詠い上げ祀り上げていった・「天皇の起源」16



もともと日本列島に「神」という概念などなかった。
古事記だって、仏教伝来以後に仏教から学びながらつくられていった話にすぎない。
仏教が入ってきたとき、民衆は、海の向こうではこんな面白い話がつくられているのかと感動した。
仏教の教義がどうのということは、権力者や僧侶など、共同体の制度性に目覚めているものたちだけがこだわっていた。
そのころの奈良盆地の民衆には、神や仏に導かれるという体験などしたことがなく、教え導かれたいとか救われたいというような欲望そのものが希薄だった。
彼らはその荒唐無稽な神話や説話を面白がっていただけで、天皇を祀り上げる神道を捨てて仏教に帰依してゆくということもなく、天皇を仏よりもさらに上位の存在として神に祀り上げていった。これが、神道が宗教のようなものになってゆく契機になった。
そのとき支配者としては、天皇に変えて仏を祀り上げるという目論見もあったのかもしれない。しかし民衆は、天皇を仏よりももっと上位に祀り上げていった。そういう試みとして、古事記の物語が民衆のあいだでつくられ語り継がれていたのだ。
そのとき天武天皇が民衆のそんな伝承を採用したことは、あわよくば天皇の代わりに仏を国の根幹に据えようとしていたまわりの貴族・豪族たちの目論見を押さえつけようとすることでもあったのかもしれない。彼は、神道を宗教として完成させることにも熱心だった。
歴史家は、もともとアマテラスに対する民間信仰があったというのだが、そうではなくアマテラスはあくまで古事記を語り合っていた奈良盆地の人々の創作であり、そこからアマテラスの信仰が生まれてきたのだ。
古事記の中には、「アマツカミ=天皇の祖先」と「クニツカミ=土着の神」との対立があってアマツカミが勝利したというような記述があり、それが古事記以前仏教伝来以前にすでに土着の神の信仰があったと歴史家に思い込ませているのだが、仏教伝来以前の日本列島に神という概念はなかったし、古事記よりも先に伊勢神宮の祭神がアマテラスになっていたのでもない。
出雲地方で「ここには古事記オオクニヌシよりも先に土着の神があった」という言い伝えになっているのは、朝廷から古事記の神を押し付けられることに抵抗があって、後付けでそういう神をつくっていっただけであろう。



天武天皇は、伊勢神宮を大切にした。しかしそのときはまだアマテラスは伊勢神宮の祭神ではなかった。平安時代になって古事記の話が列島に定着してはじめてアマテラスが祭神として採用された。
もともと日本列島に神など存在しなかったし、そのころはまだ神の名などなかった。仏教神話の影響を受けてようやく山や森を神の「かたしろ」として意識されはじめている段階だった。6世紀に仏教が伝来してさっそく寺に参った奈良盆地の人々が仏教の説く神話や説話と出会ったとき、人間に何かをしてくれる仏よりも、傍若無人にさまざまなキャラクターを持った神々の方に興味を持った。
彼らにとって「救済」とは、相手が神であろうと仏であろうと何かをしてもらうことではなく、ありがたい存在だと自分から祀り上げてゆくことにあった。これは、その後もずっと続いてゆく日本列島の住民の宗教的な態度の伝統である。
そのとき彼らは、祀り上げる対象なら神だ、と思った。お寺に仏像があるなら、神社は場所そのものが「神域」だと思った。
そうしてそのころ支配者たちはすでに神が何かをしてくれる存在だと思うようになっており、その天皇の祖先である神を祀り上げている奈良盆地の民衆の伝承を国の歴史文書として採用した。。
古事記の普及によって神社が祭神を持つようになってきた。
仏教伝来と古事記が、たんなるお祭りの芸能だった神道が宗教になってゆく契機になった。
はじめに高千穂神話とか出雲神話というような土着の神話=宗教があって、それを古事記に取り入れていったのではない。古事記の神話をもとにして、それらが土着の神話=宗教になっていったのだ。



仏教伝来以前の日本に、「他界=神の世界」の物語などなかった。なにしろ海の向こうは「何もない」と思い定めて歴史を歩んできた民族なのだ。
しかし、俗世間の穢れと山の中の清浄な世界、という二元的な世界観はあったから、仏教の「他界」の概念を受け入れる素地はすでに持っていた。山の中は「他界」か、と納得すればいいだけだった。
古事記は、仏教の「他界」の概念を、天皇の系譜である神の世界の物語としてアレンジしていった。まあ、なんでもかんでもすぐに受け入れながら、それをアレンジしたりデフォルメしたりしてゆくことはこの国のお家芸である。
それは、縄文人の、他愛なく見知らぬ他者にときめいてゆくことができるというメンタリティから受け継がれてきた資質だった。仏の教えよりも、他愛ないホラ話を語り合うのが好きな人々だったのだ。
もともとやまとことばは、相手を説得するための「意味」にはこだわらない言葉だった。彼らは、論理的な整合性などにとらわれず、「なりゆき」で話の内容がどんどん変化してゆくことを楽しめるメンタリティを持っていた。彼らにとっての言葉を扱う作法は、事実を記録することではなく、「今ここ」の感動を詠い上げることだった。感動とともに詠い上げられた話こそ真実だった。そういう作法で神の系譜の物語をみんなして語り合い紡いでいった。
もともと語り伝えなどどんどん変化してゆくものだし、それは、変化してゆくことを楽しむ話だった。意図的に変化変質させていった話なのだ。



「なりゆき」の文化の民族は、大陸のように未来のために既成事実を確保する記録を残しておこうとするより、過去の何かを隠蔽するために記録を残そうとする。
隠蔽するのが好きな民族なのだ。
この国の住民は、未来のためよりも、「いまここ」のつじつまを合わせるために過去を隠蔽しようとする態度の方が先に立つ。
古事記の編纂を命じた天武天皇は、いったい何を隠蔽しようとしていたのか。
それまで天皇が権力者でなかったことや、初期の天皇が男ではなかったことなどだろう。
たしかなことは、天皇が民衆に篤く祀り上げられていたということだけだ。
だから、ただもうそのことを止揚し詠い上げるためにだけ古事記を採用していった。
日本列島では、論理的な記述より、篤く詠い上げる言葉の方が説得力を持つ。
中国人にしろイギリス人にしろ、政治の好きな民族は論理的な記述としての「記録」を残すことが好きだ。他者や他の地域との緊張関係を生きてくるとそうなってゆくらしい。それが、いざというときにみずからの正当性を示す証拠になる。
それに対して日本列島の住民は、記録を残すことにあまり関心がない。そういう緊張関係を知らないし、「今ここ」だけを確かなものとして未来を思わない作法で生きてきた。
もしかしたら天皇家には、われわれが驚くような門外不出の記録など残っていないのかもしれない。
残っているとしたら、政治が好きな側近たちが管理しているのだろう。
天皇が日記としてどんなことを書いているのかといえば、歴史的事実を正確に記録するというより、自然に対する日々の思いなどを中心に綴っているだけだろう。
まあそこに飛鳥時代以降の歴史の思わぬ事実が書かれていることもあるだろうが、それ以前のことは天皇家自身も知らないのかもしれない。



現在の歴史家の古代史解釈が、ただの作り話にすぎない古事記日本書紀に振り回されているということは、日本列島の住民がいかに記録を残すことに疎い民族かということを意味しているのかもしれない。それらは、史実を記録したのではない、天皇の権威を装飾し詠い上げているだけである。だから、どんなふうにも解釈できてしまう。そこがなやましいところだ。
古代において「語る」ことは、「詠う=歌う」ことだった。「ことだまの咲きはふ国」の人々は、歌うように語り合っていた。
彼らには、「記録する=説得する」という欲望は希薄だった。やまとことばそのものが、そういう機能にはなっていない。
国民性は、言葉に規定されている。国民性が言葉をつくっているともいえるが。
古代人がちゃんとした記録を残さなかったから、後世の歴史家は大いに混乱している。
古事記日本書紀では初期の架空の天皇たちが日本中から輩出してきたように書いているが、あんなものはたぶんぜんぶ嘘だ。もともと天皇奈良盆地限定の女のカリスマだったのだが、古事記のように書けば天皇がはじめから男で日本中のカリスマだったかたちになるし、書けばそれが真実であるかのように思いこんでしまうのが人間の心理だ。
まあ、とくにやまとことばの「詠い上げる=祀り上げる」作法は、嘘でも真実だと思い込んでゆくことができる機能を持っている。
彼らはそれを、大陸の記録文書のように論理的に本当っぽく書こうとはしなかった。ひたすら天皇を詠い上げ祀り上げていっただけだった。
古事記という天皇の系譜を語り合っていた奈良盆地の民衆は、史実をもとに語り合ったのでも、史実を変更しようとしたのでもない。記録を残そうとする欲望を持たない民族である彼らは、過去の史実なんか知らなかったし、どうでもよかった。
ただもう天皇の「いまここ」を誇張して詠い上げ祀り上げていただけである。
そしてその後日本中に天皇を祀り上げる心が伝播していったのは、そういう詠い上げ祀り上げる心が伝播していったということだ。
たぶん、古墳時代初期の地方の民衆は、奈良盆地天皇ことなど知らなかった。
大和朝廷による古墳時代を通じての広報活動によって日本中に知られてゆくことになり、地方の民衆もまたそのまま天皇を祀り上げる気持ちになっていった。それは、その広報活動が武力とともに強制的に押し付けてゆくものではなく、あくまで人々と一緒に詠い上げてゆくものだったからだろう。
そういう関係をつくるための制度として、「国造(くにのみやつこ)」といういまの県知事のような立場の役人を地方に派遣し、「舎人(下級役人)」や「采女(宮廷の側女)」を地方から呼び寄せ教育していった。まあそれが後世の律令制によってどれほど過酷なものになっていったにせよ、最初は、奈良盆地の人々の他者を祀り上げようとするおおらかさとともに生まれていった制度だったのだろう。
古代史の解釈は、いまどきの歴史家のように何もかも政治支配・武力支配の問題にしてしまうのではなく、もう少し古代人のおおらかさについて想像してみてもいいのではないだろうか。



「詠い上げる=祀り上げる」ことは原始的な心性であり、人間の本能である。日本列島の住民はとくに強くこの習性を引きずっているから、和歌が生まれてきた。
古代の日本列島の住民は、言葉を、記録として残したり相手を説得したりするための道具としては扱っていなかった。
あくまで「今ここ」を詠い上げる即興性が大事だった。
詠い上げれば、それが真実になった。彼らにとって現実は、記録し、伝え、説得するものではなく、胸にあふれる思いを詠い上げられたものが真実になった。そういう心の動きで古代人は天皇を祀り上げていたのだし、これがやまとことばの根源的な機能だった。
弥生時代奈良盆地の民衆の詠い上げ祀り上げようとする衝動とともに、天皇が生まれてきた。
長歌にしろ短歌にしろ、万葉人が七五調という制約をあえて守ったのは、詠い上げることにこだわったからだろう。
やまとことばは詠い上げる機能で、朝廷の記録文書は漢文で書く習慣になっていった。
かれらは、やまとことばの機能が記録文書にそぐわないことを最初からわかっていた。というか、古代のやまとことばは今よりももっと濃密に詠い上げる機能をそなえていたから、わからないはずがなかった。
彼らは、やまとことばで天皇を祀り上げていた。万葉集に政治的な歌はほとんどないが、天皇を祀り上げる歌はたくさん収録されている。
天皇は、詠い上げ祀り上げることにもっともふさわしい主題だった。
詠み人しらず……古代人は、名もない民衆でもさかんに歌を詠んでいた。誰もが歌で求愛をしていた。
彼らにとって歌を詠むことは、舞を舞うような行為だったのだ。
やまとことばの身体性は、詠い上げることにある。
つまり、古代の人と人の関係はそのようなかたちになっていたのであり、政治だって初期のころはそのかたちを持っていたはずである。なぜならそれは、天皇に寄生するように生まれてきたものに違いないのだから。
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