自尊感情という不自然・ネアンデルタール人論80

社会の底辺まで下りてゆけば、人間なんてどうしてこうも下品で鈍感なのだろうとうんざりさせられるし、そこでこそ宝石のような存在の輝きに出会うこともある。それはもう、この社会の最上層のところに昇っていってもきっとそうなのだろうし、その中間のマジョリティの世界においても変わりはない。
世の中には、いろんな人間がいる。自分が人間のスタンダードだと思うことはできないし、そもそも人間のスタンダードなどというものはないのかもしれない。人と出会ったそのつどそのつど気づかされる人間性がある。つまり、目の前の今ここに存在する「あなた」が人間のすべてだということ。この世界は不思議だ。何もわからないし、そのつどそのつど気づかされることがある。
いちいち他者の「感慨のあや」に気づいていたらとても生きにくくなってしまうし、他者の「感慨のあや」に気づくことができなければときめくということもない、その「感慨のあや」はとてもグロテスクで怖いものであるときもあれば、涙が出るほど美しく輝いているときもある。
 どいつもこいつもみんないかれていやがる、と思うこともあれば、誰だって自分よりはましだ、誰だって自分よりは輝いて存在している、と思うこともある。
自分の中にグロテスクなサディズムがうごめいているからといって、それが人間のスタンダード(=本性)だと決めつけることはできない。この世の中にはそんなこととは無縁の人がたしかにいるし、無縁にならなければ原初の人類が二本の足で立ち上がることはなかったし、人類拡散も起きなかった。
直立二足歩行の起源以来の人類史について考えれば考えるほど、グロテスクなサディズムが人間の本性だとか人類の歴史は戦争の歴史だったというようなことは論理的に成り立たなくなる。言葉の本質的な機能は「伝達」にある、という問題設定だって、自分や現代人の観念を人間のスタンダードだと決めてかかっているからで、言葉の本質的な機能はそんなところにあるのではない。
まあ、人類の歴史を動かしてきたのは「観念」ではなく「無意識」なのだ。われわれの生き延びようとする観念的な欲望を物差しにして人類史の起源に推参することはできない。生き延びようとする観念的な欲望が原初の人類の歴史を動かしてきたのではなく、その動因は「もう死んでもいい」という無意識の感慨にある。
 誰だって人を殺したくなるときはあるのかもしれないが、それはあくまで文明社会に生きてあることの観念的な欲望であって、原初以来の人類史の普遍的な無意識のはたらきではない。
 現代社会で生き延びるためにはお金が必要で、お金が正義の世の中だ。そうして誰もが「正義」という観念で他者を裁き合っている。お金の世の中になったから「正義」という観念(概念)も肥大化してきた。誰もが平気で人を裁く世の中になっている。「お金という正義」に慣れてしまったからだ。誰もが、正義か否かという観念の物差しで裁き合うばかりで、目の前の他者の「感慨のあや」に気づいてゆく知性や感性を鈍磨させている。
 どんなに正義ぶって他者を裁いてみせても、あなたが落ちこぼれだったり人に嫌われて生きてきたりしたことはとうぜんだな、と思わせられる。嫌われ者ほど、人を裁きたがったり優越感を持ちたがったりする。
 この世によりよい社会もよりよい人間も存在しない。目の前のそこに人が存在するということそれ自体にときめいてゆくのが、誰の中にも息づいている人としての無意識である。そういう他者を「裁かない」「吟味しない」という生まれたばかりの子供のような無防備で他愛ない心を現代人は失いかけている。
 よりよい社会やよりよい人間のかたちを説いたって無駄なことさ。そういうことを語りたがるあなたの人間としての卑しさというものがある。そういう、「大人」であることの卑しさというものがある。
 大人は、自分の中のグロテスクなサディズムを克服してよりよい人間になってゆく……だって?
冗談じゃない。人間なんてもともとグロテスクなサディズムなど持っていない存在であり、最初からそんな心模様など持っていない人はいくらでもいる。そういう人の存在に対するおそれや敬意があなたたちにはなさすぎる。よりよい人間になろうと努力することなど、偉くもなんともない。それ自体、グロテスクなサディズムを抱えてしまっているあなたの卑しさなのだ。
 現代の文明社会は、人にグロテスクなサディズムを植え付け、それを克服しようと努力させる構造を持っている。グロテスクなサディズムに邁進しようと、それを克服するために努力しようと同じことさ。そういう社会に踊らされて生きているから、そういうサディズムを抱え込んでしまう。
 そして、社会に踊らされて生きているから、よりよい社会をつくらねばならないと扇動したがる。
 社会に踊らされて生きているものにはよりよい社会が必要だろうが、もともと人の心は社会(集団)からはぐれてゆくようにできているわけで、そのはぐれてしまった心を持ち寄りときめき合っていったのが人類の歴史なのだ。そうやって原始人は地球の隅々まで拡散していった。
 心はすでに社会(集団)からはぐれてしまっている。そこにこそ人間性の自然があり、そこから心が華やぎときめき、人と人の関係が深く豊かになってゆく。
 二本の足で立ち上がって以来の人類の歴史は、戦争ばかりの歴史だったのではない。戦争や人殺しなんか、文明社会になってから盛んになってきたことだ。まあ、社会に踊らされ社会の存在に自分のアイデンティティを託そうとするから、つまりそうやって正義を振り回そうとするそのグロテスクなサディズムが戦争の契機になっている。
 人の心は、もともと社会(集団)からはぐれてゆくようにできている。したがって「よりよい社会」をつくろうとする衝動(欲望)は原理的に持っていない。
 社会に踊らされて生きている連中が、そういう意地汚いことを合唱している。
 この社会で生き延びてゆくための正義を信じないのはとても生きにくいことだが、その生きにくさを生きることが人間性の自然であり、その生きにくさを生きることの心の華やぎやときめきを生む装置として「社会」が存在している。人が社会を持ってしまうのはひとつの自然であり必然であるのだが、それは、人の心が社会からはぐれてゆくことの自然・必然の上に成り立っている。

 

 二本の足で立ち上がったときの原初の人類集団が密集しすぎていたといっても、たかだか50人か100人の規模であったはずで、それほど狭いテリトリーに押し込められていたということです。そこは、サバンナの中の孤立した小さな森だった。もしかしたらもっと小さな集団だったかもしれない。それでもその集団は密集しすぎていた。そしてそれでも、余分な個体を追い払うことなく、みんなで二本の足で立ち上がりながらたがいの身体のあいだの「空間=すきま」をつくり合っていった。そしてそれは、たがいにときめき合い、たがいに他者を生きさせようとする体験だった。
 そこから人類の歴史がはじまったわけで、他者を生きさせようとするのは、人類の本能のようなものというか、普遍的な無意識のはたらきだといえる。そういう原初の人類が、戦争をしていただろうか。
 猿よりも弱い存在で、人口も極めて少なかった原初の段階で、殺し合いの戦争なんかしていたら、たちまち絶滅してしまったことでしょう。勝よりも弱い存在だったのだから、人を殺す能力なんかなかったし、追い払おうとする衝動もすでに失っていた。
 追い払わなかったが、勝手に集団からはぐれていって、どんどん拡散していった。原初の人類が拡散していったということは、戦争をしなかったということを意味する。文明人は、集団やテリトリーを守ろうとして、あるいは集団やテリトリーを奪おうとして戦争をする。しかし原始人には、自分の集団やテリトリーを守ろうとする意識がなかった。集団やテリトリーはどんどん壊れて拡散していった。
 ネアンデルタール人の集団だって、ときにはかんたんに住処の洞窟を放棄してしまったりしていた。これはもう考古学の証拠として確認されていることで、彼らは人として集団からはぐれていってしまう生態を持っていたから、一人減り二人減りしながらいつの間にかそこに人がいなくなってしまうということが起きていた。
 守るべきものや得ようとするものがなければ、戦争なんかしない。人類普遍の「もう死んでもいい」という無意識の感慨は戦争をしようとする契機にならないし、文明人は「もう死んでもいい」という無意識の感慨を携えて戦争をしてきた。そこのところがややこしいところです。
 まあ、人類が地球の隅々まで拡散しきり、人口が飽和状態になってきたところから戦争の生態が生まれてきたのかもしれない。増えすぎた人口を減らそうとしたのでもないだろうが、増えすぎればヒステリーが起きてくるのは、猿だって同じでしょう。そして人類は余分な個体を追い払おうとする生態が猿に比べてあいまいだし、大きな集団で生きる生態(=文明)をアイデンティティとして持ってしまえばもう、そのヒステリーのはけ口は他の集団を攻撃することに向けられる。
 しかし原始人は、そこまで大きな集団(共同体=国家)など持っていなかったし、集団のアイデンティティを意識することもなかった。彼らの集団はつねに流動的で、集団からはぐれてゆく心模様が誰の中にも色濃くあった。だから、原始人が集団どうしで戦争をすることはありえない。彼らは、集団の離合集散を繰り返しながら地球の隅々まで拡散していった。


 ともあれ人類は、「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに誰もが他者の生贄になって他者を生かそうとしていったことによって生き残ってきたのであり、それは倫理や道徳の問題ではない、そこにしか人間的な知性や感性や人と人の深く豊かな関係が生まれ育ってくる契機はないのです。
 人類は、他者の生贄になって他者を生かそうとする関係性の深まりとともに生き残ってきたのであって、個体としての生き延びる能力を進化発展させることによってではない。個体としてのその能力は、むしろ退化してきた。人類の視力や聴力は今なお退化し続けているといわれている。暑さ寒さに対する耐久力をはじめとする身体能力そのものが退化し続けているともいえる。身体の退化と引き換えに文化・文明が進化発展してきた。
 人類は、生き延びようとする本能を持っていない。いや、生きもの自体に、そんな本能はそなわっていない。生きものが必ず死ぬということは、生きものは「もう死んでもいい」というかたちで生きている、ということです。
 人類の身体は、いつ死んでもおかしくないような脆弱さとともに歴史を歩んできた。そんな身体を、他者が生かしてきた。文化・文明が生かしてきた。いつ死んでもおかしくないような脆弱さを生きることによって、人間的な知性や感性が進化発展してきた。人類は、いつ死んでもおかしくないような脆弱さを生きようとする衝動(本能のようなもの)を持っている。その衝動とともに、より住みにくい地住みにくい地へと拡散していった。
 人の心は、死と生のはざまに立って生成している。そこに立って、他者にときめき、他者の生贄になって他者を生かそうとしている。
 他者にときめくとは、他者の生贄になって他者を生かそうとすること。
 男と女の関係だって、「惚れる」とは相手の生贄になって相手を生かそうとする心地になることであり、しかし「あなたなしでは生きられない」とその心地になることを要求されすがりつかれたら、かえってその心地が消えてしまう。なぜならその心地は、「もう死んでもいい」というところに立っているものを生かそうとしているのだから、生き延びようとする欲望をぶつけられたら辟易してしまう。
「もう死んでもいい」というところ、つまり「いつ別れてもいい」というところに立つことによって、人と人の関係は深くなってゆく。人と人の深い関係は、どちらもそういうところに立っている。だから原始人の集団は、つねに離合集散を繰り返していたし、出会えば他愛なくときめき合っていた。人と人がときめき合うことは、「いつ別れてもいい」関係になることでもある。
 つねに「別れる」という関係が起きているのも人類ならではの生態である。


 猿は、人類ほど深くときめき合うことはないが、別れることもしない。
 ときめき合うという体験それ自体に、「別れる」という関係になる契機が含まれている。
 原初の人類は、二本の足で立ち上がることによってときめき合う関係になり、ときめき合う関係になったから「別れる」という体験をしながら地球の隅々まで拡散していった。
 原初の人類の二本の足で立ち上がることは、いったん離れ離れになってたがいの身体がくっつき合うことの鬱陶しさを解消し、あらためて向き合いときめき合ってゆく体験だった。人類のときめき合う関係は、離れ離れになっていることのその絶望的な隔たりを飛び越えてゆくことの上に成り立っている。つまり、「伝達することの不可能性」の上に立って向き合いときめき合ってゆくのだ。そこにこそ人と人の関係の自然・本質がある。
 ときめき合っているものどうしは、けっして伝達=説得しない。それは「いつ別れてもいい」関係になっていることを意味する。ときめき合うという体験それ自体が「別れ」を含んでいる。
 猿は向き合って戦い、「順位関係」をつくってゆく。しかし原初の人類は、二本の足で立ち上がることによっていったん離れ離れになり、その「順位関係」というたえざる緊張を強いるくっついた関係を解消していった。そうしてたがいに無防備になってときめき合っていった。それは、きわめて不安定で攻撃されたらひとたまりもない危険きわまる姿勢なのだが、たがいに離れ離れになりながら、しかししっかりと向き合い、ときめき合っていった。くっつき合っている関係の鬱陶しさを解消して離れ離れになってゆくその姿勢は、しかし向き合って相手の身体を心理的な「壁」にしていないと安定しなかった。そしてその関係は、たがいに無防備になってときめき合ってゆくことの上に成り立っていた。それは、猿としての身体能力を大きく後退させる体験だったのだから、自然に「もう死んでもいい」という感慨になってゆき、そこから心が華やぎときめいていった。
「もう死んでもいい」とは、この世界や親しい他者と別れようとしている心の動きであり、ときめくことそれ自体が「別れる」という体験なのだ。人類の「別れる」という生態は、「ときめく」という心の動きの上にり立っている。
 人は、「別れ」に際して、もっとも深く豊かに他者にときめいてゆく。
 原初の人類が二本の足で立ち上がることは、いろんな意味で「別れる」という体験だった。
 人の世には、いろんなニュアンスの「別れ」が生成している。「さようなら」「グッドバイ」はもちろんのこと、商店の店員が「ありがとうございました」ということだって、ひとつの「別れ」のあいさつだ。それはたしかに「別れ」の体験であり、「別れ」の体験が人間社会の動きのダイナミズムをもたらしているともいえる。
 人は、「別れ」の体験を心に刻む。
人は死者との別れを深く心に刻むが、猿にとってはそれほど大きな体験でもない。猿はその体験に涙することもないし、葬送儀礼もしない。眠りにつくことだって、ひとつの「別れ」の体験であり、だから「おやすみなさい」とか「グッドナイト」という「別れ」のあいさつをする。
生きものが「生きる」ということ、すなわち「身体が動く」ということそれ自体が、すでに「今ここ」との「別れ」にほかならない。人は、無意識のうちにそういう「別れのかなしみ」を心に刻みながら生きているから、世界や他者に深く豊かにときめいてゆく。人は、「今ここ」を強く意識し、そのぶん「今こことの別れ」も深く意識している。
恋人どうしが「もっと一緒にいたい」と思うことだって、それ自体「別れのかなしみ」を思っている状態だといえる。
人は「別れのかなしみ」を心に刻みながら生きている。人と出会っていることのときめきそれ自体が、「別れのかなしみ」でもあるのだ。だから、古いやまとことばの「かなし」は、「ときめき=いとおしさ」を表出している言葉でもあった。日本列島の古代人や原始人は、その「別れのかなしみ」を積極的に汲み上げていった。それは「出会いのときめき」を深く豊かに体験することでもあり、そこから「かなし」というやまとことばが生まれてきた。
根源的には、生きてあることは「もう死んでもいい」と「今ここ」と深くかかわってゆくことであって、生き延びようとして「未来」を予測したり計画してゆくことではない.まあそれもひとつの「別れ」のタッチであり、この世の中は「出会い」と「別れ」がスムーズに生成していないと、生きてあることが鬱陶しくなってしまう。


人の心は、「今ここ」に憑依してゆく。
「ときめく」とは、「今ここ」に憑依してゆくこと。それは、未来も過去も思わないこと。生きてゆくためにはどうしても未来を予測し計画してしまうし、生きてきたかぎりにはどうしても過去の記憶が残っていてそれをまさぐろうとするのが人のつねだろうが、それでも人が我を忘れて「今ここ」の世界や他者にときめいているとき、そういう未来や過去を思う心と決別している。生き延びることとも生きてきたこととも決別している。そうやって「今ここ」に消えてゆくことが人であることの根源的なカタルシス=快楽になっている。
すなわち人の心は「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに目の前の「今ここ」に憑依してゆくということで、その「集中力」が人類の知能(知性や感性)を進化発展させてきた。
「集中力」とは、「今ここ」に消えてゆくこと。「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに無防備になってときめいてゆくこと。そういう体験とともに人類の知能(知性や感性)は進化発展してきたのであり、怖がる必要なんか何もない、人間なんかいつ死んでもかまない存在なのだ。なのに現代人は、そういう人類史の無意識というか人類普遍の衝動を鈍磨させ、未来や過去のあれこれをまさぐりながら緊張ばかりしている。自分や自分たちの社会の過去や未来を美化し正当化しようとして緊張ばかりしている。世界中のあれこれの情報をかき集めながら、緊張ばかりしている。世界や他者を警戒して緊張ばかりしている。信じるのは自分ばかりで、世界や他者を信じていないというかときめいていない。まあその緊張感がこの社会で生き延びる能力になり社会的な成功や幸せを得たりしているのだが、その緊張感で心を病んでゆきもする。その生き延びようとする緊張感とともに認知症鬱病やインポテンツになってゆく。


 余談だが、数年前に内田樹上野千鶴子の論争というのが「週刊ポスト」紙上で一瞬だけあり、そこで「おひとりさまの老後」というみずからの著書を批判された上野千鶴子がこのようなことをいっていた。

氏(…内田樹)が「これから必要なのは、弱者が自尊感情を保ったまま生きていける手触りの暖かい相互支援、相互扶助の親密なネットワークを構築することだと思います」ということには、わたしも100%賛成である。わたしの著書にも同じ趣旨のことが書いてあるはずなのに、それを読み落として自分が思いついた手柄であるかのように語るのはフェアとはいえない(…以下略)

 どっちもどっちなのだ。「自尊感情」とはいったい何だ?まあ「自尊感情が必要だ」というのは内田樹の口癖で、上野千鶴子も同感だといっている。「自尊感情」の亡者どうしの論争。
しかし「自尊感情」など持たないものを「弱者」という。「持てない」のではなく、「持たない」のだ。社会的に恵まれたものだろうと恵まれていないものだろうと、知性や感性が豊かなものは「自尊感情」など持っていない。そうした生き延びようとする「自尊感情」など振り捨て、自分を忘れてこの世界や他者にときめいている。
言い換えれば、社会的に恵まれていない立場のものだろうと、「自尊感情」の旺盛なナルシストはいくらでもいる。そうやって正義ぶったり人格者ぶったりして他人を裁いたり見下したりしながら優越感に浸ろうとしてばかりいるものは、貧乏人の世界にだっていくらでもいる。
人類史の普遍的な心模様は、自尊感情など振り捨て、自分を忘れて他愛なく世界や他者にときめいてゆくことにある。二本の足で立ち上がった原初の人類は、猿社会のような自分は他者よりも「順位」が上だと自覚する「自尊感情」を振り捨てて人間的な知性や感性を進化発展させてきた。そうやって「今ここ」の世界や他者に深く豊かにときめいてゆく存在になっていった。なのにこの二人には、そうした「ときめき」としての知性や感性が決定的に欠落している。生き延びようとする「自分」をまさぐってばかりいやがる。二人とも、猿並みのナルシストじゃないか。
「ネットワーク」などどうでもいい。「今ここ」の目の前の他者にときめき他者を生きさせようとするのが、人の自然で根源的な心模様であり生態なのだ。既存の「ネットワーク」の中で「リア充」に浸ってゆくのが人間性の自然であるのではない。つねにそこからはぐれながらそのつど「出会いのときめき」を体験してゆくところにこそ人間性の自然がある。「おひとりさまどうしのネットワーク」などどうでもいい。そうした「ネットワーク」からはぐれ、最初から最後まで「おひとりさま」であるのが人間性の自然なのだ。そこでこそ人と人は深く豊かにときめき合い、たがいに目の前の他者を生かそうとしてゆく。そういう「出会いのときめき」というものを、「自尊感情」をまさぐってばかりいるこの二人は知らない。「自尊感情」など振り捨て自分を忘れてゆかなければ、そういう関係にはなれない。いつも一緒にいようと、出会ったばかりだろうと、人と人の関係は「出会いのときめき」の上に成り立っている。そこでこそ、人と人の関係が深く豊かになってゆく。
内田樹のいう「家族」だろうと「共同体」だろうと、上野千鶴子のいう「おひとりさまどうしのネットワーク」だろうと、一緒にいることの「リア充=幸せ」を守ろうとするのが人間性の自然であるのではない。たとえ一緒にいようと、ともに心はそこからはぐれながら「出会いのときめき」が深く豊かに生成しているところにこそ、人と人の関係の自然・本質がある。
生き延びることなんかどうでもいい、「もう死んでもいい」と思い定めたところから人類の歴史がはじまっている。生き延びるための「自尊感情」をまさぐってばかりいるこの二人に、人と人の関係の自然やときめきの何がわかるというのか。


まあこの二人は、そういう「自尊感情」に執着して生き延びようと「緊張」ばかりしている。その「緊張感」が人間性の自然であり知性や感性だと思っているらしい。それが現代社会の合意=常識かもしれないが、しかしその合意=常識に縛られながら現代人は認知症鬱病やインポテンツになってゆくのだ。
現代人の心は、生き延びようとする「緊張感」で、この世界のあれこれにたえず意識が散乱している。しかし人間性の自然は、無防備に他愛なくときめいてゆくことにある。その自分を忘れた「集中力」にこそ人間性の自然があり、そこから人類の知性や感性が進化発展してきた。
シマウマは、ライオンがそばにいても悠々と草を食んでいる。もしもその状況に対する緊張感があったら、落ち着いて草を食んでいられない。そのときシマウマの意識は、目の前の草に集中している。しかしだからこそその「集中力」で、ライオンがこちらに向かって動きはじめていることをたちまち察知する。緊張感で意識が散乱していたら、かえってその異変に気づかない。自閉症スペクトラムの人は、たえず自分のまわりのすべてに対して警戒し緊張しているから、かえってそういうことに鈍感なところがある。まあ彼らが相手の「感慨のあや」に鈍感だというのもそういうことで、感じてゆくだけの「集中力=ときめき」がない。
男のちんちんは「集中力=ときめき」で勃起する。大人になると、生き延びようとする「緊張感」ばかり肥大化して、若いときに持っていたそうした無防備な「集中力=ときめき」がどんどん減衰してゆく。まあ、生き延びようとする大人の緊張感や知恵を自慢ばかりして何かというとすぐ若者の無防備な「集中力=ときめき」を見下したがる内田樹が実際にインポテンツかどうか知らないが、考えていることはインポテンツの論理そのもので、それが人間性の自然や根源に届いているはずもない。現在の中高年の多くが勃起力の衰えにとまどい不安を募らせているこの時代に、いったい誰が内田樹アジテーションに救われているのだろう。インポテンツになった自分を美化し正当化するのには、確かに大いに役立っているにちがいない。
上野千鶴子のいっていることしかり、彼らは、生き延びようとする緊張感という「自尊感情」で自分をまさぐっているばかりで、自分を忘れた無防備な「集中力=ときめき」を持っていない。まあ多くの現代人がそうやって生きている状況なのだからあの二人がオピニオンリーダーになってゆくのも当然かもしれないが、そこに人間性の自然・本質があるわけではない。その論理で人と人が豊かに他愛なくときめき合う社会が実現するわけではない。彼らは自分が生き延びるのに都合のいい社会を実現しようといるだけで、「自分が生き延びねばならない必然性など何もない」という感慨がないとすれば、それは病気だ、人間としてとても不自然だ。その感慨とともに人類の生贄になろうとする心意気など何もない。それは、彼らには人間性の自然としての「感動=ときめき」というものがないということを意味する。
自尊感情」などどうでもいい。原始人は、誰もが「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに他者の生贄になって他者を生かそうとしていた。人の普遍的な「感動=カタルシス=快楽」は、「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに体験されている。


「もう死んでもいい」という無意識の感慨は、必然的に人の世界に「別れ」という生態をもたらす。
「別れ」は、人類の普遍的な生態のひとつとして組み込まれてある。人は、「別れ=喪失」の体験を繰り返しながら世界や他者に対するときめきを深く豊かにしてゆく。人は必ず死ぬのだし、この世を生きるいとなみに「別れ=喪失」の体験はつねについてまわる。
いつ別れてもいい関係こそ、もっとも深くときめき合っている関係なのだ。いつまでも一緒にいようとする欲望が人と人の関係を深くするのではない。「もう死んでもいい=いつ別れてもいい」という場に立ってこそ、人の心は深く豊かにときめいてゆく。べつに大げさなことじゃない。商店の店員が客に「ありがとうございます」という別れのあいさつをすることにだって、人類の歴史のそういう無意識がはたらいている。
 人類は「もう死んでもいい」という感慨とともにある「集中力」によって、脳のはたらき(=知性や感性)を進化発展させてきた。
 この世界のあれこれを吟味し選別してゆく知能とやらが何ほどのものか、目の前の「今ここ」に他愛なく無防備にときめいてゆく心模様こそ、本格的な知性や感性の源泉なのだ。
 生き延びようとする「自尊感情」にしがみついて生きている内田樹上野千鶴子の知性や感性などたかが知れている。
 自分が生き延びねばならない必然性などどこにもない……人はそこから生きはじめ、深く豊かにときめき合ってゆく。自分などどこにも存在しない。自分が消えてゆくこと、すなわちその「別れ」のタッチにこそ「ときめく」という体験が生まれる契機がある。まあ原始人や古代人はそういうことをよく知っていたし。現代人はその体験のカタルシスを忘れかけている。
 この世のもっとも無能でぶざまな弱い存在がどのようにして「自尊感情」を持てるというのか。しかしその「自尊感情」を持てない「生きられなさ」にこそ、もっとも深く豊かな「ときめき」の契機がある。「自尊感情を持つ」ということは、「ときめきを失う」ということと同義なのだ。内田樹上野千鶴子のあの下品な顔つきを見ればよくわかるではないか。顔の造作の問題ではない。「自尊感情」を持ちたがるその作為的な卑しい心根が顔つきにあらわれている。
「弱者」に「自尊感情」を与えようなんて、よけいなお世話なのだ。この世のもっとも無能でぶざまな弱い存在の「自尊感情」など持たないところにこそ、もっとも深く豊かな「ときめき」が生成している。たとえば脳のはたらきに障害を持った知恵おくれの子どもの他愛ない笑顔に接したとき、誰だって「ああここにこの世でもっとも深く豊かで純粋なときめきがある」と思わせられるだろう。
自意識過剰のブスやブオトコほど「自尊感情」を持ちたがる……といえば差別発言になりそうだが、あんなくだらない論理を振り回されたら、そうもいいたくなってしまうではないか。彼らのあの下品な薄笑いや主義主張のどこに深く豊かで純粋な「ときめき」があるというのか。
自尊感情を保ったまま生きていける」などということは、おまえらの下品でグロテスクな観念世界の中だけのことにしておいてくれ。
「手触りの暖かい相互支援、相互扶助の親密な」関係がどんなものかは、僕は、彼らにではなく、ネアンデルタール人に聞く。彼らにそんな関係を構想できる想像力やときめきがあるとは、とてもじゃないが思えない。「自尊感情」は、想像力やときめきを鈍磨させる。
 嫌われ者ほど、「自尊感情」が強い。「自尊感情」を正当化したがる。しかし、そんなところに人間性の自然があるのではない。「自尊感情」で他者にときめくだなんて、言語矛盾ではないか。おまえらの勝手な「自尊感情」を正当化するな。その卑しく意地汚い存在の仕方のどこに尊厳=輝きがあるというのか。
自尊感情」なんて、優越感という差別意識の別名にすぎない。
 人間性の自然においては、誰にとっても存在することの尊厳=輝きは、「自分」にではなく「他者」のもとにある。人は、そこから生きはじめる。人の心は、「自尊感情」を持てないまま漂泊している。生きてあることはいたたまれないことであり、自分が生き延びねばならない理由などどこにもない。人の心は、そこから世界や他者にときめいてゆく。その嘆きを共有しながらときめき合ってゆく。
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