都市の起源(その十五)・ネアンデルタール人論166

その十五・都市生活の流儀

人は、人と人が他愛なくときめき合う「祭りの賑わい」がなければ生きられない。もちろんわれわれは衣食住によってこの命をつないで生きているわけだが、人間性の基礎=自然は「人と人の関係」すなわち「人が人を想う」ことにあり、衣食住のことが第一義の問題になっているのではない。いざとなれば、衣食住なんか、あればいいだけで「なんでもいい」という気分になってゆく。それでも世界は輝いているのであり、世界の輝きにときめいていられたら人は生きられるし、ときめくことができなければ心を病んで生きられなくなってゆく。
「文化的」とは、美味いものを食っておしゃれな服を着ていい家に住むことではない。そんな「自分=この生」を装飾するものは最低限でもかまわないのであり、どれだけ深く豊かに「世界の輝き」にときめいてゆくことができるかということにこそ「文化的」という問題がある。その「もう死んでもいい」という勢いの「ときめき」にこそ、人類が育ててきた「文化」の本質がある。
人は、どんなに貧しく愚かで弱くてもかまわない。それでも「世界の輝き」にときめいていたら生きられるし、そこにこそ「人間性」の自然や人間的な「文化」の本質がある。人の世は、避けがたく「貧しく愚かで弱いもの」を生み出してしまう構造を持っている。なぜなら人間性の自然は「生きられなさ」を生きようとすることにあり、「生きられなさ」を受け入れてしまう習性をどこかしらに持っているからだ。
人間的な知性や感性の本質は「生きられなさ」に飛び込んでゆくことにあり、文明社会のシステムが生み出す「知能」は「生き延びる」能力として成り立っている。つまり前者が未来も過去も忘れて「今ここ」の一瞬に飛び込んでゆくのに対して後者は、過去(知識=記憶)の集積の上に未来を計画してゆく。
新しい知識を発見しときめいてゆく原始的な知性や感性と、知識を使いこなして達成・充足してゆく現代的制度的「知能」、ということだろうか。われわれはこの二つの傾向の脳のはたらきをやりくりしながら生きている。上部構造と下部構造、と言い換えてもよい。前者の心の動きは何も学問や芸術にかぎったことではなく、人にときめいたり景色をめでたりすることだってまさにそういうことだ。それに対して後者の観念のはたらきは生き延びるためのルーティンワークの能力を発達させるが、そればかりで生きていると、ときめく心は停滞・衰弱してゆく。


都市の雑踏の中から、たったひとりの「あなた」を見つけてときめいてゆく。そんな体験がなければ、都市では生きられないし、そんな体験することはかんたんではない。
都市においては、いやな人間はいくらでもいる。行く先々でそういう人間と出会う。そんな状況に耐えて都市で生きていくのは、ほんとにしんどい。
内田樹は、この世のすべての人間が自分と気が合う人間になればいい、という。まあそういうネットワークの場所として自分の塾を開いているらしい。上野千鶴子だって、気が合う人間どうしのネットワークを持つことが都市生活の理想であると説いて「おひとりさまの老後」というベストセラーを生み出したわけだが、そんなことをいっても、誰だってネットワークの中だけで生きてゆけるわけでもない。とくに貧しく弱いものたちは、いろんないやな人間との関係にさらされて生きてゆくほかなく、それに耐えられなくて「ニート」や「ひきこもり」になったり、「ネトウヨ」や「オタク」というネットワークに潜り込んでいったりしている。
内田樹上野千鶴子は、「ネトウヨ」や「オタク」を批判する柄ではない。自分たちだって同じ人種なのだ。そうやってネットワークに潜り込んでゆきたがるのは、人にときめく感性もときめかれる魅力(セックスアピール)もなく、たったひとりの「あなた」との「出会いのときめき」を体験することなく生きてきたからだ。きつい言い方をすれば、そういう「嫌われ者」が生きる道は、けっきょく潜り込んでゆくことができるネットワークを探すしかないし、彼らの身に付いた処世術として探すのが上手なのだろう。そして世の中は、探しているものたちがたくさんいる。
それに対して、どこに行ってもときめき合えるたったひとりの「あなた」と出会うことができる人もいるし、そういう人はむやみに「ネットワーク」など欲しがらない。ネットワークの「安定と秩序」に潜り込んでいないから、たったひとりの「あなた」と出会って、ときめきもするし、ときめかれもする。彼は都市の「混沌」の中で孤立して存在している。
ネットワークの「安定と秩序」の中に潜り込んでゆけば幸せだろうが、この生がそれだけですむわけもない。外に働きに出ればいやな人間はうようよいるし、誰だって実存的には、人間の世界の「混沌」の中で孤立して存在させられている。
ネットワークの「安定と秩序」に執着・耽溺して生きていれば、ときめく感受性もときめかれる魅力も失って、認知症やインポテンツになってしまう。


生きることは、過去から未来に向かってまっすぐ伸びた線上における予定調和のルーティンワークなのか?現代社会はそうやって動いているのだから、それに従うしかない。まあエリート社会の高度なルーティンワークもあれば、下層社会の単純なそれもあるわけだが、ひとまず誰もがそんな思考や生き方を余儀なくされている。
そうして、「現代人の知性が後退してきている」などと騒がれたりしている。
内田樹は「知性」についてこう語っている。

他人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内側をみつめて判断する。そのような身体反応を以てさしあたり理非の判断に代えることができる人を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。(『日本の反知性主義』より)


なんだかもっともらしい言い草だが、「得心がいく」とか「腑に落ちる」とか「気持ちが片付く」とか、そういうことはそれこそ「さしあたり」どうでもいいのだ。知性は、そうやって「わかる」というかたちの「思考停止」なんかしない。そこからさらに展開して新しい「問い」に出会ってゆくことを「知性」という。したがって「知性」は、永遠に「得心がいく」とか「腑に落ちる」とか「気持ちが片付く」というような体験はしない。
内田樹がこういう言い方をするのは、ふだんから「わかった」といい気になって「自尊感情」に執着・耽溺してゆくことばかりして生きているからだろう。それはたんなる思考停止であって、「知性」とはいわない。そんなわかり方くらい、そのへんの無知な庶民のおじさんだってしている。
まあ「身体反応」などといって、自分では「知性の官能性」を説いているつもりなのだろうが、「知性の官能性」とは、「何だろう?」と問うてゆくそのなやましさ・くるおしさのことであって、舌なめずりして「わかった」という気になってゆくことではない。
鈍感な身体しか持っていないものほど、カッコつけて「身体反応」などといいたがる。
たとえば、オーケストラの一員が、まわりの音とのハーモニーやアンサンブルに気を使ってけんめいに耳をすませてゆくとき、「何だろう?」と問うているのであり、相手は「ミ」の音を出すから自分は「ソ」の音を出せばいいとか、オーケストラの一員として演奏することの「官能性」というのは、そんな単純なルーティンワークの中にあるのでもないだろう。「自分の内側をみつめて」いる余裕なんかない、自分を捨ててけんめいに耳をすませてゆくことによって、はじめてまわりの音のニュアンスを汲み上げることができる。そして自分が出す音はまわりと調和しているかと息をつめて問うてゆく。彼らには、演奏が終わるまで「得心」なんかない。ひたすら息をつめて問い続けている。知性のはたらきだって、まあそのようなことだ。
「自分の内側をみつめる」なんて、なんと通俗的で下品な思考態度であることか。
真実は、自分の外側にある。「自分の内側」なんかみつめても「理非の判断」のなんの足しにもならない。
人は、自分を捨ててときめいてゆく、というかたちで真実と出会う。そういうアクロバティックな「飛躍」が起きるところに人間的な知性のはたらきがある。
おめえのしょうもない「内側」で真実かどうかを勝手に判断するなよ、ということ。
人が都市に憧れることだって、「自分の内側」に照らし合わせて都市のなんたるかが「わかった」からでもないだろう。「わからない」まま「何だろう?」と問いながら東京に出てくるのであって、わかってしまったら出てくる必要なんかない。それこそ「自分の内側」でシュミレーションして体験し尽くしてしまうことができる。し尽してしまえば、今さら東京に出ても新しい体験なんか何もない。シュミレーションだけで、燃え尽きてしまう。
まあ長年勤めた大学を定年退職した内田樹が東京に戻ってこないのも、東京の大学で教えて学生や同業者からあれこれツッコミを入れられることをシュミレーションし尽くしているのかもしれない。それなら、取り巻きがたくさんいる神戸に居残って「王様」でいた方が「自尊感情」は安泰だというわけだろうか。
裸一貫になって東京に戻ってくるつもりはないらしい。そりゃあもともと東京にいたのだから、シュミレーションも微に入り細に入りできるにちがいない。
シュミレーションできないものが東京に出てくるのだ。
田舎に住むものにとって都市は「非日常」の空間であり、その「非日常の祭りの賑わい」に引き寄せられ、無意識の「もう死んでもいい」という勢いとともにやってくる。無意識的本能的な「死の衝動」と言い換えてもいい。人は、心の底にそういう「遠い憧れ」を持っている。
「生き延びる」ことが身上の内田樹にとっては、「この生=自分」の「日常」こそが大事なのだから、今さら「非日常」の「混沌」に飛び込んでゆくつもりなんかさらさらないのだろうな。いつも「俺はなんでもわかっている」という顔をして、今さら「何だろう?」と問うてゆくことなどないのだろう。それは、学問だけの体験ではない。人や世界の輝きにときめいてゆくということが、そもそもそういう体験から生まれてくるのだ。「何だろう?」と耳を澄ますこと、目を凝らすこと、考えること。
「俺はなんでもわかっている」という態度の彼の意識の焦点は散乱している。一点に焦点を結んで「何だろう?」問うてゆくことはない。
都市の混沌の中で暮らせば何もかもがわからなくなり、だからこそひとつのことに「何だろう?」と問う心が切実になってくる。まわりの何もかもに焦点を結んで警戒心を募らせ緊張していたら生きられない。そうやって引きこもりになってしまう例も多い。
都市にはたくさんの人がいるからこそ、ひとりの相手に焦点が結ばれてゆく。雑踏の中で、まわりのすべての人を気にしていることなんかできないし、気にしていたら気が狂ってしまう。その不可能性と圧迫感が、一点に焦点を結ばせる。言い換えれば、それでも気にしてしまうことによって心を病んでゆく。
内田樹なんか、すべてを気にしてしまうタイプだ。そういう過剰な自意識を持っている。彼の書くものは、つねに不特定多数の読者を意識していて、ひとりの「あなた」を想定して書くというようなことはしないし、できない。自意識過剰だから、つねに「大向こう」の拍手喝采を得ようとして、一点に焦点が結べない。そういう人は「都市の雑踏」を生きることはできない。彼が東京を捨てて関西に行ったことも、ひとつの引きこもりであろうし、しかしそこで取り巻きがたくさんいる「自尊感情」の王国を築いたのだから、まあ「ご立派」といっておこう。東京に戻ってこないのは賢明だ。神戸の凱風館とかいう村落共同体的内田塾に引きこもっていたほうがいい。東京に戻って取り巻きのいない裸一貫の身になったら、「俺はなんでもわかっている」という態度では生きられない。もともとそうやって意識の焦点が散乱してしまう人なのだ。東京の暮らしに向いていない。暴言を承知であえていってしまうなら、「ひとりのあなた」を見る視線を持っていないから女房に逃げられたのだ。つまり、つねに不特定多数を意識するということは、つねに不特定多数を警戒し緊張しているということであり、つねに「自分」ばかりを意識している、ということだ。だから、「ひとりのあなた」が見えない。
「都市の雑踏」は、「ひとりのあなた」と出会う場所なのだ。そうやって、ただすれ違うだけの見知らぬ「あなた」にだって、そこはかとなくときめいていたりする。西洋人は、そうやって雑踏の中の見知らぬ他者と微笑み合ったりする。彼らは、都市生活の歴史と伝統を持っている。そのとき意識は、一点に焦点を結んで何かに気づき、ときめいている。つまり、「たったひとりのあなた」の気配に気づくのだ。