都市の起源(その五十二)・ネアンデルタール人論203

その五十二・なりゆきまかせ……都市論のまとめ

人類史において、「村」が発展して「都市」になったのではない。
村はいつまでたっても村であり、都市は、最初から都市的な性格を持って発生してきた。
たとえば、日本史で最初の都市集落を弥生時代奈良盆地だとすれば、そこはもともと湖ともいえるような一面の湿地帯だったのであり、集落はほとんどなかった(一部の浮島のようになった小高い部分やまわりの山すそに小さな集落が縄文時代からあったにせよ)。
しかし、弥生時代の気候の乾燥寒冷化とともにしだいに水が干上がってゆくにつれ、たちまち日本列島でもっとも人口が密集した都市集落になっていった。
弥生時代でもっともダイナミックな人口爆発を起こしたのは、奈良盆地だった。そしてそれは、もともとの小集落の人々が産めよ増やせよの勢いとともに自力で人口を膨らませていったのではなく、まわりの地域からそこにたくさんの人々が集まってきたからだ。
はじめに、その干上がった土地で、まわりの地域から集まってきた人びとの「祭りの場」が生まれた。そこを起点にして「都市集落」になっていったのであって、縄文時代からの住民がつくったのではない。
都市の本質は、人と人が「もう死んでもいい」という勢いで他愛なくときめき合ってゆく「祭りの場」であることにあるのであって、生き延びるための生産活動の場であるのではない。
人は、生き延びるために都市に集まってくるのではない。生きることに倦んで集まってくるのだ。そういう「けがれ」をそそぐ「みそぎ=祭り」の場として都市が生まれ育ってきた。
都市は、どこからともなく人が集まってきて生まれた場所であって、食料資源が豊富だったからというような経済的理由でもとの集落がそのまま人口を増やしながら大きな集落になっていったのではない。世界中どこでも、食料が豊富だったから都市になっていったのではなく、都市になったから少量食糧生産が盛んになってきただけのこと。まあそういう意味で、人類史において、農業を覚えたことが都市集落の発生を可能にしたともいえる。
問題は、なぜ都市に人が集まってくるのかということだ。これは、人類拡散の問題でもある。
現在においては、食糧生産がもっとも盛んなのは「村」であって、「都市」ではない。
村にいれば、食うことはなんとかなる。都市で暮らせば、食うために金を稼がないといけない。それでも人は、都市に向けて旅立ってゆく。食うため生きるために人が集まってくるのではない。むしろ、生きることに倦んで集まってくるのだ。
これは、原始時代の「人類拡散」の問題でもある。現在の人類学者のほとんどは、原始人が食うため生きるための理由で地球の隅々まで拡散していったと考えているらしいのだが、そんなことはありえない。拡散していった先は、つねにもとの土地よりも食うこと生きることがままならなかったのであり、それでもそこに住み着いていった。氷河期明けの人類だって、住み着いた結果として農業を覚えていったにすぎない。

はじめに都市集落があり、そのあとに農業が発生してきた。これは、考古学の証拠として証明されている。人類史最初の都市集落だといわれている9000年前のトルコ南東部のチャタル・ヒュユクの遺跡においては、8000人の人口がありながら、まだ農業をしていなかった。
そこは、8000人がまるごと一緒に暮らす、一種の集合住宅だった。もちろん高層建物ではなく、平屋の家がすべてくっつき合っているという構造だったのだが、それぞれの家の出入り口は屋上にあった。おそらく、あとからどんどん新しい家をくっつけていったのだろう。そうやって、どんどん人が集まってきたのだ。
その集合住宅は、まったく計画性もなく、なりゆきまかせでそこまで大きくなっていった。なりゆきまかせだから、そこまで大きくなることができた。
なりゆきまかせ……おそらく誰もがなりゆきまかせのその日暮らしの生き方をしていた。べつに、何かを当てにして集まってきたのではない。当てもなくやってきたのだが、結果として人と人の「出会いのときめき」があった。その「ときめき」のままに、どんどん新しい家をくっつけていった。そんなつくり方をしていれば、親族や仲間どうしが固まるということはできない。新しくできた子や孫の世代は、さらに外側に家をつくってゆかねばならない。しかしその外側で、新しい「出会いのときめき」があった。
彼らが農業をしていなかったということは、食糧生産のことなど気にしなくてもいいくらい豊かな環境があったということかもしれないし、なくてもかまわなかったのかもしれない。彼らは「なりゆきまかせ」のその日暮らしだった。生き延びるための食料を求めて集まってきたのではあるまい。
8000人もの人口が平等に恒常的に食料を得ることなんか、どんなに恵まれた環境があったとしても不可能に近い。自然のなりゆきが相手であれば、多くの人がひもじい思いをする季節もあったかもしれないが、それでもかまわなかったのだ。そしてそのひもじさが、農業を覚えてゆく契機にもなったのだろう。

土の中に一粒の種がやがて成長して実をつけるということ、人類がそれを知ったのは、「未来に対する計画性」によるのでもなんでもない。ひとつの「結果」として「今ここ」において「発見」したのだ。小さな芽が出てしだいに成長してゆきやがて実をつけるということ、そういう現象をそのつど興味深く見守っていったことの「結果」として「発見」される。彼らは、いきなり「種が実になる」と知ったのではない。あくまで「今ここ」に対する「好奇心=ときめき」とともにその過程を見守り続けた「結果」としてその事実を知ったのだ。そしてその種を土に植えてみるという「実験」を最初にしたのは、もしかしたら大人ではなく、「なりゆきまかせ」で「今ここ」を生きている子供の「好奇心=ときめき」だったのかもしれない。あるいは、誰もが子供のようなそうした他愛ない心を持っている社会だったのかもしれない。
種を植えてみようとしたのは、それが成長してゆくことに立ち会うそのつどの「発見=ときめき」があったからで、べつに実をつけさせることだけが目的だったのではない。最初は、その成長してゆくさまが面白かったのだ。それを面白がる「ときめき」なしに「農業を覚える」ということは実現しなかった。
まあ、「飢えたから」ではない。飢えたってかまわない「なりなりゆきまかせ」の生き方をしていたからこそ、農業が生まれてきたのだ。
たとえば科学者がある「実験」をしてその「結果」を「発見」するということは、「結果を予測する」という「未来に対する計画性」だけですむものではなく、そこにいたるまでの過程が興味深く注意深く検証されている。実験の装置を起こしてあとは結果が出るのを寝て待てばよい、というわけにはいかない。その過程をきちんと検証しなければ、結果の必然性は証明できない。最初から「結果」がわかっているのなら、「発見」でもなんでもない。「発見のときめき」もない。彼らは、「未来に対する計画性」を第一義として生きている人種ではない。だから、原子爆弾だってつくってしまう。そのことは、誰も責められない。その「今ここ」に対する豊かな「ときめき=好奇心=反応」こそが人間性の自然・本質なのだから。
本格的な科学者は、「未来に対する計画性」を持った人ではなく、「今ここ」の「出会いのときめき」を豊かに生きている人なのだ。まあそこにおいて研究者としての一流と二流の差がつくというか、二流三流の歴史家ほど、「人類の知能は<未来に対する計画性>によって進化発展してきた」などといいたがる。内田樹だってそういうたぐいの歴史家のひとりであるし、今どきは「よりよい未来をつくる」という「計画性」が正義の世の中になっていて、そのぶん「今ここ」に対する他愛なく豊かな「ときめき」を失いがちになってしまっている。そんな正義のスローガンで人と人が支配し合う世の中になってしまっているのだろうか。内田樹をはじめとして、そんな大人たちがうようよあふれ、のさばっている。
人間性の自然・本質は、「生き延びる」ための「未来に対する計画性」にあるのではなく、「もう死んでもいい」という勢いで「今ここ」に対して他愛なく豊かにときめいてゆくことにあり、そうやって人類は知能を進化発展させてきたのだ。
人類が農業を覚えたことは、あくまで「今ここ」に対する「好奇心=ときめき」だったのであって、「未来に対する計画性」だったのではない。

人類の農業は、「都市」において発生した。まあ日本列島においては、都市としての大集落を持たなかった縄文時代から米作りがはじまっていたのだから、そういう意味では、都市的な「今ここ」に豊かに反応しときめいてゆくメンタリティとともに生まれ育ってきた、というべきかもしれない。都市とはほんらいそういう即興的な「エスプリ=機知」が豊かに生成している場であり、生き延びるための「未来に対する計画性」によって人と人が縛り合っている場であるのではない。
縄文人は、そういう人と人が縛り合う関係から逃れるようにして、都市的な大集落をつくらなかった。三内丸山遺跡の最大500人くらいの集落だって、縄文中期には消滅してしまっていた。しかし皮肉なことに、そのころから米作りがはじまっている。彼らは都市という大集落をつくらなかったが、すでに都市的なメンタリティとしての「エスプリ=機知」を豊かにそなえていた。その即興的な「エスプリ=機知」によって米作りを覚えていった。それは、渡来人から教えられたのではない。そのころ渡来人などひとりもいなかったのであり、あくまで自力の「実験」と「発見」を繰り返しながら覚えていったのだ。人間とは、その自然・本質においてそういうことをする生きものであるらしい。
「実験」とは、「問う」ことであり、「未来を計画する」ことではない。未来など計画していないから「発見」するという「ときめき=反応」が生まれる。都市とはほんらい、「今ここ」で「問うエスプリ=機知」と「反応するエスプリ=機知」が豊かに生成している場なのだ。そうやって人と人の他愛なくときめき合う関係がつくられてゆく。そういう官能性を失ったら都市での暮らしは成り立たないし、都市にはそういう「なりゆきまかせ」の生きにくさを生きている人がたくさんいる。生きにくさを生きる場が都市であるともいえる。
生きにくさを生きながら、生きにくさを嘆きながら、豊かな人間性や知性や感性が育ってゆく。
人間なら誰だって、どこかしらに生きにくさを受け入れてしまう心の動きを持っている。心は、そこから華やぎときめいてゆく。「死にたい」と思うのが人の心のつねだが、それでも、そこから心が華やぎときめいてゆくことを避けることもできない。「もう生きられない」と思えるのに、それでも生きてしまっている。われわれはたぶん、そういう「生きてしまっている」状態が衰弱しながら死んでゆくのだろう。
それでも人は「生きてしまっている」し、そういう状態が衰弱し消えてしまったら、生きる必要もないのかもしれない。これはたぶん「安楽死」とか「延命治療」の問題なのだろうが、とりあえずここではそれをどうこう言うつもりはない。
何はともあれわれわれは「すでに生きてしまっている」わけで、因果なことに世界は輝いている。
食うこと生きることよりももっとラディカルに人を動かす契機がある。それは、人と人がときめき合う体験だ。その体験こそが人を生かしている。なんのかのといっても、誰だって、好きな人と一緒にいたいと思うではないか。
人は、人に、というか世界の輝きにときめいて生きている。その体験がなければ生きられない。その体験によって「すでに生きてしまっている」。
すべては赦されている、ということ。
今どきは、人を裁くことばかりして生きている大人たちがうようよいる。そういう大人たちから順番に「すでに生きてしまっている」という命のはたらきを衰弱させてゆくのだし、そういう上から目線の正義ぶった大人たちはちっとも魅力的じゃない。その、たいして好かれないというみすぼらしさをカバーしようとして、ますます自分に執着してゆく。自分の正当性に執着しながら人に嫌われ、命のはたらきを衰弱させてゆく。
命のはたらきを衰弱させてゆくとはつまり、精神的にも身体的にも、「世界の輝き」に対する「ときめき」を失ってゆくということ。この悪循環の中で、人としてのセックスアピール(=人間的魅力)を失いつつ、認知症やインポテンツになってゆく。彼らは、自分が思う(うぬぼれる)ほどには人に好かれていないことに不平不満を抱いている。それを埋めようとして人を支配しようとしたり媚を売ったりしてゆくか、あるいは「誰も自分の魅力がわかっていない」と居直ってミーイズムに閉じこもったりしている。そうやって彼らは、つねにまわりの世界に対して警戒し緊張している。つまり、「なりゆきまかせ」の無防備な生き方ができない。それはきっと、しんどいことだろう。そうやって無理に無理を重ねながら、認知症やインポテンツになってゆく。
彼らは、自我の安定をともなった「快適な暮らし」を求めている。そして都市の起源や本質について語る研究者の多くもまた「都市とは快適な暮らしを追求する空間である」と考えているらしいのだが、それは違う。そうやって都市国家の支配者が登場してきたし、それが現代の都市住民の病的な傾向であるとしても、都市の起源の契機はそういうところにあるのではない。

起源としての都市住民は、農業も知らず「なりゆきまかせ」のその日暮らしの生き方をしていた。農業という安定した食料生産の手段を持たないまま、「快適な暮らし」とともに8000人もの集合住宅がいとなまれていたはずがない。「生きにくさ」や「生きられなさ」を受け入れながら都市が生まれてきたのであり、生きにくくてもそこには「出会いのときめき」があった。都市国家になってから「快適な暮らし」のためのインフラが整備されていったにせよ、それはそれまでの都市集落がそれほどに生きにくい空間だったことを意味する。
自我の安定・充足を生きよとする都市国家は、外部の世界に対する憎悪と警戒と緊張をたぎらせている。そのためにまず城砦・城壁というインフラが整備されていった。そうやって支配者は「出会いのときめき」を生きる心を失ってゆき、「内部」の安定・充足に邁進していった。
都市の自然・本質は、けっして「快適な暮らし」を求めることにあるのではない。世界中の都市のスラム街は、田舎の村よりももっとインフラの整備が遅れ、混沌としている。都市は、必然的に貧困を生み出す。そうしてその生きにくさ生きられなさを受け入れてしまうのも都市住民の心なのだ。なぜなら人は、根源的には生き延びることができる「快適さ」を求めているのではなく、「もう死んでもいい」という「出会いのときめき」を生きている存在だから。いやだいやだと嘆きながら、それでもそれを受け入れてしまう。どんなに嘆いても「すでに生きてしまっている」のであり、「世界の輝き」にときめき生かされてしまっているのだ。
人は、どんな不幸も受け入れることができる。それは、自分が自分であることを受け入れる、ということだ。青い空を見て青い空だと認識することだって、つまりは意識が網膜のはたらきをそのまま受け入れているということだ。そのようにしてわれわれの心は、この生に支配されている。
都市が「快適な暮らし」の場でなくてもそれを受け入れることができる。スラム街の住民だってまぎれもなく都市住民であり、彼らこそより本質的な都市生活者だともいえる。
人の心は、「生きられなさ」を生きながら活性化してゆく。都市には、そういうアクロバティックなダイナミズムが生成している。
生き延びるための「快適な暮らし」を求めて都市に人が集まってくるのではない。人は、この生に倦んで旅立ってゆく。そういう「退屈」というか「けがれ」の意識を抱えながら、「もう死んでもいい」という勢いで都市に集まってくる。しかしだからこそ、そこで無防備で他愛ない「出会いのときめき」が体験される。それが、都市の心なのだ。
人は、根源において、「生きる」とか「自分」とかということに倦んでいる。しかしだからこそ心(意識)は、「生きる」ことの外の「非日常の世界」や「自分」の外の「他者や環境世界」に憑依しときめいてゆく。まあそうやって人類拡散が起き、都市が生まれてきたのだ。
自我の安定充足とともに「快適な暮らし」をしている幸せな人が、「世界の輝き」により豊かにときめいているというわけではない。自我の安定充足に執着しきった頭の悪い大人に、そんないじましい幸せ自慢をされたり正義づらして裁かれたりすると、ほんとにむかつくしうんざりさせられる。僕なんか、そういう大人たちから見下されて生きているわけで、それでも自分なんかこの世の最低の人間だと思っているから、ひとまず「はいそうですか」と聞いておくしかない。ほんとにくだらないなあバカだなあと思うのだけれど、反論することをためらってしまう思いがどこかしらで疼いている。そうやって「うしろ姿」や人生がしぐれてゆくのだろうか。