都市の起源(その八)・ネアンデルタール人論159

その八・先のことなんかわからない、なりゆきまかせで生きたらいけないのか

胎内世界が「安定と秩序」に満たされたものであるのかどうかわからないが、ともあれ人は、そこからこの世界の「混沌」の中に投げ出されてくるのだ。そうしてその「混沌」にほんろうされて「おぎゃあ、おぎゃあ」と泣き続けながら、やがて心が華やぎときめく体験をするようになってゆく。つまり、「世界の輝き」に気づいてゆく。
人間の赤ん坊は、どんな生きものよりも無力だ。人が生まれてくることは「混沌」に引き寄せられてゆく現象であり、それがこの生の基礎的なかたちになっているのかもしれない。生きることは「混沌」にほんろうされ疲れ果ててゆくことであり、心はそこから華やぎときめいてゆく。人類の知性や感性は、そうやって進化発展してきたのだ。
人は、「混沌」の中に飛び込んでゆくようにして生きはじめる。心は「混沌」の中で動く。つまり、身体と世界の関係が不安定というか不調和になっている状態において心(=意識)が発生する。心(=意識)とは、世界に対する違和感のことであり、根源においては「安定と秩序」を知らない。したがって、「安定と秩序」を求めて生きはじめる、ということは成り立たない。
赤ん坊は、母親に抱かれたりして、その「安定と秩序」の中で心の空白状態を体験する。むやみに抱かれたがる幼児はその空白状態を欲しがっているのであり、違和感としての「世界の輝き」にときめくという体験が不足している。抱かれたときに、違和感として母親の身体を感じるか、それとも心の空白状態になるか。「安定と秩序」とは、心の空白状態のこと。そうやって現代人は、「安定と秩序」を獲得する「達成感」とともに心が燃え尽きてしまったりしている。
「混沌」の中に身を置き続けていれば疲れ果てる。それは、「安定と秩序」の「達成感」で燃え尽きることとは違う。「達成感」を欲しがるということは、心の空白状態を反芻しながら生きているということだ。人が死んでゆくことは、疲れ果てて眠りに堕ちてゆくことか、それとも「達成感」で燃え尽きてゆくことか。しかし人の欲望は無限で、人生に「達成感」などない。けっきょく最後は、「達成感」の不可能性に苛立ちうろたえながら荒れ狂わなければならない。だから「死後の世界」が必要になる。
セックスの快楽は疲れ果てて自分が消えてなくなってしまうことにあるのであって、自分を確認することではない。現代人は、自分を確認することばかりしながら、世界に対するときめきを失ってゆく。つまり「達成感」という心の「空白状態」とは、自分を確認しながら「世界の輝き」に対するときめきを失っている状態のことで、もちろん心がなくなっているのではない。その肥大化した「自尊感情」のことを「燃え尽きる=バーンアウト」という。そうやって「自尊感情」で生きているからインポテンツになってしまうし、多くの認知症の老人の心は肥大化した自我意識で荒れ狂っている。脳のはたらきは衰えても、心は苛立ち荒れ狂っている。「自尊感情」で凝り固まっている。停滞しつつ荒れ狂っている。自分の心の「安定と秩序」に執着・耽溺する「自尊感情」は、世界や他者に対する「ときめき」を失わせるが、世界や他者に対する「憎しみや恨み」は肥大化させる。
氷河期明けに人類拡散がひとまず終結して発生してきた文明社会は、外部の世界と「憎しみや恨み」の戦争ばかりするようになっていった。戦争によってみずからの社会の「安定と秩序」を維持していった。そうやって人々の心がどんどん自閉的になっていった。
まあ、認知症やインポテンツは、そうやって世界や他者を知ったかぶりして吟味し裁いてばかりして生きてきたからなるのであり、それは、社会の構造の問題だ。「安定と秩序」を目指す共同体の制度性が高度に発達した現代社会の構造によって、そうした自閉症的な病理が引き起こされている。「安定と秩序」に執着・耽溺している病だ。彼らは、つねに自分の心の「安定と秩序」を汲み上げつつ、「疲れ果てる」ということがない。そういう「官能性」が欠落している。ときめかなければ、疲れなくてもすむ。そんな人生や人格が素晴らしいのかね。


人類史上、ろくな文明を持たない原始人の身で氷河期の北ヨーロッパで暮らしていたネアンデルタール人ほど、生きるいとなみに疲れ果てていた人々もいない。心も体も疲れ果てていた。彼らの生に「安定と秩序」など死ぬまでなかった。疲れ果てて眠りに堕ちてゆくことこそが、彼らのいちばんの愉しみだったのかもしれない。そして、氷河期の冬というその厳しい環境においては、朝が来て必ず目覚めるという保証はない。そのまま凍死してしまうという危険はつねにあったにちがいない。彼らは、「もう死んでもいい」という勢いで生き、世界や他者の輝きにときめいていった。そういう「混沌」を生きた。
われわれのこの生は、「混沌」に引き寄せられてゆく。この生の根源においては、「安定と秩序」に向かってはたらくということはない。人間性の自然としても、「安定と秩序」に向かって二本の足で立ち上がったのではないし、地球の隅々まで拡散していったのではない。今どきの人類学者たちが合唱しているような、衣食住の「安定と秩序」を求めて拡散していった、ということではない。拡散すればするほど衣食住は困難になっていったのであり、その「混沌」に引き寄せられて拡散していったのだ。
人は、「混沌」に引き寄せられて集まってくる。都市の発生は、人類拡散の問題でもある。
人間性の自然においては、「安定と秩序」に対する志向性などはない。逆に「安定と秩序」からはぐれて「混沌」に引き寄せられてゆくのが人間性の自然であり、そうやって生きものは命を「消費」しながら生きている。「安定と秩序」から生きはじめて「安定と秩序」からはぐれてゆくのが生きるいとなみだ。
世界に対する違和感として意識が発生する。
現代社会がこの生やこの世界の「安定と秩序」の意味や価値をどんなに声高に合唱しようとも、「生きられない愚かで弱いもの」たちは避けがたくあらわれてくる。その「安定と秩序」ということそれ自体が違和感なのだ。また、「安定と秩序」に執着・耽溺するあまり心を病んでゆくものも多い。
ほんとうは誰だって、この生やこの世界の「混沌」を「なりゆきまかせ」で生きている。この生もこの世界も、自分の思う通りにはならないのであり、思う通りにしようとして心を病んでゆく。
「なりゆきまかせ」の即興性を生きることができなければその人は魅力的じゃないし、ときめくという体験もできない。
心の「安定と秩序」の中で世界や他者に対する「反応」を失ってゆく。そうして世界や他者に対する警戒心や緊張感を膨らませてゆく。その警戒心や緊張感で世界や他者を吟味し裁くことばかりしている。現代人は、そんな思考というか脳のはたらきを発達させて自分では正しく賢いつもりだろうが、そのあげくに痴呆症やインポテンツになってゆく。
正しく賢いこととその人が魅力的だということとは違う。正しく賢いからこそ、相手を吟味し裁くことばかりして「察する」という「反応」ができない。「反応」して「展開」してゆく本格的な知性を持っていない。そんな大人の知能や知恵が、子供や原始人の知性や感性よりまさっているとはいえない。子供や原始人よりも魅力的だとはいえない。当人がうぬぼれるほどには好かれていない。
人と人のときめき合う関係は問い合い察し合うことの上に成り立っているのであって、吟味し裁き合うことの上に成り立っているのではない。また、勝手に吟味し裁いてしまうものは、その先入観を変更できない傾向が強く、他者の魅力を新しく発見しときめくという体験ができないし、いったん持ってしまった恨みや憎しみや軽蔑をいつまでたっても手放せない。
まあ「人間はかくあらねばならない」という予定調和の「秩序と安定」の論理を振り回されたら、たまったものではない。自分では人にやさしく人にときめいているつもりだろうが、じつはなんにもときめいていない。あくまで自分の心の「安定と秩序」に執着しているだけのこと。もともとなんにもときめいていないからこそ、いったん自分の心の「安定と秩序」を脅かされると、激しく憎んだり恨んだりする。
そんな今どきの大人たちを相手にして生きてゆくのは、ほんとにしんどい。僕なんかよりも若者たちの方がもっとしんどいのだろうな、と思う。
まったく、うんざりだよね。