都市の起源(その六)・ネアンデルタール人論157

その六・知性とはときめきであり、混沌という反知性でもある

人間性の自然は、「安定と秩序」を目指すことにあるのではない。「混沌」の中に飛び込んでゆくことによって心が華やぎときめいてゆく。そうやって人類の知能が進化発展してきた。
知性とは、「わからない」という「混沌」に身もだえしつつ「なんだろう?」と問うてゆくことにあるのであって、「わかった」と舌なめずりして充足してゆくことではない。それは「わかる」能力のことではなく、「わからない」という状態に身を置きながら「問い」を立ててゆく能力のことをいう。その「なんだろう?」という「問い」こそが、人間的な知性なのだ。
「この人はこういう人だ」と「わかる」ことが知性なのではない。知性的な人は、「この人はどういう人だろう?」という「問い」を持っていて、自分の先入観でむやみに決めつけたりはしない。先入観で決めつけて間違うことは多いし、決めつけてしまったら新しい発見=ときめきはない。
われわれは、その人がどういう人かという前提によって関係しているのではなく、じつは目の前の「今ここ」におけるその人の表情や言葉に即興的に反応してときめいたり傷ついたりしながら関係しているわけで、そういう前提だけで相手を決めつけ優越感を持ったり卑屈になったり憎んだりなれなれしくしたりしている人は、まああまり魅力的ではない。
本格的な知性は「わからない」という場に立っている。知性は、その本質・自然において「反知性主義」なのだ。
まあ、知性の貧しい知性主義者ほど、知ったかぶりをして人間通を気取ったりしたがる。そりゃあ、自分があらかじめ持っている「意味」や「価値」の物差しで裁量しているだけなら、この世にわからないものなど何もない。じっさい内田樹などは、『日本の反知性主義』という本の中で「人の無意識はすべてのことを知っている」などといっている。「全能感」を持たないのが知性だといいながら、じつは自分こそその「全能感」にどっぷりつかって、知ったぶりしたものいいばかりしてくる。「なんだろう?」という「問い」を持っていないのだ。
また伊勢白山道や江原なんとかというスピリチュアリストたちは、すべての人の「前世」がわかる、などとしたり顔していっている。そりゃあ、前世があると決めてかかっていれば、そのうちわかった気になってくることもあるだろう。そういう思い込みを強くして練習してゆけば、「わかった気になる」ことくらい、そうむずかしいことでもない。そうやって人は「呪術師」になってゆく。恐山のイタコをはじめとして、「呪術師」なんて、ひとまず訓練によって誰でもなれるのだ。まあ、「思い込みが強い」という才能に恵まれているかどうかということもあるのだろうが、その訓練は、「霊魂は存在する」という思い込みを強くするところからはじまる。「存在するかどうか?」と問うていたらいつまでたってもはじまらないし、「存在するわけがない」という思い込みが強ければ、「存在する」という思い込みに反転する可能性は大いにある。いずれにせよ、ああいうことは「勝手な思い込み」の世界なのだ。それは、「知性」とはいわない。知性なんかなくても教祖様になれるし、カリスマのイタコというか呪術師にもなれる。
内田樹は、「夢はかなう」とさかんにいっている。本気で思い込めば必ずかなう、かなわないのは思い込みが足りないからだってさ。知性とは何かということをろくに知りもしない人間が、「反知性主義」を批判している。僕は、内田樹の言説に「知性」を感じたことは一度もない。内田樹なんかよりも、どう生きたいかもわからずに都市の雑踏の中で震えながら生きている今どきの「愚かな」若者たちのほうがずっと知性的だ。極寒の空の下での暮らしに疲れ果て「もう死んでもいい」と思い定めて生きていたネアンデルタール人のほうがはるかに知性的だ。


まあ「知性」の解釈の仕方も人さまざまだし、べつに知性的でなくてもいいのだけれど、人間性の自然は「秩序(コスモス)」に向かうのか、それとも「混沌(カオス)」に引き寄せられるのか、という問題はたしかにある。
この生やこの世界の「安定と秩序」を目指すのなら、最終的には「この世界の森羅万象のすべては神によって決定されている」という世界観にたどり着く。しかしそれは文明すなわち共同体の制度性という社会の構造によってもたらされる観念であって、人間性の自然だともいえない。
それでも人は、「混沌」に引き寄せられてゆく性向を持っている。
原初の人類が二本の足で立ち上がったことはひとつの「混沌」の中に投げ入れられる体験だったのであって、それによって「安定と秩序」がもたらされたのではない。それは、とても不安定で、攻撃されたらひとたまりもない危険な姿勢でもあった。そのとき人類は、「混沌」に引き寄せられていったのであって、「安定と秩序」を目指したのではない。それ以来人類は、「混沌」の中に身を投げ入れて歴史を歩んできたのであり、そうやって地球の隅々まで拡散していったのだ。拡散すればするほどそこはより住みにくい土地だったのだが、その「生きられなさを生きる」生態とともに人間的な文化を進化発展させてきた。
それはいわば「神なき世界」だった。原始人は、「神なき世界」を生きていたのだ。僕はもう、世界中の人類学者に対して「お前らにこのことがわかるか」といいたいくらいだ。
何が原始宗教(アニミズム)か、くだらない。原始時代にそんな観念は存在しなかった。そしてその「神を知らない心」の痕跡は、われわれの誰の中にも残っている。とくに日本人の信仰心なんか、ほんとにいいかげんではないか。われわれは、「神の秩序」も「共同体の秩序」も、うまく実感できでいない。そこに日本人のアドバンテージとハンディキャップがあるし、ヨーロッパ人だって近代になってさかんに「神は死んだ」というようになってきているではないか。それは、一般的にいわれているような、歴史が進化発展して「神なき世界」になってきたというのではなく、原始時代のそういう「痕跡」が現代にも残っているということだ。


人類は文明社会の発祥とともに原始時代の「神なき世界」から外れて「神の秩序」や「共同体の秩序」に対する信仰をどんどん強くしていったが、それでも「神なき世界」の「混沌=生きられなさを生きる」という心の動きを失ったわけではなく、じつはそれこそが人としての生きてあることのよりどころになっているということに今になって気づかされているのではないだろうか。
現在の「グローバル化」という動きなどは、何がなんでもみずからの国家や企業の「安定と秩序」を確保しようとする強迫観念の上に成り立っているのだろうが、それは個人の心の動きだって同じで、「自然を守れ」とか「ガラパゴス化して自国の伝統を守れ」といったって、けっきょく「安定と秩序」に対する信仰を競っているだけのことにすぎない。どちらもどちらだ。
まったくろくでもない世の中だと思うが、因果なことに人の心はそういう「でたらめ=理不尽=不条理」すなわちそのような「混沌」を受け入れてしまう動きを持っている。
そういう世の中なら、それを受け入れて生きるしかない。人の心は、根源・自然において、「未来」を持っていない。この生は、「今ここ」において出現し「今ここ」において消えてゆく。その無限の繰り返しの瞬間瞬間をわれわれは生きている。
現代社会の階層化や貧困化の拡大を阻止しなければならない……などといわれても、現にその「貧困化」を生きているものはいるわけだし、何も「貧困化」を否定するような言い方をしなくてもいいではないか。貧困化していないあなたたちの生が素晴らしいわけでもない。どんな生も、しょうもないだけさ。われわれに必要なのは「未来」ではなく、「今ここ」のこの「貧困化」を支える論理なのだ。一生貧困のままの人はいくらでもいる。生まれつきの障害者だっている。そういう「安定と秩序」から見離されて「混沌」を生きるほかないものたちは、あなたたちの「安定と秩序」の「幸せ」な生よりも劣っているのか?そういう生は、生きるに値しないのか。たとえ当人がそう思っているとしても、他人からそのように決めつけられねばならないいわれはない。人の心は、そういう「混沌」から華やぎときめいてゆくのだ。
他者の「今ここ」を肯定してゆくというのは、人としての最低限のたしなみかもしれない。それを忘れて、何が「豊かな未来」か。そんな「絵に描いた餅」を人の前にぶら下げて何がうれしいのか。それは、他者の「今ここ」を否定している態度なのだ。
誰にとっても「未来」なんかあるのかどうかわからないのだし、この世に貧しいものや愚かなものが存在するのなら、その貧しいことや愚かなことそれ自体を肯定してゆくしかない。また、その「生きられなさを生きる」というところにこそ人間性の自然・本質があるわけで、そうやって本格的な知性や人にときめく心が生まれ育ってくるのだ。
たとえば、筋萎縮症とかで目の玉しか動かせない人がいたとする。そういう人が一般の健常者よりも豊かな心の動きを持っている場合だってあるだろう。その「生きられなさ」から華やぎときめいてゆく心がある。
ホーキング博士の例もあるわけで、この世のもっとも豊かな知性は、「生きられなさ」の「混沌」を生きている。彼らは「わからない」という「混沌」に身を浸して「何だろう?」と問うてゆく。そしてこの世のもっとも愚かなものたち(たとえば知的障害者)だって、そうした人間的な「生きられなさ=わからなさ」の「混沌」を生きている。内田樹をはじめとする今どきの半端な知性主義者たちよりも、彼らのほうがずっと豊かな「ときめき」を体験している。
知的障害者は、猿と同じであるのではない。彼らだって「人間性」を生きている。そこのところを見誤るべきではない。彼らの知能は猿並みだ、などといっても、猿と同じであるのではない。彼らだって、ときめいたりかなしんだりする「人の心」を持っている。「知能」などという物差しで人類の文化の発展の歴史が解き明かせるわけではないのですよ。
猿の社会は、人間の社会以上に「順位制」というボスを頂点とした「安定と秩序」をそなえた構造になっている。だから、人間ほどにはむやみにときめいたりかなしんだりはしない。しかし知的障害者の心だって、人間の社会に投げ入れられて生成しているわけで、彼らだって、猿以上に、そして自分の心の「安定と秩序」が大事らしい自意識過剰な知性主義者たちよりもずっとときめいたりかなしんだりしている。
猿だろうと人間だろうと、「安定と秩序」を志向するぶんだけ心は停滞し衰弱している。