他愛ないときめき・ネアンデルタール人論220

文明社会にうごめいているサディズムというのは、ほんとにやっかいだと思う。それが人間性の本質だというわけではないはずなのに、社会の仕組みによってしらずしらず誰の中にも培養されてしまっている。
しかし、誰もが同じだけ持っているというわけではない。ほとんどないかのような人もいれば、ヒットラーのように気味悪いほど濃密な人もいる。また人それぞれの生きてある状況によって、サディズムが強く湧いてくるときもあれば、ほとんど無縁でいられるときもある。
そして、サディズムが強いから生命力も旺盛だとはかぎらない。ヒットラーなどはどちらかというと虚弱体質だったのだろうし、強いサディズムの持ち主は、あんがいそういうタイプの人に多いのかもしれない。彼らは、命のはたらきも心のはたらきも、ぎこちなくてぎくしゃくしている。硬直しているというか、彼ら自身がこの生から追い詰められている。その状態から解放されようとしてサディスティックになってゆく。
人を攻撃して、人が苦しむのを見て舌なめずりしながら喜んでいる。そうやって自分の命や心の正当性や活力を確認しているのだろうか。彼らにとってこの世界は輝いていてはならない。輝いているべきは、あくまで自分の命や心なのだ。
サディスティックな人間にとっての世界は輝いていない。彼らはつねに世界や他者を警戒し、監視している。そうしてそんなくすんだ色の世界から追いつめられてもいる。その恐怖と不安から解き放たれようとしてサディスティックになってゆく。彼らは、世界に復讐して生きている。恵まれたエリートだろうと下層の庶民だろうと、彼らは、攻撃的でプライドが高く、徹底した自己中心で、いじめ好き、そんな傾向が強い。現代社会には、そんなルサンチマンを抱えた人がどの階層にもいるし、リーダーがそんな人間であるとみんながそんな傾向になってゆく、という場合も多い。誰もが自己中心のくせに、誰もが監視し合っている。監視する、というサディズム。何かあったら難癖をつけていじめてやろうと付け狙っている。そんな空気が、学校にも職場にもこの社会全体にも蔓延しているとしたら最悪だ。政治の世界にしろ経済の世界にしろ学校にしろ家族にしろ、そんなサディスティックな空気にしてしまうリーダーや大人たちがのさばっている世の中なのだろうか。けっきょく声高な人間(=サディスト)に世の中が引きずられてしまう。その点においては、ヒットラーのドイツも現在のこの国も、たいして違いはない。まあ、人の世はいつの時代もそんなものかもしれない。
サディズムとは自尊感情に執着したひとつの強迫観念であり、ニヒリズムであり、そうやって人はときめく心を失ってゆく。ときめく心を失いつつ、その自尊感情を満足させるために、人にときめかれたくてうずうずしている。そうやって、人の心を支配しにかかる。支配することによってしかときめかれるすべはないし、支配しようとするからときめかれない。今どきの大人たちが若者から幻滅されているのは、そういう構図になっているのではないだろうか。支配することに成功している大人もいれば、失敗を繰り返している大人もいる。強い立場にいれば支配できるが、そこでは誰もときめき合っていない。その予定調和の関係に執着し合っているだけのこと。仲良くしているが、ときめき合っているのではなく、たがいにその関係を繕い合っているだけのこと。そうやって世の人間関係がぎくしゃくしてゆく。仲良くしつつ、じつはぎくしゃくしている。
われわれは、平和で豊かな社会を生きつつ、しかしこの世界の色はくすんでいる。輝いていない。
ヒットラーがあんなにも熱狂的に支持されたということは、それほどに人々がときめく心を喪失していたということであり、そうやって熱っぽく執着してゆくことによってときめく心の喪失を補完していただけのこと。そうやって「憎悪」を共有しながら盛り上がっていただけのこと。

この国の今どきの「ネトウヨ現象」だって、「憎悪」のサディズムを共有しながら盛り上がっている。一方の左翼的な市民運動にしても、原発反対だの戦争反対だのという不安や恐怖や怒り等のネガティブな感情を共有することを組織しようとしているだけであり、ともあれ左翼も右翼も、いまいち大きなムーブメントにはなりえていない。
現在のこの国では、政治的な結束を組織しようとしてもうまくいかない。それは怒りや憎しみのサディズムを組織するということであり、フランス革命ロシア革命などで王殺しを体験しているヨーロッパと違って、ずっと天皇を祀り上げて歴史を歩んできたこの国の伝統風土はもともとそのようにはなっていない。
僕自身はべつに天皇を神として崇めているわけでもなんでもないが、ともあれ天皇を祀り上げることは、怒りや憎しみを組織することではなく、むしろマゾヒスティックな「あはれ」や「はかなし」といった「喪失感=嘆き」を共有してゆくことであり、共有しながら他愛なくときめき合ってゆくことにある。
天皇ほどイノセントなときめきを生きている存在もないし、この国では、イノセントなときめきを組織できなければ大きなムーブメントにはならない。ヘイトスピーチが問題だとマスコミが騒いでいるけど、けっきょくしりすぼみで、彼らネトウヨは、あんなにも憎悪のサディズムをたぎらせて、天皇に対して恥ずかしくないのかねえ。
江戸時代の「ええじゃないか」とか「おかげ参り」は、ひとつの「世直し」を願って民衆が集団で浮かれ騒いで練り歩く全国的なムーブメントだったわけだが、そうやってイノセントなときめきで集団が盛り上がることは、中世の一遍という僧侶に率いられた「踊念仏」以来のこの国の伝統でもあるのかもしれない。それらは、政治的な一種の「デモ行進」だった、といえなくもない。しかし「世直し」といっても、ひとりひとりはただもう浮かれ騒いでいただけで、無邪気に遊び呆けて生きていたかっただけのこと、無常ということ、「一期は夢よ、ただ狂え(閑吟集)」ということ、良くも悪くもそういう歴風土なのだ。
この国では、「イノセントなときめき」を組織できなければ大きなムーブメントにならない。いやまあそれは、普遍的に世界中どこでもそんなものかもしれない。そこにこそ人間性の自然があり、ネアンデルタール人はそうやって「もう死んでもいい」という勢いの「イノセントなときめき」を組織しながら、自然のサディズムそのものである氷河期の極北の荒野で暮らしていた。
格差社会とか非正規雇用とか貧困とか孤独死とかいじめとか発達障害とか家庭内暴力とか、さらには大地震等の自然災害も頻繁に起きている。生きられない、明日も生きてある保証なんかどこにもない。そんな気分の中でわれわれは、この社会この時代に蔓延するサディズムをどう克服してゆけばいいのか。ネアンデルタール人の社会や暮らしは、その一つの答えになっている。
とにかく、世の政治家や金持ちやマスコミ知識人やがどんなにエラそうなことをいっても、「イノセントなときめき」を持っているものには、知性的にも感性的にも人間的な魅力においてもかなわないのだ。「もう死んでもいい」という勢いの自分を忘れた「イノセントなときめき」こそがわれわれの希望であり、べつに自分に執着して生き延びようとする欲望をたぎらせることなんかではない。
何度でもいう。生きものの命のはたらきは、「もう死んでもいい」という勢いの「イノセントなときめき」として起きているのであって、スケベったらしい生き延びようとする欲望によるのではない。とくにこの国では、そんな欲望を組織しようとしてもけっして大きなムーブメントにはならないし、多くの若者たちの心をとらえることはさらにない。

近ごろ「君の名は。」というアニメ映画が爆発的な大ヒットをしている。ストーリーそのものはライトノベル感覚の他愛ないものだが、思春期の若者の「イノセントなときめき」をみごとに掬い上げ表現しているところがヒットの要因になっているのだろう。「かわいい」の文化現象、そのジャパンクールの真骨頂がここに示されているのかもしれない。
「かわいい」=「イノセントなときめき」こそ、日本列島の伝統風土なのだ。
この映画をつくった新海誠監督は、現在42歳で、ホリエモンと同じ「団塊ジュニア」の世代だ。どうしようもなく切ない「イノセントなときめき」を表現する新海誠監督と、すれっからしの拝金主義者であるホリエモン、そしてサディズムに取り憑かれたあの「酒鬼薔薇事件」の少年の親たちも団塊世代だったわけで、ようやくここで団塊ジュニアの旗手が勢ぞろいしたということだろうか。
君の名は。」の少し前に大ヒットしたのが「シン・ゴジラ」という映画で、ゴジラ現代社会のサディズムの象徴であり、それに対する恐怖をこの上なくリアルに表現していた。
われわれは今、この社会に蔓延するサディズムに対する恐怖を共有している。だから「シン・ゴジラ」が大ヒットした。サディズムは、高度な文明社会で暮らすわれわれひとりひとりの中にも潜んでいる。そのサディズムをどう克服してゆけばいいのかということの答えが、「シン・ゴジラ」と「君の名は。」という映画で提出されているのかもしれない。
まあ。東日本大震災等の自然災害も、ひとつのサディズムに対する恐怖であり、前者はそれをゴジラで象徴し、「君の名は。」は隕石の落下であらわしている。
ともあれ、「君の名は。」は、「シン・ゴジラ」の倍以上の興行収入になるだろう。サディズムにどう対処するかという問題もあるが、「君の名は。」は、サディズムが起きないような「イノセントなときめき」持ちたいものだという人々の願いに訴えかけてきた。
「ときめき=感動」がなければ生きられないし、それがあれば生き延びることができなくてもかまわない。そうやって人は、生きて死んでゆくのではないだろうか。