりふくらませたり、いろいろデザインが工夫される。それは服の物性を称揚し、その下の肉体も際立たせている。
陶器の壺などにしても、日本列島には全体が細かい模様に覆われているものがある。それによって陶器の物性を消去し、中身の空間性を際立たせている。そしてそういうことを、縄文人はとても熱心にしていた。「姿」の美意識。日本列島では、この世界の物性を消去して「画像=姿」として見ようとする美意識の伝統がある。
火焔土器は、二段構造になっている。上は広く、下は狭い。その段差で仕切りをつくり、上は濾過装置になっていて、下にきれいな酒や水をためていたのだろうか。その「清浄」に対する思いが、外側を飾り立てずにいられない衝動を生んだのかもしれない。
外側を飾り立てることは、中身の空間性=清浄を際立たせることである。火焔土器は、江戸時代の着物や髪飾りと同じ美意識であり、そうして現在のギャルが鞄にじゃらじゃらとマスコットをつけている「かわいい」のセンスにもつながっている。
日本列島の住民は、中身の空間性を意識しているから、そういうことをしたがる。それは、身体の物性をそぎ落としてからっぽの「空間の輪郭」にしてゆく「みそぎ」の文化であり、「姿」の文化である。



銅鐸は、奈良盆地周辺の地域から多く出土されるが、じつは列島中に流布していたらしい。
西洋のベルのような仕組みで音を出す祭祀の道具だったといわれている。お寺の鐘のように外から棒で叩いて大きな音を出すのではなく、銅鐸を揺らしながら中につるした木片が当たって音が出る仕組みだったのだとか。だったらそう大きな音も出るまい。静かな余韻を持った音だったのだろうか。
祭祀の道具というが、大切に家の中に飾られていたのではなく、土に埋められて保管されていた。
どんなところに保管されていたかというと、住宅地でもお祭り広場や墓地でもなく、村はずれの原っぱや森の中のようなところだった。
これが何を意味するか?
最初のころは、10〜20センチくらいの大きさで、わりに浅く埋められていたらしい。
ということは、それは村の共有物で、誰もが好きなときにそれを掘り出してその音を聞くことができたのかもしれない。そういう癒しの楽器だったのだろうか。彼らの心にしみるような音だったのだろう。つまり「けがれ」をそそいで「みそぎ」を果たす、という。
それがやがて、あとの時代には1メートルを超えるものになってくる。そうなるともう、ひとりでは抱えきれない。頭頂の上の丸い穴に棒を通して何人かで担いで揺らしたらしい。
しかしそれでもやっぱり村はずれの土の下に埋められていたということは、その用途はあまり変わらなかったのかもしれない。
まあ、娯楽の道具だったのだろう。ただ、最初はかなしみを癒すとか「けがれ」をそぐというようなものだったのが、だんだんみんなでよろこびを分かち合うものに変わっていったのだろうか。それだってまあ「みそぎ」の道具だったのだろうが、花見などの宴を盛り上げるとか、そのように使われていったのだろうか。
1メートルを超える大きさになればなんとなく祭祀の道具を想像したくなるのだろうが、最初はかわいらしい大きさのかわいらしい音のものだったのだ。そしてもしそれが祭祀の道具であったのなら、神道の神社に残っていったはずである。
それは、古墳時代に入ったころに突然つくられなくなっていった。
共同体ができて、人々の意識が変わっていったからだろう。もし祭祀の道具であったのなら、そうかんたんにはなくならない。たぶん、そういう「癒しの音」が流行らなくなっていったのだろう。
純粋で原始的な「けがれ」をそそいで「みそぎ」を果たすということより、何か共同体ができていったことの高揚感があったのだろうか。
ともあれ銅鐸だって内側のからっぽの空間にこそ意味があったのであり、その音に弥生時代の人々の身体感覚に「みそぎ」の心地をもたらす効果があったのだろう。
銅鐸もまた、外側一面に絵や模様が描かれてあり、無用な飾りも付けられていた。だから歴史家は何やらまがまがしい呪術祭祀の道具のように想像したくなるのだろうが、日本列島の古代人はそんなことのために外側を飾り立てていたのではない。飾りは飾りなのだ。いまどきのギャルがじゃじゃらと鞄にマスコットをつけているのと同じのあくまで無用の飾りであり、それは火焔土器以来の伝統なのだ。
古代人に必要だったのは「呪術」ではなく、身体がからっぽの空間になってゆく心地の「みそぎ」の体験だった。
銅鐸の本領は、おそらくその音の空間性にあった。彼らは、そのような長く尾を引いて響いてゆく金属の音をそれまで聞いたことがなかった。その空間性には、彼らが求める「みそぎ」があった。銅鐸など日常生活の生産性にはなんの役に立つものでもなかったが、その音の空間性は彼らの心にしみいっていった。
呪術だってまあ人間の欲望を満たす有用なものだといえるが、彼らがもしそんなことに熱心な人々なら、縄文時代はもっと早く終わっているし、銅鐸は祭祀用の建物に大切に保管されている。
それは中国大陸から伝わったともいわれているが、外側の絵模様や飾りは日本列島でいっそう華やいでいった。銅鐸の絵模様や飾りなど、その機能においてはまったく無用のものだったが、その無用性にこそ深い意味があった。
彼らは銅鐸を屋内に飾って拝んでいたわけではないのだ。呪術祭祀の道具ならそうするに決まっている。その音も絵模様や飾りも、呪術の効果をもたらすものではなく、あくまで彼らの心を癒すものだった。それは、娯楽の道具だった。誰もが好きなときに掘り出してその音色を楽しむことができたのだ。



江戸時代の人々は、それを「さなぎ」と呼んでいた。土の中でじっとしている昆虫の蛹(さなぎ)のようだったかららしいが、掘り出したのは江戸時代の人々が最初ではあるまい。おそらく古墳時代からずっと掘り出されて私物化されたり、溶かして別のもの(たとえば銅銭)に作り変えられたりしてきたのだろう。
したがって銅鐸は最初、無数に埋まっていた可能性がある。そして、ずっと昔から「さなぎ」と呼ばれてきた可能性がある。
もしかしたら、最初から「さなぎ」と呼ばれていたのかもしれない。
つまり、土に埋まった銅鐸のことを「さなぎ」と呼んでいたから、あとから土の中のいも虫というか幼虫も「さなぎ」と呼ぶようになっていった、ということは考えられないだろうか。
これはあくまで仮説にすぎないが、語源としては、銅鐸のほうが先だった、といえないだろうか。
「さなぎ」なんて、愛らしい響きである。古代人にとってのいも虫のような幼虫は、そんな愛らしい対象だっただろうか。ふつうは、ちょっと気味悪いだけだろう。
「さなぎ」とは、どんなニュアンスの音声だろうか。人間はその音声の響きにどんなニュアンスを感じるだろうか。
「さ」は、「さあ?」といぶかるときの「さ」、つまり「神秘性」。「さーっと風が吹き抜ける」というときの「透明感」や「空間性」のニュアンスもある。「去る」という場合も、そういう空間性に対するかなしみが込められている。花が「咲く」ことにも、人は「空間性」の鮮やかさや神秘性を感じている。「裂く」という現象は、まさに「空間性」の鮮やかさと神秘性を感じさせる。
「な」は、「慣れ親しむ」「なかよし」の「な」、「親密」の語義。「なあ」と親密さを込めて呼び掛ける。
「ぎ=き」は「きみ」の「き」、「めでたくありがたい」こと。「昔、男ありき」の「き」、「完結性」を表すニュアンスで文章の最後につけられる。物事が完結していることの「めでたさ」「ありがたさ」の感慨を込めて「き」と発声される。さらには、「完結した世界」というニュアンスもあるから「聞く」という。聞くことは、世界に気づくことであり、その音源は、それ自体ひとつの「完結した世界」である。つまり「き」は「音」でもある。
「さなぎ」とは、「神秘的に漂う(=空間性)愛らしい音」というようなニュアンスの言葉だったのだろうか。
単純に「さ+なぎ」の言葉だとするるなら、「なぎ」は海の「凪(なぎ)」、「静寂」「平穏」の語義。つまり「さなぎ」とは、「神秘的な静寂(あるいは穏やかさ)」ということになる。
どちらでも、ニュアンスは同じである。
銅鐸を鳴らすと、まわりの空気が一変して「清浄」な気配が満ちてくる。そういうことの感動とともに村の人々に共有されていたのではないだろうか。
つまり、語源においては、土の中に埋められていたから「さなぎ」といったのではない。「神秘的に漂う(=空間性)愛らしい音」に対する感動を込めて「さなぎ」といったのではないだろうか。
そういう感動の「みそぎ」の体験が古代の人々を生かしていた。
銅鐸は、そういう娯楽の道具だったのではないだろうか。
弥生時代の娯楽は、身体がからっぽの空間になってゆくような「みそぎ」のカタルシスにあった。奈良盆地の巫女も、人々のそのような身体感覚と空間感覚によって祀り上げられていったのだ。
「姿」とは、中身がからっぽの空間である。そのことを際立たせるために、日本列島の住民は外側を飾り立てる。それは呪術のためではない。「みそぎ」のカタルシスを汲み上げるためだ。
弥生時代までは、まだ呪術などというものはなかった。呪術よりも娯楽が大切だった。人類は呪術よりも先に娯楽を発見し育ててきたのであり、古代人が娯楽を大切にしていたからといって、なんでも呪術性で決めたがるいまどきの歴史家に文句をいわれる筋合いはない。
「みそぎ」の体験に対する切実さと「姿」に対する美意識、それによって弥生時代の銅鐸文化が成り立っていたのであり、それはもう、日本列島の歴史を通じての文化の伝統だった。
霊魂がどうのとばかりいっている人にはわかるまいが、日本列島の風土とか伝統文化というのはそういうものなのですよ。



火焔土器の伝統は、現在のギャルの「かわいい」の文化まで脈々と引き継がれている。それは、「姿」の文化であり、「みそぎ」の文化である。
火焔土器」とか「銅鐸」とか、後世の歴史家が大仰な名前をつけたから何かまがまがしい呪術の道具のように思われがちだが、おそらく実際は、ただの無用の道具であり、娯楽の道具だったのだ。
娯楽こそが人間社会を活性化させる。ことに古代以前の社会をそのような方向に導いていたのは、生産性でも呪術性でもなく、無用な娯楽のカタルシスだった。
縄文人が生産性や呪術を追求する欲望で生きていたのなら、とっくに大集落の共同体をつくって戦争ばかりしていたことだろう。
彼らを生かしていたのは、あくまで「みそぎ」の体験としての「娯楽」だった。
そういう「無用性」こそ日本列島の伝統文化である。
縄文人は、焼き物の土器で、じつにいろんなものをつくっている。耳飾りなどの装飾品はもちろんのこと、楽器や動物をかたどった人形や子供のおもちゃや、その用途が誰もわからない不思議なかたちをしたものまである。
彼らは、土器のうつわをつくっても、それがただの生活の経済効率を満たすための道具というだけでは飽き足らなかったから、火焔土器のようなものをつくってしまった。また、土器の表面に模様を入れることにとても熱心だった。そんなことは機能的にはなんの意味もなかったのだけれど、そうせずにいられなかった。
「無用」であることこそ、彼らの心をより魅了した。
「無用」であることの「空間性」、そしてその「清浄=みそぎ」、人間の願いは、みずからの身体の物性に対する疎ましさから解放されることにある。そういう願いにせかされながら縄文人は、無用の飾り立てをせずにいられなかった。
それは、呪術のための飾りではなかった。無用の飾りであることそれ自体に意義があった。
彼らは、機能のためだけの製作ではつまらなかった。飽きるまで、疲れ果てるまでやらないとすまないメンタリティが縄文人にはあったのだろう。
疲れ果ててぐっすり眠る、そうやってからっぽの身体になってゆくのが彼らの「みそぎ」の文化であり、生命観だった。疲れ果てたら、もうその先はない、その先は何もない「黄泉の国」だ、という世界観。
縄文人が無用のものに熱中したということは、呪術の欲望が希薄だったかまったくなかったということを意味する。人間の欲望を満たす究極の有用なものとして呪術が存在するのだ。現代人が「夢はかなう」と合唱していることだって、まぎれもなく呪術そのものである。



呪術が生き延びるためのものだとすれば、古代以前の人々の無用のものに対する愛着は、死んでゆくためのトレーニングである。死に対する親密さ。
死んでゆくことは、この世の無用の存在になることである。疲れ果ててぐっすり眠っている身体は、無用の存在になっている身体である。おそらく、そういう身体のイメージを基礎にして、人間の無用のものに対する愛着が成り立っている。
それは、死者の身体であると同時に、生まれたばかりのまっさらな身体でもある。
無用であるとは、「まっさら」ということでもある。
火焔土器がごてごて模様を飾り立てても、飾り立てれば立てるほど、その内側はまっさらな空間になっている。その「空間」を見る視線が、無用のものを愛着させる。火焔土器のあの装飾性は、「まっさら=清浄」に対する視線の上に成り立っている。
それは、死生観である。
日本列島の住民が無用のものやからっぽの空間性やまっさらの清浄なものに愛着するのは、おそらく縄文以来の死生観の伝統がある。
自分がいまここに生きてあるということや、やがて死んでゆく存在であるということに対する切実な思いが縄文人にはなかったとは、誰にもいえない。現代人よりもずっと気を紛らわせることが少なく山の中に閉じ込められて暮らしていれば、むしろ彼らのほうがずっとそのことに対する切実な思いを抱えていたともいえるはずだ。そういう思いを通奏低音にして暮らしていたのだ。
「姿=みそぎの文化」とは、死に対する親密さの文化である。死に対する親密さとともに生きることの醍醐味を汲み上げてゆく文化。
まあ、死ぬことは、肉も溶けて霊魂もどこかにいってしまって、からっぽになってしまうことだ。縄文人は、霊魂の行く末よりも、身体そのものの行く末を思った。そう思ったらいけないのか。霊魂を思わないといけないのか。霊魂を思うことが人間であることの法則なのか。そんなことはあるまい。彼らは、霊魂などというものを知らなかった。心の行く末も思わなかった。眠りに就けば、心も体も消えてゆく心地に浸される。夢を見るのはまだ生きているからであって、死んだあとはどうなるかわからない。
とにかく、疲れ果てて眠りにつくときのこの消えてゆく感覚に、彼らの生きてあることの醍醐味があり、死に対する親密さがあった。彼らにとっては、生きてあることの醍醐味と死に対する親密さは同義だった。それが、「消えてゆく」という感覚であり、その身体感覚=空間感覚が彼らの美意識になっていた。つまり「姿」に対する美意識。
縄文人火焔土器の表面や縁のあれこれ飾り立てたのは、その中の「空間」に対する親密さであり、すなわちそれは死に対する親密さだったのだ。
「疲れ果ててぐっすり眠る」文化。その眠りにつく瞬間にこそ、生きた心地も死んでゆく感触もある。
死に対する親密さの文化は、とうぜん生命賛歌ではない。この生もこの社会も「憂きもの」と嘆きながら生きてぐったりと疲れ果て、眠りに堕ちてゆく。そのときのからっぽになってゆく身体の感覚がすべての美意識の基礎になっている。
その無用の飾りには深い意味がある。火焔土器の模様には、縄文女の嘆きが込められている。
何はともあれ死に対する親密さは、よきにつけあしきにつけ、日本列島の伝統的な精神風土である。そしてそれは、霊魂の行く末を思う心ではない。「いまここ」に消えてゆく「空間」に対する親密さであり、それはまた普遍的な原始人の心性でもある。
縄文人弥生人も、霊魂など思わなかった。ひたすらからっぽのまっさらな空間を思った。
霊魂の行く末など思わなかった。死んでゆくこの身体の行く末を思った。そう思ったらいけないのか。彼らがそう思わなかったと、どうしていえるのか。日本列島の「姿」の文化や「みそぎ」の文化は、彼らがそう思っていたと解釈しないとつじつまが合わないし、そこにこそ人間性の普遍=自然があるのではないだろうか。
けっきょく多くの歴史家の想像力は、共同体の発生ところまでしかさかのぼれないのだろう。だから、それ以前の人間の原始性=自然を霊魂だの呪術だのという概念で解釈してしまう。
現代人=文明人が自分の中を見つめているだけでは原始性=自然は見えてこない。それは、自分の中のその向こうにあるものだから、いったん自分のことは忘れて推参してゆくしかない。いったん霊魂のことは忘れて……。
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