古事記と神道・「天皇の起源」15


日本列島の住民が文字とかかわるようになったのは、6世紀半ばの飛鳥時代の仏教伝来以後だといわれている。
仏教の経典によって、文字を知った。
そして、天皇の系譜が出来上がったのは、8世紀半ばの奈良時代になってからである。
最初に文字を知ってから200年もたっている。なぜすぐにつくろうとしなかったのだろう。
そのときに既存の系譜を改ざんし、書き換えたのだろうか。
どうもそうとは思えない。古事記を編纂した太安万侶は、「今までなかったから新しくそれをつくる」と力説している。
もしあったのなら「今までのは間違っているから正しく書き直す」というだろう。
もしあったのなら、みんな知っているはずだ。もともとみんなに知らせて天皇家の権威を誇示するためのものなのだから。
それまでそういう記録文書がなかったのだ。
天皇家にそんなことをしようとするような欲望はなかった。
天武天皇の時代になって、はじめて天皇家がその気になった。
天武天皇は、史上はじめて権力の中心になった天皇であるのかもしれない。そうして天皇の権威を誇示しないとまわりの貴族・豪族たちにいいように転がされてしまう、と思ったのかもしれない。
それまでの大和朝廷は、天皇が権力者ではなかった。権力は側近たちが握っていた。
天智天皇だって、皇太子(中大兄皇子)という側近の立場のときに権力を手中にしていたのであって、その後天皇になることは権力を誰かに禅譲することだったのかもしれない。
日本列島ではつねに天皇が決断し命令したという形式になっているが、明治天皇昭和天皇も、権力者たちに動かされていただけで、実際の権力など持っていなかった。
おそらく古代の天皇には、みずからの権威を誇示しようとする欲望も、そのような系譜を残そうとする欲望もなかった。権力を持っていないものが、何のために権威を誇示しようとするのか。
天武天皇が、ほとんど独裁者のような立場になって、はじめてその欲望を持った。



ただ古事記は、史実を記録した文書ではない。
そのころ奈良盆地の民衆は、自分たちが創作した神としての天皇の系譜の物語を語り伝えており、それをもとにして編纂していった。
しかしそれが「神」の物語になっているということは、それほど古い伝えではないことを意味する。というか、時代とともにどんどん変質していった物語である。そんなふうに語って、みんなで面白がっていたのだ。
最初の天皇はただの人間であったに決まっている。そういう正確な伝えはすでになかった。
語り部の仕事は、「語る」ことにあったのであって「伝える」ことにあったのではない。ここのところは大事だ。
みんなの前で面白く語って見せることが語り部の仕事だったのであって、文字がないからその代わりに記憶し口伝えで伝承してゆこうとか、そういうことではない。そんな意図があったら、とっくに文字が生まれている。
話の内容など、時代によってどんどん変わっていってよかった。
事実などどうでもよかったし、面白い話が事実だったのだ。面白ければ事実だと信じることができた。まあ人間の観念は、そういうはたらきを持っている。いまどきのUFOや生まれ変わりを信じる人たちのように。
もともと日本列島の住民は、記録を残そうとする意識が希薄だった。だから、文字を生み出さなかった。未来を思わない「なりゆき」の民族が、どうして記録を残すことを積極的にしようとするものか。
政治や権力とは無縁の民衆なら、なおさらである。
古事記は、奈良盆地の人々がただもうみんなで語り合う場を盛り上げるかたちでそういう話になっていっただけだろう。たぶん、「なりゆき」のままに、そのつど新しいエピソードが付け加えられたりしてどんどん変質してゆく話だったのだ。正確な記録を意識して語り伝えたのではない。
それはたぶん、奈良盆地の民衆が百年か二百年かけて創作した「お話」なのだ。
「記録」ではない。
彼らにとっては、記録を残すことよりも「今ここ」の語り合いの場を盛り上げることの方がずっと大切だった。そんなふうにみんなでホラ話を語り合っていれば楽しいだろうし、そのホラ話を事実だと信じていった。
それは、自分たちが暮らす俗世間の外の世界の話である。俗世間では起こり得ないというそのことが事実だと信じられる根拠であった。
そういうかたちで民衆もまた天皇をおもちゃにしてもてあそんでいたともいえる。これが、この国の天皇制の伝統なのだ。



仏もまあ神のようなものだろう。
もともとインドにはヒンズー教のいろんな神がいて、その神々よりもさらに上位の存在として仏がイメージされていった。だから仏教にはいろんな神話や説話が語られている。阿修羅とか毘沙門天とか、それらはもともとインドの神や鬼だった。
そういう神話や説話とともに民衆を教化していった。
日本列島に最初に入ってきたのはそういう偶像崇拝的というか物語的な仏教だった。だから、さまざまなキャラクターの仏像がつくられていた。
で、そのとき奈良盆地の民衆は、そうした仏たちの絢爛たる物語に対抗する天皇の系譜の神話をつくろうと試みていった。それが古事記ではないだろうか。
そうして天皇の系譜を神の系譜の物語にしたことによって、神社に祭神が設定されていった。
おそらく神社の祭神なんて、仏教伝来以後のものだ。
神社とはもともと起源としての天皇であるカリスマの巫女が踊る場所だったのであって、宗教施設でもなんでもなかった。
古墳時代になって、はじめて「民衆を支配しコントロールしてゆく」という政治に目覚めたものたちがあらわれてきた。
しかし支配者などいない歴史を歩んできた奈良盆地の民衆は、支配されたり教化されたりする経験がなかった。
民衆を支配するためには、まず民衆に「教え導かれる」という従順さを植え付けてゆく必要がある。そのための装置として今でも宗教が機能しているのだろうし、支配されたことのない民衆を支配してゆこうとするならなおさら神や仏という装置は必要に違いない。
たぶん、そのときの神道には、そのような宗教としての「教え導く」という機能はなかったのだ。
ただもう民衆が勝手にそのカリスマの巫女である天皇を祀り上げ、勝手に連携していつも集会所である「社殿」に寄り集まっては天皇について語り合って楽しんでいた。原始神道といっても、ただそれだけの機能しかなかった。
少なくとも弥生時代においては、民衆の勝手な語り合いの場を約束する存在として、天皇(=きみ)というカリスマが機能していただけだろう。
そういう民衆に「集団として教え導かれる」という体験をさせるためには、どうしても神や仏の宗教が必要だった。



世界中の「支配の発生」には、普遍的にまず「神や仏に教え導かれる」という宗教体験がともなっている。
支配者とは、「教え導く」という影響力に目覚めたものたちである。人間は、その究極の存在として神や仏をイメージしていった。
神や仏の教化力をたのんで民衆を支配してゆこうとすることは、支配者の普遍的な本能である。そのような動機で大和朝廷は、仏教を国家の宗教として導入することを決定した。
仏教が定着すれば天皇の存在なしでも民衆を支配できるかもしれない、という目論見もあったかもしれない。
何しろ天皇は、民衆を「教え導く」存在ではなかった。民衆が勝手に祀り上げていただけである。しかし奈良盆地の民衆は、教え導かれなくても勝手に連携してゆくことができていたし、天皇を取り上げたら民衆を連携させることは不可能だった。
だからけっきょくそのあと、仏を祀り上げる仏教と天皇を祀り上げる神道が国家の宗教として併存してゆくことになった。
そうして神道もまた、仏教に学びながら仏教に対抗しながら急速に宗教的な機能を持つようになっていったわけで、そのような現象として古事記という神=天皇の系譜の物語が奈良盆地の民衆によって語り伝えられてゆくことになった。
古事記は、弥生時代から伝えられてきた話ではない。仏教伝来以後に生まれてきた話なのだ。
弥生時代奈良盆地の民衆は、天皇を神だと思っていたのではない。仏教伝来によってはじめて「神」という概念を知ったのだ。
もともと天皇なんてただの舞姿の美しい巫女だっただけだが、それがどれほど貴重でありがたい存在であるかということも彼らは深く心に刻んでいた。
天皇は、奈良盆地の民衆が連携してゆくための大切な形見だった。
だから、仏教を国家宗教にしても、民衆から天皇を奪うことはできなかった。その代わり神道も、そこから大きく仏教的に変質していった。「教え導く」というかたちに。



大和朝廷が仏教伝来を決める前は、さまざまな権力闘争や内乱や疫病の蔓延とかがあったというような文書が残されているが、そんなものは後世の権力者の勝手なつくり話にすぎない。文書に残されているからそれが史実だと決めつけて教科書にまで記されているなんて、ほんとに愚かなことだと思う。
なぜ仏教を輸入しようと決めたかといえば、権力者が支配のシステムを確立しようとしたからだ。支配のシステムを確立してゆくためには仏教のような「教え導く」宗教を定着させてゆくことがどうしても必要だと、だんだん気づいていったのだ。それ以外の何があるものか。
国難があったから仏教が採用されたということにすれば、仏教の正当性の証になる。そういう権力者の論理を真に受けてうなずいてしまっている現在の歴史家も困ったものだ。
権力者の記録文書というのは、ひとまず眉に唾をつけて聞いておくくらいでちょうどいい。
民衆を支配してゆくためにはどうしても仏教が必要だと思ったから古代の支配者はさかんにその普及に努めたのだが、神道がなくなることもなかった。それは、その時点で神道はまだ宗教でもなんでもなかったからだ。
民衆を教化支配してゆくためには、神道などなんの役にも立たなかった。
しかしそのあと神道は、仏教から学びながら急速に宗教的な性格を強めていった。そのようにしていったのはじつは民衆たちの語らいの場であり、そこから生まれてきた古事記天武天皇太安万侶によって国史として採用され、それをもとに天武天皇神道による国家体制の整備を進めていった。
天皇にとっては神道こそが自分の存在基盤なのだから、当然そうなってゆく。
しかし、国の政治支配のための宗教が二つあるというのも、何やら変則的である。
仏教が伝来した時点では、神道はまだ宗教ではなかった。だから、支配者は仏教で支配してゆくことを進めていった。朝廷のおひざ元には法隆寺をはじめとする大きな寺がどんどん建てられ、地方には仏教普及のための国分寺を置く制度を進めていった。
新し物好きの日本人のことだから、それを新しいファッションや娯楽として大いに歓迎したことだろう。
もしも最初に仏教派と神道派の対立があったらそれはあとあとまで尾を引いただろうし、それほど仏教の普及を積極的に推し進めているのなら神道はきっと弾圧されていったはずなのに、そんなことは何もなかった。
もともと宗教でもなんでもなかった神道が、仏教の影響を受けてどんどん宗教的になっていっただけなのだ。
飛鳥時代に朝廷=天皇家の祭神を祀る神社などなかった。そのころの奈良盆地にあった神社はすべて、人々が集まってくる祭りの場であり、社殿は、人々の語らいの場か巫女の舞の舞台にすぎなかった。
しかしその人々が集まってくる祭りのダイナミズムから古事記という神話が生み出されていった。そのとき人々は、巫女の舞を眺めながら、さまざまな神話の物語を空想していったのかもしれない。そういうアイデアを持ち寄り語り合いながら、古事記という神話が出来上がっていった。
そうしてやがてそれが国の正式な記録文書として採用され、そこから神社が急速に宗教的な場になっていったのだ。
神道が祭神を祀る宗教になっていったのは、奈良時代以降のことなのだ。神道と仏教の対立など最初からなかった。
古代の歴史は、対立があったような流れにはなっていない。あったような文書を書き残したがる権力者がいたというだけのこと。



そのとき支配者は、民衆を教化支配してゆくためには、「教え導く」という機能の仏教がどうしても必要だと思った。。
それだけのことなのに、朝廷の記録文書は、いつだって国難を克服するためには仏教が必要だという言い方をする。
聖徳太子が「和をもって貴しとなす」といっても、朝廷内の権力闘争を牽制する意図もあったのかもしれない。民衆は、いわれるまでもなく、みんなで連携してけんめいにコメづくりや道づくりや港づくりをしていたのだ。
飢饉の発生や疫病の蔓延といっても、朝廷がしてくれることは税を軽減することくらいで、古代においてそうした災厄はぜんぶ民衆自身で処理していた。
権力は何もしてくれないのがこの国の伝統だった。そして民衆自身の連携でなんとかしようと頑張るのもこの国の伝統だった。
たとえば戦後の戦災孤児や戦争未亡人の問題を国がどれだけ頑張って対処したかといえば、それはまったくいい加減なもので、ほとんどは民衆自身の連携や一部の篤志の私費を投じた献身などによってなされていたのだ。
まあ、国難を煽って民衆の連携を引きだすというのは、普遍的に世界中の支配者の常套手段であるのかもしれない。
江戸時代の飢饉だって、幕府は何もしなかったのだ。そうして最後には、一揆や「ええじゃないか」運動などが起きてきた。
奈良時代東大寺大仏建立にしても、飢饉や疫病の国難がきっかけだったというが、そのためなら、大仏建立の資金をぜんぶそのことの処理につぎ込めばいいだけである。そういうことよりも、飛鳥時代以来の律令制が制度疲労を起こして民衆支配がうまく機能しなくなってきていたから、権力者たちがそれを天皇に進言しただけだろう。
人心の一新とか国外向けのアピールとか、まあそんなようなことが目的だったのだろう。
天皇が言い出したって、権力者たちが「それはだめです」といえばすむだけである。天皇以上に権力者たちがその気になっていたから、その事業が進められていったのだ。
天皇にすれば、都の余った米を飢饉の地方に持っていってやりたい、と思っていただけかもしれない。
飢饉や厄病を克服するために大仏をつくったなんて、ずいぶん横着な論理である。だからそのとき、進んでその事業に参加しようとする民衆はなかなか集まってこなかった。そのために、民衆のカリスマであると同時に在野の僧侶でもあった行基を責任者として迎え、やっと人足や物資を調達していった。
まあ、お祭りが好きなところが民衆の弱いところである。権力者たちは、そこに付け込んだ。
飢饉や疫病を鎮めるために大仏をつくったなんて、大嘘だ。それは、権力者たちのエゴイズムから生まれてきたのだ。あるいは、権力者たちの民衆の連携に寄生しようとする本能から発想されていった、というか。
しかし、民衆の連携に寄生しようと思ったら、神道天皇を温存するしかない。これが、この国の歴史の法則である。
この国には、先験的な民衆の連携が機能している。そういうことは、阪神淡路大震災東日本大震災のときに妙な無政府状態にもならず人々が当たり前のように連携していったことが証明している。
この国の歴史は、政治が先に生まれたのではなく、はじめに人々の連携があり、そこに寄生するように政治が生まれてきただけなのだ。
民衆の連携を引き出すためには、仏教の「教え導く」という機能にたよってもどうしても限界があった。
それはもう、天皇を祀り上げる神道にたよるしかなかった。
古代においてはあんなにも大々的に仏教推進の事業を進め、神道なんか宗教ともいえない娯楽芸能にすぎなかったのに、それでも仏教だけですむ国家にはなっていかなかった。
古事記は、民衆による天皇を祀り上げる連携の語らいに支配者が寄生してゆくことによって生まれてきた。そうして、いつの間にか神道をもうひとつの宗教のレベルまで押し上げてしまった。
神道は、支配者が民衆の連携に寄生してゆくことによって宗教になっていった。支配者が民衆の連携に寄生してゆく、この国の政治の歴史は何もかもこのパターンなのだ。
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