文字も政治もなかった・「天皇の起源」14



世の中には目立ちたい人もいれば、そっとしておいてほしい人もいる。誰だって、人恋しいときもあれば、一人になりたいときもある。
この世の中は鬱陶しいものだという気持ちは、誰の中にもある。人間はそんな世の中をつくりたかったのではない。歴史のなりゆきで世の中というものが生まれてきてしまっただけだ。
世の中は鬱陶しいけど、人との出会いにときめかずにいられないのも人間である。世の中が生まれてきてしまったのなら、もう世の中で生きてゆくしかない。鬱陶しいが、ときめきもある。
現代社会はひとまず政治で動いているのだろう。しかし人類社会にそんな制度が生まれてきたのはせいぜい1万年前以降のことで、数百万年の人類の歴史からすれば、つい最近のことだといえる。
日本列島の政治の歴史など、二千年しかない。日本列島の住民が政治の意識に目覚めたのは、世界史的にはとても遅かった。
しかし政治がなかった時代の歴史が空白だったわけもなく、そのあいだに日本列島ならではの文化の洗練があったはずだ。
べつに政治意識に目覚めることが人類社会の進化発展というわけでもないし、政治意識が希薄な人間は頭が悪いというわけでもなかろう。
政治意識を持たないというかたちの洗練発達もあるし、政治意識を持ってしまうことの停滞もある。
政治談議にうつつを抜かしていることがそんなに立派か。そういう話をすれば、自分が賢くなったような気分になれるのか。それが大人であることの証であるかのように思いたがる風潮もある。
日本列島では歴史的に政治意識に目覚めるのがとても遅かった。二千年前の弥生時代までは、政治意識抜きで社会の構造や人と人の関係を洗練発達させてきた。それはこの国の歴史の財産だともいえるはずなのに、歴史家はもう、そのときすでに政治や階級や私有財産が存在していたかのようなことばかりいっている。彼らには、そんなふうに俗っぽくなってゆくことが歴史の進化発展だという先入観が抜きがたくあるらしい。



政治とは、人と人や国と国の緊張関係から生まれてくるものだろう。それをどうやりくりしてゆくのかという作法を政治という。
しかし原初の人類は、そういう緊張関係から解放されるかたちで二本の足で立ち上がり、猿から分かたれた。
もともと人間よりも猿の方がずっと政治的な存在なのだ。
二本の足で立ち上がった原初の人類は、猿のような緊張関係のない、他愛なくときめき合ってゆく関係をつくっていった。そして日本列島では、この原始的な生態のまま他愛なくときめき合う関係で社会をいとなんでゆく文化を洗練発展させてきたわけで、だから共同体(国家)が生まれるのがとても遅れたし、その後もその生態をずっと引きずってきた。
平城京には、城塞などなかった。平安京の京都の御所だって、堀も石垣もなく、塀の外を普通に人が行き交っている。君主が暮らす場所としてはいかにも無防備である。これが、他愛なくときめき合ってゆく文化を基礎に持っている国の作法なのだ。
大陸には、こんな無防備な王宮はない。
1万3千年前に氷河期が明けて以降、人の往来がさかんになって、大陸の人々は異民族との出会いを体験していった。異民族は、顔が違うし、言葉が違う。だから、どうしても緊張した関係になってしまう。集団内に異民族が入ってきて交じり合うし、集団どうしも緊張して警戒し合うようになってゆく。
おそらくそういう状況から政治が生まれてきたのだ。
しかし海に囲まれた日本列島では、縄文時代の1万年を、いっさいそういう体験がなかった。弥生時代に多少の大陸人が入ってきたかもしれないが、それまでの伝統文化のかたちが壊れるほどではなく、相変わらず他愛なくときめき合うという作法で集団をいとなんでいった。
それが「なりゆき」の文化である。
そしてこの政治など知らない状況から天皇が生まれてきたのであり、天皇はいまだに他者との緊張関係に無関心のまま他愛なくときめいてゆくという「姿」をもっとも確かに体現している存在であり続けている。そういう人間でなければ、あんな無防備な御所で暮らし続けることなんかできない。これが、天皇の「処女性」である。



弥生人のほとんどは大陸からやってきた渡来人である、というような説がある。そんなのは嘘だ。やってきたのは、おそらく全人口の1パーセント以下だろう。それでもその血が混じれば、いつかは誰もがその血(遺伝子)のキャリアになってしまう。誰もが縄文人の血も渡来人の血も持っている。
そんなことはどうでもいい。
日本列島の住民は、弥生時代になって平地に下りてきて農業をいとなむようになり、爆発的に人口が増えていった。縄文時代に人口が増えなかったといっても増えないような生活をしていただけで、そのままの縄文人でも生活が変われば人口は増える。
弥生時代奈良盆地は、日本列島でもっとも縄文的な生態とメンタリティを残しつつ、もっとも大きな都市集落へと膨らんでいった地域である。
地理的にいっても、九州や中国地方よりもはるかに大陸の影響は少なかったはずである。それでも、やがては大和朝廷という都市国家として九州や中国地方を凌駕していった。
歴史家の常識では、九州や中国地方の方が先に成熟した都市国家を持ったことにしないとつじつまが合わない。で、それらの地方の豪族たちが奈良盆地に連立政権をつくったという話になる。
大陸の文化を輸入すればすぐに大きな都市国家をつくれるというものではない。もっとも日本列島的だった奈良盆地が、日本列島的にどこよりも強大な都市国家へと移行していったのだ。
それまでの日本列島の伝統を壊してすぐ大陸的な都市国家へと移行してゆくということができるはずがない。人間はそんな生き物ではないし、そんなことをしようとすると、あれこれ混乱やほころびが生じてくる。
奈良盆地大和朝廷が日本列島を制覇したということは、日本列島では基本的に縄文人弥生人に変わっていっただけだ、ということを意味する。
おそらく弥生時代奈良盆地は、縄文人の末裔ばかりだったのだ。



畿内地方は弥生系ののっぺりした顔が多いと聞くが、飛鳥時代以降の采女という制度からはじまって、歴史的に列島中から畿内にやってきた女の中でのっぺりした顔の女の方が男を見つけてこの地に定着してゆく率が高かったのかもしれない。朝廷のおひざ元であるし、のっぺりした顔の女が好まれる土地柄なのだろう。公家はもう、伝統的にそういう顔の女が好きだし、庶民のあいだでもそういう顔の女の方が子を産む機会が多かったのかもしれない。
北部九州と違ってもともと弥生系朝鮮系ののっぺりした顔が少ない地域だったから、のっぺりした顔が好まれ増えていったのかもしれない。とにかく、江戸時代以前までの日本列島は、畿内に人が集まってきていたのだ。
弥生時代奈良盆地縄文人の末裔ばかりだったのであり、縄文時代の延長のメンタリティで大きな都市集落になっていったのだ。縄文人は、たとえ小集落の歴史を歩んできても、すでに大きな都市集落で暮らすことのできるメンタリティをそなえていた。縄文時代のメンタリティを引き継いでゆける状況があったから、大きな都市集落になっていったのだ。
そのとき、時代は変わったが、人間が変わったのではない。
日本人は朝鮮人の子孫だなんて、やめてくれよと思う。井沢元彦とか、政治でしか古代を考えられない連中は、そんなくだらないことばかりいっている。
日本人が弥生時代朝鮮人の子孫であるなら、とっくに朝鮮にも朝鮮の天皇がいる。そして日本語なんかとっくに滅びている。
半島人ほど異民族との負の緊張関係を強く抱えている民族もいないし、島国の人間は異民族など知らない。弥生時代の時点で、おたがいすでにそういう氷河期明け以来1万年の歴史を歩んできていたのであり、そういう伝統で分かたれていたのだ。
われわれは朝鮮半島の人々とのあいだにおたがい同じ人間だという共通項は持っているが、同じ伝統を持った民族であるのではない。
少なくとも氷河期明け以降の歴史においては、日本列島の伝統は、朝鮮半島からやってきた人々がつくったのではない。縄文時代以来めんめんと受け継がれてきた固有の伝統がある。



縄文人は、見知らぬ他者に対して警戒心を持たないメンタリティを持っていた。これは異民族がいない社会だったから可能であったのだろうが、そういうメンタリティを持っていたから、数十人の小さな集落で暮らしてゆくことができた。その女子供だけの集落には、たえず見知らぬ旅の男たちが訪ねてきていた。その小集落の暮らしは、ある意味ですでに大きな都市集落の中で暮らしているのと同じだった。
この見知らぬ他者に対して警戒心を持たないというメンタリティが、奈良盆地をほかのどの地域よりも大きな都市集落にしていった。
そこは、最初からの住民がそのまま人口爆発を起こして大きくなったのではない。まわりからどんどん人が集まってきて大きくなっていったのだ。
そこは、まわりの地域や他者との緊張関係のないところだった。そういうところで本格的な政治が生まれ育ってくるはずがない。



弥生時代奈良盆地は、政治ではなく、「なりゆき」の語らいで集団が運営されてゆく社会だった。だから奈良時代には「しきしまの大和の国はことだまの咲きはふ国」といった。
「ことだまの咲きはふ」とは、「おしゃべりの花が咲きそろう」というような意味だ。
「ことだま(言霊)」とは、言葉の「あや=姿」のことであって、「言葉の霊魂」という意味ではない。弥生時代にはまだ「霊魂」という概念は存在しなかった。「たま」とは「充足・充実」する「感慨」とか「かたち=姿」のこと。霊魂という概念を持たなかった古代以前の人々は、それ以上の意味では「たま」という言葉は使わなかった。「言葉の霊魂」などという意味を帯びてきたのは、奈良時代以降のことで、それ以後はもうそれだけに限定して使われるようになっていった。しかし古代以前における言葉は、意味が限定されていないぶん、もっと豊かな「あや=ニュアンス」を持っていた。
言葉を「説得」という「政治」に使うようになって、意味が限定されてきたのだ。
しかし古代以前の言葉は、他者を説得するためのものではなく、言葉の「あや=姿」を感じ合い共有してゆくものだった。原始時代は世界中みなそうだったし、縄文人弥生人がそういう言葉の扱い方をしていたから、その後のやまとことばも、論理的な説得のための言葉ではなく、そのような身体感覚的なかたちで洗練していったのだ。
弥生時代奈良盆地の人々の集団運営のための語らい(会議)は、言葉から言葉へと類推変化してゆく「なりゆき」の語らいであり、言葉によって説得してゆく「政治」ではなかった。
だから文字を持とうとしなかった。それは、「政治」が存在しなかったということだ。
つまり彼らの語らい(会議)は、はじめにどんな結論にしようという政治的な意図など誰にもなく、言葉から言葉へと類推変化してゆく「なりゆき」に身をまかせ導かれながら結論にたどりついていったのだ。
これはもう、その後の時代の村の寄合会議だってずっとそうだったのであり、日本列島の住民の伝統的な会議の作法になっている。



日本人は、もともと無口な民族だったのではない。
弥生時代奈良盆地の人々は、とてもおしゃべりが好きだった。
人は、言葉の限定的な意味を意識したとき、無口になる。
言葉に限定的な意味がなければ、とりあえず口に出していってしまおうという気になる。古いやまとことばの場合、言葉そのものの意味は曖昧で多様で、音声や表情も加味され、はじめてそれが言葉の「姿=あや」になって話すものと聞くものが共有してゆくというような機能になっていた。
それは、口に出していってみないことには言葉にはならない。そこでは、誰もが言葉を口に出していわずにいられない衝動を持っていた。それが「ことだまの咲きはふ」という意味である。
口に出していってみてはじめて言葉になること、すなわち口に出していわずにいられない衝動を「ことだま」といった。
自分だってその音声がどんな「姿=あや」を持って現れるかは、口に出してみないことにはわからない。
そして、自分が親密な感情をこめて表出すれば相手がそれを受け止めてくれるという信憑があった。たとえ「ばか」という言葉でも。
何しろおたがい異民族ではないのだ。言葉の意味を限定して相手を説得する必要など何もなかった。
おたがい言葉の「姿=あや」を楽しめればいいだけだった。
日本列島の男は無口だというのは、それだけ男が言葉の限定的な意味にこだわる政治的存在になってきたからであり、日本列島の住民は言葉の限定的な意味にこだわってしまうと、とたんに何もしゃべれなくなる。そういう言葉の使い方の伝統を持っていないからだ。
西洋ではそれが言葉の本筋だが、この国ではそうではない。西洋人は言葉の意味を限定しながらおしゃべりになってゆくが、われわれにはそんなことはできない。それを意識すると、かえって無口になってしまう。
「ばか」とは「低能」という意味か。それだけの意味だったら、そうむやみにはいえない。しかし西洋は、そういってもいいという合意があるし、いわれてもへこたれないメンタリティを彼らは持っている。
われわれは、その言葉をそんな限定された意味では使っていない。
「ばか=はか」は「はかない」の「はか」でもある。「わからない」「あいまい」「不思議」というようなニュアンスがある。
「あなたってわからない人ね」「不思議な人ね」「そんなことをいわれたら私、困っちゃう」とか、まあいろんなニュアンスがある。それは、口に出したときの音声や表情やしぐさも加味されて、はじめて言葉の「姿=あや」になる。
口に出さないと、言葉にはならない。だから、やまとことばのこの国では、文字が生まれてこなかった。
文字が生まれてこなかったということは、それだけおしゃべりの花が咲いていたということであり、それはつまり政治がなかったということだ。
弥生時代奈良盆地は、文字が生まれてくるような政治意識が希薄だった。そういう状況でおしゃべりの花を咲かせながら大きな都市集落がいとなまれ、天皇が祀り上げられていた。



他者に対する警戒心や緊張感があるから、言葉は「意味」が重視され「説得」のための機能が強くなってゆく。大陸の言葉は、氷河期明け以降、そのようにして原初の言葉の「あや=姿」が変質していった。
しかし日本列島の住民は、原初の身体感覚的な言葉の「あや=姿」をそのまま洗練させていった。これが可能だったのは、異民族との緊張関係を体験することがなかったからだ。そうしてそれが高度に洗練発達していったから、弥生時代奈良盆地の大きな集団でも、「政治」というものを知らないで「なりゆき」のままの運営をしてゆくことができた。
起源としての天皇は、人々が無防備にときめき合っている社会から生まれてきた。そういう社会のもっとも無防備にときめいている存在として天皇が登場してきた。人間は、このような存在を否定することができない。ただの権威や権力なら引きずり下ろすこともできるが、この「姿」を否定することは誰もできない。この「姿」こそ、人間性の根源のかたちだからだ。
天皇の「処女性」。
後鳥羽上皇後醍醐天皇など、権力を目指すと天皇は引きずり降ろされる。それは天皇が否定されたのではない。「あなたは天皇ではない」と否定されただけだった。日本列島の住民は、どうしてもイノセントで無防備な存在としての天皇を祀り上げずにいられない衝動を持っている。それは、権力者が天皇をおもちゃにしてもてあそぼうとすることと同義なのだが、まあそういうことだ。彼らだって、天皇がイノセントで無防備な存在であるのなら「神」として祀り上げずにいられない。
天皇は、権力を持っていないときほど、より安定して君臨してきた。
天皇は、政治を知らない時代の民衆に祀り上げられて生まれてきた。
われわれが天皇を祀り上げているということは、われわれは政治を知らない民族だということでもある。
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