おおらかな関係・「天皇の起源」17



はじめに政治ありきで天皇制の歴史を語ってしまえるのだろうか。それは違う、と僕は思う。
大化の改新以前は、「国造(くにのみやつこ)」という今の県知事のような役職を地方に置く制度があった。歴史家の解釈では、それは大和朝廷が土着の豪族にその称号を与えたところからはじまっている、ということになっている。
しかし古墳時代にどの地方にも豪族がいて民衆支配の制度が出来上がっていたかどうかはわからない。
豪族は、人々が余剰のものを生産できる時代になってから生まれてきた。果たして古墳時代の日本列島ではどこでも余剰のものを生産できていただろうか。誰もが生きるのにかつかつのものしか生産できていない地域から支配者が生まれてくるはずがないし、そんな地方の人々にどのていど余剰のものを生産しようとする衝動や能力があったのか。
大和朝廷に税を納めさせるためには、まずその地域を武力で制圧しなければならない。そしてその地域の土着の豪族に税を取り立て大和朝廷に納めるという役割を与えても、「これだけしかとれませんでした」とか「飢饉で全然余力がありません」とかいってくるかもしれない。自分の取り分を減らして大和朝廷に差し出すなんて、喜んではしたくないだろう。
だったらもう、大和朝廷から役人と軍隊をそこに送り込んで常駐させるしかないのではないのか。
税を納めるなら、納めることのメリットがないといけない。納めないと皆殺しにされるという恐怖を与えるだけでそれが可能になるというわけでもないだろう。
あちこちで内乱が起きていて大和朝廷がそれを平定していったというような考古学の遺跡などほとんどない。そういう話が残っているだけだ。おそらくでっち上げの話として。
本当にどの地域にも豪族がいたのだろうか。そして、あちこちで内乱が起きていたのだろうか。そんなことばかりしていたら、生産力なんか上がらないし、それはつまり、よその地域から奪わなければ自分たちの暮らしに必要なものをまかなえなかった、ということではないのか。
おそらくそのころの奈良盆地は、あちこちの湿地帯を干拓して水田にしてゆくことに夢中だったのであり、それによって余剰のものを生産できる能力を持っていた。そうして人々は、生産力の未熟な地方の人々もそれができるようにと国造とその部下たちを派遣していった。彼らは、そうやって他者を祀り上げていった。
初期の古墳時代は地域ごとの生産力に大きな格差があったし、そのころは、まだそのようなおおらかな人と人の関係があったのではないだろうか。まあ、震災のときのボランティアみたいなものだ。この国には、そういう伝統があるのではないだろうか。



地方に国造を置く関係は最終的には130くらいあったらしい。最初は出雲や吉備などの主要な生産地域だけに置いていたともいわれているのだが、そういう地域に税を納めさせることは、そう簡単なことではないだろう。
そのころ出雲や吉備は鉄器の生産地でもあったのだから、戦争の能力は奈良盆地と拮抗していたかもしれないし、奈良盆地よりも強大だったという説もある。
であれば、国造を置いて税を納めさせるというより、ただ交易していただけだろう。交易して鉄器などを輸入しながら、最終的には奈良盆地の方が強大になっていった。
古事記がいうように、古墳時代の最初から奈良盆地が列島中を支配していたということなどあるはずがない。
吉備地方には、奈良盆地にも匹敵するほどの巨大前方後円墳がたくさんある。そしてそれらのほとんどは川の近くの地域につくられている。
つまり、水田耕作のために川の水を引く水路を造る工事として掘った土を一か所に集めたものだったのだろう。
吉備平野は湿地帯ではなかったから、奈良盆地のように湿地の水を引き入れるために古墳の周りに濠を造るというようなことはほとんどしなかった。
もしかしたら奈良盆地前方後円墳の周濠は、吉備地方のそれをアレンジしたものだったのかもしれない。吉備地方に支配されていたというのではない。吉備地方からやってきた人が奈良盆地に住み着いていたというだけのこと。
いずれにせよそれは、ただ支配者の権力を誇示するためとか、そんなことではない。
日本列島の古代の支配者は、権力を誇示しようとするような欲望はなかったし、そんな必要もなかった。なぜなら民衆の方からすでに篤く祀り上げていたからだ。
古墳時代までの日本列島は、そういう他者を「祀り上げる」心で動いていた。
そしてその「祀り上げる」関係が、奈良盆地ではどこよりもダイナミックで、古墳時代の終わりころには、吉備や出雲よりも強大な国になっていた。
生産力の上がらない地方に国造を派遣して助けていたから、いつの間にかそれが吉備や出雲の包囲網になっていた。大和朝廷にそういう戦略があったのではない。それはあくまで歴史の「なりゆき」だった。
もしどこかと戦争になっても、大和朝廷は、自前の軍隊を総動員して出発しなくても、地方地方で兵士を募りながら膨らんでゆくことができた。
それはあくまで「祀り上げる」心で強大になっていっただけだったが、やがてそこに冷酷な権力構造が出来上がってゆき、飛鳥時代が始まった。
初期の大和朝廷は、政治力によって強大になっていったのではない。それはもう、「祀り上げる」態度のたまものだったのだ。



最初の国造はおそらく大和朝廷から派遣された役人であって、土着の豪族ではなかった。
ほとんどの地域に豪族などいなかった。大和朝廷から派遣された役人がそこに住みつき豪族になっていっただけではないだろうか。
大和朝廷に税を納めさせるためには、まず余剰のものを生産させなければならない。そのために、奈良盆地の生産技術や連携のシステムを教えてゆかなければならない。そして大和朝廷に帰依してゆくためには、地方の人々が知らない天皇を祀り上げるということも教えなければならない。そういう仕事を負って国造が大和朝廷から赴任していったのではないだろうか。そしてそれは世襲制だったらしいから、そのまま豪族として居着いていったのだろう。
とにかくそのころ、大和朝廷の権威を背負っているものでなければ豪族であることはできなかった。だから歴史家は、土着のものたちが進んで大和朝廷に恭順を示していったというのだが、そうではなく、大和朝廷から地方に派遣されたものが豪族になっていっただけではないだろうか。
生産力を上げさせてやることによって、はじめて搾取することができる。というか、上げさせてやれば、お礼を持ってくるようになる。そういう関係が自然発生的に生まれてきた、というのが最初だったのではないだろうか。
古墳時代の初めからどの地域にも民衆から搾取ができるほどの土着の豪族がいたのなら、そう簡単に大和朝廷が列島を制覇してゆくことなどできるはずもなく、戦国乱世の状況になっていたことだろう。
大和朝廷が内乱を制圧して列島中を支配していった、という記録文書は残っているが、そのころどこでも戦争ばかりしていたというような考古学の証拠があるわけではない。
なぜ列島中がすんなりと大和朝廷の支配になっていったのか。それはもう、生産力や集団意識に圧倒的な格差があったからだろう。
奈良盆地だけが突出して余剰のものを生産し、地方はほとんどできていなかった。
たぶん。余剰のものを生産できるノウハウや天皇を祀り上げる文化を輸出していったのだ。それが、国造の制度ではなかっただろうか。



「国を造る」と書いて「くにのみやつこ」という。国造りの指導者。それはまあ、大和朝廷が地方に差し出した好意の贈り物だったのではないだろうか。
納める税は、最初は任意だったのだろう。国造の指導で余剰のものを生産できるようになった民衆が、その礼として自主的に捧げものをしていった。
古墳時代の初めのころの大和朝廷と地方は、そういうおおらかな関係だったのではないだろうか。
大化の改新以後の律令制になってから、税の数量が決められ、強制的に徴収するようになっていった。そしてそれと同時に国造の制度が廃止された。つまり、すでに豪族になってしまった国造を排除して、新たに大和朝廷から派遣された役人がその任に当たるようになった。
それは、国造が過剰に私腹するようになっていたからだろうか。まあそういうこともあろうが、ともあれそうやって大和朝廷が、国造との関係を断った。
国造だって代々そこに住み着いていれば、土地や土地の人々に対する愛着もわいてきて、朝廷に対する忠誠心も薄くなる。そういう人間が民衆からきちんと税を取り立てて朝廷に納めるということはしたがらないだろう。
大化の改新以後の税の取り立ては、血も涙もないものになっていた。もともと民衆の方から進んで大和朝廷のもとに捧げものを運んでゆくという慣習があっただけに、その後も大和朝廷の方から取りに来るということはしなかった。勝手に数量を決められ、民衆はいやいや泣く泣く都まで運んでいった。
まあ最初は、民衆も一度は都を見てみたいとか、気に入ればそこに住み着いてもいいとか、そういう気持ちがあったのだろうし、もともと日本列島には旅をする伝統があった。
初期の国造は、中世の守護や地頭のような冷酷な支配者というより、地方の生活向上を指導・手助けするための朝廷からの贈り物だったのだ。古代人にそういうおおらかさがなかったと、はたしていえるだろうか。少なくとも弥生時代奈良盆地の人々には、そういうことをしたがるところがあったはずだ。
「みやつこ」とは、どういうニュアンスの言葉だろうか。
ニワトコの木のことを「みやつこ木」などといったりもしていたから、それはたんなる官職名ではなく、日常的に使われていた何かを形容する言葉であったのだろう。そしてこの木は薬にも利用されていて、そういう「役に立つ」とか「贈り物」いうようなニュアンスで「みやつこ木」といわれたのかもしれない。
「みやつこ」の「みや」は、神社の「宮(みや)」、「みやげ」の「みや」、まあ「めでたい」とか「あこがれときめく」というようなニュアンス。「つこ」は「参上」とか「使者」というようなこと。国造とは、国造りの指導者であり、地方の人々を喜ばせる「みやげ」を携えた使者だったのだ。
最初から豪族だったのではなく豪族になってしまったからこそ、大化の改新以後にちゃんと税を取り立ていこうとしたときには邪魔な存在だったのだろう。



出雲地方だけは、大化の改新以後も国造が世襲のまま残されていた。残さないと戦争になるというような状況があったのか。出雲の民衆が新しく派遣されてきた役人に従うことを拒否したのか。
出雲の国造はやがて、出雲大社の祭司として、オオクニヌシスサノオなどの古事記の神話を出雲に根付かせるのが仕事になっていったらしい。
オオクニヌシスサノオはまあ、奈良盆地の正式な神(アマツカミ)から追われてきた亜流の神(クニツカミ)ということになっている。だからそのとき出雲の民衆は、ここにはそれ以前からの土着の神がいたと主張した。
もともと日本列島に土着の神話などなかったのだが、後付けでそんな土着の神話をつくっていった。出雲だけではなく多くの地域では、いつの間にか古事記の神よりも先にもっと別の土着の神があったことになっていった。
それは、「神を祀る」ということ自体に対して違和感があったからだろう。それならいっそ自分たちの固有の神をイメージする方がまだ抵抗は少ない。
しかしそうやってこの国には最初から神がいたという合意が出来上がってゆけば、古事記の説得力はさらに高まる。それ自体、天皇の祖先である神々(アマツカミ)は地方の土着の神々(クニツカミ)の上に立つ存在であるといっているのと同じだからだ。そのようにして結果的には、大和朝廷天皇の権威が先験的なものとして日本中に定着してゆくことになった。
出雲にオオクニヌシスサノオ以前に土着の神がいたはずがない。日本列島の住民は、古事記によってはじめて神に名前を付けるということを覚えたのだ。
どうやら古事記は、古代における大和朝廷の列島支配にとても大きな役割を果たしていたらしい。
いずれにせよ、弥生時代から古墳時代にかけての日本列島はまだ、「祀り上げる心」を基礎にして動いていた。



おそらく最初の国造は、奈良盆地の人々の、地方の人々を祀り上げようとする心を背負って地方に派遣されたのだ。
そうして国造は、自分の子弟の教育のために一定期間「舎人」や「采女」として大和朝廷に差し出した。舎人は下級役人として、采女は朝廷の側女として。
最初はたぶん国造の子弟だけだったが、やがてその他の選ばれたものも派遣されるようになっていったし、捧げものを都に運んで往還するものもいた。そのようにして、日本列島の誰もが「他者を祀り上げる」という心を交感しながら、結果的に大和朝廷の支配が列島中に浸透していったのだろう。
もちろん古事記は武力だけですぐ地方を従わせていったというような語り口になっているのだが、実際はそれほどドラマチックなものではなかったはずだ。
そのころの奈良盆地は伝統的に列島中から人が集まってくる土地柄で、そんな人々がいつも一か所に集まって語り合っていたから、いつの間にか列島中を舞台にした神話をつくりだしていた。彼らは、そういう「語らい」の好きな人々だったし、列島中から集まってきていたから地方の地名を隅々までよく知っていた。
で、大化の改新を機にこれから本格的に列島支配をしてゆこうとしていた朝廷にはそういう話が必要だった。
まず神を祀り上げさせ、それから神の末裔である天皇を祀り上げさせてゆく。それが、天武天皇の戦略だったのだろう。
「まつろわぬもの」とは、神=天皇を祀り上げようとしないものたちのことだったのかもしれない。武力制圧しただけでは征服したことにはならない。天皇を祀り上げさせて、はじめてそれが完成する。
よかれあしかれ天皇を「祀り上げる」心を地方に根付かせてゆくことこそ、初期の大和朝廷のもっとも大きな支配の武器だったのだ。
もちろん古墳時代に戦争がまったくなかったとはいわないが、過渡期においてはそういうおおらかな関係があったはずだ。
「祀り上げる」ことは、人間の本能というか、人間性の基礎となる心の動きのはずである。



大化の改新以後の権力者たちの冷酷な権力意識でつくられた文書をそのまま鵜呑みにしてそれ以前の歴史を解釈してゆくなんて、ほんとに愚劣なことだと思う。
大化の改新以前の支配者なら、せちがらく政治支配のことばかり考えているのではなく、「他者を祀り上げてゆく」心も持っていたにちがいない。まあたてまえだとしても、聖徳太子は、そういう心を持っているのが政治家だといっていたわけで、ひとまず「祀り上げる」ことが古代人の思想であり生きがいであったのかもしれない。
それは、日本列島の住民が縄文以来ずっと引きずってきたというか、大切に守り育ててきたというか、そういういわば原始的な心性だった。
大化の改新以後に政治の世界は大きく変わり、本格的に税を徴収するようになり、権力闘争は一段と激しくなっていった。
もちろん古事記にはそのずっと前から朝廷内部の殺し合いはいくらでも起きていたように書いているのだが、古墳時代にそんな争いをするほどの利権が存在していたかどうかということはわからない。巨大古墳にせよ、もろもろの社会的な事業のほとんどは、徴収した税によってではなく、民衆の自主的な寄進によってなされていたのだ。これが、日本列島の伝統である。
大化の改新以後に本格的に税を徴収するようになって、だんだん利権構造が膨らんでゆき、そこから権力争いの殺し合いも頻発するようになってきたのであり、古事記は、そういう時代に語り合われていた話なのだ。
飛鳥時代法隆寺の建立のときは、資材も労働力もほとんど民衆の自主的な寄進であったはずである。そのころはまだ、みんなで国をつくってゆこうとする気持ちがあった。それがいつの間にか、権力の側が強制的に税を徴収してくるようになっていった。
まあ、もともと民衆が自主的に寄進していたのだから、そういう制度に移ってゆくのも、ほんとに「いつの間にか」という感じだったのだろう。
ともあれそれまではまだ、人と人のあいだに「祀り上げる」という関係が機能していたし、それが人間の基本的な他者に対する意識のかたちなのではないだろうか。
古墳時代は、現在考えられているよりももっとのどかでおおらかな時代であったはずである。古事記の記述なんか、ひとまずぜんぶ忘れた方がいい。



古代以前の社会は、そうそう何もかも政治的な関係として動いていたとも思えない。
古代のおおらかさというのはきっとあったのだ。そういう原始的でもあるおおらかさで国をつくってきた日本列島の歴史と、他者や他の地域との緊張関係から国をつくってきた大陸の歴史を同じにして考えることはできない。日本列島には世界にもまれな天皇という存在がいるということは、そういう問題なのだ。
人間は、祀り上げる生き物である。現代人は好き嫌いとか仲間意識などでその衝動を限定的にはたらかせているが、そういう緊張関係と古代の人と人の関係も同じだとはたしていえるのか。古代人はそこのところはもっとおおらかだったと考えたらいけないのか。
弥生時代からすでに社会は政治で動いていただなんて、ほんとに愚劣な考えだと思う。
日本列島は西洋のような契約社会ではない、と誰もがいいながら、税を徴収するという契約関係に移行する歴史の段階について何も考えていないなんて、そんなの変じゃないか。
天皇は政治という契約関係から生まれてきた存在ではないから、大陸とは事情が違うのだ。
日本列島の住民と天皇との関係は、契約関係ではない。だから支配者は、天皇を屠り去ることができなかった。
天皇とともに契約関係のない社会の歴史を歩んできた人々がどのように政治という契約関係を覚えていったかという過程段階を考えないで、はじめに政治ありきですませようなんて、まったく思考の怠惰である。くだらないというか、創造力の貧困というか。
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