移ろいゆくもの・神道と天皇(27)

世の歴史家の多くは、人類の歴史において知能や文化が進化発展すれば自然に「宗教」や「階級」や「共同体(国家)」が生まれてくると考えているらしいが、そうかんたんに決めつけてしまっていいのだろうか。思考停止ではないのか。今どきは、プロの研究者だろうとアマチュアだろうと、読んだ本の受け売りだけでものをいったり考えたりしているから、そういう安直な論説がまるで都市伝説のようにたちまち広がってしまう。
縄文時代に宗教(アニミズム)が存在していたという証拠などないし、弥生時代奈良盆地でたちまち人口が増えていったからといって、そこにはっきりとした「階級」や「共同体」の制度が定着していたと決めつけてもらっても困る。なにはともあれ「過渡期」の時代だったのだ。「戦争」のこともしかり、魏志倭人伝には、そのころの日本列島はたくさんの小国家が分立して争ってばかりいたと書いてあるらしいが、そんな考古学の証拠もまたありはしない。
環濠集落の環濠を戦争のときの防御のためのものだといわれたりしているが、環濠なんか戦争がなかった縄文時代の集落にもあったわけで、治水のためにそういう土木工事をするのが日本列島の伝統だったのだし、それが巨大前方後円墳の環濠へと発展していった。
まあ縄文集落の環濠は、オオカミやクマやイノシシの侵入を防ぐという目的はきっとあったのだろう。そしてその集落の多くは、山間地につくられた女子供だけの集落で、小さな子がむやみに敷地の外に出ていかないようにするという機能もあったのかもしれない。だから縄文人は、土器などで、驚くほどたくさんの子供の遊び道具をつくっていたし、「ままごと」とか「おはじき」とか「縄跳び」とか「めんこ」とか「コマ回し」とか「わらべ歌」とか「はないちもんめ」とか「かくれんぼ」等々の子供の遊びの文化はそのころからすでにいろいろ生まれてきていたに違いない。日本列島は、子供の遊びのバリエーションがことのほか豊かで、それは縄文以来の伝統なのだ。
縄文時代の子供たちの多くは山の中で暮らしていたが、山の中で遊んでいたわけではない。そこは、女子供にとってはけっして安全な場所ではなく、大人の男にしか分け入ってゆくことのできない場所だった。
縄文人にとって自然はけっして同化できる対象ではなかったし、支配することなんかできるはずもなかった。そりゃあ、近くの森や林で木の実や山菜を採集したり薪を拾ってきたりしてはいただろうが、その向こうはもう完全な「外」の世界、すなわち「他界」だった。その向こうはもう「存在しない」と思い定めて生きてゆくしかなかった。存在することがわかっていても、そう思い定めるしかなかった。少なくとも女子供にとってはそういうことだった。そのなやましさとくるおしさが、日本列島の伝統の基礎になっている。
古代人は、そのなやましさとくるおしさで『古事記』という物語を紡いでいった。
神は存在しないと思い定めて神と向き合う……それが神道なのだ。それはもう、縄文時代以来現在まで続いているこの国の伝統の世界観になっている。
カタストロフィというか、「消えてゆく」ということに対する視線。「存在しない」ということと向き合う視線。存在しないものを存在するかのように見るのではなく、「存在しない」ということそれ自体と向き合う視線。あるいは、存在するものを存在しないものであるかのように見る視線。そのような視線で神の物語を紡いでいったのだ。
だから古事記では、「死んだら何もない黄泉の国に行く」という。「天国」も「極楽浄土」も「生まれ変わり」も思わない。黄泉の国は存在するが、存在しない、と思い定めて生きる。べつに黄泉の国でなくてもかまわない。極楽浄土もまた、存在するが存在しない、そう思い定めて生きる。それが、日本列島の「無常観」の伝統なのだ。
別れた人はこの世のどこかに存在するはずだが、それでも心のどこかしらで「存在しない」と思い定めている。そうして、「今ここ」に存在する目の前のその人や世界が存在するもののすべてだと思い定めて生きている。
死んだら黄泉の国に行くのだけれど、それは黄泉の国に行かないで「今ここ」に「消えてゆく」ということでもある。日本列島の住民は、おそらく縄文時代からすでにそのようなアクロバティックな思考で世界観や生命観を紡いできた。
たしかなものは「今ここ」にしかない……四方を荒海に囲まれた日本列島で生きていればもう、避けがたくそういう世界観や生命観になってゆくしかない。そう思い定めなければ縄文人の女子供が山の中で暮らしてゆくことなんかできなかったはずだし、そう思い定めるからこそ、「今ここ」に豊かにときめいてゆくことができる。そしてそれは、けっして「宗教」にはなりえない。
宗教とは、「神」とか「霊魂」とか「死後の世界」とかの、わかりえないものをすでにわかっているかのように決めつけ信じ込んでゆく観念のいとなみである。しかし縄文人は、わかりえないものは「存在しない」と思い定めて生きていた。おそらく彼らは、「神」も「霊魂」も「死後の世界」も知らなかった。人間がそんなものを自然に思うようになってゆくなどとかんたんに決めつけてもらっては困る。縄文人のその「知らない=思わない」という思考は、宗教よりももっと高度なレベルの知性や感性のはたらきなのだ。すでにわかっているつもりになってゆくことのほうが、ずっと幼稚ではないか。それは、思考停止という名の思考でしかない。
だから、仏教伝来のときの日本列島に民衆は、まるごと仏教を信じてゆくことなどできなくて、あくまで非宗教的な神道を生み出していった。

縄文時代の一万年のあいだ、ほとんど人口は増えなかったともいわれている。これは、不思議なことだ。初期の縄文土器や石器は世界の最先端だったし、そんな人たちがずっと同じ場所で同じような暮らしを続けていれば、それなりに生きるための知恵や技術も進化して人口を増やしてゆくことができるはずではないか。
じっさい縄文文化は、どんどん移り変わって進化してきたのだ。その間に漆の精製や稲作を覚えていったし、福井県のヒスイが青森まで運ばれていったり、列島中で同じ様式の土器(たとえば土偶)を持っていたりして、人の往来も盛んな社会だった。それでも、ほとんど人口は増えなかった。それは、それほどに生きることが困難な生き方をしていたし、生きることそれ自体に価値など見ていなかったからだ。しかしだからこそ、「今ここ」に豊かにときめいて生きていたわけで、それなりに活性化し続ける社会だった。また、そうやって変容し続ける社会だったからこそ、スムーズに弥生時代に移行してゆくこともできた。
生きられなさを生きることが彼らの生き甲斐だった、と言い換えてもよい。人の心は、そこから華やぎときめいてゆく。
彼らの集団は、たえず離合集散を繰り返していた。三内丸山遺跡の集落が縄文中期には消えてしまったということは、何はともあれ離合集散の社会だったことを物語っている。その離合集散のかたちがどんなものであったかということを今ここで詳しく語ることはやめておくが、とにかくそれは「非宗教的」な社会だったのだ。
宗教は、集団の結束を生み出すためのものでもある。みんなが同じ神や同じ世界観を共有すれば結束してゆくに決まっている。しかし縄文人の集団には、そんな結束力はなく、つねに流動的だった。だから、三内丸山遺跡の集落がそのまま都市集落になってゆくことはなかった。
彼らは「今ここ」の向こうは「何もない」と思い定めることができたから、人と人の別れも受け入れることができた。未練たらしく思い浮かべたり追いかけたりということをしなかった。別れた人のことを思い出さなかったというのではない。「もういない」という「あきらめ」と「かなしみ」とともに思い出すだけで、その事実が受け入れられなくて悪あがきすることはなかった、というだけのこと。「ない」ものを「ある」かのように思い浮かべる宗教的な思考はしなかった、ということだ。
枯れすすきを見て幽霊だと思う……かんたんにそんなことを思ってしまっていたら、縄文時代の山の中の小集落で暮らすことなんかできない。そこでのまわりの世界はわけのわからないことに満ちあふれていたのであり、いちいち幽霊だの悪霊だの妖怪変化だのと思っていたら生きていられない。見えないものは「ない」のであり、その「ない」ということに対する「遠い憧れ」を紡いで彼らは生きていた。
古事記を語り継いでいった古代人だって、「神は存在しない」ということを神の存在証明にしながら神に対する「遠い憧れ」を抱いていたのであり、そのなやましくくるおしいイマジネーションの飛躍こそ、縄文時代の遺産だった。
それは、「宗教」でも「生命賛歌」でもなかった。

古事記は、けっして「生命賛歌」ではない。
神だってかんたんに死ぬし、平気で殺し合ったりする。神は「物質」ではなく、たんなる「姿」にすぎない。「物質=森羅万象」そのものではなく「物質=森羅万象のはたらき」を「かみ」という。
「かみ=かむ」というやまとことばには、「はたらき」という意味もある。
鳥は神ではないが、鳥が空を飛ぶ現象は「かみ」という。古代人はもう、無意識のうちにそんな思考の作法を持っていた。鳥や猪を殺して食うことはなんともないが、鳥や猪の「生態=姿」に対しては「かみ」として崇めていた。鳥や猪を殺すことは神を殺すことではない。神は鳥や猪の「姿」に宿っているが、もともと「存在」する対象ではない。「不在」であることこそが神の存在証明なのだ。鳥や猪を殺して食ってしまえば鳥やイノシシに宿っている神はいなくなってしまうのかといえば、そんなことはない。もともと「いない」のが「かみ」であり、殺して食ってしまうことそれ自体が、「かみ」に気づいてゆくことなのだ。
「かみ」というやまとことばには、「気づく」という意味もある。「かみ」とは、「気づく」体験のことであって、「対象」ですらない。手を合わせて拝む対象であると同時に、拝む対象ではない。そのとき人は、「存在しない」ということそれ自体と向き合い、「存在しない」ということそれ自体に手を合わせている。
日本列島の住民の「かみ」に対する認識の仕方というか心の動きはとてもややこしく、しかもそれを、意識することなく無意識のままにしている。
「かみ」というやまとことばの中心的な意味は、「気づく体験」ということにある。
神社の祝詞で神を拝むときの枕詞として「懸(か)け巻(ま)くも畏(かしこ)き」というのを、一般的には「口に出して言うのも畏れ多い」と訳されているのだが、そのあとすぐ神の名を詠み上げるわけで、それはおかしい。畏れ多いのなら口に出すな、という話だろう。
「畏(かしこ)き」が「畏れ多い」という意味だとしても、「懸け巻くも」は「あまねく遍在する」というような意味ではないだろうか。「懸ける=覆う」で「巻く=塞ぐ」、「覆って塞ぐ」とは「あまねく遍在する」ということ。そしてここでの「どこにでも存在する」ということは「どこにも存在しない」ということでもある。「実体」として存在するのなら、一か所にしか存在することができない。「非存在の存在」だからこそ、どこにでも存在することができる。神はどこにも存在しないがどこにでも存在する。「われわれのいるこの場所はすっかり神の気配に覆われている」……それが「かけまくも」であり、そういう感慨を込めて神の名を詠み上げているのではないだろうか。
人の心のはたらきのもっとも原初的で、かつ最終的な体験は、「気づく」ことにある。古代の奈良盆地の人々は、その「神の気配に気づく」という体験を持ち寄りながら古事記という物語を紡いでいった。そしてそれが、「実体」ではなくあくまで「気配」だったということは、「実体」としての「生命」を止揚するのではなく、それを超えてゆくところに「神」という概念を見ようとしていたということを意味する。

命なんか、鬱陶しいばかりなのだ。縄文時代からはじまって、日本列島の住民はずっとそう思って歴史を歩んできた。
命から解き放たれて命を超えてゆくところにこそ生きた心地がある。
この生の非日常性。
しかし政治も宗教も、人の心を命の中に閉じ込めてしまう。そうやって「生命の尊厳」だの「永遠の生命」だのと合唱している。
われわれは、そういう世界観や生命観とうまくなじんでゆくことができない。まあ戦後の輸入思想においてはそういうことが称揚されて、マスコミ社会では大いに合唱されてもいるわけだが、それでもわれわれの潜在意識というか歴史の無意識においては、そんなことを聞かされても何かしら上の空なのだ。
このような時代状況は、千五百年前の仏教伝来のときと似ているのかもしれない。
日本列島の伝統においては、命が「はかない」というそのことが救いになっている。それは命の「実体」ではなく、「姿=気配」を祝福してゆく文化なのだ。変わらない「実体」ではなく、移り変わる「姿=気配」がめでたいのだ。
縄文社会の人と人の関係はたえず出会いと別れを繰り返して流動的だったし、山の天気もめまぐるしく変化する。日本列島では、そういう暮らしを一万年も続けて歴史を歩んできたのだ。「移り変わる」ということ和解しなければ生きられなかったし、「移り変わる」というそのことこそが救いだった。そういう世界観や生命観を持ってしまえばもう、「生き延びる」とか「死後の世界」ということなど、どうでもよくなってしまう。というか、そういうことが思い浮かばない。日本列島では、思い浮かばないまま仏教伝来までの一万年以上の歴史を歩んできたのであれば、その後のたった千五百年でそうかんたんにその世界観や生命観が変わるわけがないし、変わりたがらない神道というもうひとつの文化を守り育ててきた。
われわれは、「生命の尊厳」とか「永遠の生命」などといわれても、よくわからない。