都市の起源(その七)・ネアンデルタール人論158

その七・秩序と混沌


人類史における「安定と秩序」に対する志向性はいつごろからどのようにして膨らんできたのか、という問題を、われわれはどのように考えたらいいのだろう。それは、人間性の自然でもなんでもない。はじめにそんな志向性があったのなら、二本の足で立ち上がりはしないし、地球の隅々まで拡散してゆくということも起きなかった。それまでの人類は、「安定と秩序」に充足してまどろんでゆくという生のかたちを知らなかった。「安定と秩序」から逃れるようにして二本の足で立ち上がり、人類の歴史がはじまったのだ。
人間性の自然は、「混沌」の中に身を投じてゆくことにある。
「混沌」の中に身を投じてゆく歴史を歩んできた結果として、「安定と秩序」に対する志向性が生まれてきた。
おそらく戦争はみずからの集団の「安定と秩序」を目的にしてなされるのだろうが、戦争することそれ自体は、命のやりとりの「混沌」の中に身を投じてゆく行為であり、人はどうしてもそういうことをしてしまう。人間性の基礎として、まず、「混沌」の中に身を投じてゆこうとする衝動がある。
人類は、「安定と秩序」に倦んで戦争をするようになっていった。そうして今や、「安定と秩序」を目的にして戦争をしている。
この問題はややこしい。
安定と秩序は、停滞と衰弱をもたらす。これはもう自然の摂理ともいえる現象で、生きものの命のはたらきは、ひとつの「混沌」として成り立っている。息苦しいから息を吸うのではない。気がついたら吸ってしまっている。そういうことはもう、植物状態の病人だってしている。われわれの生は、息を吸ったところからはじまる。そうしてそのままでいたら、だんだん息苦しくなってゆく。つまり、命のはたらきとは命を消費してゆくことだ。そうやってわれわれは。だんだん年老いてゆく。命を消費しているのだから、若くなってゆくことなんかできない。命を(「安定と秩序」に向かって)つくり上げてゆくことなんかできない。この命は、「混沌」に向かって消費されている。生きることは、疲れてゆくことだ。一日のいとなみに疲れがやってきて、眠りに就く。歩けば疲れる。それでも人は歩く。スポーツをしても、セックスをしても、語り合っても、本を読んでも、最後には「疲れ」という「混沌」がやってくる。「疲れる」ことが生きるいとなみだ
われわれのこの生は、「混沌」に引き寄せられてゆく。この生の根源においては、「安定と秩序」に向かってはたらくということはない。人間性の自然としても、「安定と秩序」に向かって二本の足で立ち上がったのではないし、地球の隅々まで拡散していったのではない。今どきの人類学者たちが合唱しているような、衣食住の「安定と秩序」を求めて拡散していった、ということではない。拡散すればするほど衣食住は困難になっていったのであり、その「混沌」に引き寄せられて拡散していったのだ。
都市の発生は、人類拡散の問題でもある。
人間性の自然においては、「安定と秩序」に対する志向性などはない。逆に「安定と秩序」からはぐれて「混沌」に引き寄せられてゆくのが人間性の自然であり、そうやって生きものは命を「消費」しながら生きている。「安定と秩序」から生きはじめて「安定と秩序」からはぐれてゆくのが生きるいとなみだ。


人は、「安定と秩序」に対する志向性が肥大化してくると、心が憎しみや恨みで荒れ狂ってくる。「安定と秩序」に対する志向性が強い人ほど、心の中は荒れ狂っている。この世界も他人の心もわからないことだらけだし、自分の思い通りにならないことばかりなのだもの。そんな現実に対して、何がなんでも「すでにわかっている」ことにして生きてゆこうとするなら、そりゃあ荒れ狂ってしまう。だから、「すべては神によって決定されている」という観念にすがりついてゆく。そうやって、心の中に「神」が棲みついてしまう。べつに宗教組織に参加していようといまいと、彼らの心には。この世界の「安定と秩序」を約束するものとしての「神」が棲みついている。「夢はかなう」ということだって、心の中に「神」が棲みついているものたちが合唱しているのだ。まあ、「神」が棲みついているものほど一心に邁進できるし、その他の多くのものたちがそんな夢を抱いても中途半端に終わってしまう。
たいていのものは、「今ここ」の「混沌」に引き寄せられて生きてしまう。「すでにわかっている」とか「すでに決まっている」という態度で生きることなんかできない。「何だろう?」と問うてしまう。そうやってときめいてしまう。目の前の「今ここ」にときめいてしまう心を持っていたら、「夢はかなう」ということに邁進できない。
「夢はかなう」ということと、「今ここ」のせずにいられないことにのめりこんでゆくこととは同じではない。前者は神が定めた秩序を生き、後者は神のいない「混沌」を生きている。前者は夢を目指している「自分」にこだわっており、後者は自分を忘れて「世界の輝き」にときめいてゆく。
まあ、徹底的に自分にこだわって自分のまわりの世界に対する警戒心と緊張感を手放さないで生きれば、それなりの偏差値や処世術が身について成功する(=夢がかなう)こともあろう。世の中の成功者の何割かは、そういう自閉症的な唯我独尊の思考の人で占められており、その典型として内田樹がいる。意地の悪い言い方をすれば、彼らは、嫌われ者として生きるほかなかったことのルサンチマンをバネにして成功者への階段を上がっていったし、逆にそういうルサンチマンに凝り固まったものたちが集まってきているこの世の掃きだめのような場所もある。たとえば、すべてでもないだろうが、そんな「変人」が集まってくる一部の「ネトウヨ」とか「オタク」とか「やくざ」とか「下級労働者」とか「ホームレス」とかの世界もある。つまりそんな「変人」は、成功者としてのエリート社会にも、落ちこぼれとしての下層社会にもいる、ということだ。因果なことにこの世の中では、そうやって心を病みながら成功してゆくものもいれば、落ちこぼれてゆくものもいる。


ここでいう「心を病む」とは、作為的で非人間的な「安定と秩序」に対する過剰な志向性(=欲望)のことであり、それは文明社会の病でもある。二本の足で立ち上がって以来の人類は、そんな志向性(=欲望)とともに歴史を歩んできたのではない。その病は、氷河期明けの文明社会の発祥とともに生まれてきた。文明社会すなわち「都市国家」の発祥ともに、「安定と秩序」に充足しまどろんでゆくことを覚えていった。
国家という共同体の制度性は、みずからの身体の「安定と秩序」を目指す。その歴史とともに、「安定と秩序」に充足しまどろんでゆく自閉的な心の動きが培養されてきた。
氷河期明けの人類の世界に都市が生まれ、その都市がやがて国家という共同体になっていった。そのとき、そのふくらみすぎた集団に「安定と秩序」をもたらす装置として「規範=制度」が生まれてきた。「規範=制度」で人の心を縛っておかないと、そのふくらみすぎた集団は混乱し崩壊していってしまう。その「規範=制度」は権力者が民衆の心や行動を縛るためにつくったというより、集団の無意識として生まれてきたわけで、その「制度=規範」に身を浸しながら「安定と秩序」に充足しまどろんでゆく心の動きが培養されていった。そしてそうなれば、個人としても集団としても、自分の外の世界に対する警戒心や緊張感がどんどんふくらんでくる。そうやって文明社会に人殺しや戦争が生まれてきた。人と人や国家と国家が憎み合い恨み合うようになっていった。
自分の心の「安定と秩序」に執着し耽溺してゆこうとするから、憎んだり恨んだりしないといけない。文明社会は、そういう心の動きを生み出し肥大化せていった。
まあ人類は地球上の生態系の頂点に立ったのだから、「安定と秩序」に充足しまどろんでゆく心の動きが生まれてくるのは当然のなりゆきであるのかもしれない。しかしそれは原始人の心の動きではなかったし、人が二本の足で立っている存在であるかぎり、「この世のもっとも弱いもの」として「生きられなさ」という「混沌」を生きようとする性向が消えてなくなることはない。人の心はそこから華やぎときめいてゆくのだから。
自己の「安定と秩序」にまどろみ充足してゆく心の動きは、文明社会の発祥とともに生まれ育ってきた。根源的には、人はそんな状態を求めて生きているのではない。
共同体の制度性が高度に発達した社会に置かれている現代人は多かれ少なかれそうした自閉的な心の動きを持たされてしまっているのだが、それでも人間であるかぎり、自分を忘れて世界の輝きにときめいてゆく体験を手放すこともしないだろう。人間的な知性や感性は、そういう「混沌」から生まれ育ってくるのだから。
人の心の「安定と秩序」に対する志向性、すなわちそうした自閉的な心の動きは、おそらく生後の環境条件によって後天的に持たされてしまうのだろう。そしてそれはもう、誰でも多かれ少なかれ持たされているのだが、現代社会は、たとえば内田樹のように病的に持たされている人を多く生み出してしまう構造になっている。そうやって動いているのだからそれでいいだろうといわれればまあそうなのだが、ただそれが人間性の自然だと自慢されると、そうかんたんにうなずくわけにはいかない。その自閉的な心の動きによって、発達障害認知症やインポテンツなどのさまざまな現代社会の病理が生まれてきているのだから。