「自我=主体」などというものはない・神道と天皇(26)

宗教を信じることは、おそらく「自我=自意識」の問題だろう。
「自我の目覚め」とか「自我の確立」とか、何かそれが人間性の本質か自然であるかのようにいわれることも多い。「自我」とか「主体性」という概念を否定してしまったら、現在の多くの哲学や心理学は成り立たなくなってしまうし、それをみずから存在のよりどころにして生きている人も多いことだろう。内田樹などはまさにそんなひとりで、大切なのは「自尊感情」なんだってさ。
彼らは、「正しいと信じる(=わかっているつもりでいる)」その過剰な自意識を手放したくないらしい。今の世の中にはそういう「信仰心」を欲しがっている人がたくさんいるわけで、ある意味で昔よりもずっと迷信深くなっているともいえる。
僕なんか、何もかも疑ってしまって、いつも「お前とは一緒に歩めない」と人にいわれるんだけどさ。しかしまあ、それはこちらのいいたいセリフでもあるわけで。
「自分は正しく生きている」とか「自分は幸せである」とか、そんな「自我意識=信仰心」が人を生かしているというか、それがなければ人は生きられないと彼らは思っているらしい。
そんなことをいっても、正しかろうが間違っていようが、幸せであろうがなかろうが、「こうしか生きられない」とか「こうせずにいられない」という生のかたちもある。そしてそのように生きれば世の中は人殺しや泥棒ばかりになってしまうかといえば、おそらくそうはならない。
人の心は、この世界の輝きにときめいてゆく。
性善説」と「性悪説」、ということだろうか。内田樹をはじめとして、だいたい自意識が強くて正義ぶって作為的に生きている人は「性悪説」に凝り固まっている場合が多い。そうやって正義ぶる自分の作為を正当化している。彼らは、心の底に人に対する恨みや憎しみを抱えているから、正義ぶって作為的に生きていないと、そうした恨みや憎しみが暴走してしまうらしい。まあそれほどでなくても、「自分は正しく生きている」という自覚を抱いた世渡り上手の人がほとんどの世の中かもしれない。彼らの思考や行動はすべて自我による作為で、自分を忘れた「こう思わずにいられない」とか「こうせずにいられない」というような体験はない。
今どきはそうした「自我」の強い人ばかりの世の中で、彼らのように「自我」を「確立」してゆくことが人の道なんだってさ。
たしかに文明社会では、自我を確立していないとうまく生きられない。しかしそれが人間性の自然・本質であると、はたしていえるだろうか。
すべてが作為でそうやって「主体的」に生きているつもりでも、じつはそれ自体がただ時代や文明社会の制度性に踊らされているだけのことだったりもするわけで、僕はまあ、「主体」などという言葉をもったいをつけて振りかざしている思想家や哲学者のいうことなんか信じない。

命のはたらきは、人の思惑とは無縁のところで起きている。文明社会は、命のはたらきが豊かなものが生き延びられるのではなく、生き延びようとする欲望を膨らませているものが生き延びられるような構造になっている。そして、生き延びようとする欲望を膨らませることによって、命のはたらきも心のはたらきも停滞・衰弱してゆく。
自我が強ければ世渡り上手や幸せになれるが、人間的な知性や感性が、そういう人間により豊かに宿っているというわけではない。そういう心のはたらきに目覚め、そういう心のはたらきを確立してゆくことが、人の心の成長発達の自然であるのか。「主体的」であることがそんなに偉いのか。冗談じゃない。心は、「主体的」になることによって、世界に対する「反応」としての知性や感性を停滞。衰弱させてゆく。そうやって文明社会の構造(制度性)にからめとられた「大人」になることによって、顔つきや命のはたらきまでもみすぼらしくなってゆく。
美しいものや魅力的なものにときめくことができる心は、醜いものに耐えることができない。醜いものをやり過ごすことができるということは、そのぶん美しいものや魅力的なものに気づいてゆくことにも疎くなってしまっていることを意味する。そうやって世渡りの知恵を持つことは、その自我とともにみずからの正しさや幸せに充足しながら、しかしそのぶんだけ「反応」する知性や感性が後退してしまっている。
宗教や政治は生命賛歌をしてゆくことよって、人に生き延びようとする欲望を持たせ、人を支配してゆく。生き延びようとすることも「正しく生きている」と自覚することも、支配者や神の思うつぼなのだ。文明社会は、人にそのような欲望を持たせるような構造になっている。
人が生き延びようとしたり正しく生きようとしたりしなければ、神であれ社会制度であれ、その支配の構造は成り立たない。
しかし人の心の自然は、この生や自分を忘れて、「もう死んでもいい」という勢いでこの世界の輝きにときめいてゆく。赤ん坊や子供の心や命のはたらきは「もう死んでもいい」という勢いでときめきながら成長発達してゆくのであって、生き延びる知恵を身につけてゆくのではない。そんなことは、大人になってから覚えるのだ。いいかえれば、早い段階からそんなことに目覚めてしまうと、どうしても鈍感になってしまって、子供らしい生き生きした表情が失われてゆく。それはつまり、早い段階から神や社会の構造に支配されてしまっている、ということだ。

生きものの命は、環境世界の条件の範疇で、環境世界に支配されてはたらいている。この生や自分を忘れて環境世界に「反応」してゆくことが命のはたらきであって、この生や自分に執着しながら生き延びようとする自我の欲望をたぎらせることではない。
われわれは根源において支配されやすい存在であり、神や文明社会の制度性によって、主体的であるように支配されているだけではないのか。
この命も、この心も、環境世界に支配されてはたらいている。「主体」などというものはない。あるとすれば、「環境世界」が「主体」なのだ。宗教を知らない歴史を歩んできた古代人はそのことを無意識のうちに知っていたし、文明社会の中ですでに「宗教的」になってしまっているわれわれ現代人は、そのことがよくわかっていない。古事記を読むと、そういうことがつくづく思い知らされる。
生きものとしての命のはたらきの支配に身をまかせながらこの世界の輝きに豊かに「反応」してゆくか、それとも神や社会制度に支配されながら生き延びようとする欲望をたぎらせ世渡り上手になってゆくか、そういう問題だろうか。
人は自我によって生きている、という人間理解なんか、ただの幻想だ。神や社会制度によって生き延びようとさせられているだけの話さ。まあ社会制度も貨幣も神のようなもので、現代人は神に支配されて生きているともいえる。その「主体性」とか「自我」とか「自意識」が、一種の奴隷根性なのだ。
ひとつの病理として「自我」という概念が成り立つとしても、それが人間性の自然だとはいえない。子供はそんなものに目覚めて成長してゆくのではないし、人はそんなものをこの生の根拠として生きているのではない。

日本列島の歴史で最初に「都市」といえるほどの大きな地域集団が生まれてきたのは、弥生時代後期から古墳時代にかけての奈良盆地であったはずだ。
そこは、日本中から人が集まってくるいわば「聖地」のような場所で、集団の規模が他の地域の集落とは圧倒的な差があったらしい。
魏志倭人伝」にはそのころたくさんの小国家が分立していたと書かれてあるらしいが、おそらくそれは嘘だ、「国家」といえるほどの、ちゃんとした政治組織を持った大きな集団は、奈良盆地にしかなかった。
たくさんの小国家が分立して競い合っていたのなら、そうかんたんに統一なんかできない。そのあと日本列島全体がたちまちひとつの国家になっていったということは、奈良盆地大和朝廷の独り勝ちだったことを意味する。
とにかくそんな大きな集団の中で暮らせば、人と人の関係の「けがれ」はどうしてもたまっていってしまう。つまり、「自意識」が芽生えてくるということだ。
自意識は、人と人の関係の中から生まれてくる。集団の中に置かれてあるから「自分」というものを意識する。自意識=自我とは集団の中の「自分」を安定したものにしようとする欲望のことで、現代人は、そうやって人にちやほやされたいとか承認されたいとかという欲望を募らせてゆく。
神との関係を結んで他者を裁き支配してゆく……他者を裁き支配することは、神との関係を結ぶことの上に成り立っている。神を信じていようといまいと、文明人は、そういういやらしい心理を潜在意識として持ってしまっている。「自我の確立」とか「主体性」というのはようするにそういうことで、キリスト教徒やユダヤ教徒である西洋人は、そういう潜在意識を共同幻想として共有している。
「近代自我」というのだろうか、そういう潜在意識が戦後のこの国にも移植されてゆき、人や世の中を裁き支配したがる人間がどんどん増えていった。それが、「戦後民主主義」というものの正体らしい。彼らは、正義ぶって、人や世の中を裁き支配することばかりしたがる。
自意識の強い人間は、心の中に「神との関係」を持っている。そうやって人を裁き支配しようとし、自分もまた神に裁かれ支配されている。聖書などは、まさにそういう物語ではないか。
リチャード・ドーキンスは、神を信じなくなればそれでオーケーだというようなことをいっているが、この世の中はそんな単純な話ではすまない。神を信じようと信じまいと、この世に国家共同体が存在する限り、人の心の底(=潜在意識)では「神との関係」が作用し続けてゆくのだ。ドーキンスを信奉する科学者の人には悪いが、彼だってそういう「神との関係」のもとでの「自我=主体信仰」で「生命賛歌」をし、遺伝子のはたらきのことを「利己的」といっているだけのことさ。遺伝子のはたらきにそんな「主体性」などあるものか。
旧約聖書の神は、熱心な信者であるアブラハムに息子を生贄として差し出せと命じ、アブラハムは「はいわかりました」といってそうしようとする。それで、「神との関係(=信仰)」が確立する……なんとグロテスクでえげつない話であることか。
集団の中の「自分」を確立し安定させてゆくこと、それが「自我の確立」であり、宗教が持っている本質的な機能なのだ。
では、古事記もまたそういう物語になっているだろうか。
古事記の書き出しの神々は、「天之御中主神」をはじめ、ことごとく隠れて(消えて)しまった。それは、そのころの奈良盆地の人々による、「神との関係は持たない」というこの生の流儀の表明だった。彼らには、そういういわば「宗教的」な自意識はなかった。
もちろんそのころの奈良盆地の人々だって自意識がなかったわけではない。生きていればというか、国家制度が整備されつつあるそんな「憂き世」に身を置いていれば、避けがたく「自分」というものを意識してしまう。しかし彼らにとってそういう自意識はひとつの「けがれ」であり、それをそぎ落としてゆくことが「みそぎ」の作法だった。彼らは、心の中に「神との関係」をつくろうとしなかった。そうやって「天之御中主神」は隠れて(消えて)いった。彼らにとっての「かみ」は、つねに森羅万象の「姿」の中に隠れていた。もう無意識のうちに、「神との関係」をつくって心がこの生に居座ってしまうことを避けていた。神との関係が断絶してあることこそ、正常で清浄な神との関係だった。
古事記は、心の中に「神との関係」を持ってしまうほかない時代状況に置かれた人々による、「神との関係」をそぎ落とすための神の物語だった。
本居宣長の『古事記伝』は、古代人の生のそうした「切実さ」というか「かなしみ」というか「なやましさやくるおしさ」に届いているだろうか。僕は、届いているとは思わない。彼もまた、「神との関係」を持ってしまった「江戸時代的な自我」でそれを語ってしまっている。