「けがれ」の自覚・神道と天皇(28)

「アンチ・エイジング」とか「ダイエット」とか、老いも若きも自分の体のことが気になって仕方がない世の中らしい。
バブルのころは思春期の若者の「朝シャン」というのが流行って、それは今でも続いているのだろうか。
「禁煙・嫌煙」のムーブメントも、過剰に体のことを気にするようになってきたことの結果に違いない。
しかしその反動として、「健康のことなんか気にしないのが健康な証拠だ」という意見もささやかれている。
身体という「物質」に執着しながら生き延びようとする欲望を膨らませていっても、命のはたらきは活性化しない。それは、「もう死んでもいい」という勢いで活性してゆく。「身体という物質」はひとつの「けがれ」であり、それはもうこの生そのものが「けがれ」だという意識であり、人類史においては、その鬱陶しさからの解放として「祭り」の習俗が発展してきた。まあ、原始人が地球の隅々まで拡散していったことだってそういう感慨が契機になっているわけで、それが人類の普遍的な生のかたちであり、そのときの、どこからともなく人が集まってきて他愛なくときめき合い浮かれ騒いでゆく生態とともに祭りが生まれてきた。人類の祭りは、宗教的な呪術や祈祷の場として生まれてきたのではない。
二本の足で立ち上がってしまえば、意識するにせよしないにせよ、生きてあることの「けがれ」はもう感じてしまうしかないのだ。人類史における祭りの発生は、それが契機になっている。つねに「居心地の悪さ」をともなっているその姿勢は、本質において、「生命賛歌」ができるような姿勢ではない。人類は、先験的に「けがれ」を抱えてしまっている存在だから、祭りのダイナミズムが生まれてきた。その居心地の悪さ=鬱陶しさにせかされるようにして祭りの賑わいが生まれてきた。それはもう、現在まで続いている祭りの本質であり、祭りは宗教や政治に寄生されやすいが、宗教や政治がなくても成り立つし、ない方がもっと盛り上がる。

宗教は、肉体に「霊魂」を与えて肉体を救済する。そうやって「生命賛歌」をしながら、生きている人間を支配する政治を裏側から支えている。
それに対して祭りは、「もう死んでもいい」という勢いで盛り上がる。それは、「生命賛歌」である宗教や政治のコンセプトと根抵的に矛盾している。
神社に立てば、世界が物質存在であることを忘れて「気配」だけを感じる。すべては「気配」として目の前にあらわれている。すべては「からっぽ」なのだ。神社においては「生命賛歌」は成り立たない。
体を洗い清めるとは、体から肉を消し去って「からっぽ」の「姿」だけの存在になってしまうことだ。肉を持っていることは不浄なことであり、そうやって死を厭わない祭りの放埓や熱狂が生まれる。裸の「肉体」を止揚しているのではない。裸の「姿」を止揚している。
未開の民族は祭りのときにボディペインティングをするが、文明人だって入れ墨をする人がいる。それは、体を「からっぽ」の「姿」だけの存在にしてしまうことだろう。
人は、肉体の「不在証明(アリバイ)」として「衣装」をまとう。衣装は身体の「姿」の代替というか、純粋な「姿」としての存在であり、その下は「からっぽ」になっている。
人は、身体を「からっぽの空間」にしてしまう。それほどに「肉体」は、鬱陶しく居心地を悪くさせる。
そして身体が「からっぽの空間」になってしまえば、「霊魂」の居場所もなくなってしまう。
古事記神道でいう「神」や「霊魂」は、たんなる「姿=気配」のことであって、「実体」ではない。古事記の神の名は、すべて「姿=気配=はたらき」をあらわしているのであって、「実体」を持っていない。
「からっぽ」であることは「清浄」の極限のかたちであり、それは、肉体もこの生も「不浄」であり「けがれ」だという感慨の上に成り立っている。
生きる能力を持っていることは「けがれ」なのだ。この生の尊厳は「生きられないこの世のもっとも弱いもの」のもとにある。
神道の神は、生きられないからっぽの存在である。だから、天地のはじめに現れた五柱の神は、ことごとく姿を隠してしまった。
宗教を知らない歴史を歩んできた古代の日本列島の住民は、「生命賛歌」というものにどうしてもうまくなじめなかった。生きてあることの「嘆き」を手放しては生きられなかった。彼らにとってはこの生も肉体も「不浄=けがれ」であり、「霊魂」によってこの生や肉体を救済するということができなかった。この生や肉体を救済してしまったら、この生や肉体から解放される「祭り=みそぎ」のカタルシスは成り立たなかった。
古事記における「神」は、森羅万象の「姿」に宿って「実体」を「からっぽ」にしてしまう「はたらき=気配」として表現されている。そのとき古代人はもう、無意識のうちに神をそのようなものとして直感していった。
「もの(=実体)」は、「けがれ」なのだ。だから古代人は、妖怪や悪霊のことも「もの」といった。これが日本列島の伝統の世界観なのだが、近ごろの「生命賛歌」の風潮においては、「もの=実体=生命」を「神」として称揚してゆくところにこそ日本列島の伝統というか神道の真骨頂がある、というような言い方をする知識人が増えてきている。まあそれが自然であり森羅万象の本質であるといいたいらしいのだが、彼らは何もわかっていない。
日本列島の伝統的な世界観における自然=森羅万象は「姿」であって「もの=実体」は「けがれ」なのだ。
「巨石信仰」というのがある。それを神の依代(よりしろ)にしている古い神社がたくさんある。それは大きくて重量感があって、その「存在感=実体」に人々が神を見ているかのように誤解されがちだが、そうではない。大きくて重量感があるからこそ、それすらも「からっぽ」の「姿=気配」だけの対象として見てゆくところにこそ、「神に気づく」ことの醍醐味がある。それにしめ縄を巻くことは、その大きな重量感すらも「からっぽ」の「姿=気配」にしてしまう機能になっている。じっさいしめ縄を巻いただけで重量感が消えて「姿=気配」だけの存在に見えてしまうから不思議だ。それはきっと、われわれの体に宿る歴史の無意識のはたらきに違いない。

縄文人は、自分の体のことをどう思っていたのだろう。
現在よりもはるかに生きることが困難な時代であったのだから、意識しないですむはずがない。現在よりももっと強く意識したかもしれない。
土偶は、縄文時代の女たちの自分の体に対する意識の表現だった。それは、「体」を表現したのではない、「体に対する意識」を表現したのだ。
体を表現するためなら、もっとリアルに造形する。そういう技術は、遮光器土偶や火焔式土器の精巧な細工を見れば、ちゃんと持っていたことがわかる。しかもそれは、初期のものが女の裸だとすぐわかるような造形だったのに、だんだんそこから逸脱してきて、最後には宇宙人だともいわれるような遮光器土偶をはじめとして、女の裸とは似ても似つかないエキセントリックなかたちになっていった。
それはつまり「体のけがれ」の表現だったのだ。だから、必ずその一部を壊して土に埋めていた。部屋に飾るためのものだったのではない。最初から、土に埋めて「体のけがれ」をそそぐためのものとしてつくられたのだ。
それほどに彼女らは、「体のけがれ」を強く意識していた。山の中の閉塞した空間で生きにくい生を生きていたのであれば、意識しないはずがない。女はもともと体温の上下動が激しいとか毎月の生理があるとか、何かと身体の変調が起きやすく、どんな女も潜在意識においては、自分の体を呪いたいような感慨を抱えている。女は、男が賛美するほどには、自分の体に対する愛着は持っていない。
縄文時代には一夫一婦制の家族などなかった。古代においてさえ、基本的に男は家を持たない存在で、女の家を訪ね歩いたり女に養ってもらったりしていたのだ。であれば、縄文時代弥生時代に一夫一婦制というような安定した家族制度が機能していたはずがない。
まあ女だって、男がそばにいれば気がまぎれることもあろうし、セックスが「みそぎ」の行為になったりもするのだろうが、縄文時代の女子供だけになっている小集落で暮らしが停滞してくれば、よけいに体の鬱陶しさが募ってくるに違いない。
土偶や火焔式土器など、縄文土器のほとんどは女の夜なべ仕事としてつくられていた。男のいないさびしい夜は、避けがたくみずからの体の「けがれ」と向き合わされてしまう。
火焔式土器の装飾的な模様にはひとつひとつ呪術的な意味があった、などといっている縄文学者もいるのだが、ばかばかしい解釈だ。それは、あくまで装飾のための装飾であり、そこに呪術的な意味や効果があると信じられていたのなら日本中に広がってゆくはずだが、けっきょく新潟・長野、山梨・福島等の中部地方にかぎられた流行でしかなかった。その執拗な装飾模様は、たとえば男が不在のままの雪に閉じ込められた冬のいたたまれないようなくるおしさが表現されているのかもしれない。これでもかこれでもかと装飾してゆかずにいられなかった。こんな表現は、男にはできない。
縄文土器は、女の夜なべ仕事だった。
男が土器づくりに参加するようになるのは弥生時代になってからのことで、それとともに土器の様式も大きく変化した。
まあ平たくいえば、女は情念的で装飾的な表現をしたがるし、男は機能的でシンプルなかたちを追求する。
縄文土器は、そのころの女たちがどれほどなやましくくるおしい心模様で生きていたかということがよくあらわれている。縄文時代の女たちが、いつも男に守られて安定した家庭生活を送っていたのなら、縄文土器のあの芸術性は生まれていない。
まあ、異民族がやってこない土地柄だから女子供だけの集落が成り立ったのだろうし、男たちも、セックスは女に「やらせてもらう」ものだという自覚があり、力ずくでやってやろうという発想のない文化風土だった。
女たちは男に頼らず自立していていたからこそ、みずからの体の「けがれ」がひとしお身にしみたのだろう。男に頼っていたのなら、自分で自分の体の始末をつける、という意識も育ってこない。
日本列島における「女の体のけがれ」という認識は、男尊女卑の思想でそのように見るようになったのではなく、もともと女自身がそれを切実に意識していたからだろう。縄文・弥生時代の男たちに「女の体はけがれている」という意識などなかったはずだ。

浮かれ里というのか、山の中にセックスの相手をしてくれる女ばかりの里があるのは日本列島の伝統で、中世まではたくさんあったらしい。その習俗は、おそらく縄文時代からはじまっている。縄文時代の山の中の小集落は、ほとんどすべて女子供だけの集落であったのかもしれない。そしてそんな集落がたくさんあったということは、男たちも小集団で山道を旅するという暮らしをしていたということだ。 
縄文時代は驚くほど広い範囲に物が移動しているということが、考古学の証拠としてわかっている。多くの歴史家はそれを「交易していた」と解釈しているが、そんな経済活動は弥生時代になって「市(いち)」が生まれてきてからのことだろう。
縄文時代においては、ただもう、多くの男たちが広い範囲を旅して暮らしていたというだけのこと。
縄文時代の遺跡から掘り出される男の骨のほとんどは、足の骨が不自然に湾曲しているらしい。それは、アップダウンの激しい山道を歩いていたからだろう。趣味や遊びで歩いていたのではない。ほとんど一生、そんな暮らしを続けていたからだろう。歳を取れば、歳を取った女と一緒に暮らすということにもなっただろうが、若いうちは山道をひたすら旅し続けた。そうして、いろんな女たちとの出会いと別れを繰り返していた。
雪の降る季節は一か所に長逗留しただろうし、それもまたセックスに耽溺してゆく醍醐味があったのかもしれない。だから縄文時代は、青森の三内丸山遺跡をはじめとして、雪の降る地方のほうが人口が多かった。
縄文時代に物や情報が広い範囲に伝わっていたことは考古学の証拠としてわかっており、それは人が旅をしていたということだが、そのころに人が旅をするためにはそういう社会の構造がなければ成り立たないのではないだろうか。
一夫一婦制の家族制度がすでにあったのなら、そうかんたんには旅人は泊めてもらえないし、そういう安定した家族制度を基礎にして定住していたのなら、どんどん大きな集落になってゆくだろう。だが実際は、山間地の10軒程度の小集落が無数に点在していたのだ。
海岸近くはもう少し大きな集落もあったらしいが、川があるから旅ができるような道はなかった。旅ができる道は、すべて山道だった。
また、もし宗教(アニミズム)があったのなら、それによって結束できるから大きな集落になってゆく。
縄文人には、集団が結束できるような家族制度も宗教もなかった。だからこそ、見知らぬ旅人の来訪を受け入れることができた。
そして男たちがなぜ旅に出たかといえば、山の中の小集落で生まれてそこで暮らすことの「停滞=けがれ」が契機なっていたはずで、思春期になれば、そこからの解放に向かって自然にそんな衝動が起きてくるのだろう。
まあそんな小集落で育てば、同じ集落の女の子はみなきょうだいのようなものだから、性衝動の対象にならない。それに、近所の集落の娘の家に婿入りするといっても、そこもまた小集落の停滞した暮らしなのだから、一生そこで暮らすことはできない。そのような小集落ばかりの社会構造においては、男はもう旅に出るしかなかったのだ。女はその停滞に耐えることができても、男には耐えられない。
そんな小集落に一夫一婦制の家族があったなんて、考えられない。そこには、男が生きてゆけるような「社会」が存在しない。
いくつもの集落で「社会」を形成していた、という推測は成り立たない。女子供は山の中に入ってゆけないのだから。
縄文時代の山の中は、クマやオオカミやイノシシのものだったのだ。
そこは、女子供だけの集落になって旅する男たちの来訪を受けることによって、はじめて社会的な関係を持つことができる。一夫一婦制の家族をつくってしまったら、女子供はますます閉塞感を募らせて暮らさねばならなくなる。
とにかく、縄文時代に山の中の小集落が無数に点在していたということは考古学の事実なのだ。そこでの暮らしは避けがたく停滞し閉塞感に覆われていたはずで、女たちは、その「けがれ」を抱え込んだままそこにとどまって大人になっていった。そうしてあの芸術的な縄文土器を生み出していった。
日本人には細やかな芸術的感性があるとかなんとかといわれたりしているが、そういう感性は、宗教や安定した家族制度に守られながら生まれ育ってくるということはありえない。人類の文化は「生きにくさを生きる」ことによって生まれ育ってきたのであり、縄文人は、まさしくそのように生きていたのだ。
生きてあることは、なやましくくるおしい。
縄文時代の土器文化は、山間地がリードしていた。それは、そこが「けがれ」の意識がいっそう深くなる場所だったからであり、その意識こそが日本列島の伝統的な精神風土の基礎になっていった。

縄文人の「けがれの自覚」はおそらく非宗教的な意識であり、この問題は、次回にもう一度考えてみたい。この問題は一筋縄ではいかない。日本列島は「けがれの自覚」で歴史を歩んできたのだし、宗教に転んでしまえば「けがれ」を自覚しないで生きてゆけるようになる。つまり「神との関係」を結んで、他人を裁いたり支配したりすることになんの後ろめたさも持たなくなってゆく。また、その関係をよりどころにして激しく人を憎むようにもなる。まあ、現在の民族紛争などの激しさや残酷さは、そうやって起きているのだろう。
「神との関係を結ぶ」という心理機制は、ただ神を信じているかどうかという次元の話ではすまない。神を信じていなくても文明人はすでに心の底に「神との関係」を持ってしまっている。そうやって平気で人を裁き支配しようとする。
文明人は、誰もがすでに「神」を知ってしまっている。その存在を信じようと信じまいと、「すでに知ってしまっている」のだ。
それに対して縄文人は、誰もが「けがれの自覚」ともに、この世界のすべてを許していた。まあ、この世界のすべてを許さないと生きることができない条件のもとで生きていた。彼らは、「神」の存在を知らなかった。