水田耕作の文化・「天皇の起源」72


まあ、よかれあしかれ、日本列島は水田耕作の文化なのだ。
天皇家も稲つくりの文化との関係は深く、稲に関する儀式がたくさん残っている。
しかしそれは、稲がどこから伝わってきたかとか、天皇家の御先祖がどこからやってきたかというような問題ではない。
稲はどこから伝わるのでもなく縄文時代から栽培されていたし、天皇家の御先祖はどこからやってきたのでもなく最初から奈良盆地に住んでいた縄文人の末裔である。
稲はたぶん、大陸から渡り鳥の糞としてか海流に乗ってかして運ばれ、日本列島に自生していたものを縄文人が見つけて山間地の狭い場所で栽培していったことからはじまっている。
そして山から平地に下りてきた弥生時代になってから農業が本格化していったわけだが、彼らがなぜ米づくりに執着していったのか、という問題がある。
弥生時代のはじめの日本列島の平地は、ほとんどが湿地帯だった。だからそこで農業をはじめるなら、水田耕作しかなかった。
水田耕作のことはすでに縄文時代から知っていたし、水田をつくるという土木作業や稲を育てる作業になじんでゆくメンタリティがあったのだろうか。
それは、たんなる経済効率だけの問題ではなかったはずである。
一部の現代人は、水田耕作は無益な環境破壊である、などといっているらしい。
しかし環境破壊で何が悪い?生き物が生きるいとなみはすべて環境破壊である。それはもう、しょうがないことだ。歴史のおおいなる流れなのだ。
そんなに自然環境が大事なら、地上の生物のすべてを抹殺してしまえばいい。
ビーバーがダムづくりをすることも、バクテリアが死肉や枯れ木を分解してしまうことも、すべて環境破壊である。
津波だって、人家だけでなく草木もなぎ倒してしまう自然破壊だった。自然破壊などといってもしょうがない。自然破壊することが自然のいとなみなのだ。
近ごろよくいわれるなんだかわけのわからない「自然を復元する」ということのほうがずっと不自然で作為的な行為であろう。
古代以前の人々は、現代人のような経済至上主義・効率至上主義で生きていたわけではなかったし、無用性の文化を生きていれば、これ以上作為的に地球をいじりまわすこともしないだろう。縄文時代は、そういうことをしなかったから1万年も続いたのだ。
しかしそれでも、生き物であるかぎりせずにいられないことはある。かつての人々が歴史の中でせずにいられなかったことを、現代人の経済至上主義や効率至上主義で裁いて何がうれしいのか。
水田耕作が非効率で過酷な肉体作業をともなうものであったということは、それだけ人々のせずにいられない行為だったことを意味する。ビーバーのダムづくりやバクテリアが死肉を分解するような、いわば本能的な行為だったのだろう。
経済効率的な生きようとする欲望が生き物の本能というわけではないのだ。生き物の本能は、命をすり減らす行為をせずにいられないことにある。命をすり減らしてわれわれはやがて死んでゆく。
まあ、古代の人々にとっての水田耕作は、命をすり減らす行為だったのかもしれない。だからこそ彼らは夢中になってしまったわけで、命をすり減らしながら「みそぎ」の文化を洗練発達させてきた。。
海に囲まれた日本列島は、世界でももっとも「経済効率」に遅く目覚めた地域だった。だからこそ、原始的な命をすり減らす「無用性」の文化を洗練発達させてきた。
古代以前の人々は、政治とか経済とか呪術などという生きてゆくことに対する「経済効率」の欲望が希薄だった。
呪術は、この世でもっとも経済効率が高い生きてゆくいとなみである。呪術で病気が治ったり雨が降ったり豊作が得られるのなら、こんなに効率的なこともない。
しかし日本列島の古代以前の人々が非効率な水田耕作に夢中になっていたということは、彼らが呪術を知らなかったことを意味し、縄文時代のそういう無邪気なメンタリティを引き継いでいたことを意味する。
もしも彼らが経済効率に目覚めた人々だったら、日本列島に水田耕作が普及してゆくということはなかった。彼らは、何かをしたいという欲望よりも、何かをせずにいられないという衝動とともに生きていた。



弥生時代初期の奈良盆地は、ほとんどが湿地帯だった。人々は、水が干上がる前にすでにそこに下りていった。
初期のそこでの暮らしは、水に体を浸すということを嫌がっていては成り立たなかったはずである。というか、水に体を浸すことが心地よかったらそんなところに住み着いていったのだろう。
なぜ心地よかったかといえば、穢れたこの体が清められるような心地がしたからだろう。日本列島の住民は、縄文時代からそのような「けがれ」の意識があった。
弥生時代初期の奈良盆地の人々は、その湿地帯の中の浮島のようになった小高い所に住んでいた。その小高い浮島自体が、すでに水に清められている場所だった。
彼らは、山からそこを見下ろしながら、そこに立ちたいと思った。
縄文人の多くも、まわりに水路がある環濠集落に住んでいた。
彼らはもう、縄文時代から、住んでいる場所や体を水で清めようとする意識があった。
現在の日本人が透明な湯の風呂に入る習慣をやめないのも、そんな「清める」という歴史の無意識がどこかにはたらいているからだろう。
とにかく弥生時代初期の奈良盆地の人々がそこに住み着いていったのは、湿地帯だったからこそなおさらそこに住みたいと思ったのかもしれない。
だから、そこを水田地帯にしていったのも、湿地帯のままにしておくことだったのだろう。
彼らは、水に体を浸すのが好きだった。それも、水田耕作に夢中になっていった理由のひとつのはずである。
奈良盆地の人々は、弥生時代から古墳時代にかけて懸命に干拓していった。そして干拓して干上がっても、それでもまだ効率的な畑作よりは非効率的で労の多い水田耕作のほうがよかったらしい。
まあそんな風土から天皇が生まれてきたわけで、天皇家の稲作儀式は、べつに南方から持ってきたのでもなく、あくまで水田耕作にこだわる日本列島の伝統の上に成り立っている。つまり、水田耕作にこだわる民衆の意識の反映として天皇家に稲作儀式が残っていっただけだろう。



日本列島では、米が貨幣になっている時代があった。武士の収入は「石高」であらわされ、「禄を食(は)む」などといわれた。
貨幣よりも米の方が信用されている社会だった。
それほどに稲作にこだわっていたということだろうか。これはもう、世界観や生命観の問題だろう。日本列島の住民は、そういう問題として米をつくってきた。
江戸時代の農民なんか、米をつくりながら、自分たちはその代用食である麦や粟や稗を食べていた。そうして親を姥捨てしたり娘を売ったり赤ん坊を間引きしたりして、それでも米をつくっていた。日本列島の住民は、どうしてそこまでして米をつくらねばならなかったのか。それは、ただの社会制度だけの問題ではあるまい。世界観や生命観の問題でもあるのではないのか。
日本列島の住民は伝統的に清らかな水に体を浸すことが好きだということは、その世界観や生命観に関する深い意味があるのではないだろうか。
その世界観や生命観の上に水田耕作が成り立ってきた。
世界観や生命観の問題だから、天皇家の儀式として残ってきたのだ。
天皇だって、儀式の前には「みそぎ」をしてからのぞむそうである。そういう世界観や生命観として水田耕作が成り立ってきた。
僕はべつに米が清浄で高貴な食べ物だというつもりはない。ただ、そういう歴史のなりゆきになってしまったもとになる世界観や生命観が知りたいだけで、その「田園風景」を愛する趣味も嫌う趣味もない。
単純に、大陸からの渡来人に教えられて米づくりをはじめた、ということではないのだ。



天皇が民衆に米づくりを教えたのではないし、米をつくらせてきたのでもない。
民衆のやっている祭りを天皇家が儀式化していって今日まで残っているだけのこと。
なぜ儀式化する必要があったかといえば、民衆と天皇のあいだに存在していた権力者の仕事が「民衆から米を徴収する」ということにあったからだろう。
弥生時代奈良盆地の人々は、自分たちの世界観や生命観の結晶である米を天皇に捧げていた。権力者は、その捧げものをできるだけ多く徴収して私物化してゆくものとして古墳時代に登場してきた。できるだけ多く徴収するためには、天皇にとって米がいかに大事な食べ物であるかということを民衆の意識に定着させてゆく必要があった。そのためのものとして彼らは、天皇家に米づくりを儀式化させていった。
天皇家の米づくりの儀式は、民衆から米をより多く徴収するための方便としてはじまった。
起源としての天皇は、ただの舞の上手な思春期の少女だったのだ。天皇家に最初から米づくりの儀式があったはずがないではないか。
起源としての天皇は、支配者としてどこかからやってきたのではない。
米づくりの儀式なんか、あとの時代になって権力者がやらせただけなのだ。なのに多くの歴史家は、それを、起源としての天皇はその儀式を携えて南方だか朝鮮だかのどこかからやってきたものだという。



新嘗祭」は、天皇家に残っている米づくりの儀式のひとつだろう。その年の秋に新しく収穫した米をみんなで食べたり神にささげたりする祭りだといわれている。
「にひなめ」の「にひ」はもちろん「新しい」ということ。「に」は「似る」の「に」、「接近」「出現」の語義。「ひ」は、「ひっそり」「秘密」の「ひ」、隠れているもの。
隠れているものがあらわれることを「にひ」という。
「なめ」の「な」は、「なる」「なじむ」の「な」、「なあ」と親しげに呼びかける。「親密」の語義。「め」は、「めっ」と怒る、「気づく」こと。
「なめ」とは、親密さとともに気づいてゆくこと、すなわち「出会いのときめき」。
魚の「なめり」とは、魚にくっついてなかなか離れないものだからだろう。「滑(なめり)川」とは、水が地面にくっついて流れているように見えない川のこと。
「にひなめ」とは、言葉通り「新米を収穫した喜び」というようなニュアンスなのだろう。
「なめ」は「舐める」で、すなわち「食べる」こと、などと解釈するべきではない。食べることは、ちゃんと「食(は)む」という言葉があった。
ところが、折口信夫は、「にひなめ」の語源は「にへなめ」である、というようなややこしいことをいっている。「にへ=贄」は、高貴な人の食べ物ことをいったのだとか。そして「なめ」は「食べる」ことだという。何事も天皇が大事で天皇中心で考えればそう解釈したくもなるのだろうが、愚劣な思考である。「食べ物を食べる」だなんて、なんだかへんてこな表現である。古語の「舐める」がただ「食べる」というだけの意味だったなんて、古代人の心模様や言葉の使い方に対する想像が安直すぎる。
折口信夫のその発想は、大和朝廷をつくった古代の権力者そのものの発想でもある。彼らは「米は神の食べ物である」といいながら天皇家の米づくりの儀式をマネージメントしてゆき、それを民衆から米を搾取する口実にしていったのだ。
「波(なみ)」は、陸地も人も船も食べてしまうものだからそういったのか。だったら「はみ」といっている。舐めるような親密さで陸地に寄ってくるからそういったのだろう。「舐めるように育てる」とか「舐めるように見る」とかいうではないか。それはそういう「親密さ=めでたさ」を表す言葉だったのだ。
ようするに「めでたさ」のことを「なめ」といったのだ。
大嘗祭(おおなめのまつり)」はひとまず天皇即位の儀式ということになっているが、もともとは民衆の成人の祝いだったともいわれている。このときの「なめ」に「食べる」という意味を当てるのはいかにもこじつけめいている。
「おお=おほ」は「覆(おお)う」の「おお¬=¬おほ」、すなわち庇護者=親。そして「なめ」は、そうなる資格を持ったことの「めでたさ」を表している。
新嘗祭」は、新しく収穫した米の「めでたさ」を分かち合う祭りだったのであって、べつに天皇や神を敬う祭りだったのではない。
新しい米が出現したことのよろこび、めでたさ。古代人がみんなでそれを分かち合うことをしたらいけないのか。それは、天皇や神に対する霊魂の儀式でなければならないのか。あなたたちはそんな薄っぺらな解釈で古代人や原始人の心模様に推参できるとでも思っているのか。



「祭り=祀り」の語源の「まつる」という動詞は、着物の裾を縫うことを「まつる」というのと同じで、「最後を締めくくることのめでたさ」でそういわれた。新嘗祭だって、ようするにそういう祭りだったのだ。
すべてが終わってさっぱりすることのめでたさ。彼らは、そのようなかたちで死んでゆきたいと願っていたし、そのような心地を汲み上げて生きていた。
水田耕作は労の多い仕事だからこそ、終わったときのさっぱりした心地もまたひとしおだった。この気持ちは、われわれ現代人だってわかるはずである。たぶん、世界中の人間がわかる。人間とは根源的にはそういう存在なのではないだろうか。二本の足で立つというしんどい姿勢でいられるのは、そこからさっぱりする気持ちを汲み上げることができるからだ。そうやって原始人は、住みにくい土地住みにくい土地へと移住してゆき、とうとう地球の隅々まで拡散してしまった。
水田耕作が労の多い非効率的な行為だったからといって、人間の本性としてそれを避ける理由にはならないのだ。
彼らは、人間を支配している神も霊魂も知らなかったから、効率的経済的に生きることも正しく生きることも発想しなかった。
ただもう、生きることと死んでゆくことが不可分の存在の仕方をしていた。死に対して親密になってゆくことが生きることだった。そしてそれが、直立二足歩行の起源以来の人間の普遍的な生態だった。
古代人の祭りを、どうして神や霊魂という概念と結びつけねばならないのか。結びつけたのは共同体(国家)の発生以降のことであって、縄文・弥生時代の祭りはそういう物差しでは測れない。
原初の祭りは「終わることのめでたさ」にあった。だから「まつり」といったのであって、神や霊魂にすがってゆくことだったのではない。異民族との軋轢がなかった海に囲まれた日本列島は、そういう原初的な祭りのかたちが、世界のどこよりも遅くまで残っていた。文化的にはそれなりの洗練を持っていたのだが。
弥生人は、異民族に教えられるまでもなく、自分たちでたちまち水田耕作の文化を発展させていった。だから、稲作りの用語は、すべてやまとことばとして残っている。「いね」とか「こめ」とか「あぜ」とか「もみ」とか。もしも稲作りを渡来人に教えられたのなら、いまごろ「田(た)」のことを「でん」とかなんとかと呼んでいることだろう。
日本列島の住民が水田耕作にこだわっていったのは、米が神の食べ物だとイメージしたからではない。水田で米をつくるという行為そのものによろこびがあったからだ。
歴史の偶然というか僥倖というのか、米づくりに夢中になってしまうようなめぐりあわせがあった。
この生もこの身体もこの世界も「憂きもの=けがれ」であるという世界観・生命観、そこから米づくりに熱中していった。
彼らにとってきれいな水に体を浸すことは、ひんやりと濡れたようなかなしみに身を浸すことだったのだろう。そのかなしみとともに、この生やこの身体の「けがれ」がそそがれてゆく。



山から下りてきた弥生時代の人々にとって、体を水に浸すことは、人間も稲そのものもひとつの「みそぎ」の体験だった。
米は古代人にとって「神の食べ物」だった、などといわれているが、縄文時代には木の実を主食にしていた人々が、その新しい米という食べ物をどのていど美味しいと思ったかはわからない。
たとえばサモアとかの南方の島の人が、タロイモより米のほうがおいしいとは思わないだろう。
弥生時代奈良盆地の人々は、「米を食べる」ことよりも、「米をつく」ることに熱中していったのだ。初期のころは、奈良盆地に渡来人などいなかった。それでも米をつくるようになっていった。
たぶん彼らの食の嗜好からすれば、干上がった土地にクリやドングリの木をどんどん植えていったほうがよかったのだろうが、そうはしなかった。そしてどうしても米が食べたかったわけではないが、どうしても米がつくりたかったし、清らかな水に対する愛着があった。
弥生時代は、集団のかたちや規模が変わっていった時代だった。そのことに対する戸惑いが人々の心模様になかったはずがない。彼らは、豊かになった他者との出会いにときめきつつ、その新しい集団の中に身を置いていることの「けがれ」を意識していった。
彼らは1万年続いた慣習を捨てて新しい時代に入っていったのである。彼らはそれができるメンタリティをすでにそなえていたと同時に、その戸惑いや居心地の悪さを癒そうとする願いもそれなりに切実だったはずである。
たとえば銅鐸は、呪術祭祀の道具だったのではない、彼らは、銅鐸の音に癒されていた。巫女の舞にも癒されていた。そういう癒しの体験とともに、人と人がときめき合って暮らしていた。ときめき合うこともまた、癒しの体験だった。
その「清浄=みそぎ=癒し」に対する切実な思いが、彼らの水田耕作に対する情熱を支えていた。
しかし日本列島の水田耕作も、明治以降の品種改良や機械化によって、今や週末だけの作業で成り立ってしまうのだとか。
それでも農家は、小規模経営でまだまだ無駄な費用や手間をかけながら米をつくっているらしく、それは改めた方がいいともいわれている。まあ、そういう伝統があるのだから仕方がない部分もあろうが、深く豊かに水とのかかわりを生きることができるというだけでも、彼らにとっては甲斐のあることではないだろうか。
良きにつけ悪しきにつけ、日本列島は水とのかかわりが深い歴史を歩んできた。
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