不満の構造・ネアンデルタール人論96

たとえば5万年前のヨーロッパのネアンデルタール人とアフリカのホモ・サピエンスのどちらが生き残ることのできる生態を豊かにそなえていたかという問題は、今どきの人類学者が考えているような、どちらの知能が発達していたかということではない。
 それは、どちらが生き延びる能力を豊かにそなえていたかということではなく、どちらが他者を生かそうとする関係のメンタリティを豊かにそなえていたかという問題なのだ。
 人間社会は、ひとりひとりの生き延びようとする欲望や能力が豊かになることによって活性化するのではない。誰もが「もう死んでもいい」という勢いで他者を生かそうとしてゆくことによって活性化する。そうやって「生きられなさを生きる」ところに人の思考や行動のダイナミズムがある。
 生きる能力を豊かにそなえている人間を、誰も生きさせようとはしないだろう。そんな人間を生きさせようとする必要なんか何もない。しかし人は、誰もが根源において「生きられない存在」の気配をセックスアピールとして持っている。原初の人類は、そうやって二本の足で立ち上がった。それは、そういう「生きられない弱いもの」として生きる姿勢なのだ。だから人間社会には、他者を生かしながら連携してゆこうとする関係がはたらいている。
 であれば、現代社会のように誰もが生き延びようとする欲望ばかりを膨らませ誰もが生き延びる能力を持つようになってくれば、とうぜん「連携」の関係は衰退してくる。というか、たとえば「原発に反対してみんなで生き延びよう」というようなスローガンを振りかざしても、それほどダイナミックな連携を組織できるわけではないという現実がある。
 人と人は、「生きられなさ」に身を置きながらときめき合い、連携してゆく。
 大人たちが「人はどう生きるべきか」とか「この社会はどうあるべきか」という問題を掲げながらすでにそれがわかっているかのようなことばかりいっている社会からは、人と人が豊かにときめき合い連携してゆく関係は生まれてこない。この生にそんな問題など存在しない。そんな屁理屈の前に、今どきの大人たちは人にときめいてゆく心を持っていないし、人からときめかれる存在にもなっていない、ということにこそ問題がある。自分たちが生き延びることができるよい社会をつくるためというスローガンのもとに、人を裁くことばかりしている。よい社会と悪い社会を選別し、よい人間と悪い人間を選別しながら、自分が生き延びるのに都合がいいネットワークづくりに精を出す。そこではもう、ときめくこともときめかれることも必要ない予定調和の関係が機能しているらしい。ときめく心もときめかれる魅力(セックスアピール)も持っていないから、そういう関係が必要になる。彼らにとって仲良くすることはときめきときめかれて「せずにいられない」ことではなく、たんなるネットワークの「約束事」にすぎない。そういう約束になっている関係を、ネットワークという。
 生き延びるための約束……彼らの心は生き延びる未来に向いており、すでに目の前の「今ここ」から逸脱してしまっている。
今どきは、生き延びるためのネットワークを持つことこそが現在の閉塞感からの解放になる、などとよくいわれているが、心が「今ここ」の世界や他者の輝きにときめくという体験は、そんなところから生まれてくるのではない。
生き延びることが「解放」になるのではない。生き延びるといっても死ぬまでのあいだのことにすぎないわけで、それ自体がこの生に閉じ込められている事態でしかない。そうやって死の恐怖が募ったりするのであれば、そこから解き放たれることができなければ「解放」とはいえない。したがってそれは、われを忘れてというか、生きてあることそれ自体を忘れて世界や他者の輝きにときめいてゆく体験にこそある。人類は、そのような体験として人間的な「連携」の生態を進化発展させてきた。
 

 ネットワークとはみんなでひとつの「約束=決め事」を共有してゆくことであり、誰の心もそのことに向いているだけで、すなわちみんなで同じ方向を向いているだけで、人と人が向き合う関係になっていない。そうやって「仲良くする」という「約束=決め事」を共有しようと、「共同体の制度」という「約束=決め事」を共有しようと、根は同じだ。言い換えれば、現代社会のというか文明社会の「共同体の制度」や「時代」に飼いならされた心が、ネットワークという関係に執着してゆく。繰り返すが、そんな関係は、みんなが同じ方向を向いているだけの予定調和の停滞した関係であって、人と人が向き合いときめき合っている関係ではない。
人と人は、ネットワークからはぐれていったところで向き合いときめき合ってゆく。その関係は、そうした「約束=決め事」がまだ発生していない段階の「出会い」において体験される。社会的な「約束=決め事」として「おはよう」とあいさつするのならそれはネットワークの関係であり、そうではなく、ただもうときめいて思わず「おはよう」という言葉と笑顔がもれてくる体験においてこそ、人間性の自然・根源としての「連携」が体験されている。
 少なくとも「おはよう」という挨拶の起源においては、社会的な「約束=決め事」として生まれてきたのではなく、ただもうときめいて思わずそのような言葉=音声と笑顔がこぼれてきただけだったはずだ。
 現代社会においてだって、そのような根源的な体験ができる人はそのときこちらの胸にしみいるような笑顔を見せてくれるし、多くの大人たちはたんなる社会的な「約束=決め事」のレベルでしか体験できないでいるわけで、そんな大人たちが「ネットワークこそ新しい未来の人と人の関係だ」と我田引水しながらいい気になって合唱している。
 そんなもの、新しくもなんともない。戦争が好きな中近東の一部の砂漠の民の部族意識と同じであり、人類はそうしたネットワークの集団に執着しながら戦争をするようになっていったのだ。ネットワークとは、生き延びるために共同戦線を張ってゆくこと。たとえば上野千鶴子の『おひとりさまの老後』なんて、まさにそうした関係をつくれと声高に扇動しているだけの書きざまだったのだが、そんな安直で愚劣な論理にしてやられる大人の女たちも無数にいたのだからしょうがない。時代に踊らされて生きてきた女の我田引水の安っぽい屁理屈が、同じように時代に踊らされて生きてきた女たちの熱い共感を呼んだらしい。まあ戦後の日本は、そういう世の中になってしまった。誰もが生き延びることに執着し、「今ここ」の世界や他者の輝きにときめいてゆく心模様が希薄になってしまっている。そんな人と人の関係が不調の世の中で、誰もが生き延びようとする欲望をたぎらせているのであればもう、そうした作為的なネットワークの関係にすがるしかないのかもしれないが、そこに人間性の自然・根源があるかのようなことをエラそうに吹きまくられたら、そりゃあこちらだって「ちょっと待ってくれよ」といいたくもなってしまう。
 まあ、彼らの合唱する「ネットワーク」の関係なんて、その程度のものだ。世界や他者の輝きにときめいてゆく心を失ったインポのジジイや不感症のババアたちは、せいぜいそんな関係にすがりついて老後の人生をやりくりしてゆけばいい。うまくいくのかどうか知らないが。
何度もいうが、その関係は、みんなで同じ方向を向いているだけで、人と人が向き合いときめき合う関係になっていない。そうやって時代に踊らされて生きてきた戦後の日本人が今、生き延びるためのネットワークの関係にすがりつきながら、ぶざまな顔をした大人たちになり果てている。
しかしそれでも、いつの時代においても「生きられないこの世のもっとも弱いもの」たちは、他愛なく世界や他者の輝きにときめいてゆく心模様や笑顔を持っている。
人は、根源・自然において、「生きられないこの世のもっとも弱いもの」として存在している。人間的な知性や感性の輝きはそこにこそあり、心はそこから華やぎときめいてゆく。


あなたは、自分なんか無価値なダメな存在だと思うか?今どきは、そう思ってしまう人が増えている世の中らしい。
あなたは、世界や他者が輝いて見えているか?今どきは、そういう体験ができないで、老人性の認知症鬱病やインポテンツになっていったり、若者や子供たちだってそうやって発達障害を起こしたりしている。
自分という存在は、価値があるのでもないのでもない。人は、ただもう生きてあることがいたたまれなくて自分のことなんか忘れてしまいたいのであり、忘れさせてくれる体験として世界や他者の輝きが目の前に現れる。
自分の「価値」に執着しているものが、自分には「価値がある」といい気になったり「価値がない」と絶望したりする。彼らは片ときも自分のことを忘れないのであり、そういう人間が「自分を忘れてときめいてゆく」という体験をできるはずがない。
自分に価値があると思うのなら、世界や他者は自分よりも価値がある対象であってはならない。
現代人は、自分が価値ある存在だと思いたくてうずうずしている。生きるに値する存在だと自覚できなければ生き延びることができないというか、みずからの生き延びようとする欲望を正当化するためには、自分は生きるに値する存在だと思えなければならない。内田樹上野千鶴子は、そういう「自尊感情」が人を生かしているといい、そういう「自尊感情」を持つことが人間性の自然だと主張している。
自分の存在の価値を信じるなら、他人の存在の価値なんか認めるわけにいかない。他人が自分よりも価値ある存在だ思えば、その瞬間から自分の存在は無価値になってしまう。他人も自分も同じように価値がある、などという都合のいい論理は成り立たない。他人よりも価値があると思えるからこそ、「自分には価値がある」と思うことができるのだ。みんなが同じように価値があるということは、価値がある人間なんかいないといっているのと同じなのだ。「価値」とは「より優れている」ということであり、「より劣っている」存在の上に立って「価値」が発生するのだ。
みんなが美人だったら、美人なんか存在しないのと同じだろう。ほかの多くの存在よりも美しいから美人たりえているわけで、この世の中の十人に一人の存在、あるいは百人に一人、あるいは千人に一人の存在として「美人」という概念が成り立っている。
 自分には価値があると思うことは、自分は十人に一人の存在、あるいは百人に一人、あるいは千人に一人の存在であると思うことだ。そんな「自尊感情」をたぎらせた人間が、「すべての存在に価値がある」といっても、ただの舌先三寸の欺瞞にすぎない。
 まあ彼らは、いつだって「自分は悪くない、悪いのは他人であり世の中の方だ」と思いながら生きてきた。今どきは、そいう思考習性を持った大人たちがあふれている。それが、内田樹上野千鶴子が執着している「自尊感情」の正体だし、多くの戦後世代の大人たちと共有している。だから、事件やスキャンダルのニュースが大いに関心を持たれる世の中になっている。そういうニュースに接するたびに彼らは、「自分は悪くない、悪いのは他人であり世の中の方だ」と確認している。
 現代人は、そういう思考習性を持っているから、政治にも強い関心を示してゆく。
 まったく、内田樹上野千鶴子も、どうしてあんなにも熱心に政治のことを語りたがるのだろう。その「よい社会にしなければならない」などというスローガンは、「自分は悪くない、悪いのは他人であり世の中の方だ」という思考習性で生きてきた人間ほど声高に叫びたがる。「悪いのは他人であり世の中の方だ」と思うから「よい社会にしなければならない」と発想してゆく。
 何が「よい社会」であるかということを、おまえたちには決める権利と資格と能力があるとでも思っているのか。そんなことを決める権利も資格も能力も、誰にもない。今のままでけっこう、と思っている人もいれば、おまえたちの決めたとおりの社会になんかなってほしくない、と思っている人たちもいるし、おまえたちに従っていればおまえたちの決めたとおりの社会になるという約束があるわけでもない。
 われわれは、どんな社会が来ようとそこで生きてゆくほかないのであり、「よい社会」でないと生きられないなんて生命力や知性や感性の衰弱だともいえる。人の生命力や知性や感性は「生きられない」というそのことから活性化してゆく。
「生きられるよい社会」なんか、生命力や知性や感性が停滞してゆく社会でもある。
 人の生命力や知性や感性は、死に魅入られたところで活性化してゆく。
「もう死んでもいい」という感動が人を生かしている。命は、そういう勢いで活性化してゆく。そして「もう死んでもいい」という感動のあるところには、「今ここ」の世界の輝きがあるだけで、「生き延びる未来」とか「よりよい社会」など発想されていない。
「今ここ」の世界の輝きにときめいているなら、「今ここ」よりもよい社会などイメージのしようがない。
 人は、根源において、「よりよい社会」など思い描いていない。どんなにひどい社会であれ、どんなにひどい人生であれ、「今ここ」を生きるしかないし、「今ここ」に消えてゆき、「今ここ」において生まれ変わり続けているのだ。
 しかし「自分は悪くない」という場に立って自分に執着している心にはもう、「生まれ変わる」契機はない。心は、「生まれ変わる」ようにしてときめいてゆくのであり、ときめく心とは、「今ここ」において生まれ変わった心のことだ。人の心は、そのように点いたり消えたりしながら生成している。
自尊感情」などというものに執着していたら、心は生まれ変われないし、ときめくことができない。


「人生に不満がある」とか「世の中に対して不満がある」とか、現代人はいろいろ不満を募らせて生きているらしい。その「不満」は、いったいどこから生まれてくるのだろう。
 いつもあれこれ欲望をたぎらせて生きているから、それが満たされない不満が湧いてくる。「棒ほど願って針ほど叶う」などという諺があるが、誰もが一億円欲しいと思っていても、それが叶う人はめったにいない。ほとんどの人は、せいぜいその10分の1か100分の1を手に入れるのが関の山。自分はいい男だと思っているのに、思っているほどにはモテない。もてない男ほど自分をいい男だと思っていたりする。嫌われ者ほど、自分は人に愛される資格のある正しい人間だと思っていたりする。そうして、世の中の人間は誰も自分の正しさや魅力がわかっていない、と不満を募らせる。つまり彼らは、「自分は悪くない、悪いのはいつだって他人であり世の中だ」と思っている。そしてこれは、一部の人間だけでなく、多くの現代人の中にそうした「自己意識=自己愛」が潜んでいる。現代社会の誰もが、どこかしらで「自分は悪くない、悪いのはいつだって他人であり世の中だ」と思っている、といってしまってもいいような状況さえある。そうやって他人や世の中を裁きながら自分を正当化しようとする傾向がある。その「自己意識=自己愛=自尊感情」が「不満」の巣窟になっている。
 自分を愛さない他人の態度や自分を認めない世の中に不満を募らせて生きている人間がたくさんいる。内田樹がいくら人気作家だといっても、それはつい最近のことで、それまでさんざん世の中や他人に対して不満を募らせながら生きてきた。だから今でも、他人や世の中に対して、「自分を愛せ」「自分を認めよ」といわんばかりに自己宣伝ばかりしている。人気作家になっても、その習性からはいつまでたっても抜け出せない。「不満」があるから、自己宣伝したがる。まあ今でも「内田樹なんて品性下劣なただのアホだ」と思っている人はいくらでもいて、そいう人がいなくならないかぎり彼の「不満」が消えることはない。いつまでたっても愛されたくて認められたくてうずうずしている人間であり、たぶん幼児体験や思春期体験として、自分が望むほどには愛してもらえないとか認めてもらえないという「不満」をいっぱいに募らせている時期があったのだろう。そして同じようにそういう「不満」を抱えている読者たちの共感を得ながら人気作家になっていった。同じような「不満」を抱えている人間がいっぱいいる世の中なのだもの、彼がそういう立場の存在になるのも当然のなりゆきだったのかもしれない。
 彼らは、自分が誰からも愛され認められる世の中をつくりたいらしい。人は、そうやって政治的になってゆく。そうして今や、政治に興味のある人間が正しく知性豊かな存在だともてはやされ、興味がなければただのアホだとさげすまれる世の中になっている。彼らは、とりあえずそういう愛されたがり人間や認められたがり人間どうしネットワークをつくり、自分が愛され認められている存在だという自覚を獲得してゆく。このことを内田樹は「他者の<承認>を得ようとするのが人間性の基礎である」といっているわけで、まあみんなでそういう欲望を共有しているのだから、そのネットワークの中だけでは、誰もがそういう自覚が持てるような予定調和の「約束」になっている。
 しかし、くだらない屁理屈だ。「承認」しようとするまいと、おまえらを愛そうと愛するまいと、他人の勝手ではないか。そんな他人の心を欲しがるということは、他人を支配しようとしているのと同じなのだ。だからおまえらは政治に興味を持ち、「いい世の中をつくろう」と合唱している。他者の「承認」を得たいだなんて、それは、支配欲であり、権力欲なのだ。そういう自分を見せびらかしたがるだけの「かまってちゃん」のネットワークが人類の集団性の本質だなんて、笑わせてくれる。
 しかし今どきは、「かまってちゃん」の大人ばかりの世の中になっている。そうやって「承認」を得られないことの「不満」を募らせながら認知症鬱病やインポテンツになってゆく。


彼らはもう、子供のころから「自分は悪くない、悪いのは他人であり世の中の方だ」という「不満」を募らせながら生きてきた。それは、「愛されたい」「認められたい」という「承認願望」の裏返しなのだ。そういう「承認」を得られないことの「不満」が、「自分は悪くない、悪いのは他人であり世の中の方だ」という恨みがましい意識になる。
「お金がない」とか「出世ができない」とか「結婚できない」とか、いろんな「不満」があるが、つまるところは「承認願望」が満たされないことであり、そうやって人と人の関係に失敗していることの「不満」なのだ。
 内田樹は「他者の承認が得られないことによって人は心を病む」というが、それ以前に「承認願望」を持つこと自体がすでに病んでいる状態なのだ。「私は他者の承認を得ている」と有頂天になって自慢しても、その「承認願望」そのものが人間性の自然から逸脱した、いわば「近代の病」にほかならない。現代社会は、人間を善悪とか美醜とか頭がいいとか悪いとか何かの能力があるとかないとか、そういう評価によって社会の動きに組み込んでゆく仕組みになっていて、その仕組みに心を染められながら承認されることを願っても得られなかったことに対するルサンチマンが育ってくる。
承認されたいという「目的=欲望」から、その恨みがましい「不満」が生まれてくる。そうして、他者に自分を承認させようとする支配欲・権力欲になってゆく。「世の中を変えたい」とか「いい世の中にしたい」などといっても、その今どき流行りの市民運動だって、そういう恨みがましい「不満」を募らせたものたちの支配欲・権力欲のあらわれにすぎない。昔はそういう欲望の強い人間の存在は限られていたが、今や一般の「市民」のあいだまで蔓延してしまっている。そうやって現代人の知性や感性やときめく心が停滞してしまっている。
そりゃあろくでもない世の中だが、「世の中が悪い」というのとは別の話であり、この生は「今ここ」にしかないと思い定めるなら、そういう世の中でも受け入れるしかない。われわれは、この社会を否定も肯定もしない。ただもうこの生もこの社会も「ろくでもない」と思っているだけであり、それでも目の前の「今ここ」の世界は輝いている。ろくでもないと同時に、輝いている「あなた=他者」が存在する世の中だ。美しい花が咲き、空は青い。誰の心の中にも、そういう「今ここ」の感慨が息づいている。
 世界や他者はすでに自分の前に存在し、その存在の輝きにときめくことができるのなら生きられる。われわれの心=意識は、根源において、世界や他者の存在を前提にしていない。他者の存在と出会って心=意識が発生する。世界や他者の存在が、心=意識を発生させる。
心=意識は、根源において、「他者の承認」など願っていない。他者が存在するという「事実」を認識するだけなのだが、その「事実」に驚きときめいてもいる。「認識する」とは、驚きときめくこと。だからこの生は、なやましく狂おしい。
人と人は、たがいの存在の輝きに驚きときめきながら連携してゆく。べつに、生き延びるための「よい社会」をつくるためではない。「今ここ」で驚きときめき合っていることの証しとして連携してゆく。承認されたいと願う前に、すでにその輝きに驚きときめいている。
人間的な連携は、たがいにときめいてたがいに他者を生かそうとし合う行為として起きている。人類は、生き延びるために連携していったのではない。「もう死んでもいい」という勢いでときめき合っていったことによって、そのたがいに相手を生かし合うという関係が起きた。そういう死に対する親密さこそが、人間的な連携が進化発展してくる契機になった。
世界中の人類学者のほとんどは、生き延びようとする欲望が人類の知能の進化発展につながったと考えているが、そうじゃないのだ。その「連携」という関係によって結果的に生き残ってきたにせよ、その関係を生み出す契機としての人間的な思考や行動のダイナミズムは、「死に対する親密さ」にこそある。「死に対する親密さ」が人類を生き残らせ、「万物の霊長」へと進化発展させた。
 このブログでも先日、「生きものは生き延びようとする衝動と使命を持っている」というコメントが寄せられてきたが、ほんとに何をくだらないことをほざいてやがると思う。「死に対する親密さ」こそが命のはたらきの根源的なかたちであり、そういう根源に遡行してゆくことによって猿よりも弱い猿だった人類が生き残ってきたのだ。命のはたらきには、そういう「逆説」が作用しているのだ。
そのコメントの主は自分の中のそうした生き延びようとする欲望を正当化したいのだろうが、けっきょく「自分は悪くない、悪いのは他人であり世の中だ」と思って生きてきたからそういうことをいいだすのだ。「もう死んでもいい」という感動=ときめきとともに生きている心からは、むやみな生き延びようとする欲望は起きてこないが、けんめいに他者を生かそうとする。しかし彼らは「自分は生き延びるに値する存在」だと思い込んでいる。「共生」だのなんだのと屁理屈をこじつけても、それは「他人は生き延びなくてもいい」と思っているのと同じなのだ。「共生」なんてよくわからない言葉だが、それをいうなら、自分の生き延びようとする欲望なんか正当化したらいけないのだ。人類は、生き延びようとしたのではない。「もう死んでもいい」という勢いで他者を生かそうとしていっただけなのだ。
人類の進化発展の契機を、現代人のほとんどが「生き延びようとする欲望にある」と考えているとしても、僕はそうだとは思わない。そんな陳腐で通俗的な考えなどくそくらえだ。
人間的な思考や行動のダイナミズムは、「死に対する親密さ」にある。

 

 人の心は、根源においてときめかれたいのでも承認されたいのでもない、ただもう一方的にときめいてゆかずにいられないだけなのだ。
 まあ、人にときめかれたり承認されたりする体験がないと依怙地になって「自分は悪くない……」という思いをよけいに募らせがちだが、現代の競争社会はそういうものたちをそういう思いにさせずにおかない構造を持っている。油断していると、人からさげすまれてしまう。人をランク付けする社会で、他人をさげすむことを平気でする人間がたくさんいるし、自分もまたすでに同じ人間になっている。それが「自分は悪くない……」という思考の裸の姿というか深層心理だ。
「自分を愛するように他者を愛せ」なんて、よくわからない。自分を愛する人間が他者にときめいてゆくことなどできるものか。人は、自分なんか忘れてときめいてゆくのだ。「自分は悪くない……」という思いとともに自分に執着している人間に、「自分を忘れる」というタッチなど持てるはずがない。
 とはいえ人類の普遍的な無意識であるはずの「もう死んでもいい」という感慨が自分を忘れてときめいてゆく体験になっているわけで、もともと誰だって「自分を忘れる」というタッチを持っている。
 自分を愛さなくたって他者にときめいてゆくことができるし、人間性の自然として、自分を忘れて世界の輝きにときめいてゆく心模様が誰の中にも息づいている。
 油断をしていると人にさげすまれてしまう世の中だが、さげすまれてもなお、さげすまれるまいとする緊張感は持たない方がいい。原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、生き延びようと緊張してゆくことによって実現したのではなく、「もう死んでもいい」と無防備になってゆく体験だった。人の心の自然は、それでも一方的に世界の輝きにときめいてゆくことができるようになっている。
ときめかれたいとか承認されたいなんて、ときめかせようとか承認させようとする支配欲・権力欲にすぎない。
あなたは、人にときめかれたり承認されたりするに値する存在か。あなたにときめかなかったりあなたを承認しない人間は許せないか。
人の心なんかわからないし、人がなんと思おうと人の勝手だ。人があなたをさげすんでも、それはもう許すしかない。人をさげすみたがる心は醜いし、さげすまれるれるのがたとえ不当であったとしても、それでも許すしかないのだ。できることならそんな相手とはかかわりたくないが、かかわるしかないときもある。今どきは、そんな人間がたくさんいる世の中だ。「自分は悪くない、悪いのは他人であり世の中の方だ」と思いたがる習性の人間がいくらでもいる世の中で、そういう人間はさげすむ相手がいないと生きられない。そういう人間は勝手な思い込みが強いから、そうやって簡単にさげすむ気にもなってしまうのだが、思い込みが強いそのぶん、世界の輝きに反応してゆくことができなくなっている。そうやってすでにときめく心を失い、さげすむことによってしか生きられない。さげすむことによって生き延びようとしている。生き延びようとするからさげすむ。まあ、現代社会に置かれていることの病理的な心の動きだ。
自分を愛する(=肯定する)必要なんか何もない。生まれたばかりの赤ん坊のように、自分を忘れて思い切りときめいてゆくことができればいいだけだ。それは、自分を愛するか愛さないかという問題ではなく、自分に執着するか否かという問題なのだ。「自分を愛する」といっても「自分を愛せない」といってもおなじことで、そうやって自分に執着していたら、世界や他者にときめいてゆくことなんかできなくなってしまう。


二本の足で立ち上がった原初の人類は、自分を忘れて世界や他者にときめいていった。自分を忘れてときめいてゆくところにこそ人間性の自然がある。学問の真理を探求することだろうと芸術の美を創造することだろうと、自分を忘れてときめいてゆく体験が基礎になっている。言い換えれば、そういう体験のない学問や芸術など、しょせん二流三流にすぎない。本格的な学者や芸術家はみなそのような自分を忘れたときめきを持っているし、それは生まれたばかりの赤ん坊や二本の足で立ち上がった原初の人類の心模様でもある。すなわちそれが人間性の基礎であり究極でもある心模様なのだ。
自分で勝手に決めつけてわかったつもりになってしまう傾向の強い人は、学問をすることに向いていない。わかったつもりの「自分」に執着し酔っているだけのことで、たいていそうやって挫折する。わかることができないで挫折するのではなく、安易にわかったつもりになってしまうからだ。世間一般の凡人ほど「わかっているつもり」のことをいいたがり、本格的な研究者ほど「何だろう?」と問い続けている。
学問とはいったん頭の中を白紙にしたところからひとつの答えと出会って「ああそうか!」とときめいてゆく体験であり、人と出会ってときめいてゆくことだって同じだろう。「知っている」のではなく、「ああそうか」と「気づく」こと。生まれ変わったように気づいてゆくこと、そういう体験がなければ学問は続けられないし、それが「探究する」ということであり、「恋をする」ということでもある。
人間的な知性や感性の本質は、「出会いのときめき」にある。「出会いのときめき」とともに人類は地球の隅々まで拡散していった。
 凡人ほど「人間とは何か」ということがわかっているつもりで、「人間とは何か」と問うていない。たとえば内田樹などは、そういう「わかっているつもり」の凡庸さを読者と共有しながら人気作家たりえている。凡人の「知ったかぶり」の心模様を上手に掬い上げているというか、「知ったかぶり」の代表選手なのだ。彼らは、「知ったかぶり」の自意識を共有する「ネットワーク」をつくっている。「ネットワーク」とは本質において「既知」を共有している関係であり、「未知」に分け入ってゆくということはしない。そこでは、学問の探求も、芸術の創造も、知らない人との「出会いのときめき」も停滞している。
「すでに知っている」のなら、そこに「ああそうか」と気づいてゆく「出会いのときめき」はない。そうやって今どきの老人は認知症鬱病やインポテンツになってゆくし、若者たちが集まるネット社会でも「知ったかぶり」を競い合っていたりしている。現在は、人の心をそのように停滞させてしまう社会の構造がある。人々をそのような「ネットワーク」に囲い込んでしまう社会がいいのか悪いのか……その関係にまどろんでゆくことが幸せな人もいれば、閉塞感=不満を募らせて途方に暮れたり苛立ったりしている人もいる。
閉塞感や不満がないということは、今どきの「リア充」と呼ばれている「満ち足りている」ということではなく、そういう満足=不満の自己意識の循環から解き放たれていることにあり、そうやって人は自分を忘れて世界の輝きにときめいてゆく。べつに難しいことじゃない、基本は「ああそうか」と気づいてゆく心模様にある。それだけのことだが、今どきはそういう人間性の基礎が不調になってしまっている。ネットワークの関係に浸ってまどろんでゆく自己意識の「リア充」こそが人間性の基礎であり理想の人と人の関係だと合唱している世の中なのだもの。
 何ごとにおいても「出会いのときめき」が希薄だから不満=閉塞感が募る。人にときめかれ承認されることばかり望んで生きていれば、その満足だけでなく、ときめかれ承認されないという不満の体験も避けがたく付きまとう。まあ、ときめかれ承認される体験が希薄なまま生きてきた嫌われ者ほど、ときめかれ承認される「リア充」を欲しがる。そうして予定調和のネットワークの関係の中に潜り込みながら「自分は人にときめかれ承認されている」と思い込んでいる。
 しかし、人世界の輝きにときめいてゆく心模様は、そうしたネットワークからはぐれて裸一貫の「ひとり」の存在になっているところから生まれ育ってくるのだ。人からときめかれるとか承認されるということなど永遠にわからないことであり、人は根源においてそんなことなど望んでいない。そんなことなど当てにしない無防備な存在であり、ただもう誰もが一方的にときめいていっているだけなのだ。少なくとも原始社会は、そのような関係の上に成り立っていた。それが、原初の人類の「二本の足で立ち上がる」という体験だったのだもの。


50〜4,5万年前のヨーロッパのネアンデルタール人の社会にもそれ以後のクロマニヨン人の社会にも、「ネットワーク」の関係などなかった。人と人の関係においても集団どうしの関係においても、ただもうそのつどそのつどの「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」とともに離合集散を繰り返していただけなのだ。それが、彼らの男女が「家族」という関係を持たないで乱婚制(フリーセックス)の関係集団をつくっていたことの意味するところにほかならない。彼らは「家族」という予定調和のセックス関係など持たなかった。誰に対してもときめいてゆき、誰とでもセックスしていた。新しい相手とセックスすることは、昨日までのセックスの相手と別れることであり、それは別れることが平気だったのではなく、相手だって新しい相手とセックスるのだから、その関係はもう「かなしみ」とともに受け入れるしかなかった。「ときめいて」セックスしていったのだから、別れの際には「かなしみ」がともなうのは当然だが、そこでこそ寄り深い相手に対する「ときめき」が体験されているわけで、そうやって「別れ」の体験を受け入れるのが人類の普遍的な生態になっていた。そうやって人類は地球の隅々まで拡散していったわけで、ネアンデルタールクロマニヨン人は、その生態の遺伝子をもっとも豊かに引き継いでいる人々だった。
「別れのかなしみ=ときめき」が豊かに生成している社会においては、予定調和の「ネットワーク」の関係に執着などしていない。それがネアンデルタールクロマニヨン人の社会だったのであり、だからこそ離合集散の関係が豊かに起きて、たとえば海から100キロ以上離れた山間地で海の貝殻が考古学の証拠として発見されたりしているわけで、それはべつに100キロ以上の「交易圏=ネットワーク」が存在していたというようなことではない。原始時代に「交易」などなかった。ただもう人と人の関係として、「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」が豊かに生成していただけなのだ。
 人は根源・自然において「出会いのときめき」と「別れのかなしみ」を生きる存在であるのだが、そういう関係を生きられない今どきの大人たちが寄ってたかって予定調和のネットワークの関係に執着しつつ、そこにこそ人の自然があり理想があると合唱している。そういうブサイクな人間たちが、その予定調和の関係の中でかまわれちやほやされることの満足に浸ってゆこうとしている。
 しかし人間社会のダイナミズムはほんらい、誰もが裸一貫の「ひとり」の存在として、そのひりひりした孤立感の場に立って世界や他者の輝きにときめき合ってゆくことにある。人は「別れのかなしみ」を受け入れている存在だからこそ豊かな「出会いのときめき」を体験しているのであり、そうやって人間社会に「おはよう」という挨拶が生まれてきたのだ。人間的な「連携」のダイナミズムの基礎は「おはよう」という挨拶にある、といってもいい。


人類は、生き延びるために「連携」してきたのではない。「今ここ」でときめき合っている関係が、「連携」というかたちになっていっただけのこと。
 氷河期の極寒の空の下に置かれていた北ヨーロッパネアンデルタール人は、誰もが「生きられない存在」だったのであり、だからこそ誰もが他者を生かそうとしていった。
 人類は、二本の足で立ち上がることによって「サービスの文化」を持った。その姿勢は、他者に対するひとつの「献身」だった。
これは、たんなる人類学の学説という範疇だけの問題ではない。われわれのこの生において、人の世に執着しながら人にちやほやされてよろこんでいるだけが能じゃない、人の世からはぐれていったところで生成している「出会いのときめき」や「別れのかなしみ」こそが人と人の関係をより深くも豊かにもしている、という問題でもある。
あなたの「おはよう」という挨拶は、人を笑顔にさせることができるか?
平和で豊かな社会がいけないわけではもちろんないが、人は、社会からはぐれて(解放されて)いった心を共有しながらときめき合っているのだし、この世の豊かな知性や感性の持ち主は、どこかしらで心が社会からはぐれてしまっている。それは、社会から置き去りにされてしまっているということであり、彼らは「この世のもっとも弱いもの」でもある。
「あなた」が素敵な笑顔の持ち主だとすれば、それは「この世のもっとも弱いもの」の笑顔でもある。
もっとも高度な知性や感性というか究極の人間性を「社会からはぐれてゆく」とか「この世のもっとも弱いもの」に置くというイメージは、人類普遍の無意識であり、たとえばそれが「乞食の姿に身をやつした神」などという話になってゆく。
 この世からはぐれながらこの世のもっとも低いところからこの世を見るという視線は、「神の視線」でもある。神は天国から人の世を俯瞰している、という共同幻想もあれば、神はこの世のもっとも低いところから人の世を眺めている、という人間としての無意識(実存感覚)もある。
 人の心は、どこかしらで集団からはぐれながら、そしてときめき合っている。そういう「別れのかなしみ」が、人の心をときめかせる。死んでゆく人はどうしてこんなにも愛おしいのだろう、という思いとともに人類の歴史が流れてきたのだ。
 平和で豊かな社会が人と人のときめき合う関係をつくるのではない、たとえ平和で豊かな社会でも、社会からはぐれてゆかなければ「ときめき」は生まれてこないし、豊かな知性や感性も生まれてこない。
人間性の基礎は<承認願望>にある」と吹きまくっている内田樹なんて、ただの「かまってちゃん」じゃないの。かまってもらえないことの不満=ルサンチマンを膨らませて生きてきた人間が今ようやくかまってもらえるようになってその満足に浸っているらしいが、そういう人間はもともと人にかまわれることの鬱陶しさを知らないわけで、そういう人間ほど人をかまいたがるし、そうやって現代社会の閉塞状況が生まれてきている。今どきは、かまいたがりでかまわれたがりの鬱陶しい大人たちがあふれている。そんなネットワークの関係をつくりながら、そこからはぐれていった人間をますます生きにくいところに追い詰めている。彼らは、そんな「かまってちゃん」の自分が人間のスタンダードであると思い込み、他人も自分と同じ「かまってちゃん」にしようと無作法にかまってゆくことには勤勉で、それが彼らのいう「共生」であるらしいのだが、そんなことばかりしていてもすでに世界や他者に対する「ときめき」はなく、やがては認知症鬱病やインポテンツになってゆくだけなのだ。