無防備な存在・「天皇の起源」2



このページでは、天皇奈良盆地の外からやってきた征服者であるという立場はとらない。
天皇の起源が、そういう政治の問題だとは思わない。
もともと天皇は政治的存在ではないし、現在もそうだろう。
天皇が政治の実権を握っている時代もあったが、そうではない時代の方が長いし、それでもこの国でずっと天皇制が続いてきたことは何を意味するのか。
もともとそういう存在ではなかったからだろう。
天皇が政治の場面の主役として登場してきたのは、大化の改新のころからだろうが、100年もしないうちにその実権の多くは失われていった。
しかしそれでも、天皇という存在が否定されることはなかった。
日本列島の住民には、どうしても天皇が必要だった。
けっきょく天皇は「神」あるいは「象徴」として存在し、政治の実務は側近が引き受ける、というかたちが基本なのだろう。
日本列島住民の多くはもともと政治が嫌いで、政治が好きな権力者たちも、天皇がしないからしょうがなく自分が汚れ仕事を引き受ける、というポーズをとるしかなかった。
また、どんな権力者も、自分が天皇以上の存在として民衆の上に君臨できるという自信がなかった。
支配することはできても、君臨できる自信はなかった。
日本列島の住民は、たぶん支配しやすい民族である。天皇が存在するから支配しやすいのかもしれない。日本人の天皇に対する親密な感情は、日本人を支配しやすい民族にさせている。
しかしまあ、ここでは、天皇大和朝廷の成立以後にどのように存続し機能してきたのかということが問いたいのではない。
あくまで大和朝廷成立以前のことが気になる。
天皇は、大和朝廷の成立とともに登場してきたのではない。それ以前の弥生時代奈良盆地の住民から祀り上げられてきた存在であった、と僕は考えている。
天皇は、支配者ではなかった。奈良盆地の民衆に祀り上げられていたシンボル的存在だった。



弥生時代奈良盆地に、王朝など存在しなかった。豪族すら存在しなかった。階級も存在しなかった。いわば、原始共産制のような社会だった。
纏向遺跡は王朝跡だの邪馬台国だのといわれているが、大きな都市集落が必ずしも王朝であったとか階級が存在したという証拠にはならない。
9千年前のトルコ西部では、すでに1万人近い規模の都市集落をつくっていたらしいが、そこには階級も政治組織も存在しなかったといわれている。
人類の歴史は、おそらく世界中のどこにおいても、原始共産制の都市集落の段階を持っているのだ。
日本列島において最初の都市集落が出現したのは2千数百年前の奈良盆地であったが、まだ政治組織も階級も存在しなかったはずである。
日本列島は、世界中のどこよりも階級や政治組織が発生するのが遅かった。それは、日本列島の住民がもともとそれほどに階級意識や政治意識が希薄な民族だったことを意味している。
したがって、天皇制の起源を政治支配の問題として解釈することには無理がある。
しかし纏向遺跡が証明するように、弥生時代の後期には大きな都市集落になっていたことも確かである。
であれば、その大きな集団の連携の形見として、天皇の起源となるような存在が民衆によって祀り上げられていた、ということは考えられる。



人間の集団がうまく機能するには2、3百人が限度だという説がある。軍隊の一個師団もその範囲で構成されているし、ネアンデルタールやクロマニヨンの集落も同じだったはずで、ひとまずその範囲で収まるのが自然なのだ。
しかし都市集落は、その限度をはるかに超えている。人間は「なりゆきまかせ」の存在だから、いつの間にかそんな規模の集団になっていた、ということが起きる。
世の歴史家がいうように、人間の本性や知能が「戦略的に生きる」とか「未来の計画を立てる」ということにあるのなら、けっしてそんな規模の集団にはならない。そういうことをしない「なりゆきまかせ」の存在だからそんな規模になってしまったのだ。
そして日本列島の住民はそんな「なりゆきまかせ」の傾向がもっとも色濃い民族であると同時に、じつは世界中の人間がいまだにそういう傾向を共有している。
で、人類は、その大きくなり過ぎた集団をそれでも「なりゆきまかせ」で運営していこうとした。それが人間の自然なのだから当然である。纏向遺跡や先に挙げたトルコ西部の九千年前の都市集落の遺跡はそのサンプルである。
そうしてさらに大きくなってぎくしゃくしてきたとき、それに乗じて階級や支配が生まれてきた。おそらく大陸にはスムーズにこのかたちに移行してゆく条件があったのだろう。
しかし日本列島では、あくまで「なりゆきまかせ」の作法でやってゆこうとしたし、それができたのは、天皇の起源となるシンボル存在が生まれていたからだろう。その存在を形見にして人々が連携してゆくことができた。
支配者などいなくても、「なりゆき」で連携してゆくことができた。
天皇を祀り上げる集団にはそういう先験的な連携が機能しているから、かんたんに支配してしまうことができるのだ。



戦後のアメリカによる進駐軍支配に対して日本人があんがい従順だったのも、おそらく天皇制が残されたからである。
進駐軍支配が一段落したあとに天皇が全国に行幸していったときには、民衆は熱狂的に歓迎した。あんなにも進駐軍支配に唯々諾々としてしたがっていた民族が、である。そんなにも進駐軍になついていたのなら、人間宣言した天皇なんかどうでもよくなっていたはずである。でも、実際はそうではなかった。天皇を祀り上げることが保証されていたから、進駐軍になついてゆき、その支配をかんたんなものにしていたのだ。
これは、奈良時代から平安時代にかけて藤原氏が実効支配していたことや、武士政権がその「天皇を温存する」というやり方を踏襲していったことだって同じである。
天皇を祀り上げさせておけば、日本列島の民衆を支配することなんかかんたんなのだ。先験的な連携を持っているから、ひとりを支配すれば全員を支配することになる。歴代の権力者は、そうやって天皇を支配しようとしたのかもしれない。天皇を「殺す」ことよりも「支配」することを選択した。
たぶん、アメリカの進駐軍だって、それを選択したのだ。言い換えれば、進駐軍だって、そういう日本列島の空気に染められてしまった。彼らは、もともと徹底的に責任を追及する民族なのである。なのに、天皇を退位させることすらできなかった。
日本列島の住民は、天皇に対する「甘え」のような感情を共有している。いったんそのような「すきだらけ」の心模様になって、無防備に他者にときめき連携してゆく。
これが、弥生時代奈良盆地で生まれてきた集団の作法だった。



そしてこの作法の水源は、原初の人類が二本の足で立ち上がっていったところまでさかのぼることができる。。
それは、不安定なうえに、胸・腹・性器等急所を外にさらしている、とても無防備な姿勢である。猿としては絶対取ってはいけない姿勢であり、だから、そういう姿勢をとるときは心持前かがみになっていつでも四本足の姿勢に移れる準備をしている。
しかし人類は、そのとき背筋を伸ばしてまっすぐ立っていった。そんなことをすればなお倒れやすいし、なお攻撃されたらひとたまりもないというのに、である。
そうして、たがいのそんな「すきだらけ」の状態を忘れてときめき合い連携していった。
また、倒れやすい姿勢だからこそ、それを逆手に取ったような、体の重心を前に倒せば自然に足が前に出てゆくという自動的な歩き方が生まれてきた。これもまた「すきだらけ」の無防備な歩き方だといえる。
原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、「正面から向き合う」という関係をつくっていった。それは、おたがいに「すきだらけ」の無防備になってときめき合うという関係だった。
目の前に他者の身体があるということが知らず知らず支えになって、その不安定な二本の足で立つという姿勢が安定してゆく。警戒心があれば、後ろによろけてしまう。しかしそうした警戒心を捨てて、ひたすら無防備にときめき合っていった。そういう関係を持ちながら、その姿勢が常態化していったのだろう。
そしてそれが発展して正面から抱き合うという行為が生まれ、さらには正常位のセックスという体位になっていった。
「すきだらけ」の無防備な姿勢になってときめいてゆくこと、これは不自然な行為か。
そうじゃない、鳥のオスが羽を広げて求愛行動することは、相手の前に「すきだらけ」の無防備な姿勢をさらすことだろう。だから、メスが気に入らなければ、かんたんに追い払われてしまう。また、そんなときに外敵に襲われたらひとたまりもないだろう。それでもそういうことをするのが、生き物の自然なのだ。
生き物は、生き延びる戦略だけで生きている存在ではない。根源的には生き延びる戦略など持たないから、そういう生態が生まれてきたのだ。
根源的には、生き延びる戦略など忘れて「すきだらけ」の無防備になってゆくことが、生き物の自然なのだ。原初の人類が二本の足で立ち上がっていったことだって、猿という高等生物の生態から分かたれて原初の自然に遡行してゆく現象だった。



「すきだらけの」の無防備な姿勢になってときめいてゆくことこそが、生き物の自然であり人間の自然なのだ。本能、というか。
人類の歴史は、そのようにして発展進化してきた。
外敵を警戒して生き延びようとすることが生き物の本能なら、シマウマが、そばにライオンがいることを知りながら知らんぷりして草を食んでいるというような生態は、絶対に生まれてこない。
生き物は、根源において外敵を警戒するという本能を持っていない。
シマウマは、何度ライオンに襲われても懲りない。それはなぜか?
シマウマは、そばにライオンがいることをちゃんと知っている。それでも逃げないのは、逃げ切れる距離が保たれていることもあるが、そこに他者の身体があると認識することが、シマウマの身体存在に安定をもたらしているということもあるのだ。つまり、ライオンの存在が、ちゃんと立っていられることのつっかえ棒のような役割を果たしている。そういう実存感覚の問題もきっとあるはずだ。
そのときシマウマは、自分からどのようにライオンが見えているかということで距離をはかっているのであって、ライオンの目から自分はどのように見えているか、という意識はまったくない。だから、知らんぷりしていられる。
生き物の意識は、世界に対して無防備にときめいてゆく。つまり意識のはたらきの基礎として、「認識する」とはそういうことなのだ。
シマウマは、どこかの誰かのように、「死から逆算して=他者の目から見て」というような距離の測り方などしていない、ということだ。そういうまだるっこしい自意識過剰な距離の測り方をしているから、運動神経が鈍いのだ。
これは、弥生時代奈良盆地の人々がまわりのたおやかな姿をした山なみをこよなく愛していったことも同じである。その山々の存在が、人々の身体に実存的な安定を与えていた。
生き物の身体存在や意識のはたらきは、先験的に世界との関係の上に成り立っている。それはつまり、世界に対して無防備な親密さが基礎(本能)になっている、ということだ。
「警戒する」ということより、「認識する」ということの方が先験的本能的な意識のはたらきだろう。
警戒していたら正確には測れない。遠くに見えただけでも、あわてて逃げだそうとする。
運動神経が鈍いのは、世界や他者に対する警戒心という自意識が強すぎて対象との距離をうまく測れない、ということなのである。
シマウマは、そのライオンを無防備な親密さで見ているから、ライオンとの距離を正確に測ることができる。



弥生時代奈良盆地の人々は、まわりのたおやかな姿をした山なみに対する無防備な親密さを共有していた。おそらく、その心の動きの延長上に天皇という存在が生まれてきた。
彼らは、天皇という存在を祀り上げてゆくような資質を持っていた。いや、日本列島の住民全体が、そういう資質を持った民族だったのかもしれない。
奈良盆地の集落は、無防備な親密さで大きくなっていった。それが、生き物としての自然であり、もともと人間は猿以上にそういう存在なのだ。
彼らは、自然な「なりゆき」として、たがいに無防備な親密さを共有してゆけるような集団のシステムをつくり上げていった。
彼らは、支配者に使役されるというようなこと以前の、先験的な連携を持っていた。
先験的な連携を持っているから、日本列島の住民は支配しやすいのだ。
そしてこの連携がどこから生まれてくるかといえば、誰もが世界や他者に対する無防備な親密さを持っているからだ。
そしてそれは、天皇に対する「甘え」を共有しているからだ。
たとえば、天皇東日本大震災の被災地の避難所を訪問する。そうして天皇皇后から声をかけられた民衆は、おそれおののいて口もきけなくなるかというと案外そうでもなく、まるで甘えるような調子でいそいそと語り出す。
天皇自身が無防備なのだ。これは、支配者としての「王」の態度ではない。天皇は「王」として発生した存在ではない。
日本列島の民衆は、いったいどのような気分で天皇に甘えているのだろうか。
母に対するようにか?
父に対するようにか?
たぶん、どちらでもない。
縄文・弥生時代は乱婚制の女権社会で、父はまあ無意味な存在だった。
そして母は、家の中に閉じ込めようとする鬱陶しい存在であった。
人が甘えることができる普遍的な存在とは、どのような対象だろうか。それが問題であり、天皇とはおそらくそのような存在なのだろう。
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