サディストは感動しない・ネアンデルタール人論219

このところネアンデルタール人とは何の関係もないことばかり書いているように思われそうだが、人類史における「文明の発祥以前と以後」という問題はあるはずで、その断絶と連続性を検証することは人間性の普遍について考えることになるのではないだろうか。
たとえば人と人が殺し合う戦争などというものは文明の発祥以後のことで、原始時代からなされていたものだとは思えない。
戦争というサディズム、人が人を裁くというサディズム、それは文明の発祥以後に共同体の制度性によって培養されてきたのであり、原始人とは無縁の心の動きだったのではないだろうか。
戦争とか殺人とか強姦とか略奪とか支配とか侵略とか、そうした「人間的」といわれている凶暴凶悪な生態は、文明が生み出したのであって、原始性でも普遍的な人間性でもなんでもない。そうした衝動が、人間なら誰の心の底にも宿っているというわけではないのだ。
それは、人類史の真実ではない。
人類はもともと「生きられない弱いもの」として歴史を歩んできたわけで、その「生きられなさ」の渦中に飛び込んでゆくメンタリティというか生態によって人間的な文化の進化発展がもたらされた。それがまあ原始時代の歴史で、生存原理としての弱肉強食のサディズムに目覚めたのは、氷河期明けの文明発祥以降のことだ。
この地球上で、「万物の霊長」という地位を獲得したからだろうか。それが文明の発祥であり、そうして生きる能力を持った強いものに憧れ、強いものになりたがり、生き延びることに執着するようになってきた。
サディズムとは生き延びようとする衝動であり、生き延びるために邪魔な存在を排除しようとする衝動だ。
生き延びようとすることはただの自意識で、べつに生きものとしての本能でもなんでもない。
そして「生き延びる」といっても、命のことというより、自意識=自我が生き延びたいのだ。だから、自意識=自我が生き延びるために自殺する人もいる。彼らは、自意識=自我を捨てて生きてあるというなりゆきに身をまかせるということができないし、自意識=自我が生きることのじゃまになるから憎悪するのだ。そういう自意識過剰の人は、あんがい命のはたらきが弱い場合が多い。自分で自分の命のはたらきをぎくしゃくさせてしまっている。

まあ、20世紀のもっとも有名なサディストはあのヒットラーになるのだろうが、許さないこと、すなわち彼ほど熱く激しく憎悪しきった人間もいない。ひたすらユダヤ人を憎悪した。その熱っぽさに民衆が引きずられていった。
ユダヤ人の何が許せないとかという以前に、彼の生のエネルギーは憎悪の感情によるサディズムの上に成り立っていたのであり、憎悪をたぎらせるための対象としてユダヤ人を選択しただけのことだったのかもしれない。大衆をひとまとめにして支配するためには憎悪の対象を持たせることが必要で、もしユダヤ人がいなくなればそれに代わる対象を探さないといけない、などといっている。そうやってユダヤ人や連合国に対する憎悪を熱っぽく煽った。
人は、憎悪の対象によってみずからの生の正当性や集団の結束を確認してゆく。
共同体の制度性は、憎悪の感情を培養する。憎悪の感情こそ、サディズムの温床だ。
ヒットラーは、もともと芸術志向で政治家になることを目指していたわけではなかったが、第一次世界大戦に一兵士として参加し、目が見えなくなる負傷を負ったときの敵に対する憎悪の感情とともに政治に目覚めていったといわれている。
サディズムは、手段を選ばない。理不尽な方法であればあるほど、その正当性の確認になる。
第一次世界大戦の敗北に打ちひしがれていたドイツの民衆は、みずからの正当性を確認することに飢えていた。戦勝国であるフランスやイギリスから押し付けられた賠償金は天文学的数字だったし、経済の不況はさらに深刻化の勢いになり、出口が見えないほどに追いつめられていた。ユダヤ人を排除せよというヒットラーの扇動にすがりついてしまうくらい追いつめられていた。
人はもともと、憎悪の感情を、人間性の自然として持っているのではない。追いつめられて、いつの間にかそういう感情を培養されてしまうのだ。
あのときのドイツ国民だけではない。この平和で豊かな国のわれわれの、たとえば自分の思うほど人から好かれないとか認めてもらえないという自意識過剰の苛立ちだって、それなりに追い詰められている状態であり、そうやって失恋とか失職とか病気とかの挫折体験という自意識(自尊感情)の危機を契機に一気に憎悪の感情が爆発したりする。
過剰な自意識によって、憎悪の感情がふくらむ。憎悪の感情によって、その「挫折=自意識(自尊感情)の危機」を克服しようとする。自分を守ろうとする。憎悪=サディズムとは、自意識(自尊感情)の延命に対する執着なのだ。
生き延びようとする自意識は、命が生き延びたいのではない、自意識それ自体が生き延びたいのだ。彼らは死んでも自意識(=霊魂)だけは残ると信じているし、自意識(=霊魂)の安定を保つためなら手段を選ばない。そのためなら自殺だって厭わないし、自意識(=霊魂)の安定を妨げる対象は許さない。徹底的に憎悪する。
憎悪の感情なんて、ほとんどない人もいる。誰の中にもある、というわけではない。生まれたばかりの赤ん坊に、そんな感情などない。それは、文明社会の仕組みによって培養されてゆく。自己の存在の正当性に執着した自意識がフラストレーションを起こしながら、次第にふくらんでゆく。そうやって、彼らは彼らなりに追いつめられている。
人は、何かに追いつめられることによってサディストになる。サディストは傍若無人だが、何かに追いつめられている。いつもサディスティックな不良だろうと、突然サディストに変身する人格者だろうと、彼らの心は何かに追いつめられている。
ヒットラーだって、目が見えなくなる、という事態に追いつめられながら憎悪をたぎらせていった。そのとき彼は、その運命を受け入れることができなかった。できないくらい追いつめられてしまった。憎悪をたぎらせることでしか、生きていられなかった。
生きてあることは何かに追いつめられることではあるが、少なくともイノセントな心模様とともにある幼少期において、誰もがそんな恨みがましさを募らせながら生きているわけでもあるまい。
認めてもらえないから恨みがましさがふくらむとはかぎらない。認めてもらいたいというか、この生が正当なものであらねばならないという自意識が強すぎるから、恨みがましくなる。
身体障害者は、みずからの生のかたちの喪失感や無力感と和解しなければ生きられない。まあ人間なんて、本質的にはそういう存在であり、「生きられない弱いもの」なのだ。しかし自意識の強いサディストたちは、そういう喪失感や無力感を徹底的に排除しようとする。そんなふうに感じてしまうことに耐えられない。耐えられないほどに追いつめられている。

この生が正当なものであらねばならないとか、充実したものであらねばならないとか、どうしてそんな恨みがましいことを思うのだろう。イノセントな子供は、そんなことなど何も望んでいない。ただもう無邪気に自分を忘れ、目の前の世界や他者に「反応」して生きているだけだ。
人間性の基礎は、自分を忘れて何かに夢中になってゆくことにある。そうやって心が華やぎときめいてゆくことのダイナミズムが人類史に進化発展をもたらしたのであって、べつに生き延びたいとかこの生の正当性wwを獲得したいとかというようなスケベ根性によるのではない。
いいかえれば、どんなに自己実現のためにあくせく頑張っても、その知能も行動力も、自分を忘れて夢中になっている人の華やぎ=ダイナミズムにはかなわないのだ。二流と一流の差は、そこに出る。
人類拡散は、人と人がときめき合うことのダイナミズムにによってもたらされたのであって、生き延びようとかよりよい暮らしがしたいというような俗っぽいスケベ根性によるのではない。そういう上昇志向が人類の歴史をつくったのではないし、上昇志向だけでは限界がある。つまり、人間性の本質は「能動性」にあるのではないということ、誰の心の中にも先験的な憎悪やサディズムが宿っているのではない。それは、後天的に培養されてゆく
人間性の基礎は、他愛なくときめくこと、感動すること、自分を忘れて何かに夢中になること、そうやって世界や他者の輝きに「反応」してゆくことにありそれによって人類の文化は進化発展してきたのだ。
誰の心の中にも、自意識(自尊感情)の延命に執着した憎悪やサディズムが宿っているというわけではない。われわれは彼らほど能動的ではないし、挫折したって、彼らのように「何がなんでも認めない、許さない」と思うような追いつめられ方はしない。それほどのプライドなんかない。仕方ないなあ、とあきらめる努力をする。
今どきの若者は、世の大人たちに深く幻滅しているが、「許さない」と思うような憎悪は持っていない。
若者を非正規雇用というかたちでこき使うことばかりしていると、いずれ若者たちの怒りが爆発する……などといわれるようになって久しいが、現在の彼らがそこまで「追いつめられている」ふうにも見えない。状況がなんであれ、彼らは自我が薄いから、そこまで追いつめられていないらしい。怒るほどの上昇志向はない。
彼らの怒りを組織することはできない。音楽やファッションやアニメなどで「感動=ときめき」が連鎖するムーブメントが起きることはあっても。
人だけの話ではない。生きものは、「生存戦略」というサディズムで進化してきたのではない。命のはたらきは世界の輝きに「反応」してゆくことにあり、その「感動=ときめき」こそが進化をもたらしてきたのだ。
ヒットラーは徹底して「生存戦略」に邁進した。そんなに生き延びたければ、ヒットラーから学ぶがいい。まあ、胃のはたらきが鈍いから、「ときめき=感動」が薄いから、「生存戦略」に執着するのだ。
生きものも人も、「もう死んでもいい」という勢いでときめいてゆくことによって進化してきたのだ。